エボラの日2015年03月23日 17:28

エボラの日
エボラの日


(エボラ 最初の報告から1年 終息見通し立たず)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150323/k10010024811000.html

「WHO=世界保健機関が去年3月23日にギニアで感染が広がっていると初めて報告してから、ちょうど1年がたち、疑い例も含めて2万4000人を超える患者のうち、1万人以上が死亡したということです。」

相変わらず、国営放送振りを発揮して、他人事のような語り口だな。

カチンときた。

まあいい。

記事の中にもあるように、確定患者が出ていなかったリベリアに、1名の患者が出て、終息宣言は先送りとなった。

(リベリアで新感染者、遠のく「終息宣言」…国別最多死者から患者「ゼロ」になったばかり)
http://www.sankei.com/life/news/150321/lif1503210028-n1.html

「感染者は首都モンロビア近郊の住民で、モンロビアのエボラ熱治療センターに搬送された。どこで感染したかは不明で、保健当局は感染経路の特定を急いでいる。」

解明されていないルートは、星の数ほどあり、今後も散発的に確定患者が発生する可能性がある。

当局が把握していない感染者が、大勢いるということだ。

終息宣言が出た後で確定患者が現われることだって、相当な確率で有り得ると浮沈子は考えている。

リベリアですから・・・。

今回だって、既に最後の患者が隔離されてから潜伏期間の21日は過ぎているわけだし。

要するに、リベリアでは、まだエボラの感染が継続しているということになる。

ギニアでも、シエラレオネでも感染は続いている。

完全終息というのは、期待できないのではないか。

ヒトーヒト感染を繰り返す、風土病であり、どこの地域に行っても、どこかの誰かが感染しているという情況になるのではないか。

現在は、地域的には終息した自治体とかもあるだろうが、再び感染するということだって有り得る。

2次、3次の流行が起こらないという補償はない。

遺体を洗うという埋葬習慣がこの流行のきっかけになったといわれているが、喉元過ぎればなんとやら、元の習慣に戻ることもあるかもしれない。

手洗いの習慣や、消毒にしても、今回の流行が過ぎ去ってしまえば、過去の話になるだろう。

1年が過ぎたということは、2年目になったということなわけだ。

3年目、4年目もあるかもしれない。

3月は、イベントが目白押しな月だ。

地下鉄サリン事件、東日本大震災、東京大空襲。

エボラの日。

21世紀のハズカシイ話だ。

人類史に、明らかな汚点を残した。

(Ebola virus disease in Guinea)
http://www.afro.who.int/en/clusters-a-programmes/dpc/epidemic-a-pandemic-alert-and-response/outbreak-news/4063-ebola-virus-disease-in-guinea.html

「23 March 2014 - The Ministry of Health (MoH) of Guinea has notified WHO of a rapidly evolving outbreak of Ebola virus disease in forested areas south eastern Guinea.」

すべては、この報告から始まった。

そして、今も感染は続いている・・・。

Sクラスと闇2015年03月23日 20:32

Sクラスと闇


久々に、「午前零時の自動車評論」を手に取る。

(午前零時の自動車評論 8)
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106482857/

「目次:
ゴルフGTI今昔物語
困った話
ドイツ車の心を読書で知る
知られざる究極
Sに見た闇
狼の謎
Wの悲劇
Fly me to the moon
21世紀の電脳構図」

「Sに見た闇」の章を読んで、深く考えさせられた。

このシリーズは、欠かさず買っている。

浮沈子的には、著者の見解に必ずしも同意できない点はあるのだが、それはそれとして、クルマに対するブレない視線という点では、読んでいて気持ちがいい。

その根底にあるのは、物理の法則と人間の感性を、とことん信じているという点だ。

だから、その両方をだまくらかそうとする「電制」こと電子制御については、なかなか手厳しい。

現代のクルマは、エンジンなんかは電子制御していないものはないといっていい。

完全に機械的に駆動されているエンジンなんてない。

そこは、さすがに諦めているんだろうが、電子制御サスペンションに対してはうるさい。

特に、ばねを柔らかくして、ショックアブソーバーを固めて、乗り心地と運動性を両立しようというアプローチに対しては、なかなか合格点を出さない。

ボディの剛性や作りに対しても、Sクラスが採用したアルミボディについて、完成度が低いと嘆いている。

そして、クルマの骨格に金を掛けずに、様々なオプション品に血道をあげ、売らんかなの姿勢を示すベンツ(ダイムラー)に対して、「アプリ屋になった」と指摘している。

浮沈子は、Sクラスに短時間試乗して、その出来の良さに感心しただけに、これらの指摘については認識を新たにした。

(Sクラス)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/11/22/7064786

「音も振動も、見事に消し去られていて、あらゆる摩擦感、ひっかかり、もっといえば、眉をひそめるようなことが一切ない、完璧な仕上がりであった。」

「いつもは滑らかだと思っている(500Eの)ハンドル操作や、アクセルに対するエンジンの反応、過不足ないブレーキが、最新のSクラスの新車(たぶん、出たばっかり)に乗った後に運転すると、ガサツに感じる。」

浮沈子は、現代の自動車が、ある意味でいくところまでいってしまって、ギミックやデザインや快適装備で競争しなければならない情況は、止むを得ないと考えている。

Sクラスを買う顧客にとって、リニアなハンドリングとか、きついコーナーを限界まで追い込んでいったときのサスペンションの特性なんて、どーでもいいのだ。

そこに拘る方は、少なくともSクラスをそんなことのために使うことはない。

あと2、3台、それ用のクルマを所有して、床まで踏んで攻めればいい。

ホテルの玄関でサマになり、A地点からB地点に快適・安全に移動できればそれで十分なのだ。

沢村氏としては、どうやらそれでは不満のようだ。

90年代半ばから、ベンツはトヨタを目指している。

最早、技術者が好きなように作ったクルマのコストに、儲けを載せて値札をつけると飛ぶように売れた時代、最善か、さもなくば無、といって憚らなかった時代ではない(最近、また言い出してますが)。

コストを削減し、値段に見合った満足を顧客に届けることでよしとする会社になったのである。

クルマ作りの基本は押さえた上で、付加価値を増大し、収益を最大化する健全な会社になった。

浮沈子は、それは仕方がないことだと諦めている。

クルマは商品であり、買ってくれる人がいて初めて作ることが出来る。

どんなに優れた商品を開発しても、適正な値段で買ってくれる人がいなければ意味はない。

Lセグメントの大衆車(?)であるSクラスの場合、その商品価値は、高そうに見えること、偉そうに見えること、安全・快適であることに尽きると浮沈子は考える。

ロールスロイスやベントレーに乗る方は、「普段乗り」として、Sクラスを所有されることがあるかもしれないが、高級車の中では「目立たない」というのも、重要な要素である。

それではちょっと物足りないという方へは、A8などもある。

(【試乗】アウディ 新型 A8 ・A8L[2014年モデル] 試乗レポート/大谷達也 (1/4))
http://autoc-one.jp/audi/a8/report-1703739/

アウディはちょっと、というブランド志向なら7シリーズだな。

しかし、BMWは個性はあってもプレステージ性は薄い(浮沈子の偏見かあ?)。

そこへいくと、Sクラスは、押しも押されぬスタンダードだ。

レクサスがどうのこうのといっても、世界共通言語ではない。

まあ、このレンジになると、好みの問題ともいうな。

どれでも、好きにしていい。

それより、浮沈子的に気になるのは、自動運転時代になったら自動車評論はどうなるんだろうということだ。

最早、ハンドリングとかアクセルへの反応なんて、語る意味はなくなる。

助手席とか、後席に乗って、ひたすら乗り心地や静粛性について語ることになるんだろう。

あるいは、カーステの音がいいとかなんとか・・・。

それこそ、Sクラスを突き詰めていった時に見えてくる闇のような気がするんだが・・・。