安全神話 ― 2014年06月29日 08:16
安全神話
ダイバー向け安全セミナーに参加して、感じたことを正直に書く。
ぱらぱらと見た、PADIのオープン・ウォーター・ダイバー・コースのテキストは、必要にして十分な情報が記載されている。
もちろん、インストラクターのマニュアルには、さらに詳しい情報があって、ダイバーになる人は、自分のペースで、マスタリーする(身体で覚える)まで、じっくりと教わることが出来るはずだ。
2日間とかじゃなくって・・・。
浮沈子は、別の指導団体のプログラムでCカードを取ったが、PADIのコースを受けるとしたら、そして、自分自身が納得するまで練習できるとしたら、たぶん、1年とか、それ以上掛かるかもしれない。
もちろん、教育課程というのは、学習の仕方を教えることで、本人が完璧にできることを保障しなくてもいいんだと考える人がいるかもしれないが、PADIは、そんなことはいっていない。
身体で覚えなければ、つまり、何時いかなる時も、安定してそのスキルを行うことができなければ、認定してはいけないといっている。
ビギナーが習得を要求される水中における様々なスキルは、殆どがサバイバルスキルだ。
安全を確保するための、最も基本的なスキルである。
マスクリカバリーや、レギュレーターリカバリーなどはもとより、中性浮力や適正なトリムだって、いってみれば安全にダイビングを行うという観点からは、欠かせないスキルだ。
浮沈子は、ダイビングを始めて7年以上経っても、マスタリーとは程遠いところを漂っている・・・。
セルフダイビングなどは、もちろん、イントラに課題として出されて、セブで行ったことはある(CCRの認定の時)が、ものの見事に失敗して、見たこともない場所に行ってしまった!(もちろん、2度目ではなんとか成功して、認定はしてもらえましたが)。
潜水計画を立てて、バディと2人きりでダイビングの開始から、エキジットまでこなしてこい!、などと言われたら、茫然自失、立ち往生間違いなし!。
すいません、Cカード返してください、といわれても仕方ない。
さすがに、何度も潜っているところなら、そして、透視度が良ければなんとかなるが、初めてのポイントではどうしようもない。
そのためのガイドなわけだが、残圧の管理とか、その他安全管理は自分達でやってくれ、オレはガイドだから、ガイド業に専念して、そんなとこまで手が回らないから、といわれれば(本来、それでいいと思うんだが)、実際は不安になってしまうだろう。
「今日のダイビングで、何を見てきましたか?」
「ガイドのフィン・・・」
ログ付けで、そう書くわけにもいくまい?。
マンツーマンが、最も理想的な教育方法かといわれれば、必ずしもそうではないだろうと思う。
他人が苦労しているのを見たりするのも、重要なプロセスだ。
しかし、まあ、2人までだな。
講習中の安全管理に、限界がある。
ビギナーの講習中だから、管理責任があるわけで、何かが起こった時には一人をほっぽりだして、トラぶった方をなんとかしなければならない。
浮沈子は、ほっぽりだされた方にはなりたくないな。
もちろん、トラぶった方には、もっとなりたくないが。
やっぱ、マンツーマンか、2人以上なら、少なくとも安全管理上の補助者が必要だろう。
教えながら、複数の生徒の安全管理なんて、絶対不可能である。
今回のセミナーには、インストラクターが半分近くいたようだった。
浮沈子のグループ6名は、インストラクター1名、ビギナー2名、ベテラン1名(ステータス不明)、キャリア不明1名、そして浮沈子(レスキュー(される?)ダイバー)だった。
グループ討議は、ビギナーにとっては本当に有意義な経験になっただろう。
普段から、こういうディスカッションの機会を定期的に持って、安全管理やスキルの向上に熱心なショップに通っていれば、たとえガイドのフィンしか見ていなくても、ダイビングの安全性は向上するに違いない。
むろん、スキルが向上しなければ、現場では役には立たない。
ディスカッションでは、食い物ネタしか言わず、講師には頓珍漢な質問をして、場の空気を凍らせるしか能のなかった浮沈子にしても、極めて有意義なセミナーであったことに、違いはない。
村上講師を初めとして、PADIの本部や参加したインストラクター、多くの受講者が、ダイビングの安全について熱心に考えているということは良く分かった。
しかし、安全なダイビングなどというものはないという、浮沈子の考えは変わらない。
そんなものは、神話に過ぎない。
少し危険か、非常に危険か、メチャクチャ危険なダイビングしかないのだ。
本来、人間が生息することの出来ない水中という環境で、如何にしてリスクを避けるか。
そのための、不断の努力しかないのだ。
行い得るあらゆる手段を講じて、それでも避けられない危険は存在する。
しかし、それは本当に避けられない危険なのか、何か方法があるのではないか、どうやったら少しでもリスクを下げることが出来るのか、器材は?、教育は?、運用は?・・・。
「安全」などという言葉は、ダイビングで使ってはいけないのかもしれない。
安全停止は、減圧リスク低減停止に過ぎない(本当に、低減しているかはビミョー?)。
ダイバーになると決めた時、安全という貴いものは、遠い遠い存在になり、彼方へと去ってしまった。
その代わり、危険、リスク、事故、傷害、疾病、後遺症、死亡、溺水など、様々な「悪魔」がやってきて、友達になろうと囁いている。
それは、時に魅力的な姿を装う。
美しい魚、サンゴ、深いブルーの海、楽ちんなドリフトダイビング、便利なボートダイビング、2日間で取れるCカード、面倒くさいバディシステムなんて意識しなくてもいい金魚のフン的ダイビング、CCRなどという新しい器材(???)・・・。
まあいい。
安全などという商品は、どこにも売っていない。
金で買うことなど出来ないのだ。
ダイバー自らが、それを追い求め、探しまくり、教えを請い、知識を高め、スキルを磨き、延々と絶え間なく努力し、しかし、結局、どこかで妥協して、死の危険を承知で、覚悟を決めて潜るしかないのだ。
控えめなダイビングの勧めというのは、たぶん、そういうことが根底にあるのだろう。
死ぬかもしれない、重大な障害を負って、二度とダイビングが出来ない身体になるかもしれない、ダイビングどころか、日常生活すら満足に送ることが出来なくなるかもしれない、家族、友人、職場の同僚など、自分の今までの人生に関わりがある全ての人たちに、計り知れない苦痛、負担、損害、喪失感を与えることになるかもしれない・・・。
まあ、自殺念慮があるとかは別にして、無謀なダイビングなんて、出来ようハズがないのだ。
これで潜ってもいいのか、このダイビングは自分にとって妥協できる範囲内なのか、覚悟はできているのか、万が一の時のための準備(遺書、ダイバー保険、DANのカード、部屋を出るときに電気は消したか、干したパンツはちゃんと取り込んできたか、その他諸々)は出来ているか。
ダイビングをするということは、パンドラの箱を開けることだ。
あらゆる悪魔、妖怪、化け物、魑魅魍魎が飛び出した後、箱の底に残った、小さくふるえている存在が、もしも「希望」だったとすれば、我々は何としてもそれを探し出さなければならない(本当は、「希望」ではなく、悲劇的な未来を知り得ないという意味の「無知」らしい・・・)。
そのことだけが、危険に満ちた、ダイビングという神に背く行為を行うことへの、唯一の贖いなのだ。
安全セミナーから帰ってきて、そんなことを考えた。
ダイバー向け安全セミナーに参加して、感じたことを正直に書く。
ぱらぱらと見た、PADIのオープン・ウォーター・ダイバー・コースのテキストは、必要にして十分な情報が記載されている。
もちろん、インストラクターのマニュアルには、さらに詳しい情報があって、ダイバーになる人は、自分のペースで、マスタリーする(身体で覚える)まで、じっくりと教わることが出来るはずだ。
2日間とかじゃなくって・・・。
浮沈子は、別の指導団体のプログラムでCカードを取ったが、PADIのコースを受けるとしたら、そして、自分自身が納得するまで練習できるとしたら、たぶん、1年とか、それ以上掛かるかもしれない。
もちろん、教育課程というのは、学習の仕方を教えることで、本人が完璧にできることを保障しなくてもいいんだと考える人がいるかもしれないが、PADIは、そんなことはいっていない。
身体で覚えなければ、つまり、何時いかなる時も、安定してそのスキルを行うことができなければ、認定してはいけないといっている。
ビギナーが習得を要求される水中における様々なスキルは、殆どがサバイバルスキルだ。
安全を確保するための、最も基本的なスキルである。
マスクリカバリーや、レギュレーターリカバリーなどはもとより、中性浮力や適正なトリムだって、いってみれば安全にダイビングを行うという観点からは、欠かせないスキルだ。
浮沈子は、ダイビングを始めて7年以上経っても、マスタリーとは程遠いところを漂っている・・・。
セルフダイビングなどは、もちろん、イントラに課題として出されて、セブで行ったことはある(CCRの認定の時)が、ものの見事に失敗して、見たこともない場所に行ってしまった!(もちろん、2度目ではなんとか成功して、認定はしてもらえましたが)。
潜水計画を立てて、バディと2人きりでダイビングの開始から、エキジットまでこなしてこい!、などと言われたら、茫然自失、立ち往生間違いなし!。
すいません、Cカード返してください、といわれても仕方ない。
さすがに、何度も潜っているところなら、そして、透視度が良ければなんとかなるが、初めてのポイントではどうしようもない。
そのためのガイドなわけだが、残圧の管理とか、その他安全管理は自分達でやってくれ、オレはガイドだから、ガイド業に専念して、そんなとこまで手が回らないから、といわれれば(本来、それでいいと思うんだが)、実際は不安になってしまうだろう。
「今日のダイビングで、何を見てきましたか?」
「ガイドのフィン・・・」
ログ付けで、そう書くわけにもいくまい?。
マンツーマンが、最も理想的な教育方法かといわれれば、必ずしもそうではないだろうと思う。
他人が苦労しているのを見たりするのも、重要なプロセスだ。
しかし、まあ、2人までだな。
講習中の安全管理に、限界がある。
ビギナーの講習中だから、管理責任があるわけで、何かが起こった時には一人をほっぽりだして、トラぶった方をなんとかしなければならない。
浮沈子は、ほっぽりだされた方にはなりたくないな。
もちろん、トラぶった方には、もっとなりたくないが。
やっぱ、マンツーマンか、2人以上なら、少なくとも安全管理上の補助者が必要だろう。
教えながら、複数の生徒の安全管理なんて、絶対不可能である。
今回のセミナーには、インストラクターが半分近くいたようだった。
浮沈子のグループ6名は、インストラクター1名、ビギナー2名、ベテラン1名(ステータス不明)、キャリア不明1名、そして浮沈子(レスキュー(される?)ダイバー)だった。
グループ討議は、ビギナーにとっては本当に有意義な経験になっただろう。
普段から、こういうディスカッションの機会を定期的に持って、安全管理やスキルの向上に熱心なショップに通っていれば、たとえガイドのフィンしか見ていなくても、ダイビングの安全性は向上するに違いない。
むろん、スキルが向上しなければ、現場では役には立たない。
ディスカッションでは、食い物ネタしか言わず、講師には頓珍漢な質問をして、場の空気を凍らせるしか能のなかった浮沈子にしても、極めて有意義なセミナーであったことに、違いはない。
村上講師を初めとして、PADIの本部や参加したインストラクター、多くの受講者が、ダイビングの安全について熱心に考えているということは良く分かった。
しかし、安全なダイビングなどというものはないという、浮沈子の考えは変わらない。
そんなものは、神話に過ぎない。
少し危険か、非常に危険か、メチャクチャ危険なダイビングしかないのだ。
本来、人間が生息することの出来ない水中という環境で、如何にしてリスクを避けるか。
そのための、不断の努力しかないのだ。
行い得るあらゆる手段を講じて、それでも避けられない危険は存在する。
しかし、それは本当に避けられない危険なのか、何か方法があるのではないか、どうやったら少しでもリスクを下げることが出来るのか、器材は?、教育は?、運用は?・・・。
「安全」などという言葉は、ダイビングで使ってはいけないのかもしれない。
安全停止は、減圧リスク低減停止に過ぎない(本当に、低減しているかはビミョー?)。
ダイバーになると決めた時、安全という貴いものは、遠い遠い存在になり、彼方へと去ってしまった。
その代わり、危険、リスク、事故、傷害、疾病、後遺症、死亡、溺水など、様々な「悪魔」がやってきて、友達になろうと囁いている。
それは、時に魅力的な姿を装う。
美しい魚、サンゴ、深いブルーの海、楽ちんなドリフトダイビング、便利なボートダイビング、2日間で取れるCカード、面倒くさいバディシステムなんて意識しなくてもいい金魚のフン的ダイビング、CCRなどという新しい器材(???)・・・。
まあいい。
安全などという商品は、どこにも売っていない。
金で買うことなど出来ないのだ。
ダイバー自らが、それを追い求め、探しまくり、教えを請い、知識を高め、スキルを磨き、延々と絶え間なく努力し、しかし、結局、どこかで妥協して、死の危険を承知で、覚悟を決めて潜るしかないのだ。
控えめなダイビングの勧めというのは、たぶん、そういうことが根底にあるのだろう。
死ぬかもしれない、重大な障害を負って、二度とダイビングが出来ない身体になるかもしれない、ダイビングどころか、日常生活すら満足に送ることが出来なくなるかもしれない、家族、友人、職場の同僚など、自分の今までの人生に関わりがある全ての人たちに、計り知れない苦痛、負担、損害、喪失感を与えることになるかもしれない・・・。
まあ、自殺念慮があるとかは別にして、無謀なダイビングなんて、出来ようハズがないのだ。
これで潜ってもいいのか、このダイビングは自分にとって妥協できる範囲内なのか、覚悟はできているのか、万が一の時のための準備(遺書、ダイバー保険、DANのカード、部屋を出るときに電気は消したか、干したパンツはちゃんと取り込んできたか、その他諸々)は出来ているか。
ダイビングをするということは、パンドラの箱を開けることだ。
あらゆる悪魔、妖怪、化け物、魑魅魍魎が飛び出した後、箱の底に残った、小さくふるえている存在が、もしも「希望」だったとすれば、我々は何としてもそれを探し出さなければならない(本当は、「希望」ではなく、悲劇的な未来を知り得ないという意味の「無知」らしい・・・)。
そのことだけが、危険に満ちた、ダイビングという神に背く行為を行うことへの、唯一の贖いなのだ。
安全セミナーから帰ってきて、そんなことを考えた。
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