ルマン観戦記(その3:パリの日本人)2014年06月18日 10:33

ルマン観戦記(その3:パリの日本人)
ルマン観戦記(その3:パリの日本人)


2日目のパリ観光については、その一部を既に書いた。

(印象の印象)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/06/14/7343846

マロニエの並木が連なる公園を抜けて、午後の日差し溢れるマルモッタン美術館に通じる道を歩くのは、本当に気持ちが良かった。

公園の中では、生の音楽を演奏していたり、子供たちがシャボンをぬたくり合って遊んでいたりした。

ああ、パリって、観光地じゃなくて人間が住む所なんだとつくづく感じる。

旅行に行くと、いつも思うのだが、どこに行っても、そこは地元の人々にとってはおらが町なのであって、日々の生活が営まれているのだ。

われわれは、常によそ者であり、遠慮がちに(図々しく?)、その生活の一端を盗み見ているに過ぎない。

ベンチに腰掛け、芝生に寝転び、思い思いに寛ぐ人々。

その中で、浮沈子は、一人浮いている。

この国では、東洋人に対して、あからさまな差別を感じることがある。

誰もがそうだとは言わないが、そういう目線があるというのは、実感としてある。

言葉の問題があるのかも知れず、浮沈子の風采が上がらないことを差し引いても、人種差別はあるのだ。

欧州は、日本から遠い地である。

日本もまた、欧州から遠い。

そのパリの街中で、浮沈子は、孤独だった。

この町に、住みたいとは思わなかったが、町の景色に溶け込んでいる人々を見ると、妙に望郷の念に駆られたことも確かだ。

所詮は、異邦人なのである。

しかし、まあ、来ちまったものは仕方ない。

マルモッタンを観た後、ラ・ミュエット駅から地下鉄に乗り、昨日車で走り抜けたコンコルド(広場)に着く。

チュイルリー庭園の一角にあるオランジェリー美術館に向かう。

(テュイルリー宮殿)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%AE%AE%E6%AE%BF

収蔵品は限られているが、モネの睡蓮の壁画(?)を観ずに、パリを離れるわけには行かない。

インプレッショ二ズムおたくとしては、この連作は外せないな。

(オランジュリー美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

「もともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったが、1927年、モネの『睡蓮』の連作を収めるために美術館として整備されたのである。」

そう、この美術館の2つのオーバルルームは、この美術館の存在意義そのものである巨大な睡蓮の連作(1室に4点、計8点)が納められている。

(睡蓮 (モネ))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A1%E8%93%AE_(%E3%83%A2%E3%83%8D)

(オランジェリーのオーバルルームを、クイックタイムで見ることができるページ)
http://www.musee-orangerie.fr/homes/home_id24799_u1l2.htm

まあ、実際に見ると、巨大な壁画に圧倒されて、やや食傷気味になる。

げっぷが出るほど、睡蓮漬けになること請け合いだ。

浮沈子が好きなのは、ブリヂストン美術館のヤツだな。

あれはいい。

今回も、モネの睡蓮は何点か観たが、ブリヂストンを超えるものはなかったように思う。

(クロード・モネ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D

「『睡蓮』の連作:
「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作したが、もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。」

「晩年はモネが白内障を患い、失明寸前の状態にあったこともあり、画面は限りなく抽象に近付いている。」

「1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。」

「パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、(2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。」

なお、この記事には、マルモッタンの印象・日の出が、実は夕日だという記述もある。

「1873年12月には、仲間の画家ピサロ、シスレー、ルノワールらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。1874年4月 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこの「匿名協会」の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる、歴史的展覧会である。この第1回展にモネは油絵5点、パステル7点を出品。出品作のうち、『印象・日の出』(1873年)は、「印象派」という名称の由来となったことでよく知られている。なお、一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の絵が、この時の出品作だとされているが、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、第1回印象派展に出品された『印象、日の出』とは別の作品だとする見方もある。」

まあ、どうでもいいんですが。

浮沈子は、モネがなぜあんなどでかい絵を描いていたのかを不思議に思っていたが、白内障との関連であったとは知らなかったな。

白内障を患っていたことは知っていたが、そのせいで画格が大きくなっていたということは初めて知った。

印象派の絵画は、世界中の美術館にある。

(印象派)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

「印象派の登場当初は、貴族や富豪らのパトロンを持たぬ画家の作品ということもあり、画壇での注目は低かったが、絵画市場や投機家によるもっぱら、経済絵画として扱われ始め、その後、世界の画壇を席捲するようにしている。」

やっぱ、金かあ・・・。

描写技術を確立した写実主義から、屋外絵画としてのバルビゾン派、その即興性の技術が、写真の発明、普及と呼応して、伝統的な絵画に飽き足らない需要を掘り起こし、ジャポニズムの刺激を受けて、印象派の台頭を見るに至るんだそうだ。

ホントかあ?。

まあいい。

「第1回印象派展の開催:
1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが私的に開催した展示会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになる。当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派の名前はこのときモネが発表した『印象、日の出(Impression, soleil levant)』から、新聞記者が「なるほど印象的にヘタクソだ」と揶揄してつけたものである。」

改革の時期は、辛いものがあるなあ。

「印象派絵画の技法:
印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。」

こういった絵画を成立させるに至る過程で、ジャポニズムが果たした役割が大きいという。

「日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えた。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなった。」

まあ、そういう解釈もあるだろう。

浮沈子は、印象派の台頭は、写真の発明、普及の影響と、屋外での絵画の作成という技術的な問題の方が大きいと感じている。

つまり、写実主義では食っていけなくなったわけだな。

明るいパステル調の絵が好まれ、家の中に屋外の風景を飾るという商業的な需要があればこそ、印象派の絵画が売れたわけだ。

絵画が、ステータスシンボルから、大衆に近づいていったということも出来るかも知れない。

特定のパトロンを持たずに出発していることも、その証のような気がする。

ルノワール、ゴッホ、モネなど、日本で人気の画家は、概ね印象派に連なる。

さて、孤独なパリの日本人である浮沈子は、18時に閉館となるオランジェリー美術館を追い出されるようにして、コンコルド広場に戻る。

夕日はまだ高く、人々は午後の日差しを楽しんでいる。

これから向かうのは、凱旋門である。

コンコルド広場の北東にあるメトロの入り口を見つけて、1号線でシャルル・ド・ゴール・エトワールに向かう。

1号線は、2号線と同じで全自動ドアだった。

で、駅から凱旋門に行くには、一旦地上に出て、ロータリーを渡る地下道入り口を探さなければならない。

適当に地上に出ても、横断歩道で放射状に伸びる街区に渡れるので、問題ない。

(エトワール凱旋門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%87%B1%E6%97%8B%E9%96%80

浮沈子が行った時には、なんかの式典が行われていた。

螺旋階段を登るチケットは、地下道から地上に上がる階段のところで売っている。

10ユーロくらいだったかな。

そんでもって、螺旋階段の入り口でもぎりしてもらって、必死になって登るわけだ。

もう、昨日から歩き詰めで、足は痛いし、くたびれてるし、踊り場はないし(上のほうに行くと、扉のところでちょっと休むことが出来る)、しかし、根性出して一気に上った。

上には、2層の広い部屋があって、さらに階段を登ってようやく屋上に出る。

パリの街が一望の下に広がる。

苦労しても、登る価値は十分にある。

30分ほど、パノラマを堪能して、下りの階段を降りたところで下から見上げて写真を撮った(画像参照)。

さて、これで本日の予定は全て終了した。

晩飯をどこかで食べようと、杉山さんに教わったオペラ座近くのラーメン屋を目指すことにする。

またまた地下鉄に乗ると、車内でミッシェル(ビートルズ)をギターで歌っている2人組みがいた。

歌はうまかったが、うるさくて適わなかったので、途中駅で降りて、2本後の列車に乗ったが、こっちもカラオケで女性が歌っていた。

諦めて、ヴィリエ駅までガマンする。

オペラ座から少し歩いて、横道を覗くと、「サツポロラーメン」(ツが大文字)と書いたのぼりが出ていたので、速攻で店に入る。

(ここです!:グーグルマップのストリートビューで見られます)
https://www.google.co.jp/maps/@48.869185,2.332428,3a,75y,5.08h,89.26t/data=!3m4!1e1!3m2!1sz6RgZppUG23-A-1pR1taiw!2e0?hl=ja

なんと、中国語がバンバン飛び交っている(いやな予感はしたんだよなあ)。

店の壁に掛かってるメニューは、縦書きの日本語だけ。

まあ、仕方ない。

米の飯が食いたくなって、セットメニューのカツ丼を頼む。

13.5ユーロ。

たっけえなあ。

まあ、仕方ない。

生野菜のサラダ、餃子3個、おしんこ、味噌汁付きである。

餃子って、なんなのさ!。

まあ、仕方ない。

生野菜のサラダは美味しかったな。

肝心のカツ丼の味はサイテー。

量は十分だったので、浮沈子的には一応満足した。

やれやれ、ようやく今日の予定は終了である。

ヴィリエで2号線に乗り換え、ブランシェ(ホテルの最寄り駅、ムーランルージュのまん前)で降りる。

時刻は、8時過ぎであった。

シャワーを浴びてさっぱりしてから、ブログを書いていると、睡魔が襲ってきて寝てしまった。

パリの日本人は、疲れるのである・・・。

(この項、続く)

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