古い話 ― 2017年04月14日 00:35
古い話
もう、30年以上も前の話だ。
浮沈子は、8ビットコンピューターのFP-1100から、日立製の5インチのペラペラのフロッピーディスクを入れて使うワープロを卒業し、フロッピーベースで動くラップトップコンピューターを手にした(パナソニック製だったような気が)。
一太郎を動かし、2020といわれたスプレッドシートソフトも稼働した。
もちろん、DOSが動いていた。
そして、ある日、某宗教法人が経営する会社が販売するDOS-Vパソコンを手にするのである。
当時は、パソコンと言えば、NECとコンパチ品を販売するエプソンが主流だった。
コンパックが殴り込みをかけ、ハードディスク上にOSを仕込むスタイルが定着しつつあった。
秋葉原でチラシを配っていた怪しげな勧誘員(?)。
その足で南青山まで行って、実機を手にして戻ってきて、早速、起動させる。
後日買い求めたMO、CD-ROMドライブ、そして、そのキットの中に紛れ込んでいた、ウインドウズ3.1(英語版)。
スカジーの設定で徹夜したり(ターミネーターの物理的不良が原因)、パソコンによるマルチメディアの普及期に、最先端を走っていたな・・・。
その後、ウインドウズ95が登場し、世界はマイクロソフト一色になっていく。
そんな時代を駆け抜けていた当時の、ちょっと懐かしい記事を見つけた。
(真のプログラマたちの回帰)
http://www.law.co.jp/okamura/OpenSource_Web_Version/chapter15/chapter15.html
著者のEric S. Raymondといえば、伽藍とバザールを書いた当の本人である。
(伽藍とバザール)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%97%8D%E3%81%A8%E3%83%90%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB
(伽藍とバザール:青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000029/card227.html
記事は、ネットスケープのソースコード公開前夜、及びそれ以降の展開について、レイモンドが主観的に書いたものだ。
リチャードストールマンは、大いに噛みついたに違いない(未調査:調査しないけど)。
リナックスの、ディストリビューションの一つである、イグドラシルについて調べていて見つけた記事だ。
(第28回 Linuxの創成期に活躍した男)
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/adventurer/028/01.html
「アダム・リヒター(Adam J. Richter)――
イグドラシル・コンピューティング・インコーポレイテッド創業者」
この人物が誰かは、浮沈子も良く知らない。
イグドラシルについては、このブログでも以前に書いている。
(トネリコ)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/04/14/6777106
「リナックス・オペレーティング・システムのディストリビューションの一つで、画像のように「プラグ・アンド・プレイ」を謳っていた。」
ちなみに、このパッケージの絵画は、ミケランジェロのアダムの創造からパクっている。
(アダムの創造)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0
「ミケランジェロが、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天上に描いたフレスコ画の一部」
「神とアダムの指先が今にも触れようとしている場面は、人間性を表すもっとも有名なアイコンとなり、いままでに無数の模倣やパロディ作品が制作されている。」
まあ、イグドラシルのパッケージとしては、相応しかったというわけだ。
イグドラシルは、既に過去の遺物かも知れない。
GNUライセンスだったので、デビアンが後継に当たるのかも知れないが、たぶん、直接の関係はないだろう。
今時は、ミントかウブンツがその役割を果たしている。
エリックレイモンドが言う通り、一握りのハイテク技術者のためのプログラムであってはいけない。
全ての人々のための、開かれたプログラムであることが、オープンソースの目指すところだ。
「アダムの指先と神の指先は触れ合ってはおらず、生命の与え手たる神がアダムに生命を吹き込もうとする、まさにその瞬間を描いた作品となっている。」
コンピューターの普及が、人類の知的活動を飛躍的に拡大、活性化し、新たな生命を与えるという象徴でもある。
「映画作品では『ベン・ハー』のオープニングタイトルで使用された」
ははあ、そういわれてみれば、そんな気もする。
(Ben-Hur(1959) - Title Music)
https://www.youtube.com/watch?v=Kt5C9EruZ94
確かに・・・。
浮沈子の世代は、コンピューターが一部の特権階級(?:軍人や政府や大企業のトップ)の道具から、万人の道具に変化していく時代を見てきた。
読み書きソロバンが、全てコンピューターリテラシーに置き換わっている。
電子書籍の普及が、古書店の経営を圧迫しているというニュースも出ていた。
(ブックオフ業績不振に苦しむ 書籍以外の商材拡大は進むか)
https://thepage.jp/detail/20170412-00000002-wordleaf
「ネットや電子書籍の普及で紙の書籍の市場そのものが縮小したことが大きく影響していると考えられます。」
マイクロソフトのOSに、ウブンツが入って動き出したことを考えると、ちょっと複雑な気がしないでもない。
レイモンドのコメントが欲しいところだな。
(ESR氏によるFedoraへの絶縁宣言)
https://mag.osdn.jp/07/02/23/0035210
「なにも私は、Ubuntuであれば完璧であると期待している訳ではありませんが、これから初めて手にする一群の管理ツールを掌握するまでの負担に見合うだけのメリットを有しているであろうことを、今では確信しています。」
ますます、気になるところだ。
ウインドウズがウブンツに命を与えようとしているのか、それとも逆なのか。
オープンソースとプロプラエタリソースの歴史的文脈でとらえる時、バッシュオンウブンツオンウインドウズ(BUW)の立ち位置は、実にビミョーだ。
軒先を貸したのはウインドウズだが、リナックス(のアプリケーション)をネイティブで動かすための改変を続けていけば、いつかは、UNIXとリナックスの関係になるに決まっている。
母屋を取られかねない話だ。
商用UNIXは片隅に追いやられ、世界のサーバーOSは、リナックス1色になった。
いつの日か、ウブンツからウインドウズを立ち上げる日が来るのかも知れない。
あと30年経てば、現在の状況も、昔語りになる。
それを書くのは、たぶん、浮沈子ではないだろうな・・・。
もう、30年以上も前の話だ。
浮沈子は、8ビットコンピューターのFP-1100から、日立製の5インチのペラペラのフロッピーディスクを入れて使うワープロを卒業し、フロッピーベースで動くラップトップコンピューターを手にした(パナソニック製だったような気が)。
一太郎を動かし、2020といわれたスプレッドシートソフトも稼働した。
もちろん、DOSが動いていた。
そして、ある日、某宗教法人が経営する会社が販売するDOS-Vパソコンを手にするのである。
当時は、パソコンと言えば、NECとコンパチ品を販売するエプソンが主流だった。
コンパックが殴り込みをかけ、ハードディスク上にOSを仕込むスタイルが定着しつつあった。
秋葉原でチラシを配っていた怪しげな勧誘員(?)。
その足で南青山まで行って、実機を手にして戻ってきて、早速、起動させる。
後日買い求めたMO、CD-ROMドライブ、そして、そのキットの中に紛れ込んでいた、ウインドウズ3.1(英語版)。
スカジーの設定で徹夜したり(ターミネーターの物理的不良が原因)、パソコンによるマルチメディアの普及期に、最先端を走っていたな・・・。
その後、ウインドウズ95が登場し、世界はマイクロソフト一色になっていく。
そんな時代を駆け抜けていた当時の、ちょっと懐かしい記事を見つけた。
(真のプログラマたちの回帰)
http://www.law.co.jp/okamura/OpenSource_Web_Version/chapter15/chapter15.html
著者のEric S. Raymondといえば、伽藍とバザールを書いた当の本人である。
(伽藍とバザール)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%97%8D%E3%81%A8%E3%83%90%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB
(伽藍とバザール:青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000029/card227.html
記事は、ネットスケープのソースコード公開前夜、及びそれ以降の展開について、レイモンドが主観的に書いたものだ。
リチャードストールマンは、大いに噛みついたに違いない(未調査:調査しないけど)。
リナックスの、ディストリビューションの一つである、イグドラシルについて調べていて見つけた記事だ。
(第28回 Linuxの創成期に活躍した男)
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/adventurer/028/01.html
「アダム・リヒター(Adam J. Richter)――
イグドラシル・コンピューティング・インコーポレイテッド創業者」
この人物が誰かは、浮沈子も良く知らない。
イグドラシルについては、このブログでも以前に書いている。
(トネリコ)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/04/14/6777106
「リナックス・オペレーティング・システムのディストリビューションの一つで、画像のように「プラグ・アンド・プレイ」を謳っていた。」
ちなみに、このパッケージの絵画は、ミケランジェロのアダムの創造からパクっている。
(アダムの創造)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%89%B5%E9%80%A0
「ミケランジェロが、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天上に描いたフレスコ画の一部」
「神とアダムの指先が今にも触れようとしている場面は、人間性を表すもっとも有名なアイコンとなり、いままでに無数の模倣やパロディ作品が制作されている。」
まあ、イグドラシルのパッケージとしては、相応しかったというわけだ。
イグドラシルは、既に過去の遺物かも知れない。
GNUライセンスだったので、デビアンが後継に当たるのかも知れないが、たぶん、直接の関係はないだろう。
今時は、ミントかウブンツがその役割を果たしている。
エリックレイモンドが言う通り、一握りのハイテク技術者のためのプログラムであってはいけない。
全ての人々のための、開かれたプログラムであることが、オープンソースの目指すところだ。
「アダムの指先と神の指先は触れ合ってはおらず、生命の与え手たる神がアダムに生命を吹き込もうとする、まさにその瞬間を描いた作品となっている。」
コンピューターの普及が、人類の知的活動を飛躍的に拡大、活性化し、新たな生命を与えるという象徴でもある。
「映画作品では『ベン・ハー』のオープニングタイトルで使用された」
ははあ、そういわれてみれば、そんな気もする。
(Ben-Hur(1959) - Title Music)
https://www.youtube.com/watch?v=Kt5C9EruZ94
確かに・・・。
浮沈子の世代は、コンピューターが一部の特権階級(?:軍人や政府や大企業のトップ)の道具から、万人の道具に変化していく時代を見てきた。
読み書きソロバンが、全てコンピューターリテラシーに置き換わっている。
電子書籍の普及が、古書店の経営を圧迫しているというニュースも出ていた。
(ブックオフ業績不振に苦しむ 書籍以外の商材拡大は進むか)
https://thepage.jp/detail/20170412-00000002-wordleaf
「ネットや電子書籍の普及で紙の書籍の市場そのものが縮小したことが大きく影響していると考えられます。」
マイクロソフトのOSに、ウブンツが入って動き出したことを考えると、ちょっと複雑な気がしないでもない。
レイモンドのコメントが欲しいところだな。
(ESR氏によるFedoraへの絶縁宣言)
https://mag.osdn.jp/07/02/23/0035210
「なにも私は、Ubuntuであれば完璧であると期待している訳ではありませんが、これから初めて手にする一群の管理ツールを掌握するまでの負担に見合うだけのメリットを有しているであろうことを、今では確信しています。」
ますます、気になるところだ。
ウインドウズがウブンツに命を与えようとしているのか、それとも逆なのか。
オープンソースとプロプラエタリソースの歴史的文脈でとらえる時、バッシュオンウブンツオンウインドウズ(BUW)の立ち位置は、実にビミョーだ。
軒先を貸したのはウインドウズだが、リナックス(のアプリケーション)をネイティブで動かすための改変を続けていけば、いつかは、UNIXとリナックスの関係になるに決まっている。
母屋を取られかねない話だ。
商用UNIXは片隅に追いやられ、世界のサーバーOSは、リナックス1色になった。
いつの日か、ウブンツからウインドウズを立ち上げる日が来るのかも知れない。
あと30年経てば、現在の状況も、昔語りになる。
それを書くのは、たぶん、浮沈子ではないだろうな・・・。
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