夜のドライブ ― 2016年08月05日 02:36
夜のドライブ
03ボクスターと83タルガを入れ替える。
夜、渋滞が終わった頃に行って、戻ってくるのは夜中だ。
今日は(日付が変わって昨日ですが)、結局3台を全部乗ったわけだ(お台場には500Eで行ったんで)。
どれも、それなりに個性的で、薄味の03ボクスターのあとに、コテコテの83タルガに乗ると、その違いに驚く。
エアコンのないタルガは、窓を開けて走るので、エンジン音が容赦なく聞こえる(今日は、屋根は外しませんでした)。
ラジオの音などは、全く聞き取れない。
そこにいくと、ボクスターは、穏やかな水冷エンジンのおかげで、フルオープンでも静かなものだ。
浮沈子は、基本的に、クルマの中ではNHKのラジオ(しかもAM)くらいしか聞かない。
たまに、CDとかも聞くけど、音楽を聴いていると、眠くなるしな。
BGMを掛けるのは、渋滞にはまった時くらいだ。
今日は、そういう目には合わなかったな。
500Eで、ちっとだけ聞いたけど。
短い間隔で、3台を乗り継ぐ機会が多いが、どれも捨て難いので困る。
真っ先に切るのは、03ボクスターと決めているのだが、これが、なかなか使い勝手も良く、故障もしない優れモノなので困る(ホントに困ってはいないですが)。
83タルガは、クルマに乗れなくなるまで持っていようと決めている。
500Eは、まあ、実用車だから、手放せば、別のクルマに替えることになる。
維持費が嵩んできて、手放すことは有り得るが、今のところは大丈夫だ(ATも快調、エンジンも、デスビの失火以外は快調、エアコンも、まあまあ快調)。
ボクスターは、これといって非の打ち所のないクルマで、これ1台でもいい。
殆ど1人で移動するので、ダイビング器材を運ぶ以外の用途で、他のクルマが必要になったことはない。
器材だって、空港まで送ればいいだけだしな。
しかし、その選択はないだろう。
あと2年くらい乗ったら、次のオーナーの元に旅立たせる。
タルガは、終生手元に置きたい。
クルマはボロボロ、足回りはヨレヨレだが、こんな面白いクルマは乗ったことがない。
乗れるだけで十分だな。
何というか、人間臭い。
今日見学したオルタより、リアリティを感じる。
浮沈子は、何かに感情移入するには、コミュニケーションが不可欠だと感じている。
オルタには、それがない。
一方的に動いているだけで、こちらのアクションに反応しない。
本当はしているのかもしれないが、コミュニケーションとして成立していない。
そこの曖昧さが、過大なのだ。
返ってくるアクションが、向こうの都合だけで決まる。
それは、反応かも知れないが、キャッチボールにはならない。
こちらに、何かを伝えようという意思がない。
開発者は、赤ん坊のようなものだという表現をしているが、まあ、そんな感じか。
眼球のアクチュエイターが動かない状態だったこともあり、アイコンタクトもない。
機械は、決まりきった反応を返す。
コンピューターで作ったプログラムも、まあ、似たようなもんだ。
多少複雑になるかも知れないが、慣れてくれば、こんな時にはこうなるというのが分かる。
それは、もちろん生物的とはいえない。
文字通り、機械的だ。
そして、確実に決まった反応を返してくるとき、オペレーターは満足することが出来る。
調子が悪ければ、どうしたんだろうと心配になる。
治れば嬉しい。
そういう、機械との歴史の積み重ねが、信頼や、不安を醸成する。
そうして、深みにはまっていくのだ。
アンドロイドは、複雑な機械というだけでは、その意味が不足する。
人間と似ているところに意義がある。
それには、決まりきった反応を返すクルマのような機械とは異なる、何かが必要だ。
人間臭さのようなもの。
浮沈子は、正真正銘の機械である83タルガに、それを感じている。
オイルが温まらないうちに走り出すと、ぐずって回転が安定しなかったり、無理なハンドル操作をすれば、クルマが思ったように向きを変えてくれなかったりもする。
回転を合せずにシフトしようとすれば、シンクロが効くまで待たされることになる。
あの手この手を使って、なだめすかして運転する。
そうして、薬籠中にしていく時、こいつは、なんて面白いんだということになる。
正しく使えば、楽しく使える。
そうしなければ、扱い辛く、乗りにくいだけのクルマになってしまう。
乗り手を選ぶクルマだな。
そんなクルマが、人間臭いと感じる方がおかしいんだろうか?。
自分勝手に、外界の刺激を解釈して反応しているだけのオルタは、浮沈子にはあまり好ましくは感じられなかった。
そう、感情移入できないのだ。
コミュニケーションが取れない。
自律的に動いているだけでは、それが不規則であるだけでは、人間臭くはなれないのだ。
不規則の中の規則性、定型的ではないバラエティのある応答、表層的にはとりとめもない反応のように見えながら、深い部分では個性を感じさせる何かが必要なのだ。
それこそが、人間性なのではないか。
非常にセンシティブな話題に踏み込むとすれば、重症の発達障害のような感じも受ける。
浮沈子が展示室を出た後に、車椅子に乗った障害児の方が入って行ったが、ちょっとドキドキした。
人間の反応は、ランダムに見えて、決してそうではない。
高次機能が十分に働いていなくても、そこには、統合された行動のパターンがあり、それが個性を形成する。
同じ人間は、二人といない。
イヌネコ系が苦手の浮沈子だが、おそらくペットにだって、個性はある。
哺乳類は、そうやって生存の可能性を高めてきたんだから。
オルタに感じたのは、統合される以前の散逸した反応だけだ。
未分化の生な反応・・・。
83タルガには、明らかな個性がある。
この個体には、固有の癖があり、それを飲み込んでやらなければ、上手く動かせない。
吊るしで売られている状態から、33年の時を経て、あちこち故障し、ぶつけ、すり減ってきた挙句に獲得した個性だ。
そして、明確に反応する。
いつも同じではなく、状況に応じて変化するが、ある条件にハマると、素晴らしい動きになる。
それを引き出すことを、こちらに求めているのが分かる。
浮沈子は、オルタの展示室に10分程度しかいなかった。
それ以上いても、同じだと思った。
事前に読んだネットの記事で、10分間の観察に耐えられると書いてあったから。
浮沈子は、ちょっと耐えられなかったな。
ランダムな動きを見ているのは、結構シンドイ。
飽きるというより、苦痛なのだ。
こちらの動きや働きかけ、存在そのものに対する反応との因果関係が希薄で、耐えられない。
そこに、何らかの個性、反応の規則性を見出そうとして、疲れてしまう。
10分間の観察に耐えるというのは、その規則性を見破られない程度にランダムになっているということだけなのかもしれない。
生命の本質的な要素が、そういう不確かさ、曖昧さ、散逸した状態であるのかは分からない。
オルタの体験と、83タルガの乗り味が、真夏のねっとりとした深夜の空気の中で、混ざり合う。
このクルマを人間臭いと思う浮沈子は、確かに異常だ。
ヘンタイである。
そして、オルタを生命が宿る機械とは見なせない。
もちろん、開発途上の何物かではある。
もう一つ、気付いたことを書いておこう。
オルタは、何かを求めているようには感じられなかった。
それは、生命の反応としては不可欠なものだと思う。
何かをしたい、何かをして欲しい、どこかへ行きたい、何かが欲しい・・・。
その欲求が感じられない。
両手をひらひらと動かし、指まで折って見せるが、何かを求めているようなしぐさには見えない。
時折、口を開けて唸るような声を立てるが、空腹や苦痛、感情を表現するというよりは、声が出せるから出しているだけのように思えてならない。
元より、こちらとのコミュニケーションの手段として、発声しているようには見えない。
そういった、欲求の欠如、意思の欠如、行動の統合のありとあらゆる要の欠如が、生命らしさ、人間らしさの欠如に繋がっているのではないか。
紙に書かれた乱数表を見るような味気無さ・・・。
ひょっとしたら、10分ではなく、もっと長時間、そうだな、浮沈子が83タルガに乗っていた1時間くらい見ていたら、何かを感じることが出来たかもしれない。
しかし、そんな長時間を、この物体の前で過ごすのは耐えられないだろう。
そして、むしろ、その前に、次々と現れては、様々な反応を見せる本物の人間たちの方に、興味が移ってしまうに違いない。
この、本物の人間のリアクションをフィードバックさせられれば、もっと人間臭さを出せるのではないか。
或いは、オルタ2のような、もう一体の物体を作って、相互に自律的なコミュニケーションをさせるとか。
その会話(?)の中に、本物の人間を組み入れるような、コミュニケーションモデルを構築するとか。
5つのセンサーや、多くのアクチュエイター、それらを司る高機能の制御プログラムの集合体は、33年前のポルシェよりも無機質に思える。
もちろん、そう感じる浮沈子が、ただのヘンタイなだけなのかもしれない。
それは、否定しない。
しかし、世の中に、あの乗りにくい空冷ポルシェの愛好家が多いことを考えれば、単なる例外では済まされないだろう。
RRという宿痾(しゅくあ)を抱え、それとともに発展してきたクルマなのだ。
個性が宿らずにいられようか。
ボクスターにも、500Eにも、それなりの個性はある。
乗り心地、素直な操縦性、荷物が詰める便利さなど、道具としての価値は、それぞれ高い(911だって、4人乗りでゴルフバッグが2セット積める設計にはなっているけどな)。
限られたレイアウトの中で、他に引けをとらない性能を出さなければならなかった、911ならではの個性は、FRや2座MRでは発揮されなかっただろう。
オルタには、試練が必要だ。
生命は、生き続けなければならないという制約(?)を課せられた存在だ。
生きたいという意思、欲望、なんというか、そういったギラギラしたものがなければ、人間らしさは生まれてこないのではないか。
それは、開発者に対する試練でもある。
ちっと、予算でも削ってみようかあ?。
03ボクスターと83タルガを入れ替える。
夜、渋滞が終わった頃に行って、戻ってくるのは夜中だ。
今日は(日付が変わって昨日ですが)、結局3台を全部乗ったわけだ(お台場には500Eで行ったんで)。
どれも、それなりに個性的で、薄味の03ボクスターのあとに、コテコテの83タルガに乗ると、その違いに驚く。
エアコンのないタルガは、窓を開けて走るので、エンジン音が容赦なく聞こえる(今日は、屋根は外しませんでした)。
ラジオの音などは、全く聞き取れない。
そこにいくと、ボクスターは、穏やかな水冷エンジンのおかげで、フルオープンでも静かなものだ。
浮沈子は、基本的に、クルマの中ではNHKのラジオ(しかもAM)くらいしか聞かない。
たまに、CDとかも聞くけど、音楽を聴いていると、眠くなるしな。
BGMを掛けるのは、渋滞にはまった時くらいだ。
今日は、そういう目には合わなかったな。
500Eで、ちっとだけ聞いたけど。
短い間隔で、3台を乗り継ぐ機会が多いが、どれも捨て難いので困る。
真っ先に切るのは、03ボクスターと決めているのだが、これが、なかなか使い勝手も良く、故障もしない優れモノなので困る(ホントに困ってはいないですが)。
83タルガは、クルマに乗れなくなるまで持っていようと決めている。
500Eは、まあ、実用車だから、手放せば、別のクルマに替えることになる。
維持費が嵩んできて、手放すことは有り得るが、今のところは大丈夫だ(ATも快調、エンジンも、デスビの失火以外は快調、エアコンも、まあまあ快調)。
ボクスターは、これといって非の打ち所のないクルマで、これ1台でもいい。
殆ど1人で移動するので、ダイビング器材を運ぶ以外の用途で、他のクルマが必要になったことはない。
器材だって、空港まで送ればいいだけだしな。
しかし、その選択はないだろう。
あと2年くらい乗ったら、次のオーナーの元に旅立たせる。
タルガは、終生手元に置きたい。
クルマはボロボロ、足回りはヨレヨレだが、こんな面白いクルマは乗ったことがない。
乗れるだけで十分だな。
何というか、人間臭い。
今日見学したオルタより、リアリティを感じる。
浮沈子は、何かに感情移入するには、コミュニケーションが不可欠だと感じている。
オルタには、それがない。
一方的に動いているだけで、こちらのアクションに反応しない。
本当はしているのかもしれないが、コミュニケーションとして成立していない。
そこの曖昧さが、過大なのだ。
返ってくるアクションが、向こうの都合だけで決まる。
それは、反応かも知れないが、キャッチボールにはならない。
こちらに、何かを伝えようという意思がない。
開発者は、赤ん坊のようなものだという表現をしているが、まあ、そんな感じか。
眼球のアクチュエイターが動かない状態だったこともあり、アイコンタクトもない。
機械は、決まりきった反応を返す。
コンピューターで作ったプログラムも、まあ、似たようなもんだ。
多少複雑になるかも知れないが、慣れてくれば、こんな時にはこうなるというのが分かる。
それは、もちろん生物的とはいえない。
文字通り、機械的だ。
そして、確実に決まった反応を返してくるとき、オペレーターは満足することが出来る。
調子が悪ければ、どうしたんだろうと心配になる。
治れば嬉しい。
そういう、機械との歴史の積み重ねが、信頼や、不安を醸成する。
そうして、深みにはまっていくのだ。
アンドロイドは、複雑な機械というだけでは、その意味が不足する。
人間と似ているところに意義がある。
それには、決まりきった反応を返すクルマのような機械とは異なる、何かが必要だ。
人間臭さのようなもの。
浮沈子は、正真正銘の機械である83タルガに、それを感じている。
オイルが温まらないうちに走り出すと、ぐずって回転が安定しなかったり、無理なハンドル操作をすれば、クルマが思ったように向きを変えてくれなかったりもする。
回転を合せずにシフトしようとすれば、シンクロが効くまで待たされることになる。
あの手この手を使って、なだめすかして運転する。
そうして、薬籠中にしていく時、こいつは、なんて面白いんだということになる。
正しく使えば、楽しく使える。
そうしなければ、扱い辛く、乗りにくいだけのクルマになってしまう。
乗り手を選ぶクルマだな。
そんなクルマが、人間臭いと感じる方がおかしいんだろうか?。
自分勝手に、外界の刺激を解釈して反応しているだけのオルタは、浮沈子にはあまり好ましくは感じられなかった。
そう、感情移入できないのだ。
コミュニケーションが取れない。
自律的に動いているだけでは、それが不規則であるだけでは、人間臭くはなれないのだ。
不規則の中の規則性、定型的ではないバラエティのある応答、表層的にはとりとめもない反応のように見えながら、深い部分では個性を感じさせる何かが必要なのだ。
それこそが、人間性なのではないか。
非常にセンシティブな話題に踏み込むとすれば、重症の発達障害のような感じも受ける。
浮沈子が展示室を出た後に、車椅子に乗った障害児の方が入って行ったが、ちょっとドキドキした。
人間の反応は、ランダムに見えて、決してそうではない。
高次機能が十分に働いていなくても、そこには、統合された行動のパターンがあり、それが個性を形成する。
同じ人間は、二人といない。
イヌネコ系が苦手の浮沈子だが、おそらくペットにだって、個性はある。
哺乳類は、そうやって生存の可能性を高めてきたんだから。
オルタに感じたのは、統合される以前の散逸した反応だけだ。
未分化の生な反応・・・。
83タルガには、明らかな個性がある。
この個体には、固有の癖があり、それを飲み込んでやらなければ、上手く動かせない。
吊るしで売られている状態から、33年の時を経て、あちこち故障し、ぶつけ、すり減ってきた挙句に獲得した個性だ。
そして、明確に反応する。
いつも同じではなく、状況に応じて変化するが、ある条件にハマると、素晴らしい動きになる。
それを引き出すことを、こちらに求めているのが分かる。
浮沈子は、オルタの展示室に10分程度しかいなかった。
それ以上いても、同じだと思った。
事前に読んだネットの記事で、10分間の観察に耐えられると書いてあったから。
浮沈子は、ちょっと耐えられなかったな。
ランダムな動きを見ているのは、結構シンドイ。
飽きるというより、苦痛なのだ。
こちらの動きや働きかけ、存在そのものに対する反応との因果関係が希薄で、耐えられない。
そこに、何らかの個性、反応の規則性を見出そうとして、疲れてしまう。
10分間の観察に耐えるというのは、その規則性を見破られない程度にランダムになっているということだけなのかもしれない。
生命の本質的な要素が、そういう不確かさ、曖昧さ、散逸した状態であるのかは分からない。
オルタの体験と、83タルガの乗り味が、真夏のねっとりとした深夜の空気の中で、混ざり合う。
このクルマを人間臭いと思う浮沈子は、確かに異常だ。
ヘンタイである。
そして、オルタを生命が宿る機械とは見なせない。
もちろん、開発途上の何物かではある。
もう一つ、気付いたことを書いておこう。
オルタは、何かを求めているようには感じられなかった。
それは、生命の反応としては不可欠なものだと思う。
何かをしたい、何かをして欲しい、どこかへ行きたい、何かが欲しい・・・。
その欲求が感じられない。
両手をひらひらと動かし、指まで折って見せるが、何かを求めているようなしぐさには見えない。
時折、口を開けて唸るような声を立てるが、空腹や苦痛、感情を表現するというよりは、声が出せるから出しているだけのように思えてならない。
元より、こちらとのコミュニケーションの手段として、発声しているようには見えない。
そういった、欲求の欠如、意思の欠如、行動の統合のありとあらゆる要の欠如が、生命らしさ、人間らしさの欠如に繋がっているのではないか。
紙に書かれた乱数表を見るような味気無さ・・・。
ひょっとしたら、10分ではなく、もっと長時間、そうだな、浮沈子が83タルガに乗っていた1時間くらい見ていたら、何かを感じることが出来たかもしれない。
しかし、そんな長時間を、この物体の前で過ごすのは耐えられないだろう。
そして、むしろ、その前に、次々と現れては、様々な反応を見せる本物の人間たちの方に、興味が移ってしまうに違いない。
この、本物の人間のリアクションをフィードバックさせられれば、もっと人間臭さを出せるのではないか。
或いは、オルタ2のような、もう一体の物体を作って、相互に自律的なコミュニケーションをさせるとか。
その会話(?)の中に、本物の人間を組み入れるような、コミュニケーションモデルを構築するとか。
5つのセンサーや、多くのアクチュエイター、それらを司る高機能の制御プログラムの集合体は、33年前のポルシェよりも無機質に思える。
もちろん、そう感じる浮沈子が、ただのヘンタイなだけなのかもしれない。
それは、否定しない。
しかし、世の中に、あの乗りにくい空冷ポルシェの愛好家が多いことを考えれば、単なる例外では済まされないだろう。
RRという宿痾(しゅくあ)を抱え、それとともに発展してきたクルマなのだ。
個性が宿らずにいられようか。
ボクスターにも、500Eにも、それなりの個性はある。
乗り心地、素直な操縦性、荷物が詰める便利さなど、道具としての価値は、それぞれ高い(911だって、4人乗りでゴルフバッグが2セット積める設計にはなっているけどな)。
限られたレイアウトの中で、他に引けをとらない性能を出さなければならなかった、911ならではの個性は、FRや2座MRでは発揮されなかっただろう。
オルタには、試練が必要だ。
生命は、生き続けなければならないという制約(?)を課せられた存在だ。
生きたいという意思、欲望、なんというか、そういったギラギラしたものがなければ、人間らしさは生まれてこないのではないか。
それは、開発者に対する試練でもある。
ちっと、予算でも削ってみようかあ?。
ISといえば ― 2016年08月05日 13:22
ISといえば
イスラム国の話じゃない。
何度か書いているように、浮沈子は原発推進の立場だ(もちろん、条件付き)。
狭い国土に大勢がひしめき、資源小国の我が国で、現実的なエネルギー源を模索した時、人力(!)や水力(広い意味での太陽光)などと共に、少ない燃料で高いエネルギーを取り出せる原子力は無視できない。
不幸な事故が起こって、電力会社の不作為が問われることもないまま、ろくな見直しもせずに既存の原発のままで突っ走ろうとしている現状が、必ずしもいいとは思わないが、将来に渡って活用可能なエネルギー源として、活用しない手はない。
全電源喪失で、冷却能力を失い、金属と水で水素が発生して大爆発を起こした原子炉が、そのままで安全なわけないだろう?。
どう考えても、全部の原子炉を廃止して、作り直せというのが筋というものだ。
スクラム停止が働いて、制御棒が挿入されたにも関わらず、暴走が防げないような原子炉が、抜本的な対策もされずに運転を再開されるようなことがあってはならない。
冷却なんかしなくたって、熱暴走しない、そんな美味い話はないものか・・・。
(高温ガス炉)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E9%AB%98%E6%B8%A9%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89#.E9.AB.98.E6.B8.A9.E3.82.AC.E3.82.B9.E7.82.89
「高温ガス炉は一次冷却材に液体金属ではなくヘリウムを用いるガス直接冷却黒鉛炉である。」
「黒鉛は温度があがると中性子を吸収するため、制御棒が刺さらない事故がおきても、黒鉛の中性子吸収でブレーキがかかり一定温度で安定化して暴走しにくい。」
「水を必要としないため、水をかけなければ水素爆発も水蒸気爆発も非常に起こりにくい」
「原子炉容器の中性子脆化が遅く、配管が水腐食しないので原子炉寿命が長い。」
「炉心溶融しにくいため、プルトニウム富化度20%の粒燃料を使用可能で、熱効率のよさと相俟って、使用済み核燃料の排出は1/5(ただし核の灰の排出量は1/1.7)で再処理コストが安く、六ヶ所村の能力不足問題が解決され、再処理工場を増やさなくて済む」
「ヘリウムは多くの高温ガス炉に使われている冷却材で、ピーク温度と出力は炉心設計に依存する。ヘリウムは不活性気体であり、このためほとんどの素材に対して化学的反応が起こらない。加えて、ほかの冷却材と比べ、中性子の放射にさらされても放射化しない」
「1000度近い高い炉心出口温度により、熱エネルギーを工業的なプロセス加熱のために利用する事が可能である。」
もちろん、欠点もある。
「配管等が破断して、隔離弁が作動せず空気が流入した場合、黒鉛火災の可能性がある」
「出力の割りに大きく重くなりやすく、出力の割りに設備費は嵩む。」
中国は、既に商業炉を完成させ、来年から動かすという。
技術開発中の要素技術もあり、ものになるかどうかはこれからということになる。
我が国では、発電は行っていないが、研究炉があり、既に試験稼働を行っているようだ。
(高温工学試験研究炉)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B8%A9%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E8%A9%A6%E9%A8%93%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%82%89
「日本原子力研究所(現 : 日本原子力研究開発機構)が茨城県大洗町に建設した実験用の原子炉である。炉の形式は、冷却材としてヘリウムを利用した黒鉛減速ガス冷却炉である。燃料集合体は、ペブルベット型とは異なる六角柱型となっている。」
(高温ガス炉とこれによる熱利用技術の研究開発)
http://www.jaea.go.jp/04/o-arai/research/research_03.html
この施設に併設して、高温のヘリウムを使った水素製造プラントが作られている(まだ、接続はされていないようです)。
(ISプロセス信頼性確証試験グループ)
http://www.jaea.go.jp/04/o-arai/nhc/jp/intro/is/is_top.htm
「原子炉施設と水素製造施設の接続時の安全基準策定、並びに安全基準に適合する設計対策を確立するためHTTR熱利用試験(HTTR-GT/H2試験)を計画中です。」
浮沈子は、水を直接熱分解するのかと思っていたが、かなり複雑な工程を経て、ようやく分解するという方法のようだな。
(高温ガス炉を用いた水素製造 に関する研究開発)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2013/siryo09/siryo2.pdf
(ISプロセス)
https://www.chiyoda-corp.com/technology/energy/is.html
やっぱ千代田か。
まあ、そうだろうな。
この水素製造方法は、原子力とは独立して、産業界にフィードバックされていくかもしれない。
水と熱だけあればいいわけだしな。
技術的ハードルと、コスト的なハードルが横たわっているという気はする。
当面は他の方法で作られることになると思われるが、可能性は追求しておいた方がいい。
冷却用ヘリウム配管の破断など、過酷事故につながりかねないリスクもある。
また、核廃棄物の問題は、量の違いこそあれ、無くなることはない。
二酸化炭素の減量なのか、核廃棄物の減量なのか、二者択一ではなく、現実的な落としどころを見つけていくしかないだろう。
高温ガス炉の燃料は、軽水炉の物とは違っているようだが、中身は同じウラン化合物だ。
いろいろ模索しているようだが、核廃棄物の問題は、避けて通れない。
使った電気量に応じて、消費した自治体が引き受けるというのが筋だと思うんだがな。
核廃棄物列島だ。
その覚悟がなければ、原発なんて使えないだろう。
用地確保や、利害関係の調整、膨大な補償費・・・。
原子力は、高くつくに決まっている。
それでも、使おうという話なら、浮沈子は賛成だがな。
イスラム国の話じゃない。
何度か書いているように、浮沈子は原発推進の立場だ(もちろん、条件付き)。
狭い国土に大勢がひしめき、資源小国の我が国で、現実的なエネルギー源を模索した時、人力(!)や水力(広い意味での太陽光)などと共に、少ない燃料で高いエネルギーを取り出せる原子力は無視できない。
不幸な事故が起こって、電力会社の不作為が問われることもないまま、ろくな見直しもせずに既存の原発のままで突っ走ろうとしている現状が、必ずしもいいとは思わないが、将来に渡って活用可能なエネルギー源として、活用しない手はない。
全電源喪失で、冷却能力を失い、金属と水で水素が発生して大爆発を起こした原子炉が、そのままで安全なわけないだろう?。
どう考えても、全部の原子炉を廃止して、作り直せというのが筋というものだ。
スクラム停止が働いて、制御棒が挿入されたにも関わらず、暴走が防げないような原子炉が、抜本的な対策もされずに運転を再開されるようなことがあってはならない。
冷却なんかしなくたって、熱暴走しない、そんな美味い話はないものか・・・。
(高温ガス炉)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E9%AB%98%E6%B8%A9%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89#.E9.AB.98.E6.B8.A9.E3.82.AC.E3.82.B9.E7.82.89
「高温ガス炉は一次冷却材に液体金属ではなくヘリウムを用いるガス直接冷却黒鉛炉である。」
「黒鉛は温度があがると中性子を吸収するため、制御棒が刺さらない事故がおきても、黒鉛の中性子吸収でブレーキがかかり一定温度で安定化して暴走しにくい。」
「水を必要としないため、水をかけなければ水素爆発も水蒸気爆発も非常に起こりにくい」
「原子炉容器の中性子脆化が遅く、配管が水腐食しないので原子炉寿命が長い。」
「炉心溶融しにくいため、プルトニウム富化度20%の粒燃料を使用可能で、熱効率のよさと相俟って、使用済み核燃料の排出は1/5(ただし核の灰の排出量は1/1.7)で再処理コストが安く、六ヶ所村の能力不足問題が解決され、再処理工場を増やさなくて済む」
「ヘリウムは多くの高温ガス炉に使われている冷却材で、ピーク温度と出力は炉心設計に依存する。ヘリウムは不活性気体であり、このためほとんどの素材に対して化学的反応が起こらない。加えて、ほかの冷却材と比べ、中性子の放射にさらされても放射化しない」
「1000度近い高い炉心出口温度により、熱エネルギーを工業的なプロセス加熱のために利用する事が可能である。」
もちろん、欠点もある。
「配管等が破断して、隔離弁が作動せず空気が流入した場合、黒鉛火災の可能性がある」
「出力の割りに大きく重くなりやすく、出力の割りに設備費は嵩む。」
中国は、既に商業炉を完成させ、来年から動かすという。
技術開発中の要素技術もあり、ものになるかどうかはこれからということになる。
我が国では、発電は行っていないが、研究炉があり、既に試験稼働を行っているようだ。
(高温工学試験研究炉)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B8%A9%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E8%A9%A6%E9%A8%93%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%82%89
「日本原子力研究所(現 : 日本原子力研究開発機構)が茨城県大洗町に建設した実験用の原子炉である。炉の形式は、冷却材としてヘリウムを利用した黒鉛減速ガス冷却炉である。燃料集合体は、ペブルベット型とは異なる六角柱型となっている。」
(高温ガス炉とこれによる熱利用技術の研究開発)
http://www.jaea.go.jp/04/o-arai/research/research_03.html
この施設に併設して、高温のヘリウムを使った水素製造プラントが作られている(まだ、接続はされていないようです)。
(ISプロセス信頼性確証試験グループ)
http://www.jaea.go.jp/04/o-arai/nhc/jp/intro/is/is_top.htm
「原子炉施設と水素製造施設の接続時の安全基準策定、並びに安全基準に適合する設計対策を確立するためHTTR熱利用試験(HTTR-GT/H2試験)を計画中です。」
浮沈子は、水を直接熱分解するのかと思っていたが、かなり複雑な工程を経て、ようやく分解するという方法のようだな。
(高温ガス炉を用いた水素製造 に関する研究開発)
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2013/siryo09/siryo2.pdf
(ISプロセス)
https://www.chiyoda-corp.com/technology/energy/is.html
やっぱ千代田か。
まあ、そうだろうな。
この水素製造方法は、原子力とは独立して、産業界にフィードバックされていくかもしれない。
水と熱だけあればいいわけだしな。
技術的ハードルと、コスト的なハードルが横たわっているという気はする。
当面は他の方法で作られることになると思われるが、可能性は追求しておいた方がいい。
冷却用ヘリウム配管の破断など、過酷事故につながりかねないリスクもある。
また、核廃棄物の問題は、量の違いこそあれ、無くなることはない。
二酸化炭素の減量なのか、核廃棄物の減量なのか、二者択一ではなく、現実的な落としどころを見つけていくしかないだろう。
高温ガス炉の燃料は、軽水炉の物とは違っているようだが、中身は同じウラン化合物だ。
いろいろ模索しているようだが、核廃棄物の問題は、避けて通れない。
使った電気量に応じて、消費した自治体が引き受けるというのが筋だと思うんだがな。
核廃棄物列島だ。
その覚悟がなければ、原発なんて使えないだろう。
用地確保や、利害関係の調整、膨大な補償費・・・。
原子力は、高くつくに決まっている。
それでも、使おうという話なら、浮沈子は賛成だがな。
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