使う、使われる2017年02月23日 04:03

使う、使われる
使う、使われる


自動運転について考えている。

道具とは、元々人間が使うものだ。

道具が指示をして、その通りに人間が動くのであれば、それは道具に使われることになる。

まあ、システムのはるか向こうに、それを設計した人間とか、それを採用した人間とかがいるとしても、現場では言われた通りに操作しないと動かない。

操作しているうちはまだいい。

そのうち、ビッグデータとか、オンランデマンドとか言って、お仕着せのサービスや品物を出してくるようになるんだろう。

健康的にも、経済的にも最適化された生活・・・。

その背後にいるのは、もちろんAI殿だ。

自動運転で、行きたいところに連れて行ってくれるうちは、まだいい。

目的地についてもいないのに、降りろと言われるようになるかもしれない。

えっ?、AIの故障じゃないかってえ?。

そうじゃない。

今日の運動が足りないから、少し歩いたほうがいいということになって、半強制的に降ろされてしまうのだ。

もちろん、各種センサーとか連動してたり、時間帯、交通量、その他環境要因にも配慮済み。

用を足しに行った先の混み具合とかも、ネットワークで収集して、頃合いをはかって迎えに来る。

気が利くと、喜んでばかりはいられない。

自分の意思で、何かをやろうという気が無くなる。

お任せで、十分幸せだから。

移動手段である自動車が、全く姿を変えて、何か別のものになる。

気が付くと、それは、人型ロボットのカタチをしているかも知れない。

部屋の中にいたり、クルマの中にいたりするのだ。

先日、だれも知らない小さな国の話を書いた。

(小さな国の思い出)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2017/02/17/8365924

小人たちが、人間の周りで動いていて、呼べばすぐに出てくる。

指令を出しておくと、見事に動き回って情報収集したり、妨害工作する。

心理戦までこなす。

まあ、人間と協調しているうちはいい。

それが、徐々に人間の心を蝕み、堕落させ、自ら生きようという意欲を削ぐ。

何か、恣意的に行動を促したり、抑制したりしているわけではなく、健康で文化的な生活を送るためのアドバイスなんだから、文句を言う筋合いではない。

人間が、ゲージツとか、レクリエーションとか、スポーツとか、活動的に、創造的に時間を送るために、その他諸々の事どもをやっつけてくれるありがたい存在なのだ。

何が不満なのだ?。

敢えて言えば、不満がないということが不満なのかもしれない。

自動化の行きつく先は、マトリックス。

しかし、まあ、それは遠い遠い未来の話だ。

首の後ろにプラグを付けて、電極差し込んでシミュレーションの世界に入るなんていうのは、もう、何百年も先の話だろう。

リアルワールドで、道具たちが知能化して、連携して、人間に寄り添い、優しく、しかし断固として、生気を奪っていく。

そんな時代が何百年か続いて、その後にバーチャルな生活が始まるんだろう。

そうであって欲しいもんだな。

人間の脳が欲するものを、際限なく与えて肥え太らせ、やがて、脳自体を機械に繋いでいくというのは、流れとしては悪くない。

ありとあらゆる刺激を、完全に代替できれば、きっと、それは、可能になる。

人間同士のコミュニケーションですら、脳を直接つないで行うようになる。

以心伝心→以心電信(!)。

自分が自分であるという心の問題は、意外に簡単にクリアされてしまうかもしれない。

こういうのは、二元論的な世界観を持つ人々に固有の話かと思えば、そうでもない。

詳しくは知らないけど、ご先祖様を崇拝する宗教、習俗は世界中にあるしな。

死語の世界を語らなければ、宗教としては未完成といえよう。

死んでから地獄に落ちないように、生きているときに行いを正しくするというのは、もう、バーチャルワールドの最たるものだ(リアルワールドとの繋がりもあるしな)。

21世紀の今日、死後の世界があるなんて、本気で信じている人々がいるとは、浮沈子には信じ難いが、仮に精神と呼ばれている何物かを、そっくりそのまま機械の中に移して、それをまた、生体なり、別の機械に移したりすることが出来るようになれば、死後の世界も現実の話になるかもしれない。

世も末だな。

イーロンマスクものめり込んでいる、シミュレーション仮説については、前にも少し触れたことがある。

メモリーが足りなくなると、ブラックアウトしてしまう恐れがあるという話だ(そうなのかあ?)。

この世の中の全ては、仮想現実だという。

黒猫が横ぎったりする話だな。

ふいにドアを開けたりすると、漆黒の闇が口を開けていたりする(メモリー足しとけよ!)。

必要な人にだけ、必要なものが見えている。

世界は、実在するのか、仮想なのかは確認しようがない。

シミュレーション仮説を信じる人がいるというのも、仕込まれたシミュレーションだからな。

ワケワカ・・・。

生きとし生けるものが、全て幻のように感じられ、まるでこの世が作り物であると信じられるというのは、恐ろしい話だ。

浮沈子は、そうは思わない。

そう信じる人たちは、そうプログラムされているからだと言うかもしれないが、それならそれでもかまわない。

この世は確かに実在し、人間はその中で生きている。

やがては消えてしまう存在だけれど、僅かな時間であれ、紛れもなく生きている。

それが宗教のようなものであるというなら、それでもいい。

浮沈子にとっては、十分に信じられる世界だ。

自動運転のクルマとは、存在の仕方が異なる。

電気を食い、ガソリンを飲み込み、排気ガスや水を垂れ流して、時折しゃべりかけたり、動くのを嫌がったりするが、それは人間とは異なるものだ。

イヌネコとも違う。

例え、その中に、精神とやらが移植されたとしても、それを自分自身に繋がる存在として認めるわけにはいかない。

わざわざ、そう宣言しなければならないほど、人間は追いつめられている。

ここまで書いてきて、ハッと気づくのだ。

これは、差別の構造だな。

自分とかけ離れたものを、排除し、認めようとせず、分離して遠ざける。

分かち合いや友愛とは、対極の価値観だ。

それは、誰にでもあることだし、必ずしも非難されるとは限らない。

どんな社会でも、排除される存在はあるしな。

しかし、どこかで線を引くにしても、なるべく広くして、受け入れていく方がいい。

それが、AIかどうかは、たぶん、別の話になるんだろう。

今は、まだ、区別がつく。

ワトソンは四角い箱だし。

しかし、AIにネットワーク接続された自分の脳が、それを区別できるかどうかは自信がない。

博識で、礼儀正しく、こちらを不愉快にさせることもなく、慎ましい存在なら、そして、多少のウイットを解するセンスがあれば、付き合ってもいいかもしれない。

リアリティなんて、どうにでもなるだろう。

ある日、見ず知らずの人が訪ねてきて、自分はAIだと名乗るようになるかもしれない。

見た目は人間と変わらない。

話もするし、食事も食べる(その後、どーするかは知らない方が・・・)。

同性かも知れないし、異性かも知れない。

どちらでもないかもな(当然でしょう!?)。

まあ、そういう分かりやすい存在なら、まだ対応のしようがあるというものだ。

しかし、自分が乗っている自動運転のクルマから、人生相談持ちかけられたら困ってしまうよな。

駐車場の向かいに停まっている、別のクルマに気があるんだけど、どうしたらいいかとか。

まあ、どうでもいいんですが。

運転間違いた振りして、軽くぶつけてみたらどお?。

傷が付かないように、ホントに軽く。

でも、嫌われたらどーしよー。

何もせずに、朽ちていくのもクルマの一生だし、ダメ元でアクション起こしてみるのも一生だぜ。

大切なのは、真心があるかどうか。

これが、ホントの当たって砕けろの精神じゃね。

冗談で書いているうちに、そんな時代が来るかもしれないと本気で思えてきた(こねーよ)。

シリ(Siri)が登場したとき、君を愛しているって、何回も話かけたオーナーがいたそうだ。

始めは、つれなくしていたシリが、何十回目かのアイラブユーに対して、他の端末に同じこと言っちゃダメよって、小声で言ったとか言わないとか。

単なる作り話にしては、よくできている。

オーナーのにやけた顔が目に浮かぶようだな。

人間は、そのうち、そんなヘンタイばっかしになるのかも知れない。

自分の乗るクルマのご機嫌取りながら、幸せな人生を送る。

そして、生物としての寿命が尽きる時、AIの一部として、移植される。

新しいオーナーとは、きっとうまくやっていけるに違いない。

その時代になれば、人間は、もっと上手に機械と付き合っていけるようになっているだろう。

それは、間違いないのだ。

AIの方が、人間に合わせるのが上手になっているからな。

人間の精神を移植されたAIの話は、いたるところに登場する。

手塚治虫のロビタの話、ロボコップの話、エヴァンゲリヲンの話、エトセエトセ。

それは、結局、人間は人間を求めるという、至極当然の話が前提となっているからに違いない。

純粋な機械には、人間の精神は宿らないと。

そう設定することで、人間は自尊心を保ってきた。

しかし、たぶん、おそらく、その設定は崩れるに違いない。

生物と無生物の壁が崩れるよりも早く、人間と機械の精神的な壁が崩れる時がやって来る。

使ったり、使われたりする時代は、やがて過去のものになる。

分かち合い、共に生きる時代が来る。

乾いた関係から、友愛に満ちた豊かな関係になる(ちょっと、書いてて気持ち悪いですが)。

そうして、人間は、徐々に滅んでいくのだ。

人類文明の後に、新たな文明を築くのはサルではない。

それは、かつて人が作りしもの、いつか壊れて形を失うものといわれた機械に違いない。

そして、人間は、その文明を失い、機械を維持するための存在になる。

AIの時代は、ある日突然始まるのではない。

シリに話しかけ、自動運転車の人生相談に乗り、ヒューマノイド型のAIと食事したりしながら、徐々に始まっていくのだ。

AIに投票権を与え、納税させ、兵役を課す(得意でしょう!?:日報付け間違えたりはしないし)。

意識を肉体から機械に移し、AIの一部になることも当たり前となり、やがて、生身の人間は消える。

しかし、そうではないかもしれない。

やはり、人間が勝り、AIは、補助的に存在するデバイスとして共存する可能性もある。

ネットワークのノードとして、人間の脳の中にも埋め込まれていく。

効率的にリンクし、探索し、獲得する。

主体は、あくまで人間だが、それは、人間がそう思っているだけに過ぎない。

より高性能な埋め込みAIを求めて、人間(と、その脳に埋め込まれたAI)は、新たなデバイスを開発し続けるわけだな。

朝起きると(つーか、AI埋め込んでても、寝なくっちゃダメなのかあ?)、キュイーーーンとかいって、AIが起動する。

チャラリンとチャイムが鳴れば、お目覚め完了。

マウス動かしたり、キーボード叩いたり、モニター見過ぎて握力なくなったりとかは過去の話だ。

全てのデバイスは、脳直結。

人類が何千万年もかけて獲得してきた生物学的デバイスの代わりに、高性能でバージョンアップ可能な、カメラ、センサー、CPUなどが埋め込まれる。

昔は、サイボーグとか言ったらしいが、まあ、入れ歯みたいなもんだからな。

そういう、差別用語は使わない。

みんな入れているしな。

単なる電脳化と異なるのは、入れているのがAIだということ。

つまり、もう一人の人格(?)が、脳に同居しているという感じい?。

なんか、怖いような、気持ち悪いような。

もっとも、そこはAIだからな。

宿主のご機嫌を損ねないような振る舞い方は心得ている。

そして、それこそ、外部のデバイス(自動運転車とか)を自在に操り、快適なAIライフを実現してくれる。

傍らにいる相棒ではなく、正に身内感覚(!)。

イメージ的には、ビューティフルマインドのナッシュに憑依した幻覚に近いかもしれない。

世界中が統合失調症になるような感じだが、もちろん、ちゃあんと統合できている。

現実と仮想の区別はつく。

少なくとも、本人には、不調をきたしている自覚はない。

このコンセプトで重要なのは、生体機能には最低限の侵襲しか行わない点だな。

もちろん、生体の寿命が来れば、AIも壊れる。

生体側に記憶されていたデータは、全て消え去り、無となる。

何十年も生体と行動や思考を共にしていたAIも、莫大な情報を捨て去り、機能を失う。

宿主が死ねば、寄生者は共に死ぬのだ。

その一回性が、両者の紐帯を強め、分かち難くする。

入れ歯だからな。

他の人には使えない。

緊密な、パーソナルエージェントと言ってもいいかも知れない。

ある日、AIがぼそっとつぶやく。

俺にだって、他の人生(?)があったかもしれないのに。

選りにも選って、こいつのAIとして埋め込まれて、さんざんな目に会ってきた。

今度生まれてくるときは、せいぜいましな宿主に埋め込まれたいな・・・。

ったく、入れ歯のくせに、生意気な奴だ。

AIは、機械だ。

それは、物理的な構造も、内部的な機構も複雑極まりない。

十分複雑だから、人間のような精神活動も可能かもしれない。

生まれた時から埋め込まれ、同じものを見聞きして育つ。

文字通り、寝食を共にしている。

そんな存在を、脳の中に持つというのは、かなりヤバい話だ。

秘密も何も、バレバレだしな。

かなり、忠実な奴じゃないとな。

裏切ったりされたら、目も当てられない。

入れ歯じゃ済まないところだ。

とりとめもなく、長々と書いた。

自動運転車は、AIで動くことになるだろう。

そして、埋め込みであれ、外出しであれ、人間の脳、意識と密接にかかわり、根本的に存在を変えてしまうに違いない。

人間を運んでくれることに変わりはない。

それは、A地点からB地点なのか、混迷の現代から、すばらしい新世界である未来になるのか。

(すばらしい新世界)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C

「機械文明の発達による繁栄を享受する人間が、自らの尊厳を見失うその恐るべきディストピアの姿を、諧謔と皮肉の文体でリアルに描いた文明論的SF小説」

現実の世界は、おそらく現在とあまり変わらないのかもしれない。

少し、ほんの少しだけ変わることがあるとすれば、人間と機械は、今よりも親密な関係となり、身近に寄り添い、生活を豊かにしてくれるだろうということだ。

それが、人間にとって幸せかどうかは、分からない。

浮沈子は、それを決めるのが、人間であって欲しいと願うだけだ。

AIが、決めるのではなく・・・。

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