『進化した』知的生命体2018年12月13日 09:00

『進化した』知的生命体
『進化した』知的生命体


地球外生命の存在に不寛容な浮沈子。

人類が火星に移住できるかどうかより、更に不確かで怪しい。

元素が寄り集まって分子を作り、それが複雑になって機能を持ち、集合して生命体の素(アミノ酸とか)を作る。

そこまではいい。

その先には、自律性、自己増殖性、恒常性の維持や進化といった複雑極まりない仕掛けを実現しなければならないという、超え難い、高い高い壁が立ちはだかっている。

どういう機序で生命が誕生したかというのは、人類が直面している最大の謎の一つで、宇宙がどうやって作られたかに匹敵する難問中の難問だ(そうなのかあ?)。

絶対に、何かのはずみ、何かの間違い、偶然、たまたま、万に一つの奇跡が起こって誕生したに違いないと信じている。

つーことは、結局、この宇宙には生命と呼べるのは、我々のこの地球の上に蠢く輩だけということになる。

実際には、遠い遠い彼方の星のどこかに、似たような偶然から誕生した生命の存在する惑星があったとしても、お互いに永遠に知り得ないとしたら、それは存在しないことと大した違いはないかもしれないしな。

ちょっと違う話ではあるけど、こんなのもある。

(反地球)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%9C%B0%E7%90%83

「太陽を挟んだ地球の反対側にあると空想された架空の惑星。」

「その惑星の公転周期や軌道は位置が違うほかは地球とまったく同じなので、常に太陽の向こう側に位置して決して地球からは見ることはできない」

もちろん、現在ではそんなもんはないということが分かっているけど、不可知の存在というのを仮定するというのは、昔から人類が得意とする空想だったわけだ。

だから、あり得ないはずの地球外生命に対して、科学の衣をまとわせて、いろいろ空想することは自由で楽しい・・・。

(エイリアンはもう地球に来ているかもしれない──NASA論文)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/12/nasa-13.php

「我々が見つけるかもしれない知的生命体、そして我々を見つけようとするかもしれない知的生命体は、我々のように炭素でできた生物とはまったく異なる可能性がある」

「最も深く根づいている仮定といえども、再考する必要があると思う」

「彼らは、人間の尺度の寿命の制約を受けず、(不可能と言われる)星間旅行をしているかもしれない。彼らは、ごくごく小さな超知能体かもしれない」

「エイリアンの文明があまりにも発達しているために、人類がその技術を認識すらできない可能性もある」

もう、何でもありの感じだな。

柔軟な発想は大切だが、反地球的不可知論に陥ってしまっては、元も子もない気がするんだがな。

まあいい。

この記事の中で、浮沈子が気になったのはこの部分だ。

「エイリアンは「究極的にはロボット的に」なる可能性がある」

「『進化した』知的生命体は、究極的にはロボット的になる可能性があるということだ。その場合、生物に関して我々が従来立ててきた仮定にはすべて、疑問符が付くことになる」

ここでいうロボットとは、我々が日常的に意識している機械機械したロボットとは異なる概念なんだろう。

例えば、炭素由来の生命の部品を、化学的によく似たシリコンに置き換えたような感じか。

我々が進化の過程の中で、試行錯誤の末に獲得した様々なシステムを、ゼロベースからリライトして、長期間の使用に耐えるようにしたり、簡単にメンテナンスしたりできるようにする。

例えば、生命の自己複製機能が持つメリットとしては、有性生殖によって遺伝的な揺らぎや修復機能を与えられているけど、そういうのを人工的に制御する。

進化そのものをコントロールしたり、寿命をいくらでも延ばすことができて、生命が持つ複製機能のメリットを代替することが出来れば、複製機能そのものをオミットしてしまうかもしれない。

環境が大きく変わって、現在の生命システムのままでは対応できなくなれば、ちょろちょろっと遺伝子を弄って、3日間くらいカプセルに入っているだけで変身できてしまうようなイメージか。

芋虫が蝶になるように、成体であっても、機能や形態が激変するというのは、地球生命でも日常的にみられる。

そんなことが出来るようになれば、宇宙放射線によって遺伝子がズタズタになっても、生存には影響しないし、何万年掛かろうとも、宇宙旅行が可能になるだろうしな。

そもそも、それが生命と呼べるかどうかは別にして、究極的にはエネルギーの揺らぎとして、遺伝子や固体の身体に依存しない究極の存在として、自由に宇宙を飛び回るようになるのかもしれない。

彼らの乗り物は、銀河宇宙線そのもので、そのビミョーな揺らぎが存在の証なわけだ。

エネルギーの揺らぎとしての存在。

物質の制約から解き放たれて、真の宇宙生命に進化した究極の姿・・・。

しかしなあ、そんなのを生命と言われてもなあ・・・。

確かに、認知することは不可能に近い。

我々が物質と呼んでいるものは、エネルギーと等価だし、様々な宇宙的進化のプロセスを経て存在している。

生命だって、その原理原則を離れて存在できるわけではないから、究極の生命探査ということになれば、電波望遠鏡とかで電磁波の揺らぎを解析するということになるのかもしれない

知的生命が発信したメッセージではなく、進化の究極にある「生命」そのものを捉えるために。

炭素由来で、外界と隔てる膜を持ち、同化と異化を行い、DNAやRNA、タンパク質を要素として持ち、自己複製し、進化するなどというのは、単にローカルな生命の特性に過ぎず、永遠の進化のごく初期の形態なだけなのかもしれない。

やれやれ・・・。

有難いことに、我々の文明は日常的な常識の世界を描き出してくれている。

宇宙人は空飛ぶ円盤に乗ってやってくるし、モヤシのような宇宙人は、ヒューマノイド型だしな。

下手したら、雌雄の別さえあるかも知れない。

地球人とニャンニャンしたり(子供は、わかんなくていいです!)、エサとして食っちまったりしなければ、ドラマは成り立たないからな。

そういう宇宙人を描かないと、商業的にアピールできないから、金儲けに繋がらないということになる。

科学的な根拠からではなく、経済的な理由から構築された地球外生命像が蔓延っている。

その科学的根拠とやらにしても、いや、科学的だからこそ、常識の世界に囚われている。

タンパク質と、その反応の媒体となる液体の水という地球型生命の枠組みからしかとらえられない。

(小惑星ベンヌで水成分を検出。元の星には豊富な水資源が存在か)
https://sorae.info/030201/2018_12_12_osiris.html

「ベンヌを生み出した元の星には「液体の水が豊富に存在した」可能性を示しています。」

ハビタブルゾーンにある惑星を必死に探しても、宇宙に豊富にあるアミノ酸分子を求めても、地球外生命にはたどり着けないのではないか。

重箱の隅、行き止まりの迷路、袋小路を彷徨っているだけ・・・。

進化の過程で、生命としての大前提を克服し、想像もしない形で存在の永続化と自由度を高めていく。

それをロボットと呼ぶなら、それでもいい。

ロボットは生命ではないけど、ナチュラルな存在とは異なる態様での、新たな生命の仕切り直しとしては、生命の延長線上にある。

浮沈子は、そういう空想科学小説的地球外生命論にはついていけない。

ニューズウイークの記事は、真面目に地球外生命の謎に取り組もうとしているNASAの科学者の論文を取り上げている。

それが、ニュース的価値を持つということは、現代の地球外生命に対するアプローチが、いささか行き詰まり感を持たれているという証なのかもしれない。

商業的には、そろそろ新たな地球外生命像を描かないと、金にならない状況に陥ってきているわけだな。

(地下深部に広大な「生命体の森」 国際研究で発見)
http://www.afpbb.com/articles/-/3201455

「海底をおよそ2500メートル掘り下げた地下に、数十万年から数百万年にもわたって存在してきた可能性のある微生物」

地下生命圏が広大に存在するというのは、最近になって言われ出した新たな地球の生命像だ。

重量的には、地上の全生命に匹敵するとも言われている。

「地下深部で生きる同様の奇妙な微生物は、火星など他の惑星の地底にも存在する可能性があるという。」

「科学者らは深度5000メートルを超える地下でも生命体を発見しており、稲垣氏によると生命体の限界となる境界の在りかはまだ突き止められていないという。」

先ごろ火星に到着したインサイトが掘る穴は、せいぜい5mくらいだ(もちろん、目的は違いますが)。

火星に生命が存在しないことを証明するには、千倍の深さまで掘り下げないといけないらしい。

「何も摂取せずに岩から放出されるエネルギーのみを取り入れて生きており、動きは遅く、まるでゾンビのような状態で存在しているという。」

うーん、そんなもんを主人公にしてドラマ作って金儲けするというのは、なかなか難しいだろうけどな。

映画館で観客が寝ちまうことだけは、間違いあるまい・・・。

今朝のエボラ或いは止まらない感染2018年12月13日 09:59

今朝のエボラ或いは止まらない感染
今朝のエボラ或いは止まらない感染


DRC北東部でのエボラの感染が止まらない。

(SITUATION ÉPIDÉMIOLOGIQUE DANS LES PROVINCES DU NORD-KIVU ET DE L'ITURI
Mercredi 12 décembre 2018)
https://mailchi.mp/sante.gouv.cd/ebola_kivu_12dec

「流行の開始以来、症例の累積数は505であり、そのうち457が確認され、48が可能である。合計で298人の死亡(250人が確認され、48人が死亡)と175人が治癒した。」

「調査中の100の疑いのある症例」

感染爆発はないし、よく抑えられているともいう。

ひょっとしたら、どこかで止まる可能性はある。

新規の感染者数は低いレベルで、1日当たりの推移を見ると、低下傾向にあるようにもみえる。

昨日書きかけの与太ブログをテキトーに書き上げ、寝足りない感じの頭を無理くりコーヒー3杯で目覚めさせる。

体重が爆発していて、何とかしなければならないんだが、今日はフィットネスに行く気になれない。

うだうだと過ごすことにする。

こういうのがいけないんだろうな。

運動の習慣だけでは体重は減らない。

その麗しい習慣が、爆食の習慣と結びついている限りは。

昨夜は炭水化物を欲する脳の要求に勝てず、大盛りのペパロンチーノを食ってしまった。

体重は跳ね上がり、今朝の計量では驚きの数字をはじき出している。

マジか!?。

プチリバどころではなく、本格的なリバウンドの傾向が現れてくる。

何とかしなくてはならない。

その一方で、身体は筋肉痛に軋み、動きたくない。

無理は禁物。

低強度の運動をだらだらとこなすしかない。

買い物に行くのに、自転車に乗らずに歩いていくくらいか。

コーヒーの量も増えている。

いい傾向じゃないな。

大田区の図書館から借りてきた本を返しに行かなければならない。

歩いていくと結構時間が掛かるんだが、坂の上り下りがあるので、自転車で行くと漕ぐのに疲れる(電動アシストなのにい?)。

ちんたら歩いていけば、気分転換にもなるし、体にもいい。

帰ってくる頃には、飯の時間だしな。

食ってるか、寝てるか、ブログ書いてるか。

まあいい。

こまごまとした浮世の雑事をこなしながら、年末に向けてやり残したことを片付けたり、年明けからの準備などを始めよう。

昨日は雨が降る朝だったが、午後からは晴れて気持ちが良かった。

気温は上がらないけど、今日は穏やかな1日になりそうだ・・・。