ワレワレハコドクデハナイ2018年08月20日 11:06

ワレワレハコドクデハナイ
ワレワレハコドクデハナイ


どの作品だったか忘れたが、若い頃読んだ庄司薫の本に、孤独というのは、親がいないことと子供がないことだと書いてあったような記憶がある(未確認)。

(庄司薫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%8F%B8%E8%96%AB

「1969年、初めて庄司薫の名義で『赤頭巾ちゃん気をつけて』を発表」

「第61回芥川賞を受賞」

まあ、どうでもいいんですが。

UFOものの傑作のひとつである未知との遭遇では、この記事の表題として掲げた「ワレワレハコドクデハナイ」(We are not Alone)というのが、キャッチフレーズになっている。

(未知との遭遇)
http://club.jidaikobo.com/movies/732.html

まあ、「我々」という時点で独りぼっちではないわけだからな。

形容としては矛盾を来している。

「「We」が複数形なのに、それでもあまりの宇宙の広さに対して、「alone」であると感じてしまうからこその言葉だなあ」

そういう意味だったのかあ?。

まあいい。

今朝、ギガジンを見たら、こんな記事が出ていて思わずアマゾンで本買っちゃおうかと思った(危なく、ポチっとするところだったけどな)。

(「地球外生命は存在するのか?」というテーマを宇宙生物学と宇宙論の専門家が「地球という奇跡」を交えて語る)
https://gigazine.net/news/20180817-where-are-aliens/

「地球に人類が存在するのは奇跡中の奇跡」

「見方によっては『1兆』が大きな数字かどうかはわかりません」

ウェッブ氏は、知的生命の存在が稀ということをいっている。

(レアアース仮説)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BB%AE%E8%AA%AC

「ここで注意すべきことは、高い知能がある地球外生命が稀なのであり、地球外生命そのものが稀というわけではない。」

浮沈子的には、地球外生命の存在自体があり得ないと考えているから、更に孤独感がつのるけどな。

孤独であることは、決して悪いことではない。

他者からの攻撃がなく、平和で安定した生活が保障されている。

繁殖とか考えると、生物学的にはいささか問題だけどな(生産性ゼロ)。

地球生命全体では、うじゃうじゃいるし、今まで幾多の災難をかいくぐってきたわけで、当分の間(数十億年くらい?)滅亡する気遣いはない。

仮に、太陽の寿命が尽きて、地球が生命を育めなくなったとしても、それはそれで仕方ない。

我々には、選択の自由はないのだ。

火星に行こうが、木星系に行こうが、それは同じだ。

生命という化学反応系の奇跡は、宇宙の片隅で(真ん中でもいいですが)一瞬だけ起こり、花火のように消えていく。

その一瞬も、個体にとっては充分に長い。

そもそも、次世代を残すための時間だけが、個々の生命に与えられた時間とわきまえるべきだ(人間以外の生物は、例外なくそうなっている)。

それ以上は余禄である。

余禄が長くなり過ぎれば、老害となる。

有性生物で、生殖可能期間の倍も長生きするなどというのは、単なる無駄に過ぎない。

かつては、老人というのは少なかったからな。

途中でどんどん死んでいくから、生き残っている少数の老人が有難がられていたわけで、国民の半数が老人になっちまったら、有難みも何もあったもんじゃない。

ついこの間まで、50歳というのは老人だった。

(Vol.23 52歳の老婆?)
http://www.shin-toku.com/others/column/vol023.html

「「52歳の老婆、都電に轢かれて死亡」、昭和28年の新聞の三面記事にあった見出しです。」

「80歳以上の高齢者は、昔は少なかったので、周りにたくさんいる若者から大事にされたのですが、今は若者が少ないわりに高齢者が珍しくなくなったので大事にされにくくなりました。」

希少価値なく、役立たずで、社会の邪魔になる存在になってきた。

最近は、高齢者の定義を引き上げて、75歳くらいからにする話もある。

生物学的な特徴が、数十年で変わったわけではない。

単に、社会的な要請だけだ。

相対的に少ない若者が、多数の高齢者を支え切れなくなっただけ。

人口減少は、我が国を始め、人類共通の課題だが、高齢化はそのプロセスとして、必然的に起こる。

速度に差があるとしても、高齢化を経ない人口減少はあり得ない(たぶん、いくつか条件付きでしょうけど)。

100億人に届くかどうかという人類は、やがて、10億人くらいに減少していく。

それでも、持続的にこの星で生活していく上では多すぎるかもしれないな。

江戸時代の初めころは、せいぜい5億人くらいだからな。

(70億人目前、人類はいつからどのように増加してきたのか:2011年の記事)
https://gigazine.net/news/20111028_population_7_billion/

「西暦1650年ごろ(350年前):5億人」

産業革命を経て、浮沈子が生まれたころは30億人くらいになっていた。

それから60年。

あっという間に70億人を突破し、生きてるうちには、80億人になる(たぶん)。

人口爆発というにふさわしいが、クランチするのも速い。

300年後くらいには、10億人を切るという予測もある。

(200年後、世界の人口は半分になる!?)
https://wired.jp/2013/01/23/population/

「もし現在のヨーロッパの出生率(女性1人あたり1.5人)が世界中でも定着すれば、世界の人口は2200年には半分になるだろう。さらに、2300年には10億人をわずかに下回ると考えられている。」

まあ、あくまでも特定の条件下での話だ。

宇宙は、そんな人類の盛衰など、お構いなしだからな。

地球に現れた生命という化学反応系は、宇宙の中での一瞬の花火だ。

宇宙の歴史の中で、二度と起こらないかもしれない。

その希少な時間を過ごしている我々は、孤独といえば孤独だ。

過去に、そんなことが起こったこともないし、地球生命が滅びれば、宇宙は沈黙が支配する。

親もいなければ、子もない。

われわれは、正しく宇宙の孤児だろう。

そうでないということにするには、我々自身が宇宙に播種し、地球生命を広く遍くばら撒いていくしかない。

そのことの是非や、意味を問うている暇はないかもしれない。

地球生命に残されている時間は、長くてもわずか数十億年くらいだからな。

浮沈子は、そういう悪あがきはやめといた方がいいと思うんだがな。

たぶん、止めないだろうな・・・。

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