安心を与えるもの ― 2019年11月17日 10:12
安心を与えるもの
737MAXの事故に絡んで、安全についていろいろ考えている。
その一方で、航空機の安全という、目に見える話ばかりを追いかけて、その背後にある、安心という目に見えない世界のことを見落としているような気がしてならない。
安全と安心というのは、よく使い分けられる便利な言葉だ。
遺伝子組み換え作物とかでも使われたりするしな。
安全ではあるが、安心ではないとか。
それって、単なる気の持ちようの問題なのか。
そこにあるのは、人の作りしものに完全なものはないという不動の真理だろう。
安全を検査したり、宣言したりするのは人間だ。
それは検証可能な客観的な基準に基づいて行われる。
人間が決めた基準に基づく、人間が行う検査。
そんなもんが、完全なわけはない(そうなのかあ?)。
もちろん、最善は尽くされるべきだが、そこには超えることができない限界が存在する。
100パーセントの安全はない。
全ては、そこからスタートする。
そして、完全なる存在を求め続ける永遠の行為が続くわけだ。
その人間の姿が安心を与える。
安心は、不完全な安全に胡坐をかくことなく、額に汗して完全を求め続ける人間が作り出す幻想だ。
現実の中で、安心を得るにはそれしかない。
福野礼一郎だったか、記憶に定かではないんだが、ピラミッドを押す話を読んだことがある。
過剰な品質についての話だったと記憶している。
先月、エジプト旅行に行った際、クフのピラミッドの礎石を力いっぱい押してみた。
もちろん、びくともしない。
そこで感じたのは、安全とか、安心とか、品質とかいう前に、あほくささのようなもんだったな。
ピラミッドを押すという行為の無意味さ・・・。
無意味なほどの過剰さ。
人間の一生を通じて、決して揺らぐことはないという確信だ。
数千年を経て変わらぬ歴史的事実、今後、数千年を経ても揺るぎっこないという実感。
せいぜい数十年しか持たない航空機や自動車などの工業製品にはない、絶対的な信頼感がそこにはあった。
まあ、比較したって意味はないだろうけどな。
そういう、絶対的な安心感というのは、現代の工業製品には求められない。
ベンツの有名なキャッチがある。
「Das Beste oder nichts(最善か無か)」
或いは、シャシーはエンジンより速くなくてはならないというのもある。
1991年製300E、1992年製500E(いずれも中古で購入)と乗り継いできた浮沈子は、同クラスの日本車にはない、その絶対的な安心感に酔った(えーと、これってクルマ酔い?)。
けれど、そのベンツにしたって、本国では警察より早く事故現場に赴くという逸話を生むほど、熱心に事故の情報収集及びその解析に当たってきたという経緯がある。
安心は一日にして成らず(浮沈子)
繰り返しになるが、神ならぬ人間が与えうる安心は、そういったソフトの部分も含めた過剰な品質、完全なる安全を求め続ける努力の継続にしかないということだ。
人間は、人間の行為にしか安心を感じない。
逆に、安心だと感じれば、多少の危険があったとしても安全と信じてしまう。
やれやれ・・・。
ロジカルな安全の確認と、実績に基づいた安心の確保。
当事者であるメーカーや規制当局には、安全に対する真摯な態度を求めるとともに、消費者に安心を与える信頼感の醸成にも力を尽くしてもらいたいものだ。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものは全て壊れる。
もの作りの当事者には、永遠不変の真理に対する謙虚な態度が求められる。
更に、改良、改善、保守に対する不断の努力も。
それは、もの作りだけではなく、役務の提供を生業とするサービス業にも当てはまるかもしれない。
安全を担保する過剰な品質と製品に対する謙虚な態度、安心を与える不断の努力。
作り手(役務の与え手)の心から、使い手(受益者)の心にダイレクトに繋げることができれば、安心はおのずから生じる。
まあ、もっとも、与える方の心が泥塗れでは、話にもなんにもならんけどな・・・。
737MAXの事故に絡んで、安全についていろいろ考えている。
その一方で、航空機の安全という、目に見える話ばかりを追いかけて、その背後にある、安心という目に見えない世界のことを見落としているような気がしてならない。
安全と安心というのは、よく使い分けられる便利な言葉だ。
遺伝子組み換え作物とかでも使われたりするしな。
安全ではあるが、安心ではないとか。
それって、単なる気の持ちようの問題なのか。
そこにあるのは、人の作りしものに完全なものはないという不動の真理だろう。
安全を検査したり、宣言したりするのは人間だ。
それは検証可能な客観的な基準に基づいて行われる。
人間が決めた基準に基づく、人間が行う検査。
そんなもんが、完全なわけはない(そうなのかあ?)。
もちろん、最善は尽くされるべきだが、そこには超えることができない限界が存在する。
100パーセントの安全はない。
全ては、そこからスタートする。
そして、完全なる存在を求め続ける永遠の行為が続くわけだ。
その人間の姿が安心を与える。
安心は、不完全な安全に胡坐をかくことなく、額に汗して完全を求め続ける人間が作り出す幻想だ。
現実の中で、安心を得るにはそれしかない。
福野礼一郎だったか、記憶に定かではないんだが、ピラミッドを押す話を読んだことがある。
過剰な品質についての話だったと記憶している。
先月、エジプト旅行に行った際、クフのピラミッドの礎石を力いっぱい押してみた。
もちろん、びくともしない。
そこで感じたのは、安全とか、安心とか、品質とかいう前に、あほくささのようなもんだったな。
ピラミッドを押すという行為の無意味さ・・・。
無意味なほどの過剰さ。
人間の一生を通じて、決して揺らぐことはないという確信だ。
数千年を経て変わらぬ歴史的事実、今後、数千年を経ても揺るぎっこないという実感。
せいぜい数十年しか持たない航空機や自動車などの工業製品にはない、絶対的な信頼感がそこにはあった。
まあ、比較したって意味はないだろうけどな。
そういう、絶対的な安心感というのは、現代の工業製品には求められない。
ベンツの有名なキャッチがある。
「Das Beste oder nichts(最善か無か)」
或いは、シャシーはエンジンより速くなくてはならないというのもある。
1991年製300E、1992年製500E(いずれも中古で購入)と乗り継いできた浮沈子は、同クラスの日本車にはない、その絶対的な安心感に酔った(えーと、これってクルマ酔い?)。
けれど、そのベンツにしたって、本国では警察より早く事故現場に赴くという逸話を生むほど、熱心に事故の情報収集及びその解析に当たってきたという経緯がある。
安心は一日にして成らず(浮沈子)
繰り返しになるが、神ならぬ人間が与えうる安心は、そういったソフトの部分も含めた過剰な品質、完全なる安全を求め続ける努力の継続にしかないということだ。
人間は、人間の行為にしか安心を感じない。
逆に、安心だと感じれば、多少の危険があったとしても安全と信じてしまう。
やれやれ・・・。
ロジカルな安全の確認と、実績に基づいた安心の確保。
当事者であるメーカーや規制当局には、安全に対する真摯な態度を求めるとともに、消費者に安心を与える信頼感の醸成にも力を尽くしてもらいたいものだ。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものは全て壊れる。
もの作りの当事者には、永遠不変の真理に対する謙虚な態度が求められる。
更に、改良、改善、保守に対する不断の努力も。
それは、もの作りだけではなく、役務の提供を生業とするサービス業にも当てはまるかもしれない。
安全を担保する過剰な品質と製品に対する謙虚な態度、安心を与える不断の努力。
作り手(役務の与え手)の心から、使い手(受益者)の心にダイレクトに繋げることができれば、安心はおのずから生じる。
まあ、もっとも、与える方の心が泥塗れでは、話にもなんにもならんけどな・・・。
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