久々の休日 ― 2015年03月24日 09:55
久々の休日
ここ暫くの間、いろいろと所用が立て込んでいたのだが、一段落して、今日は久々に何も予定を入れなかった。
運が良ければ、明日ものんびり出来る。
いろいろやらなければならないことはあるが、一つ一つ、順序立ててやることにしている。
浮沈子は、マルチ人間ではないのだ。
クルマ関係も、膠着状態が続いている。
500Eはエアコンの操作パネルの不具合で入院中、83タルガはストラットタワーバーなどの入庫待ち、03ボクスターはボディーカバーの調達中・・・。
ダイビング(AI講習)の方は、予定を入れると突発事態に対応できなくなるので、少しお休みを頂いている。
もう少しすれば、目処が立つんだが。
東京のサクラも咲いて、春本番だが、この時期の常として、気温の上下が激しい。
前日との気温差が、10度くらいになることもある。
身体にはキツイ季節だ。
心にもキツイ・・・。
無理をせずに、気を楽にして乗り越えようと決めている。
体力と気力の限界が、年々下がっているのを感じる。
こればかりはどうしようもない。
その範囲で、できることを少しずつやっていくしかないのだ。
朝、ネットをチェックしていたら、エボラについて、WHOとMSFが口げんかしているとあった。
(エボラ対応の遅れ、国境なき医師団とWHOが相互に非難)
http://www.afpbb.com/articles/-/3043379?ctm_campaign=topstory
「「エボラを制御するノウハウを持っている」WHOが迅速に十分な対応を取らなかったために、「何か月も無駄にされ、多くの命が奪われた」と指摘した。」
「もし最初の症例または最初の集団感染が発生した(2014年)1月か(2013年)12月の段階でわれわれが(エボラ発生のことを)知っていたら、この感染拡大を制御するのはもっとずっと簡単だっただろう」
「これらごく初期の症例は遠隔地で発生したため、エボラだと確認されるまで時間がかかった」
「(2014年)3月半ばに確認が取れた段階で、あらゆる資材を投入し、大規模な支援を開始するべきだった」として、「にもかかわらずWHOは翌日、MSFが誇張していると言った」
「WHO側はエボラ出血熱への対応が遅く不十分だったことは認めており、独立調査委員会を設置した。委員会は今年5月に報告することになっている。」
発生した当事国の保健機関は、問題なかったのか?。
真っ先に責任を問われていいんじゃないか?。
まあ、どうでもいいんですが。
感染の拡大が、従来の経験を上回っていたことは確かだ。
その異質な情況を、誰も的確に把握できていなかった。
十分な経験を持っているからこそ、それが足枷となって、大胆な行動が取れないということはある。
現実の事態に対応するということは、ことほどさように難しい・・・。
夕べは、午前零時の自動車評論8巻目を、午前零時ごろまで読んだ。
「21世紀の電脳構図」という最終章を読んだが、文系の著者にしては丁寧に解説していて、門外漢である浮沈子が読んでも抵抗なく読み切れた。
逆に、ちょっと食い足りない感じもする。
エンジンに送り込む燃料の制御を、排ガス規制をクリアするためにコンピューターで制御しなければならなくなったのが、クルマの電子化の本格的な始まりなんだそうだ。
これからは、制御系の自動化、情報系の充実が進み、ますます電脳化が華やかになるだろう。
エンジンに造詣が深い著者としては、そういった電子化の方向について、正面から取り上げた記事で、苦労のあとが偲ばれる・・・。
それでも、自動車評論の中で、電子デバイスの実態を丁寧に解説しようと試みる姿勢には、頭が下がる。
最近の自動車は、完全にブラックボックスになっていて、ソケットにアナライザー繋いでナンボの世界だ。
機械的な所も、アッセンブリー化されて、ごっそり取り替えることになる。
修理中の500Eは、電子回路をテスターで調べて、不良なコンデンサーとかを取り替える作業をしてくれるらしいが(もちろん、メーカー修理ではない)、そんなのは例外中の例外だ。
正規の修理では、パネルごと交換になる。
1992年製でもこの情況なので、今のクルマなんて、下手したら丸ごと買い換えた方が安いかもしれない(それ程でも・・・)。
休日の朝に、込み入った話も芸がないのでこの辺にしよう。
外は晴れていて、日差しが眩しい。
首相が国会答弁で、「我が軍」と言ったとか言わなかったとか。
言ったかどうかの問題よりも、国防の役割を十全に果たすことが出来るのかどうか、そのために、どんな軍事同盟が必要なのか、そんな実力行使で決着しなくてもいいような外交はどうあるべきなのかといった、実質的なところで揉んでもらいたいな。
可能であれば、近隣諸国とは仲良くして、軍事費なんて無駄金は、なるべく少なくしてもらいたいんだが。
(文民統制)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/11/28/7081579
「国家に真の友人はいない」(ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー:1973年ノーベル平和賞受賞者:ベトナム戦争の和平交渉)。
「我が国以外は全て仮想敵国である」(サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル)。
(隣国)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/08/30/7424709
「隣国を援助する国は滅びる」(マキャベリ)。
まあ、なかなかそうはいかないんだろうな。
戦国時代とは異なり、第二次世界大戦後、実力による国境線の変更は建前上なくなったはずだが、現実はそうでもない。
ウクライナとかは、ロシアの餌食になっているし、中国は南シナ海で好き放題やっている。
米国は、世界中の地域紛争に介入してるし(紛争当事者ともいうが)、スコットランドが独立するんじゃないかという話もあった(これは、非軍事)。
世界は動いている。
我が国は国境がらみの問題で、ロシア、韓国、中国、台湾と対峙している(尖閣諸島は、台湾も領有権を主張)。
(尖閣諸島問題)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
「日本が自国領土として実効支配する尖閣諸島について、台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張していることに関する日本と台湾及び中国との間の領土紛争」
こういう情況の中で、沖縄の辺野古で以前の知事が認めた承認を反故にしようという動きがある。
(翁長氏、反対派圧力で危うい政治決断 政府「瑕疵ない」 普天間移設)
http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/150324/plt15032408000003-n1.html
「わが国は法治国家であり、この期に及んでこのようなことは極めて遺憾だ」
まあいい。
米国が掌返して、沖縄から出て行くということになったら、それどころじゃなくなるわけだしな。
そうなったら、我が国が沖縄を領有化している意味もなくなる。
独立認めて、好きにやらせたらいい(結構、真面目にそう思ってます)。
米国も、今さら領有化はしないだろう。
地政学的に軍事拠点を置きたがるが、別の国家になれば、隣国である。
「隣国を援助する国は滅びる」
元々、沖縄は中国に近すぎて、ヤバイ基地である。
グアムの整備が進めば、遠い将来は不要になるかもしれない。
米軍に尻尾振って、辺野古作ったって、ろくに使わないうちに放棄される可能性がある。
普天間の撤退を促がして、代替地なし、というのが相当だろう。
米軍の沖縄への展開は、別に我が国のために行っているわけではない。
西太平洋地域の軍事展開の一環として行っているわけで、情況に応じて変わり得るわけだ。
今後、中国と米国との関係によっては、日本飛ばしが顕在化して、最後には日本列島丸ごと中国に売り飛ばされてしまうかもしれない(まさか・・・)。
そういうことにならないためにも、自前の国防軍を充実させ、米軍の都合に振り回されることのない情況に持っていかなければならない。
沖縄は、我が国が太平洋地域に版図を広げようとした時には、重要な戦略的意味があったが、本土防衛においてはさほど重要ではないだろう(詳しくは知りません)。
スパッと、切り捨てるのがよろしい。
ああ、そうすれば、尖閣問題は、琉球国(仮称)と中国との問題になるので、我が国の外交課題ではなくなるしな。
中国との関係改善にもなるだろう。
嘉手納を含む米軍基地の問題も、米国と直接やってくれ。
そっちの方が金になるかもしれないし、沖縄にとってもいいこと尽くめじゃないのか。
浮沈子的には、酸素の規制が緩くなって、水中でもガバガバ吸えるようになるというところに期待かな。
ここ暫くの間、いろいろと所用が立て込んでいたのだが、一段落して、今日は久々に何も予定を入れなかった。
運が良ければ、明日ものんびり出来る。
いろいろやらなければならないことはあるが、一つ一つ、順序立ててやることにしている。
浮沈子は、マルチ人間ではないのだ。
クルマ関係も、膠着状態が続いている。
500Eはエアコンの操作パネルの不具合で入院中、83タルガはストラットタワーバーなどの入庫待ち、03ボクスターはボディーカバーの調達中・・・。
ダイビング(AI講習)の方は、予定を入れると突発事態に対応できなくなるので、少しお休みを頂いている。
もう少しすれば、目処が立つんだが。
東京のサクラも咲いて、春本番だが、この時期の常として、気温の上下が激しい。
前日との気温差が、10度くらいになることもある。
身体にはキツイ季節だ。
心にもキツイ・・・。
無理をせずに、気を楽にして乗り越えようと決めている。
体力と気力の限界が、年々下がっているのを感じる。
こればかりはどうしようもない。
その範囲で、できることを少しずつやっていくしかないのだ。
朝、ネットをチェックしていたら、エボラについて、WHOとMSFが口げんかしているとあった。
(エボラ対応の遅れ、国境なき医師団とWHOが相互に非難)
http://www.afpbb.com/articles/-/3043379?ctm_campaign=topstory
「「エボラを制御するノウハウを持っている」WHOが迅速に十分な対応を取らなかったために、「何か月も無駄にされ、多くの命が奪われた」と指摘した。」
「もし最初の症例または最初の集団感染が発生した(2014年)1月か(2013年)12月の段階でわれわれが(エボラ発生のことを)知っていたら、この感染拡大を制御するのはもっとずっと簡単だっただろう」
「これらごく初期の症例は遠隔地で発生したため、エボラだと確認されるまで時間がかかった」
「(2014年)3月半ばに確認が取れた段階で、あらゆる資材を投入し、大規模な支援を開始するべきだった」として、「にもかかわらずWHOは翌日、MSFが誇張していると言った」
「WHO側はエボラ出血熱への対応が遅く不十分だったことは認めており、独立調査委員会を設置した。委員会は今年5月に報告することになっている。」
発生した当事国の保健機関は、問題なかったのか?。
真っ先に責任を問われていいんじゃないか?。
まあ、どうでもいいんですが。
感染の拡大が、従来の経験を上回っていたことは確かだ。
その異質な情況を、誰も的確に把握できていなかった。
十分な経験を持っているからこそ、それが足枷となって、大胆な行動が取れないということはある。
現実の事態に対応するということは、ことほどさように難しい・・・。
夕べは、午前零時の自動車評論8巻目を、午前零時ごろまで読んだ。
「21世紀の電脳構図」という最終章を読んだが、文系の著者にしては丁寧に解説していて、門外漢である浮沈子が読んでも抵抗なく読み切れた。
逆に、ちょっと食い足りない感じもする。
エンジンに送り込む燃料の制御を、排ガス規制をクリアするためにコンピューターで制御しなければならなくなったのが、クルマの電子化の本格的な始まりなんだそうだ。
これからは、制御系の自動化、情報系の充実が進み、ますます電脳化が華やかになるだろう。
エンジンに造詣が深い著者としては、そういった電子化の方向について、正面から取り上げた記事で、苦労のあとが偲ばれる・・・。
それでも、自動車評論の中で、電子デバイスの実態を丁寧に解説しようと試みる姿勢には、頭が下がる。
最近の自動車は、完全にブラックボックスになっていて、ソケットにアナライザー繋いでナンボの世界だ。
機械的な所も、アッセンブリー化されて、ごっそり取り替えることになる。
修理中の500Eは、電子回路をテスターで調べて、不良なコンデンサーとかを取り替える作業をしてくれるらしいが(もちろん、メーカー修理ではない)、そんなのは例外中の例外だ。
正規の修理では、パネルごと交換になる。
1992年製でもこの情況なので、今のクルマなんて、下手したら丸ごと買い換えた方が安いかもしれない(それ程でも・・・)。
休日の朝に、込み入った話も芸がないのでこの辺にしよう。
外は晴れていて、日差しが眩しい。
首相が国会答弁で、「我が軍」と言ったとか言わなかったとか。
言ったかどうかの問題よりも、国防の役割を十全に果たすことが出来るのかどうか、そのために、どんな軍事同盟が必要なのか、そんな実力行使で決着しなくてもいいような外交はどうあるべきなのかといった、実質的なところで揉んでもらいたいな。
可能であれば、近隣諸国とは仲良くして、軍事費なんて無駄金は、なるべく少なくしてもらいたいんだが。
(文民統制)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/11/28/7081579
「国家に真の友人はいない」(ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー:1973年ノーベル平和賞受賞者:ベトナム戦争の和平交渉)。
「我が国以外は全て仮想敵国である」(サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル)。
(隣国)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/08/30/7424709
「隣国を援助する国は滅びる」(マキャベリ)。
まあ、なかなかそうはいかないんだろうな。
戦国時代とは異なり、第二次世界大戦後、実力による国境線の変更は建前上なくなったはずだが、現実はそうでもない。
ウクライナとかは、ロシアの餌食になっているし、中国は南シナ海で好き放題やっている。
米国は、世界中の地域紛争に介入してるし(紛争当事者ともいうが)、スコットランドが独立するんじゃないかという話もあった(これは、非軍事)。
世界は動いている。
我が国は国境がらみの問題で、ロシア、韓国、中国、台湾と対峙している(尖閣諸島は、台湾も領有権を主張)。
(尖閣諸島問題)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
「日本が自国領土として実効支配する尖閣諸島について、台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張していることに関する日本と台湾及び中国との間の領土紛争」
こういう情況の中で、沖縄の辺野古で以前の知事が認めた承認を反故にしようという動きがある。
(翁長氏、反対派圧力で危うい政治決断 政府「瑕疵ない」 普天間移設)
http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/150324/plt15032408000003-n1.html
「わが国は法治国家であり、この期に及んでこのようなことは極めて遺憾だ」
まあいい。
米国が掌返して、沖縄から出て行くということになったら、それどころじゃなくなるわけだしな。
そうなったら、我が国が沖縄を領有化している意味もなくなる。
独立認めて、好きにやらせたらいい(結構、真面目にそう思ってます)。
米国も、今さら領有化はしないだろう。
地政学的に軍事拠点を置きたがるが、別の国家になれば、隣国である。
「隣国を援助する国は滅びる」
元々、沖縄は中国に近すぎて、ヤバイ基地である。
グアムの整備が進めば、遠い将来は不要になるかもしれない。
米軍に尻尾振って、辺野古作ったって、ろくに使わないうちに放棄される可能性がある。
普天間の撤退を促がして、代替地なし、というのが相当だろう。
米軍の沖縄への展開は、別に我が国のために行っているわけではない。
西太平洋地域の軍事展開の一環として行っているわけで、情況に応じて変わり得るわけだ。
今後、中国と米国との関係によっては、日本飛ばしが顕在化して、最後には日本列島丸ごと中国に売り飛ばされてしまうかもしれない(まさか・・・)。
そういうことにならないためにも、自前の国防軍を充実させ、米軍の都合に振り回されることのない情況に持っていかなければならない。
沖縄は、我が国が太平洋地域に版図を広げようとした時には、重要な戦略的意味があったが、本土防衛においてはさほど重要ではないだろう(詳しくは知りません)。
スパッと、切り捨てるのがよろしい。
ああ、そうすれば、尖閣問題は、琉球国(仮称)と中国との問題になるので、我が国の外交課題ではなくなるしな。
中国との関係改善にもなるだろう。
嘉手納を含む米軍基地の問題も、米国と直接やってくれ。
そっちの方が金になるかもしれないし、沖縄にとってもいいこと尽くめじゃないのか。
浮沈子的には、酸素の規制が緩くなって、水中でもガバガバ吸えるようになるというところに期待かな。
ドイツ車 ― 2015年03月24日 19:59
ドイツ車
午前零時の自動車評論8を読み進めている。
順番どおりに読んでいないので、目次と前後する。
今日は、以下の2章を読んだ。
・困った話
・ドイツ車の心を読書で知る
5ナンバーミニバンについて書かれた「困った話」は、こういうクルマに関心がない浮沈子にも、結構面白かった。
まあ、買わんけどな。
ドイツ車の、というより、ドイツ人の性格というか国民性について成書から引用している記事は、なかなか興味深かった。
不器用だから良い道具が生まれるとか、イタリア人は微分でドイツ人は積分だという辺りは、当っているような気がする。
過剰品質については、もう少し掘り下げて欲しかったな。
道具や乗り物について、頑丈さを求める気風を、佐貫氏は「体質的」といい、沢村氏は「本能」だという。
そうなのかもしれないが、浮沈子は、人間が作り出す物への思い入れが違うのではないかと考えている。
というか、命にかかわるそれらの物への拘りを徹底することによって、ドイツ人は生きてきたのではないか。
浮沈子は、たまたま3台のドイツ車を所有しているが、ちゃらちゃらしたところは微塵もない。
贅沢というのではない。
コストを削るところは、徹底して削減している。
500Eでは、さほど感じることはないが、ポルシェにいたっては、ハッキリしている。
何度も書いているが、03ボクスターのウインカーレバーは、軽自動車以下だ。
内装もショボイ。
その代わり、走りの基本の部分では、高い水準を保っている。
各車とも、高い運動負荷を想定しているので、車体性能が高いのは当然だが、これでもかという剛性感や過剰な品質を肌で感じる。
ペナペナしたところは、一切ない。
技術的なことは良くわからないが、車体の振動とか、サスペンションの動きとかについては、国産車とは明らかな相違がある。
もう、同じクルマではない。
まあ、レクサス辺りになると、この辺も考慮されているのだろうが、並の国産車とは一線を画している。
そして、長年乗ってどーよ?、ということになると、もう、比較の対象ではないな。
道具としてのクルマは、新しい方が良くて、6年乗ったら下取りにして買い換えていくというのが当たり前になっていて、20年も30年も乗り続けるというのは本来の姿ではないというのが国産車の実態だ。
いや、国産に限らず、世界の大衆車の実態だろう。
それは、それで仕方がないのかもしれないし、そのことで文句を言っても始まらない。
昔読んだ福野礼一郎の記事で、ベンツの過剰品質をエジプトのピラミッドに例えたくだりがあったように記憶している。
そりゃあ、500Eだって、ピラミッドには敵わないが、命預けて走る上で感じる安心感の例えとしては、分かるような気もする。
アットーテキな品質、過剰なまでの剛性感。
人間が運転する自動車は、必ず事故を起こす。
自動車の設計は、その際に乗員を保護することが前提になっていなければならない。
100kmで走ることを前提とするのか、200kmで走ることを前提とするのかによって、その基準は大きく変わってくるだろうが、それをギリギリでクリアしてコストを削減し、チャラ装備に向けるのか、余裕でクリアして安全性を高めるのかは選択の問題だ(最近のベンツは、チャラ装備優先ですが)。
最近の車は、クルマ自体が壊れることで、相手のクルマとか歩行者を保護するようになってきた。
もちろん、乗員の乗る部分は強固に作っているが、前後の張り出しについては、ヤワになっている。
そうなる前に設計されたW124の車体が与える剛性感や、スポーツカーとして成立しているポルシェのボディは、今の車と比較しても、高いレベルにあると感じる。
もう、こういうクルマは作られないんだろう。
省エネ軽量化とか、クラッシャブルボディでは、あの感じは出ないに違いない。
そりゃあ、戦車じゃないんだから、サンルーフ開けた500Eとか、オープンのポルシェで、分かったようなことをいってもはじまらない。
しかし、それでも我が国で乗るには、確かに過剰なクルマだ。
BMWとかVWをそれなりに走らせたことはないので、ドイツ車全般について同じかどうかは分からない。
「困った話」の中で、トヨタの凄いところは、クルマ作りのレベルの見切りだという話が出てくる。
世界中の車が、同じような考え方で作られるようになり、世界中がトヨタ車(あるいは、同じようなクルマ)で溢れかえっていても、ドイツ車はどこか違っていて欲しい。
もっとも、ヨーロッパ市場で売られている日本車は、きちんとローカライズされていて、国内販売のクルマとは出来が違うという話もある。
適正な市場が形成されているということだな。
そういう意味では、その国で走っているクルマを見れば、国民性が分かるのかもしれない。
100kmで走る国で走っているクルマは、100年経っても変わらないだろう・・・。
午前零時の自動車評論8を読み進めている。
順番どおりに読んでいないので、目次と前後する。
今日は、以下の2章を読んだ。
・困った話
・ドイツ車の心を読書で知る
5ナンバーミニバンについて書かれた「困った話」は、こういうクルマに関心がない浮沈子にも、結構面白かった。
まあ、買わんけどな。
ドイツ車の、というより、ドイツ人の性格というか国民性について成書から引用している記事は、なかなか興味深かった。
不器用だから良い道具が生まれるとか、イタリア人は微分でドイツ人は積分だという辺りは、当っているような気がする。
過剰品質については、もう少し掘り下げて欲しかったな。
道具や乗り物について、頑丈さを求める気風を、佐貫氏は「体質的」といい、沢村氏は「本能」だという。
そうなのかもしれないが、浮沈子は、人間が作り出す物への思い入れが違うのではないかと考えている。
というか、命にかかわるそれらの物への拘りを徹底することによって、ドイツ人は生きてきたのではないか。
浮沈子は、たまたま3台のドイツ車を所有しているが、ちゃらちゃらしたところは微塵もない。
贅沢というのではない。
コストを削るところは、徹底して削減している。
500Eでは、さほど感じることはないが、ポルシェにいたっては、ハッキリしている。
何度も書いているが、03ボクスターのウインカーレバーは、軽自動車以下だ。
内装もショボイ。
その代わり、走りの基本の部分では、高い水準を保っている。
各車とも、高い運動負荷を想定しているので、車体性能が高いのは当然だが、これでもかという剛性感や過剰な品質を肌で感じる。
ペナペナしたところは、一切ない。
技術的なことは良くわからないが、車体の振動とか、サスペンションの動きとかについては、国産車とは明らかな相違がある。
もう、同じクルマではない。
まあ、レクサス辺りになると、この辺も考慮されているのだろうが、並の国産車とは一線を画している。
そして、長年乗ってどーよ?、ということになると、もう、比較の対象ではないな。
道具としてのクルマは、新しい方が良くて、6年乗ったら下取りにして買い換えていくというのが当たり前になっていて、20年も30年も乗り続けるというのは本来の姿ではないというのが国産車の実態だ。
いや、国産に限らず、世界の大衆車の実態だろう。
それは、それで仕方がないのかもしれないし、そのことで文句を言っても始まらない。
昔読んだ福野礼一郎の記事で、ベンツの過剰品質をエジプトのピラミッドに例えたくだりがあったように記憶している。
そりゃあ、500Eだって、ピラミッドには敵わないが、命預けて走る上で感じる安心感の例えとしては、分かるような気もする。
アットーテキな品質、過剰なまでの剛性感。
人間が運転する自動車は、必ず事故を起こす。
自動車の設計は、その際に乗員を保護することが前提になっていなければならない。
100kmで走ることを前提とするのか、200kmで走ることを前提とするのかによって、その基準は大きく変わってくるだろうが、それをギリギリでクリアしてコストを削減し、チャラ装備に向けるのか、余裕でクリアして安全性を高めるのかは選択の問題だ(最近のベンツは、チャラ装備優先ですが)。
最近の車は、クルマ自体が壊れることで、相手のクルマとか歩行者を保護するようになってきた。
もちろん、乗員の乗る部分は強固に作っているが、前後の張り出しについては、ヤワになっている。
そうなる前に設計されたW124の車体が与える剛性感や、スポーツカーとして成立しているポルシェのボディは、今の車と比較しても、高いレベルにあると感じる。
もう、こういうクルマは作られないんだろう。
省エネ軽量化とか、クラッシャブルボディでは、あの感じは出ないに違いない。
そりゃあ、戦車じゃないんだから、サンルーフ開けた500Eとか、オープンのポルシェで、分かったようなことをいってもはじまらない。
しかし、それでも我が国で乗るには、確かに過剰なクルマだ。
BMWとかVWをそれなりに走らせたことはないので、ドイツ車全般について同じかどうかは分からない。
「困った話」の中で、トヨタの凄いところは、クルマ作りのレベルの見切りだという話が出てくる。
世界中の車が、同じような考え方で作られるようになり、世界中がトヨタ車(あるいは、同じようなクルマ)で溢れかえっていても、ドイツ車はどこか違っていて欲しい。
もっとも、ヨーロッパ市場で売られている日本車は、きちんとローカライズされていて、国内販売のクルマとは出来が違うという話もある。
適正な市場が形成されているということだな。
そういう意味では、その国で走っているクルマを見れば、国民性が分かるのかもしれない。
100kmで走る国で走っているクルマは、100年経っても変わらないだろう・・・。
最近のコメント