500E第三京浜2016年11月24日 01:20

500E第三京浜


夕方から一寝入りして、起き出す。

無性に500Eで走りたくなって、久々に第三京浜の往復を走る。

帰ってきてガソリンを入れたら、リッター6kmだった。

ああ・・・。

やっぱ、下道中心だと、こんなもんだな。

ゆるゆると回るエンジンに、料金所からの加速でカツを入れた。

キッチリ6000回転まで回した。

ワイパーの調子はいいのだが、拭き残しが出るな。

いつか、ゴムも替えてもらおう。

そのいつかが、なかなか来ないんだけどな・・・。

まあいい。

何の目的もなく、走りを味わうためだけに走る。

ガソリンの無駄遣い、地球温暖化や、窒素酸化物をまき散らしながら走る。

往復50kmの距離を走りに行く。

アホだな。

分かってるって・・・。

これが道楽なんだから仕方ない。

気温は8度。

明日朝にかけて、さらに下がる見込み。

ただ、2度以下にはならないようで、積雪はないだろう。

やれやれ・・・。

エンジンも、足回りも完調で、どこといって不具合のない500E。

走りの気持ちよさと、滑らかな乗り心地を味わう。

このクルマに乗っていられるのも、そんなに長くはないかもしれない。

乗れる限りは乗り続けたいけどな。

新しいクルマはどんどん出てくる。

馬力も、乗り心地も、500Eに引けは取らない。

5年、10年、乗り続けて、その乗り味が残っているかどうかだ。

足回りを替え、エンジンをオーバーホールし、電装系も取り替えて乗り続ける価値を見出せるかだな。

クルマとは、そういうものだと思っている。

耐久消費財として、使い捨てられていくのは、クルマのようなものだと思っているのだ。

50年、100年乗り続けられる乗り物を、人類は作ることをやめてしまった。

そんなことをしたら、進歩なんてなくなってしまうからだ。

燃費良く、公害少なく、次々と投入される新しい、人に優しい技術が導入できなくなる。

そんなことは、分かっている。

10年で壊れ、修理はできない。

部品の生産もない。

これから、ますます、そういう時代になっていくだろう。

そして、世界は、そういう、クルマのようなものが満ち溢れていく。

いや、そうじゃないか。

壊れて、乗れなくなって、スクラップにされて、再生産されるんだからな。

そんな中で、例外的に残り続けるものもあるかもしれない。

電動自動車であれ、完全自動運転車であれ、壊れれば捨てられて、買い替えになっていくのだ。

特に、そっちの方の技術の進歩は速いから、現在走っているクルマは、20年後には消えてなくなる可能性は高い。

現世利益を追求するなら、それが正解だ。

そして、クルマは、現世利益を追求する、最たるもんだしな。

道具であり、消耗する機械であり、壊れても、修理できない代物なのだ。

500Eは、20年後もきっと走っている。

それは、クラシックカーとしてではなく、ふつーに乗れるガソリン車として走る。

機械の王国の時代に作られた、時代を超えて生き残る定めのもとに生まれたクルマだ。

何の説明もなく、いきなり乗っても、このクルマが23年も前のクルマとは思えないだろう。

燃費を除けば・・・。

まあ、今どき、リッター6キロでは、商品にならんからな。

そう、この20年間、自動車はそのことだけに注力してきたといっても過言ではない。

もちろん、そのための電子制御技術の発展が、車載ネットワークの高度化や、自動運転の基盤を築いてきたということもある。

安全運転に資する、様々な試みも拡張された。

しかし、なんといっても、燃費の改善は著しい。

最高速や馬力を競っていた時代は過去になり、今や燃費こそがクルマの価値になった。

浮沈子に言わせれば、世も末である。

ガソリン車が、ガソリン燃やしてどこが悪い!?。

救い難い反社会的思想の持ち主である浮沈子は、極悪非道、地獄の業火に焼かれるであろう。

それでも、その対価として失ったもののことを考えると、ガソリン車の燃費を良くするエネルギーを、ディーゼル車の排気ガスの改善に投入した方がよかったのではないかと真剣に考えてしまう。

ともあれ、歴史は、そのように動いて、燃費良く、乗り心地の良い、クルマのようなものは世の中に満ち溢れ、壊れれば買い替えられて、都合よく、新たな技術を投入された新型車に作り替えられるようになった。

燃費は、益々よくなり、排ガスは、ますます綺麗になって、電子の力で乗り心地も改善される。

結構な話である。

何処にも悪いところはない。

そして、クルマとは、本来、そういうものだという時代が続くんだろう。

形あるものはいつか壊れる。

壊れてしまったものは、直すしかないが、それが出来なくなれば捨てられる運命にある。

500Eだって、何時かはそうなる。

せいぜい、1万台くらいしか作られなかったクルマの部品が、最終年次から20年以上も経った現在、曲がりなりにも供給されていること自体が奇跡なのだ。

その玉数だって、徐々に減っていくわけだしな。

ある日、ダイムラーが、そう決心すれば、純正品は手に入らなくなり、社外品が作られなければ、もう、どうしようもなくなる。

廃車される500Eから、部品どりするにしても、限られるしな。

そうなれば、乗り続けることは出来なくなる。

燃費の悪い旧車を乗り続けることは、悪だという風潮が蔓延すれば、メーカーとして何らかの対応を迫られることになる。

ポルシェのように、過去の栄光を持ち出して、現在のダウンサイジングターボを正当化するような、ヘンタイ的理由でもなければ、ヒストリックカーを維持していく理由などないのだ。

そんなことをしなくても、ダイムラーの乗用車部門は、十分食っていくことが出来るに違いない・・・。

休日の夜中の第三京浜は、ブッ飛ばしていくクルマもなく、法定速度プラスアルファで走る浮沈子の500Eは、快適なドライブを楽しめた。

静かな晩だ。

付け替えたヘッドランプが照らす路面は、白々と明るく、いつまでも、どこまでも走り続けられそうな錯覚に陥る。

しかし、それは、幻想に過ぎないことを、500Eのオーナーは、みんな知っているのだ。

このクルマに、あと何年乗っていられるのだろうか・・・。

そう問い続けながら、乗り続けるしかないのだ。

20世紀の、機械の王国の終わりに、その豊穣の時代に、奇跡のように生まれたクルマ。

金額的な話とか、生産台数は比較にならないかもしれないけど、あのマクラーレンF1にも匹敵すると、浮沈子は信じている。

そう、このクルマが再び作られることは決してない。

時代は変わり、クルマは、10年で壊れて乗れなくなる機械になった。

もっとも、500Eは、発売当時1500まんえんのクルマだった。

今なら、2000万円は楽に超えるだろう。

そんな金額のクルマなら、今でも大事にされて、20年後でも動くような算段をするかもしれない。

しかし、考えてみれば、500Eは、中くらいの大きさのタダのセダンだ。

そんなクルマが、1500まんえんしたというのも、考えてみれば、バブリーな話だ。

もっとも、F40は2億円だったからな。

桁が違うけどな。

秋葉原の立体駐車場にも入る、ふつーのセダン。

それを、道楽で乗り続ける幸せ・・・。

修理すれば、元の乗り味を取り戻し、気持ちよく走ることができる。

ガソリンさえ、ケチらなければ・・・。

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