夏が来れば思い出す終戦2017年08月04日 07:36

夏が来れば思い出す終戦


何度か書きかけては、没にしている話題だ。

書きづらい。

浮沈子が知らない戦争。

それが終わってから生まれ、高度経済成長と共に育ち、その終焉とバブルを経験した世代が、何を言っても始まらない。

72年の時を越え、その日が巡ってこようとしている。

終戦。

正式には、9月2日なんだそうだが、8月の暑い日差しとうだるような陽気の中で、その日を迎えるのが相応しい気がする。

(日本の終戦記念日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%97%A5#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AE.E7.B5.82.E6.88.A6.E8.A8.98.E5.BF.B5.E6.97.A5

「・1945年(昭和20年)8月14日:
日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日

・1945年(昭和20年)8月15日:
玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日

・1945年(昭和20年)9月2日:
日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日

・1952年(昭和27年)4月28日:
日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日」

一般には、8月15日として知られている(お盆に重なる)。

「連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。」

事の経過を見ると、ポツダム宣言の受諾は8月10日とある(国体護持の条件付き)。

「1945年7月26日、米英中の3か国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は、日ソ中立条約があるソ連に和平講和の仲介を託していたが、8月6日広島市に原子爆弾が投下され、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。8月10日、日本政府はポツダム宣言の受諾を外交公電として連合国に向けて通告した(午前6時45分)。」

「同時に日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認した。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定」

まあな、ちょっとジタバタしたわけだ。

広島への原爆投下、ソ連の参戦、長崎への原爆投下で、選択の余地はなかったんだろうが、一部には本土決戦という主張もあったようだ(陸軍とか)。

そうならなかったおかげで、浮沈子は生まれることが出来たわけだし(たぶん)、全く無関係ではない。

それにしても、遠い遠い昔のような話に聞こえる。

慌ただしい現代の若い人たちの中には、終戦の日がいつなのか、そもそもそれが、何の日なのかを知らない人もいるという。

「ドキュメンタリー番組等でしばしば使われる「終戦を祝う世界の人々」の映像の多くは、8月11日に撮影されたものだという。この日「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を打電した内容が新聞にスクープされ、正式な降伏と錯覚した人々が騒いだのが真相のようである。」

歴史は、ある瞬間をもって切り替わるのではなく、いささかのグラデュエーションを伴って遷移する。

日本国民が知らされる以前に、世界中がそのことを知っていたというのは、ある意味でショックだ。

世界は8月10日に日本の降伏を知っていた。

国体護持という、浮沈子には理解困難な条件が付いていたとしても、負けを認めて降伏するという意図は相手方に伝えられたわけだ。

その正確な日付がいつであったかは、歴史学者以外にはあまり意味がないだろう。

72年前の夏・・・。

日本の最後の戦争は終わった。

そう、最後の戦争であってもらいたいな・・・。

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