自動運転の責任2013年06月25日 18:34

自動運転の責任
自動運転の責任


どんなに技術が進んでも、100パーセントの安全を機械に求めることは出来ない。

0から100の確率のどこかで、われわれは妥協して生きている。

結果は、0か100なのだが、そのシビアな結果を緩和するために、技術以外の社会的な要素を組み込んで、受け入れ可能な仕組みを作り、現実の生活の中に取り入れている。

自動車の運行についても、何も完全自動運転車が登場するまでもなく、運転手付きの移動手段を利用することは、馬車の時代から当たり前に行われている。

御者という人間を使った、「自動運転」(?)の仕組みだな。

利用料金を支払うことで、リスクを外部化して、運転技術や、機械のメンテナンスなどを経済的な問題に置き換えている。

人間が移動する手段としての自動車というのは、とっくの昔に人間によって、自動運転化されているのだ!(ワケワカ・・・)。

貨物流通に使用される車なんかは、人間が運転する必要は元々皆無である。

営業も兼ねて、ドライバーが客先に出向く必要があるという、別の要素はあるのだが、ネットによるコミュニケーションが発達した現在、ごく限られた話になっていくだろう。

エアシューターのように、ボタン一つでどこにでもモノが送られるようになっている。

貨物自動車は、サプライ・チェーンの鎖の輪の一つに過ぎない。

(完全自動運転の車が切り開く未来...いよいよカリフォルニアでも路上走行テストを開始)
http://www.gizmodo.jp/2012/09/post_10926.html

(Googleの自動運転車で目指していること (TEDTalks))
http://www.aoky.net/articles/sebastian_thrun/google_s_driverless_car.htm

(自動車の全自動運転が可能になって起こる事)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n144598

(2040年には75%が自動運転、免許さえ不要に)
http://mojix.org/2012/09/22/ieee-autonomous-2040

なにか、勘違いをしているんじゃなかろうか。

(運転手付き自動車による)自動運転なんて、とっくに実現しているのに、だれもそのことに目を向けない。

だから、第三者に責任を委託するなんて、わけのわからない発想が出てくるのかもしれない。

(自動運転 世界で開発競争)
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/HONSHI/20130125/262366/

「日本では国土交通省が責任を第三者に委託する仕組みの議論を始めた。」とある。

「各国に共通する認識が、「自動化の水準」に応じて責任の所在を分類する必要があることだ。」という記述もある。

今だって、クルーズコントロールはあるが、人間側に制御があると考えられているから問題はない。電動パワステも、エンジン制御も、全て人間側の問題になっている。

自動運転は、これらのデバイスを統合制御して、「人間に成り代わって」運転してくれる「ロボット」のことである。

運転の主体、責任は、このロボットにある。製造物責任の範疇なんだろう。

メーカーは、最終的な責任を取りたくないから、いろいろ画策しているのかもしれないが、利用者の側にしてみれば、そんなレベルで商品化されたのではたまらない。

完全自動運転にするか、あくまで運転手補助でいくか、二者択一であろう。

なんで、タクシーの乗客が、事故を起こした時の責任を取らなくっちゃいかんのか?。

路線バスの乗客が、事故の責任を問われるのか。

浮沈子は、メーカー責任による部分的自動運転(高速道路や車庫入れ:今は、まだドライバーの責任)については、技術的にはかなり早期に実現すると思っているが、これでは自動運転のメリットは限られる。

(【ITでクルマはこう変わる】第19回 自動運転システム)
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/HONSHI/20120517/218536/

(オートパイロットシステムに関する検討会)
http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/autopilot/

「先日、米国で自動運転に関する意見交換を行った際に、IT産業の企業は「自動運転」、GM等の自動車メーカーは「ドライバー主権」、米国DOTでは中間の立場ながらも「人間中心」というそれぞれ異なる認識であった。」

第4回の議事概要の中にある。

(アメリカ合衆国運輸省:米国DOT)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E9%81%8B%E8%BC%B8%E7%9C%81

立場によって、異なる意見というわけだ。

電気自動車が普及してくると、自動車メーカーの意見も様変わりしてくるかもしれない(ソニー製とか、パナソニック製とか)。

ともあれ、浮沈子的には、人間側に責任を負わせる以上、自動運転ではなく、運転支援、運転補助であり、メーカー側に全責任を取らせるようになって、初めて自動運転といえると考えている。

「第三者」の運行機関を作って、そこに責任を委託するなんて、天下り的メーカー擁護の姿勢では、ボッシュやグーグルに先を越されるに決まっている。

彼らは、人間の運転よりも、自動運転の方が遥かに安全である(少なくとも、それを実現できる)と考えている。

それが本当なら、任意保険だって自動運転の方が、遥かに安く済むだろうし、そのうち、自動運転でなければ、自動車としての運行許可が下りなくなるだろう。

第三者運行責任委託機関なんて、出来損ないの自動運転システム(人間が運転するより、はるかに危険な)を助長するだけだ、と浮沈子は確信している。

クルマの価値の大半が、既に機械ではなく、センサーやソフトウェアの部分になっている。言ってみれば、自動車とは、車載コンピューターの指示を受けて動く、「外部デバイス」に過ぎない。

パソコンでいえば、プリンターみたいなもんである。

技術的には、自動運転と運転支援の垣根は見えにくい。

0と100との間にある。

どこからが運転者の責任で、どこからがメーカーの責任になるのか。

それを決めるのは、技術ではなく、人間の社会である。

流星号の駐車場2013年06月25日 21:44

流星号の駐車場
流星号の駐車場


スーパージェッター、流星号、タイムストッパー、30世紀の未来・・・。

(スーパージェッター:流星号)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC#.E6.B5.81.E6.98.9F.E5.8F.B7

「主人公のジェッターが愛用する、エアカー型のタイムマシン。」

「車輪はついており、通常の車のように走行できるが、飛行機能があるため、地上を走行してる場面は少ない。形状はいわゆる流線型。」

「電子頭脳を搭載しており自律して活動でき、ジェッターの呼びかけに応じて飛来する。」とある。

「流星号、応答せよ、流星号」とタイムストッパーに話しかけると、犬笛で呼んだ犬のように、やってくるわけだな。

最終回が観られるページ。

(TV スーパージェッター(最終回) jp old anime)
http://www.dailymotion.com/video/xud28c_tv-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC-%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%9B%9E-jp-old-anime_shortfilms#.UcmAqDtM98E

主題歌の2番には、「自動操縦、スタンバイ」というセリフも出てくる。

まあ、30世紀にならなくても自動操縦くらいはできるようになるんだろうが、20世紀には、それくらい未来の出来事のように考えられていたという証左なのだろう。

先のことは、分からないものだ。

最終回のストーリーのなかでは、隊列を組んで行進するタイムパトロールが出てくる。

カシラー、ヒダリ!、とかやってる!。

なんか、こういうのって、1000年経っても変わんないのかあ?。

まあいい。

水島かおるが盲腸(多分、虫垂)を、未来の科学者に狙われるというエピソードも出てくる。

1000年くらいで虫垂が退化するなんて有り得ないが、ビーフステーキが、大豆くらいになっている話と合わせると、100万年オーダーでは、有り得るかもしれない。

(虫垂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E5%9E%82

まあ、どうでもいいんですが。

さて、例によって、タイムストッパーのアンテナをビヨーンと引き出して「流星号、応答せよ、流星号」と呼び出されて飛んでくるのだが、20世紀のシーンでは、降り積もる雪の中に屋外駐車されている。

自動運転で呼び寄せることが出来るようになれば、離れたところに駐車しておいても問題ないし、出先で長時間過ごすような場合は、自分で車庫に戻って待機すればいいので、空港の駐車場などは、随分と助かるだろう。

飲酒運転の撲滅も可能だ。

技術の進歩で、確実に防止できることもあれば、新たな問題を発生させることもあるだろう。

そもそも、自動車という発明がなければ、飲酒運転などというものは起こり得ないわけだし。

プリンが乗ってきたタイムマシンに、どうやって流星号を押し込んだのかとか、突っ込みどころはあるが、なかなか良く出来たストーリーではある。

人間よりも優秀になってしまった機械は、やがて、人間を支配しようとするという、金太郎飴のような設定が気になる。

機械は人を支配しない。人が人を支配する。

機械だけの世界に自らを投じるキビーに、悲哀を感じる。

時間と空間の制約から、少しでも自由になりたい。

スーパージェッターというアニメは、そんな少年(少女も?)の夢を搔き立て、数十年後にクルマ道楽に興じる浮沈子を生んだ。

そう、自動車は、限りある身体能力と、有限の生しか与えられていない人間を、時間と空間の制約から、ほんの少しだけ解き放つ装置である。

それは、手動運転(ま、足も使いますが)であろうと、自動運転であろうと、変わることのない特性である。