ギザの三大ピラミッドはカイロ郊外(目と鼻の先)にある2019年10月19日 21:11

ギザの三大ピラミッドはカイロ郊外(目と鼻の先)にある
ギザの三大ピラミッドはカイロ郊外(目と鼻の先)にある


カイロ市街の中心にあり、シンボルタワーとして君臨するのがカイロタワー(行政区分ではナイル川の西岸はギザ市だが、市街地は一体化している)。

(カイロ・タワー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC

「1956年から1961年にかけて建設された」

「エジプト、カイロに位置する単独のコンクリート製タワーである。高さ187 m」

「50年ほどエジプトや北アフリカで最も高い建築物であった。」

「ダウンタウンに近い、ナイル川に浮かぶゲズィーラ島のザマーレク地区に建つ。」

クフ、カフラー、メンカウラーの三大ピラミッドは、このタワーから10km余り離れている(グーグルアースで約11.5km)。

(三大ピラミッド)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89

「造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝期に建設されている。」

地図で見ると、カイロ国際空港より近い(こちらは市街地の反対側:約19km)。

なぜ、巨大な建築物が、こんなにも市街地に近いところに建造されたのか。

まあ、順序が逆だからな。

建造当時は、カイロ(ギザ)なんて町はなかった。

(カイロ:歴史:古代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD#%E5%8F%A4%E4%BB%A3

「古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、エジプト新王国時代には廃墟となっていた。」

(エジプト第4王朝)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E7%AC%AC4%E7%8E%8B%E6%9C%9D

「マネトは、エジプト第4王朝が「異なる家系に属する」8人のメンフィスの王によって統治されたと記録している。」

(メンフィス (エジプト))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9_(%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88)

「現代で言うエジプト・アラブ共和国北東部の都市ギーザの20キロメートル南、現在のミート・ラヒーナ(アラビア語版)近郊に位置する古代都市の遺跡である。」

「この都市は上エジプトと下エジプトの境界に位置していた(上エジプト第22州と下エジプト第1州の間)。」

「メンフィスは古王国時代を通じて首都となっていた。この都市は第6王朝の下で、創造と芸術の神プタハの信仰の中心としてその威信の頂点に達した。」

古王国時代には、第3王朝から第6王朝が含まれる。

つまり、首都はカイロの南にあって、カイロは都市ではなかった。

だから、近代になってエジプトの発展と共にカイロが都市化し、規模が拡大してピラミッドのそばまで市街地が出来てきたわけで、別に市街地の近くに意図して作ったわけじゃない。

まあいい。

実際に現場に立ってみると、小高い丘の上に巨大な石造りのピラミッドが置かれている。

メンカウラーのは、見るからに小さいが、クフとカフラーのは、同じくらいに見える。

前にも書いたが、土台が高いために、カフラーの方が高く見える。

底辺とか構造物の高さはクフが最大である。

スフィンクス像は意外と小さい。

カフラーピラミッドへの参道がやや高くなっていて、その上から見たせいかもしれない。

メンフィスが首都だったころの、三大ピラミッド以前の墓地は、サッカラというところに作られていたようだ。

(サッカラ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%A9

「エジプトにある広大な古代の埋葬地であり、古代エジプトの首都だったメンフィスのネクロポリスだった。サッカラには多数のピラミッドがある。中でも有名なジェセル王のピラミッドは、その形状から階段ピラミッドとも呼ばれる。他にもマスタバがいくつかある。現在のカイロから南に30kmほど行ったところにあり、7km×1.5kmほどの領域をサッカラと呼んでいる。」

「サッカラの北にはアブシール、南にはダハシュールがある。三大ピラミッドのあるギザからダハシュールまでの地域は、古代エジプトの様々な時代のメンフィスの住民がネクロポリスとして使用した場所であり、1979年に世界遺産に登録された(メンフィスとその墓地遺跡)」

現代のカイロでは、「死者の町」(俗称)とされる墓地地域に住む人々がいる。

貧しく、住居を持てない人々は、なんと墓地に住んで生活しているのだ。

今回のカイロ観光では、ハイウエイから眺めるだけだった。

観光客がふらっと行くような場所ではないらしい。

モスクも、学校もあり、生活が営まれているが、ガイドのハマちゃん(アハマドさん)によれば、エジプトの恥部なんだそうだ。

墓での生活。

浮沈子は、盗掘の歴史を聞きかじっていたので、先祖の墓を暴いて生活しているのかと思い、つい口走って顰蹙を買った・・・。

浮沈子たちのクルマは、「死者の町」やその周囲に広がる街並みを縫って走った。

政府系や大企業のビルは別として、カイロの建物の殆どはレンガの壁で作られている。

柱や梁は鉄筋コンクリートだが、それを埋める壁には、むき出しの日干しレンガが使われていた。

中には、モルタルで上塗りしてあったり、レンガのまま塗装してあるものもあったが、殆どのビルは、むき出しの赤茶色のレンガのまま。

現代のカイロは、レンガで覆い尽くされた街だ。

雨が降らず、地震もない国の首都。

浮沈子は、クフのピラミッドの底辺に積まれた石を押してみた。

もちろん、1mmたりとも動かない。

4500年の時を経て、石積みはその形を保っている。

表面を覆っていた化粧石は、後世の人々によってはがされ、カイロの町の舗装に使われていったと言われる。

クフのピラミッドの底辺には、この化粧石が一部残っていた。

浮沈子は、カフラーのピラミッドの上部だけかと思ってたんだがな。

カイロの町がなかったころ、この地に巨大な建造物を残した人々がいた。

4500年後、東京の街で残る建物は皆無だろう。

数十年、せいぜい100年くらいしか残らないものを、生涯をかけて築く。

来世に続く墓だって、最近は自然の中に散骨したりして残らないしな・・・。

遺跡の残らない時代を、現世利益だけを追求して生きる現代の人々。

永遠の来世を信じて、巨大建造物を残していった大昔の人々。

エジプト考古学博物館では、止めようと思っていたミイラ室を、180ポンドも払って見学した。

91歳で亡くなったラムセス2世のミイラは、他のミイラに比べて出来がいい感じだった。

長生きしたということは、内臓も丈夫だったに違いない。

他のミイラは、せいぜい40歳くらいだったしな。

彼らが、数千年後の我々に、影響を与えていることは確かだ。

日干しレンガのカイロの町は、やがて崩れて廃墟になる(たぶん)。

4500年後の人類は、砂漠の中に取り残されたピラミッドだけを眺めることになる。

かつて、この地に大勢の人々が訪れ、すぐそばまで町が広がっていたことなど、想像すらできないに違いない。

地球温暖化が進めば、カイロの辺りは人間が住むことができなくなる。

それよりも何よりも、標高が低いために水没する可能性が高い(カイロの標高は15から60m)。

ピラミッドは、水面に突き出した形で存在することになるかもな。

やれやれ・・・。

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