夜遊び ― 2014年01月14日 00:20
夜遊び
心を病んで、3年近くになった。
鬱々として楽しまず、日常の生活もままならなかった日々を経て、薬の力を借りながら、ようやく仕事に復帰できてから2年余りで、再び悪化した。
この病気とは、一生の付き合いになると、覚悟を決める。
身の回りの何事にも関心を示せず、不安と無気力を伴う心の病・・・。
酷い時には、恐怖のあまり、居ても立ってもいられなくなる。
女性の方が、よく過呼吸になるというが、あれに近い状態になる。
心悸高進し、眩暈や、震えが起こる。
血圧も酷いことになっているのだろうが、計ったことはない。
恐怖とは、心で感じるものであって、客観的な状況や、身体に対する物理的な危険とは本質的には無縁だ。
1万メートルの高度を時速1000km以上で飛行する旅客機こそ、一般人が遭遇する最も危険な状態だと思うが、心はそうは感じない。
自宅で横になって、静かに目を閉じていても、心に恐怖を感じれば、ガタガタと震えが起こるほど不安になる。
それは、真の恐怖であり、避け難く、何を持ってしても逃れたいと思う程である。
だが、浮沈子は、それ程の重症ではないらしい。
きちんと薬を飲んで、ストレスのかからない生活を静かに送ればいいんだそうだ。
継続的な管理は必要であり、悪化の兆候があれば薬を変えたり、量を調整することになる。
日常生活に支障を来たすほどになれば、入院という選択もある・・・。
皇太子のかみさんと同じ病名を賜ったが、本質的にはうつ病なのだろう。
しかし、症状は様々で、専門的にはいろいろな区分があるらしいが、浮沈子は精神病理には詳しくないので、専門家に任せている。
それが、いいことかどうかは分からないが、それしかないから仕方ない。
病気の話になると、長くなるので、止める。
そう、今夜は欝な気分になっていたので、少し心を楽しませようと、夜遊びに出かける・・・。
といっても、酒もクスリも○○○もやらない浮沈子の夜遊びといえば、ナイトダイビングか、夜のドライブしかない。
昨日、疎開先から引き取ってきた03ボクスターに乗り込み、夜の沈黙(しじま)を突いて走らせる。
もちろん、オープン!。
昔買ったまま、ついぞ嵌めなかったドライビンググローブを引っ張り出して、窓も全開、シートヒーターと暖房も全開にして、交通量の少なくなった街道を転がす。
冷たい夜気が、耳当て付きのニットの帽子を通して、頭部の地肌にまとわりつく。
それが、かえって気持ちよい。
空を見上げると、少し欠けた月があって、離れたところに星が一つ見える。
あの星は、何という名なのか。
星は、星。
それでいいではないか。
いま、そこにある星、それに名を付けなくても、その輝きに変わりはないのだ。
ふっと、真理を掴んだような、いい気分になる。
03ボクスターは、相変わらず、行儀が良い。
ハンドルのクセもなく、アクセルの動きにもリニアに応える。
左から、軽自動車がシグナルグランプリを仕掛けてきたので、少し合わせてやってから、先に行かせてやる。
こんなことは、若い頃にはしなかったな。
歳を取った。
浮沈子の記憶が確かならば、昔突っ走った道には戻れない、とかなんとかいうサルーンのコマーシャルがあったように思う。
自分が、そんな年齢になったということが、不思議な気分である。
今でも、踏むときは踏むが、98パーセントは流して走る。
それでも、心が癒されるクルマに乗っている。
500Eなどは、タイヤの一転がりで癒される。
03ボクスターは、さすがにそこまでの味はないが、50kmのときは、それなりに、200kmのときは、さらにそれなりに楽しめる。
もちろん、オープン!。
今日は、第三京浜の都筑までのショートコースを走る(さすがにサイドウインドウは、上げました!)。
遅い時間なのに、結構なクルマが走っている。
帰り道で、ちょっと踏んでしまった。
が、170km位で、止めておく。
十分だ。
冬の密度の高い空気を吸い込んで、228馬力のフラット6は歓喜の雄叫びを上げる。
多摩川の料金所グランプリは、今日は先行車がいたので、不発。
しかし、それでも、踏み込んだときの乾いた排気音が、夜の川面に響き渡る。
オイルを換えたばかりのエンジンは、それはもう、滑らかで、澱みなく吹け上がるのだ。
まだ、277kmしか走っていなかったが、ガソリンを入れてやる。
リッター6.7km程。
まあ、こんなもんか。
もう少し走りたかったので、街道沿いを流す。
陸橋下をUターンして、駐車場に戻った。
エンジンを切り、静けさの中で、一息つく。
鬱々とした気分に変わりはないのだけれど、しっかりと、何かに支えられているという確かな感じは生まれている。
そう、この病気は、夜遊びしたくらいでは治らないのだ。
ただ、自分の肉体の限界を超えて、この惑星の夜の地上を舞う時、心の不安を感じないことは事実だ。
運転に集中しているということはある。
しかし、それだけではない。
クルマという機械を通じて、現実の世界と、しっかりと繋がっているという絆を感じる。
自分が呼吸している空気を、この機械も吸い込んでいるのだということ、物理の法則に従って、タイヤと路面の摩擦を通じて、自分の足の裏や、掌の動きが、ダイレクトに伝わっているということ、加速、減速、コーナリングの時に、五体にかかるGを、コンパクトだがホールドの良いシートを通じて、揺り篭のように感じること・・・。
夜のドライブは、ヘッドライトの光に照らされた世界だけではない。
あかあかとした昼間とは違い、濃密なクルマとのコミュニケーションを肌で感じることができる。
自分とクルマが紡ぎ出す、掛替えのない時間。
幼少の頃、バイオリンなどという不似合いな習い事をしていた。
長じては、三味線を習っていたこともある(こっちの方が、不似合いかあ?)。
楽器の演奏と、クルマの運転は、よく似ている。
正しくチューニングされ、手に馴染んだ楽器を弾く時、紡ぎ出された音たちとの会話を、いつまでも楽しむことが出来る。
スポーツカーの運転というのは、それと似ている。
十分に、弾き切った充実感と共にクルマを降りると、固いアスファルトの地面が、無愛想に足裏に響く。
まあいい。
この固い地面がなければ、クルマは走ることが出来ない。
充実した時間を作り出すこともない。
夜遊びを終えて、大人しく部屋に戻ると、このブログを書き始めた。
いつの間にか、鬱々とした気分は和らいでいる。
効き目が出てくるまでには、少し、時間がかかるようだな。
心を病んで、3年近くになった。
鬱々として楽しまず、日常の生活もままならなかった日々を経て、薬の力を借りながら、ようやく仕事に復帰できてから2年余りで、再び悪化した。
この病気とは、一生の付き合いになると、覚悟を決める。
身の回りの何事にも関心を示せず、不安と無気力を伴う心の病・・・。
酷い時には、恐怖のあまり、居ても立ってもいられなくなる。
女性の方が、よく過呼吸になるというが、あれに近い状態になる。
心悸高進し、眩暈や、震えが起こる。
血圧も酷いことになっているのだろうが、計ったことはない。
恐怖とは、心で感じるものであって、客観的な状況や、身体に対する物理的な危険とは本質的には無縁だ。
1万メートルの高度を時速1000km以上で飛行する旅客機こそ、一般人が遭遇する最も危険な状態だと思うが、心はそうは感じない。
自宅で横になって、静かに目を閉じていても、心に恐怖を感じれば、ガタガタと震えが起こるほど不安になる。
それは、真の恐怖であり、避け難く、何を持ってしても逃れたいと思う程である。
だが、浮沈子は、それ程の重症ではないらしい。
きちんと薬を飲んで、ストレスのかからない生活を静かに送ればいいんだそうだ。
継続的な管理は必要であり、悪化の兆候があれば薬を変えたり、量を調整することになる。
日常生活に支障を来たすほどになれば、入院という選択もある・・・。
皇太子のかみさんと同じ病名を賜ったが、本質的にはうつ病なのだろう。
しかし、症状は様々で、専門的にはいろいろな区分があるらしいが、浮沈子は精神病理には詳しくないので、専門家に任せている。
それが、いいことかどうかは分からないが、それしかないから仕方ない。
病気の話になると、長くなるので、止める。
そう、今夜は欝な気分になっていたので、少し心を楽しませようと、夜遊びに出かける・・・。
といっても、酒もクスリも○○○もやらない浮沈子の夜遊びといえば、ナイトダイビングか、夜のドライブしかない。
昨日、疎開先から引き取ってきた03ボクスターに乗り込み、夜の沈黙(しじま)を突いて走らせる。
もちろん、オープン!。
昔買ったまま、ついぞ嵌めなかったドライビンググローブを引っ張り出して、窓も全開、シートヒーターと暖房も全開にして、交通量の少なくなった街道を転がす。
冷たい夜気が、耳当て付きのニットの帽子を通して、頭部の地肌にまとわりつく。
それが、かえって気持ちよい。
空を見上げると、少し欠けた月があって、離れたところに星が一つ見える。
あの星は、何という名なのか。
星は、星。
それでいいではないか。
いま、そこにある星、それに名を付けなくても、その輝きに変わりはないのだ。
ふっと、真理を掴んだような、いい気分になる。
03ボクスターは、相変わらず、行儀が良い。
ハンドルのクセもなく、アクセルの動きにもリニアに応える。
左から、軽自動車がシグナルグランプリを仕掛けてきたので、少し合わせてやってから、先に行かせてやる。
こんなことは、若い頃にはしなかったな。
歳を取った。
浮沈子の記憶が確かならば、昔突っ走った道には戻れない、とかなんとかいうサルーンのコマーシャルがあったように思う。
自分が、そんな年齢になったということが、不思議な気分である。
今でも、踏むときは踏むが、98パーセントは流して走る。
それでも、心が癒されるクルマに乗っている。
500Eなどは、タイヤの一転がりで癒される。
03ボクスターは、さすがにそこまでの味はないが、50kmのときは、それなりに、200kmのときは、さらにそれなりに楽しめる。
もちろん、オープン!。
今日は、第三京浜の都筑までのショートコースを走る(さすがにサイドウインドウは、上げました!)。
遅い時間なのに、結構なクルマが走っている。
帰り道で、ちょっと踏んでしまった。
が、170km位で、止めておく。
十分だ。
冬の密度の高い空気を吸い込んで、228馬力のフラット6は歓喜の雄叫びを上げる。
多摩川の料金所グランプリは、今日は先行車がいたので、不発。
しかし、それでも、踏み込んだときの乾いた排気音が、夜の川面に響き渡る。
オイルを換えたばかりのエンジンは、それはもう、滑らかで、澱みなく吹け上がるのだ。
まだ、277kmしか走っていなかったが、ガソリンを入れてやる。
リッター6.7km程。
まあ、こんなもんか。
もう少し走りたかったので、街道沿いを流す。
陸橋下をUターンして、駐車場に戻った。
エンジンを切り、静けさの中で、一息つく。
鬱々とした気分に変わりはないのだけれど、しっかりと、何かに支えられているという確かな感じは生まれている。
そう、この病気は、夜遊びしたくらいでは治らないのだ。
ただ、自分の肉体の限界を超えて、この惑星の夜の地上を舞う時、心の不安を感じないことは事実だ。
運転に集中しているということはある。
しかし、それだけではない。
クルマという機械を通じて、現実の世界と、しっかりと繋がっているという絆を感じる。
自分が呼吸している空気を、この機械も吸い込んでいるのだということ、物理の法則に従って、タイヤと路面の摩擦を通じて、自分の足の裏や、掌の動きが、ダイレクトに伝わっているということ、加速、減速、コーナリングの時に、五体にかかるGを、コンパクトだがホールドの良いシートを通じて、揺り篭のように感じること・・・。
夜のドライブは、ヘッドライトの光に照らされた世界だけではない。
あかあかとした昼間とは違い、濃密なクルマとのコミュニケーションを肌で感じることができる。
自分とクルマが紡ぎ出す、掛替えのない時間。
幼少の頃、バイオリンなどという不似合いな習い事をしていた。
長じては、三味線を習っていたこともある(こっちの方が、不似合いかあ?)。
楽器の演奏と、クルマの運転は、よく似ている。
正しくチューニングされ、手に馴染んだ楽器を弾く時、紡ぎ出された音たちとの会話を、いつまでも楽しむことが出来る。
スポーツカーの運転というのは、それと似ている。
十分に、弾き切った充実感と共にクルマを降りると、固いアスファルトの地面が、無愛想に足裏に響く。
まあいい。
この固い地面がなければ、クルマは走ることが出来ない。
充実した時間を作り出すこともない。
夜遊びを終えて、大人しく部屋に戻ると、このブログを書き始めた。
いつの間にか、鬱々とした気分は和らいでいる。
効き目が出てくるまでには、少し、時間がかかるようだな。
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