ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)2014年06月18日 17:01

ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)
ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)


帰国の朝、同室のSさんとサクレ・クール寺院に朝の散歩に行く。

といっても、往きは地下鉄利用、かつ、ケーブルカー利用。

朝食を食べて、ブランシェの駅に行く。

地下鉄は直ぐにやってきて、2駅先で降りる。

2度目なので、道を間違える心配はなく、坂を上がってケーブルカーに乗る。

この時間だと、教会下の階段の清掃も終わって、綺麗になっている。

こうでなくっちゃ!。

今日は時間にゆとりがあるので、教会の中に入ってみることにした。

撮影禁止、おしゃべり禁止。

朝の祈りを捧げる人が、数人いるだけの静かな教会だ(画像参照)。

(サクレ・クール寺院)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AF%BA%E9%99%A2

「サクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur) は、フランスおよびフランス語圏に多く存在する教会堂。
「聖なる心臓」(聖心)を意味し、イエス・キリストに捧げ、守護として祀っていることを意味する。」

「モンマルトルのサクレ・クール寺院 (パリ) - パリのモンマルトルの丘にあるバジリカ聖堂。日本では最も良く知られ、単にサクレ・クール寺院と呼ばれた時にはこれを指すことが多い。」

「フランス:
・サクレ・クール寺院 (マルセイユ)
・サクレ・クール寺院 (パレ・ル・モニアル) - 10世紀のロマネスク様式のバジリカ聖堂。
・サクレ・クール寺院 (アルジェ)
・サクレ・クール寺院 (ナンシー)
・サクレ・クール教会 (ジャンティイ) - パリ最南端の国際大学都市に含まれる教会。ジャンティイ市はパリ市14区南端に接する近郊市街。」

「ベルギー:
・サクレ・クール寺院 (ブリュッセル) - ケケルベルクの丘にある聖堂。世界で5番目に大きな教会堂で、サンミッシェル大聖堂と共にブリュッセルを代表する教会堂。
・サクレ・クール教会 (リエージュ)」

まあ、日本でいえば八幡様のようなもんだな(そういう比較かあ?)。

まあいい。

「モンマルトルのサクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre) はフランスのパリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱し、アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。」

比較的、最近の建築になる。

「第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。」

パリの名所は、多かれ少なかれ、政治的な意味合いがある。

地震もなく、火災に強い石造建築は、長く使われ続け、その間に政変を経て時の権力者による利用に供される。

建造物は、歴史を見ているのだ。

いや、歴史そのものだといってもいい。

サクレクールのような新しいものでも、それは同じである。

パリは、そんな建造物で溢れている。

回廊を1周して表に出る。

裏にも回ってみた。

軍服を着た見回りの3人組にカメラを向けると、制止された。

けちっ!。

帰りは階段を降りる。

パリには、さぞかし教会堂が多いだろうと思ってウィキのカテゴリーをみると、9つしかない。

(カテゴリ「パリの教会堂」にあるページ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%A0%82

・サクレ・クール寺院:1914年に完成
・サント・クロチルド聖堂:1857年竣工
・サン=ジェルマン=デ=プレ教会:542年建造:パリに現存する最古の教会
・サン=シュルピス教会:1745年に完成:パリ第2の大きさの教会堂
・サント・シャペル:1248年献堂
・サントトリニテ教会:1867年竣工
・贖罪礼拝堂:1826年完成:マドレーヌ墓地跡地に建設
・ノートルダム大聖堂 (パリ):最終的な竣工は1345年
・マドレーヌ寺院:1842年完成

次回のパリ訪問が何時になるかは分からないが、このうちのいくつかは、訪れてみたい。

贖罪礼拝堂の説明にある、マドレーヌ墓地といえば、マリー・アントワネットが葬られた場所として知られる。

(尊厳を奪われたアントワネットの遺体)
http://xn--u9je9ezesd9jmdrb.qooin.com/article/71075342.html

「女帝マリア・テレジアの娘として、フランス最後の王妃として、気高く命を終えることを自らに課し、最期の瞬間までエレガンス、そして気高さを失うことなく断頭台に散ったアントワネット。しかし・・・その遺体の扱いは、王妃の遺志をあまりにも踏みにじる惨たらしいものだったという。」

「1793年1月21日・・革命広場で処刑されたルイ16世の遺体は、広場から数100メートル離れたマドレーヌ寺院でミサを受けた後に埋葬される予定だった。
しかし、処刑に昴揚した群衆は、それすらも許さなかった。葬列は、予定の変更を余儀なくされ、王の遺体は直接寺院近くのマドレーヌ墓地に運びこまれた。そこは、処刑者を埋葬する共同墓地のような区画だった。
 一方、アントワネットの遺体も同じようにマドレーヌ墓地に運ばれたが、役人達は・・なんと、遺体を草むらに放置したまま昼食にでかけてしまったのだ。両足の間に首を置かれた王妃の遺体が埋葬されたのは、処刑から約2週間後のことだったという。」

「1814年の王政復古の後、ルイ16世夫妻を讃える行事が公式に行われるようになった中で、二人の遺体は改葬されることになった。しかし・・・、遺体は投げ込まれるようにして葬られた為、確実な場所が特定できず、当時の墓堀人夫を呼び出してその場所を探したのだという。」

「掘り出された遺体は、サン・ドニ大聖堂に改葬され、跡地には王弟アルトア伯によって贖罪礼拝堂が建てられた。」

まあ、フランスの共和制の獲得は、王政への革命によって行われ、民衆の血で贖われたわけだが、この間の状況は、それを象徴的に現しているといえよう。

「1815年のルイ16世の22回目の命日にあたる日に、二人の遺体はマドレーヌ墓地からサン・ドニ大聖堂へと改葬され、アントワネットの魂は、ここにようやく永遠の安息を得たというわけですね。」

やれやれ、サン・ドニ大聖堂については、既に触れたが、ノートルダム寺院の奥にある横たわった聖人の話だ。

この聖堂は、王族の殆どが埋葬されている。

(サン=ドニ大聖堂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%89%E3%83%8B%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

「イングランドにおけるウェストミンスター寺院同様、フランス王のほとんどがこのバシリカに埋葬されている」

「ギロチンにかけられたルイ16世、王妃マリー・アントワネット、王妹エリザベートの遺体はサン=ドニには埋葬されなかった。国王夫妻の遺体はマドレーヌ墓地(fr、1794年に墓地は廃止され、王政復古期にルイ16世広場となり、現在は贖罪礼拝堂が建つ)に埋葬され、酸化カルシウムで覆われていた。」

「ナポレオン・ボナパルトが教会を1806年に再開させたが、王の遺体は埋められた穴に残されたままだった。ナポレオンがエルバ島に流されると、王政復古がなされた。ルイ18世は、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を捜すよう命じた。わずかな遺骸、おそらく王のものと思われる骨、女性のガーターベルトを含んだ灰色の物質が1815年1月21日に発見され、サン=ドニに運ばれて地下室(crypt)に埋葬された。1817年には、他のすべての遺体が入った穴が開けられたが、どれが誰の骨かを識別することは不可能だった。それらの遺体はサン=ドニ地下室の納骨堂(ossuary)に置かれ、前に大理石板が2枚置かれ、何代ものフランス王朝の王族の名前が、教会に記録された順に何百人も連ねられている。」

パリの教会堂の話が長くなった。

帰り道は、地下鉄沿いの道を歩いた。

朝の気持ちのいい空気を吸いながら、パリの街に名残を惜しむ。

生活者の町、観光の町、スリの町、ゴミの町、路上のウンコの町、花の町、エッチな店が連なる町、路上駐車の町、物価が高い町、そして、何より、浮沈子にとっては初めてのヨーロッパの町であった。

ルマンのような田舎町とは違う、大都会の喧騒。

文化の大遺産を抱え、今尚、モードを発信し続ける町。

斜陽といわれ続けながらも、新しい風を取り入れ、改革を求め続ける町。

午前10時30分(車のせいで30分遅れ!)チェックアウト。

ピックアップのワゴン車に乗って、シャルル・ド・ゴール空港へと向かう。

高速に乗るまでは、ちょっと渋滞したが、あとはスムーズに進んだ。

空港で、預け入れ荷物のない浮沈子は、自動的に他の方と別れ別れになった。

成田についても、他の方とは会わない。

忘れがたい夜をご一緒したKさん、同室のSさん、Jスポーツを見せていただいたYさんご夫妻、ポルシェファンのYさん、自動車関係のSさん、その他の方々とも、ちゃんとご挨拶をしないで別れ別れになった。

来年も、どなたかとルマンをご一緒するかも知れない。

パリ経由で行くことになるか、ミュンヘンから直接乗り込むことになるか。

ミュンヘンから行くというのはなかなか魅力的だな。

当然、ポルシェの優勝である。

そうでなくてはならない。

機上の空論(パリ帰国編)では、そんなことには殆ど意味が無いと悟ったばかりなのに・・・。

(機上の空論(パリ帰国編))
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/06/17/7346552

成田から東京駅へは、例によって京成バスで900円である。

東京駅に着いた時、ふと、ブリヂストン美術館に寄ってみたくなった。

(ブリヂストン美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%82%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

(クロード・モネ《睡蓮の池》:浮沈子が好きな作品)
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/83/

残念ながら、常設展示ではなくなっていて、現在は観ることができない。

パリの睡蓮は、そこに行って観るから価値があるのだろう。

特に、オランジェリー美術館の睡蓮は、殆ど壁画であり、持ち出すことはできまい。

様々な作品に出会えたことも、今回の旅行の多きな収穫だったし、その機会を与えてくれたパリ滞在型のルマン観戦だった。

ブリヂストン美術館は、いつでも行ける(といいつつ、少なくともこの10年は行っていないな)。

縦長の「睡蓮の池」の展示がいつになるかは、美術館の事務室(03-3563-0241)に問い合わせても、未定ということだった。

まあ、横長の「睡蓮」でも、別にいいんですが。

フランスの睡蓮と、日本の睡蓮、洋の東西を越えて愛される作品を育んだパリから帰って、その作品を観たくなったのは偶然だったのか(たまたま、東京駅に近いだけ!?)。

およそ100年前の新興絵画の潮流が、今尚、人々の心を引き付けるのはなぜなんだろう?。

それよりも、モネが、なぜ200点もの睡蓮を描き続けたんだろう?。

「スイレン属(スイレンぞく、学名:Nymphaea)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。
日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。日本全国の池や沼に広く分布している。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせる事からその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。」

(ヒツジグサ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%82%B5

「日本全国の池や沼に広く分布している。寒さに強く、山地の沼や亜高山帯の高層湿原にも生えている。
日本以外ではシベリア、欧州、中国及び朝鮮半島、インド北部、北アメリカに分布している。」

我が国だけではなく、北半球に広く分布している。

同じ花を見て、美しいと思う心。

庭の池に水を張り、水生植物を浮かべて愛でる感性。

(Nymphaea:英語による睡蓮の解説)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nymphaea

(Nymph:語源となったニンフの解説)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nymph

ひょっとすると、モネは、睡蓮の精であるニンフたちに取り付かれてしまったのかも知れない。

それとも、白内障を患った彼の目には、常人では見ることのできない何かが見えていたのだろうか。

(モネ 絵画作品と所蔵美術館)
http://kininaruart.com/artist/world/monet.html

「モネの『 睡蓮 』等の作品にどういった秘密のキーが埋め込めてあるのか謎なのだが、しばしば - それは若い女性に多いのだが - 熱狂的な信奉者が現れる(しかし、しばらくすると腫れ物が引いたように、すーっと落ち着いてしまうことも多いのだが)。この100年、彼の作品は世界中のいろんなところで強烈なファンをたくさん生んできたのだろう。そして、今後も生まれてくるはずである。」

世界中の美術館に所蔵されている印象派の絵画を、全て観ることは出来ないに違いない。

それは、今後行われる全てのルマンを観戦することに比べれば、可能性があるだけ容易ともいえる。

もちろん、ルマンとインプレッショニズムには、全く何の関係もない。

しかし、浮沈子の中では、今回の旅行を通じて、両者は混然となっている。

次回のルマンの出走まで、すでに361日しかないのだ・・・!。

(この項、終わり)

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