😼季節の移ろい:「花散らし」の雨:清明の頃 ― 2025年04月14日 07:48
季節の移ろい:「花散らし」の雨:清明の頃
(花散らしの雨…とはいわない?)
https://karadanomanabiya.com/blog/1245/
「【花散らし】:
桜の季節に若い男女が野外へ出かけ、花見を理由に宴会すること」
「花びらを散らす雨のことを正しくは
【桜流し】」
「【桜の花】を使った粋な表現:
・桜吹雪・・・桜の花びらが乱れ散るさま
・零れ桜・・・散る桜
・花嵐・・・・桜の花が風のように散ること
・桜雨・・・・桜の花が咲くころの雨
・花時雨(はなしぐれ)・・・・桜の花が咲くころの冷たい雨
・花の雫・・・花から滴り落ちる雫
・花筏(いかだ)・・・散った花びらが水面に浮かんで漂う様子
・花莚(はなむしろ)・・・花の散り敷いたさま
・花冷え・・・桜が咲く頃に冷え込むこと
・花曇り・・・桜の咲く頃、空が薄曇りであること
・花あかり・・・群れ咲く桜の花のために、夜でも灯りをともしたように明るく見えるころ」
この歳になっても、新しいことに出会えるのが嬉しい。
浮沈子は、ずーっと「花散らしの雨」だとばかり思っていたけどな。
昨日は、その「桜流し」の雨が降り続いていた。
今朝になってようやく止んだ。
やれやれ・・・。
ウインドウズPCからのペレグリンのファームウェアアップデートが相変わらずできない。
接続は出来るんだが、更新しようとすると落ちる(ブルートゥースの接続自体が切れて、アップデートが失敗する)。
原因不明だ。
アンドロイドにシェアウォータークラウドアプリを入れて、そっちからは更新できたので実用上の問題はないけど、何となくスッキリしない。
また、初代ペトレルは、アンドロイドからの更新も出来なかった(別のエラーメッセージが出ました)。
初代ペトレルのファームウェアアップデートは止まっているし、日本語化も終わっているので問題はないけど、英語に戻したいとかいう時は困る。
実用上の問題はないので、このまま使い続けることにするけど、いつか正面から取り組むことになるだろうな。
まあいい。
大分過ぎてしまったけど、季節は春になった。
(清明)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%98%8E
「現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ」
「期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。」
「『こよみ便覧』には三月節に「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と記されている」
清浄明潔か・・・。
「「清浄明潔(しょうじょうめいけつ)」は、清らかで明るく、生き生きとした様子を意味する言葉です。二十四節気の「清明(せいめい)」の語源として使われています。」(グーグルの「AIによる概要」より)
(明潔(読み)めいけつ)
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%BD%94-2086918
「〘 名詞 〙 明白なこと。紛れのないこと。また、まがった気持がないこと。」
世俗に塗れ、混沌とした気分の浮沈子とは無縁だ(根性、曲がってるしな・・・)。
その清浄明潔さを尊び、季節の名称として「清明」と名付けたということはだな、人間がそれだけ汚れまくっているということの現れなのかもしれない。
そうでなければ生き延びていけないのが現実なわけだ。
この歳になると、その穢れに塗れ混とんとしたことも、また尊いと知るようになる。
のたうちまわり、はいつくばってでも、何としても生き続けようとすることの美しさに気付く。
そこに光を当て、見つめ続けることが大切だ。
春に、光が当てられることは当然だ。
それが、自然の理(ことわり)でもある。
清明の時期に、いろいろ考えさせられる。
「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」
(第137段 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure137.htm
「桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。」
「不完全の美「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」が主題。」
人生もまた同じだ。
完全な人生などはない。
思い残したこと、やり残したこと、行きそびれた場所、会おうとして会えなかった人、ありとあらゆる不完全さこそが人生の本質であり、どれだけのことを成し遂げたかなどというのは、むしろ儚いことなのではないか。
その絶望的な感慨を深める先に、超越的な存在を求める宗教心が起こったりするんだろう。
(「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の意味)
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html
「「善人でさえ往生できる。ましてや悪人なら尚更だ」という普通の考え方とは真逆の言葉なため、一度聞いたらなかなか忘れられない言葉です。」
「親鸞聖人がお亡くなりになった後、親鸞聖人が教えられなかったことを、親鸞聖人が教えられたと言いふらす者が現れ、それを歎いて正されたものです。ですから、「異なるを歎く」という歎異抄の名前からいえば、11章から18章がその部分にあたります。」
「歎異抄」が、そういう意味とは知らなかったな・・・。
このブログによれば、「阿弥陀如来の本願力」ってのを理解しておかないとダメらしい。
(「他力本願」の誤解と本当の意味|「他人まかせ」は正しい意味か)
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/201104329.html
「すべての人を本当の幸せにしたいと願われる、阿弥陀如来の本願の力とはどんなお力でしょうか。」
「どんなに大好きな料理であっても、病気にかかっていてはおいしく食べることはできません。」
「反対に健康で空腹であれば、どんな食事でもおいしく食べられます。
どんなに物やお金に恵まれても心は無明の闇という暗い心で、心が病気にかかっているから、心から満足することができないのです。」
うーん、どんなに体調が悪い時でも食欲だけは旺盛な浮沈子には、「無明の闇」は無縁ということか(そういう意味かあ?)。
「破闇満願」(はあんまんがん)とは、健康で空腹なことと見つけたりだな(そんなあ!)。
動物である人間は、他の生物の命を頂くことでしか生きられない。
浮沈子はよく冗談で、「釣りはしないが魚は食う」という話をする。
仏教徒だからな(たとえです)。
その心は、「殺生はしないが供養はする」。
まあ、どうでもいいんですが。
阿弥陀如来(仏の中の仏:仏の王)に頼らなくても、美味しくいただき「衆生の志願を満てたまう」ことは出来る気がする。
私たち一人一人の中に、仏さまがおられるのだ(みほとけに念われていることを知る)。
阿弥陀如来は遍在する。
こういうのはキリスト教なんかでも同じ発想があるからな。
(ユビキタス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%93%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%B9
「至高の存在が遍在するという点について、宗教体系によって考え方は異なる。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教では、神と宇宙は別のものだが、神はどこにでも存在している。汎神論的な信念においては、神と宇宙は同一である。万有内在神論的な信念では、神は宇宙に浸透しているが、時間と空間において宇宙を超えている。」
最近では、コンピューターの世界でも使われている。
「・・・コンピュータやネットワークなどの遍在をあらわす意味合いで用いた。以来、ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワーク、更にはそれらが当たり前になった社会を指す「ユビキタス社会」などの意味で用いられるようになった。」
でもなあ、浮沈子のパソコンでは、ペレグリンのアップデートが出来ないしなあ・・・。
こういう時こそ、ユビキタスに解決してもらいたいんだがな。
念仏しても、たぶんムリポだろうな・・・。
(花散らしの雨…とはいわない?)
https://karadanomanabiya.com/blog/1245/
「【花散らし】:
桜の季節に若い男女が野外へ出かけ、花見を理由に宴会すること」
「花びらを散らす雨のことを正しくは
【桜流し】」
「【桜の花】を使った粋な表現:
・桜吹雪・・・桜の花びらが乱れ散るさま
・零れ桜・・・散る桜
・花嵐・・・・桜の花が風のように散ること
・桜雨・・・・桜の花が咲くころの雨
・花時雨(はなしぐれ)・・・・桜の花が咲くころの冷たい雨
・花の雫・・・花から滴り落ちる雫
・花筏(いかだ)・・・散った花びらが水面に浮かんで漂う様子
・花莚(はなむしろ)・・・花の散り敷いたさま
・花冷え・・・桜が咲く頃に冷え込むこと
・花曇り・・・桜の咲く頃、空が薄曇りであること
・花あかり・・・群れ咲く桜の花のために、夜でも灯りをともしたように明るく見えるころ」
この歳になっても、新しいことに出会えるのが嬉しい。
浮沈子は、ずーっと「花散らしの雨」だとばかり思っていたけどな。
昨日は、その「桜流し」の雨が降り続いていた。
今朝になってようやく止んだ。
やれやれ・・・。
ウインドウズPCからのペレグリンのファームウェアアップデートが相変わらずできない。
接続は出来るんだが、更新しようとすると落ちる(ブルートゥースの接続自体が切れて、アップデートが失敗する)。
原因不明だ。
アンドロイドにシェアウォータークラウドアプリを入れて、そっちからは更新できたので実用上の問題はないけど、何となくスッキリしない。
また、初代ペトレルは、アンドロイドからの更新も出来なかった(別のエラーメッセージが出ました)。
初代ペトレルのファームウェアアップデートは止まっているし、日本語化も終わっているので問題はないけど、英語に戻したいとかいう時は困る。
実用上の問題はないので、このまま使い続けることにするけど、いつか正面から取り組むことになるだろうな。
まあいい。
大分過ぎてしまったけど、季節は春になった。
(清明)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%98%8E
「現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで4月5日ごろ」
「期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。」
「『こよみ便覧』には三月節に「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」と記されている」
清浄明潔か・・・。
「「清浄明潔(しょうじょうめいけつ)」は、清らかで明るく、生き生きとした様子を意味する言葉です。二十四節気の「清明(せいめい)」の語源として使われています。」(グーグルの「AIによる概要」より)
(明潔(読み)めいけつ)
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%BD%94-2086918
「〘 名詞 〙 明白なこと。紛れのないこと。また、まがった気持がないこと。」
世俗に塗れ、混沌とした気分の浮沈子とは無縁だ(根性、曲がってるしな・・・)。
その清浄明潔さを尊び、季節の名称として「清明」と名付けたということはだな、人間がそれだけ汚れまくっているということの現れなのかもしれない。
そうでなければ生き延びていけないのが現実なわけだ。
この歳になると、その穢れに塗れ混とんとしたことも、また尊いと知るようになる。
のたうちまわり、はいつくばってでも、何としても生き続けようとすることの美しさに気付く。
そこに光を当て、見つめ続けることが大切だ。
春に、光が当てられることは当然だ。
それが、自然の理(ことわり)でもある。
清明の時期に、いろいろ考えさせられる。
「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」
(第137段 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure137.htm
「桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。」
「不完全の美「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」が主題。」
人生もまた同じだ。
完全な人生などはない。
思い残したこと、やり残したこと、行きそびれた場所、会おうとして会えなかった人、ありとあらゆる不完全さこそが人生の本質であり、どれだけのことを成し遂げたかなどというのは、むしろ儚いことなのではないか。
その絶望的な感慨を深める先に、超越的な存在を求める宗教心が起こったりするんだろう。
(「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の意味)
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html
「「善人でさえ往生できる。ましてや悪人なら尚更だ」という普通の考え方とは真逆の言葉なため、一度聞いたらなかなか忘れられない言葉です。」
「親鸞聖人がお亡くなりになった後、親鸞聖人が教えられなかったことを、親鸞聖人が教えられたと言いふらす者が現れ、それを歎いて正されたものです。ですから、「異なるを歎く」という歎異抄の名前からいえば、11章から18章がその部分にあたります。」
「歎異抄」が、そういう意味とは知らなかったな・・・。
このブログによれば、「阿弥陀如来の本願力」ってのを理解しておかないとダメらしい。
(「他力本願」の誤解と本当の意味|「他人まかせ」は正しい意味か)
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/201104329.html
「すべての人を本当の幸せにしたいと願われる、阿弥陀如来の本願の力とはどんなお力でしょうか。」
「どんなに大好きな料理であっても、病気にかかっていてはおいしく食べることはできません。」
「反対に健康で空腹であれば、どんな食事でもおいしく食べられます。
どんなに物やお金に恵まれても心は無明の闇という暗い心で、心が病気にかかっているから、心から満足することができないのです。」
うーん、どんなに体調が悪い時でも食欲だけは旺盛な浮沈子には、「無明の闇」は無縁ということか(そういう意味かあ?)。
「破闇満願」(はあんまんがん)とは、健康で空腹なことと見つけたりだな(そんなあ!)。
動物である人間は、他の生物の命を頂くことでしか生きられない。
浮沈子はよく冗談で、「釣りはしないが魚は食う」という話をする。
仏教徒だからな(たとえです)。
その心は、「殺生はしないが供養はする」。
まあ、どうでもいいんですが。
阿弥陀如来(仏の中の仏:仏の王)に頼らなくても、美味しくいただき「衆生の志願を満てたまう」ことは出来る気がする。
私たち一人一人の中に、仏さまがおられるのだ(みほとけに念われていることを知る)。
阿弥陀如来は遍在する。
こういうのはキリスト教なんかでも同じ発想があるからな。
(ユビキタス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%93%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%B9
「至高の存在が遍在するという点について、宗教体系によって考え方は異なる。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教では、神と宇宙は別のものだが、神はどこにでも存在している。汎神論的な信念においては、神と宇宙は同一である。万有内在神論的な信念では、神は宇宙に浸透しているが、時間と空間において宇宙を超えている。」
最近では、コンピューターの世界でも使われている。
「・・・コンピュータやネットワークなどの遍在をあらわす意味合いで用いた。以来、ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワーク、更にはそれらが当たり前になった社会を指す「ユビキタス社会」などの意味で用いられるようになった。」
でもなあ、浮沈子のパソコンでは、ペレグリンのアップデートが出来ないしなあ・・・。
こういう時こそ、ユビキタスに解決してもらいたいんだがな。
念仏しても、たぶんムリポだろうな・・・。
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