一人で歩く秋葉原 ― 2016年05月16日 00:07
一人で歩く秋葉原
既に、チラッと書いたが、今日は秋葉原に出かけた。
たいがいは愚弟と行くが、久々に一人で歩く。
長居するつもりはなく、何時もめぐる辺りを、ちょろっと見て回る。
連休に来ていることもあって、あまり様子は変わっていない。
ボーナス商戦に向けての模様替えは、これからなんだろうな。
日曜の午後の遅い時間に歩き回ったので、それ程混んではいなかった。
ホコ天もガラガラ(画像参照)。
怪しげな買い物(シックスパックトレーナー)をしてしまって、やや興奮気味で帰ってきた。
浮沈子は、健康グッズとかには、今まで全く興味がわかなかったし、歩数計を買っても、3日と持たずに外してしまっていた。
ダイビングの器材は、丸ごと健康グッズかも知れないし、そういう意味では広義の健康機器に興味がないわけではない。
それでも、わざわざ、そのために何か特定のものをあつらえるというのは、何となく恥ずかしいというか、照れるというか、そういう心理が働いていた。
ダイビングをきっかけにして、健康管理に興味が出てきて、3段腹を何とかしようとか、体脂肪率を改善しようなどと、いままで考えたこともなかったようなことを考えるようになった。
今日の衝動買いにしたって、連休の時から売ってたのかもしれないが、その時には気付かなかったろう。
この1週間で、プチリバウンドを期に、危機意識が芽生えて、様々な情報に一気にアクセスし出した。
今のところ、秋葉原の街を普通に歩く限り、VR元年と言われながら、それについてのディスプレイを見かけることは少ない。
コアな人々の間で盛り上がっているだけだ。
マジョリティには、達していない。
秋のPSVR以降だろうな。
そういう、雰囲気というか、空気みたいなものを感じながら歩く。
ホコ天の日というのは、普段はアキバ通いをしないお客さんが来る日だ。
通は、平日来る。
雨の日なら、なおいい。
裏道の、濃い感じの店に行って、棚の品物を穴のあくほど見る。
ルーチンで回る店だけではなく、普段は入らないような店に行って、しっかりと比較したり、出物がないかを探したりできる。
買うかどうかは別にして、そういう普段からの調査が、何か欲しいものが出来た時の力になる。
何事も同じだ。
ネットで全てが分かるわけじゃない。
現場に出て、しかも、頻繁に出て、生の情報を仕入れ、それを消化していく。
神田のお店(EX-Scuba)で、テクニカルダイビングについて、同じような話を聞いたことを思い出す。
第一線で潜っていなければ、日進月歩の世界では、あっという間に過去の人になる。
ネットに上がった頃には、すでに過去の話になっていたりもするのだ。
浮沈子のように、ネット情報の二次配布がメインだったりすると、その古くなった情報を、再配布していたりするのだ。
気をつけよう。
秋葉原には、30年以上通っている。
殆どの店が入れ替わり、続いている店も昔ながらのところは限られている。
もちろん、店員は、何代も変わっている。
電気部品から家電になり、パソコンが普及して、今やオタクのメッカだ。
しかし、それでも、電気部品の店は残っているし、たぶん、世界で一番豊富な品ぞろえの街だろう。
トランジスタからダイオード、さらにICになって、LSIが当たり前になったのも、遥か昔の話だ。
ソフトウェアが万能になり、チップは消耗品になってしまう。
アーキテクチャーをまたいでアプリケーションが走るようになり、そのアプリさえ、ネットで無料配信される時代だ。
業界は、通信料と広告料で成り立っていて、プログラマーはただの労働者である。
統合ツールを使って、アイデアを形にするだけ。
その形を、消費者に届ける仕組みは、競争の中でたたき合いになる。
電子部品は、その中のほんの一部だ。
しかし、それがなければ、世界は動かない。
クルマも家電も、飛行機も発電所も、もちろんスマホもデータセンターも。
無機的な素材が織りなす不思議の世界。
人工物でありながら、電子の振る舞いという自然の生の性質に、100パーセント依存している世界だ。
最近は、光子とかも絡んできて、ややっこしいけどな。
そのデバイスを、末端でばら売りするなんて、ふつーなら有り得ない話だが、ここでは、当たり前だ。
流通コストの問題もあり、何時まで続けることが出来るかは分からない。
鈴商もなくなったしな。
秋月は、今日も混み合っていた。
マルツ本店は、そうでもないけどな(やや高い?)。
電子工作とかしなくなってから久しいし、ゲーム機を改造して、怪しげな仕掛けを楽しんでいた時代は終わった。
最近は、軟弱になって、出来合いのパソコンで満足している。
つーか、その方が安いからな。
今や、高機能パソコンというのは、VRがサクサク動くゲーム機のことになったようだ。
まあ、どうでもいいんですが。
CPU買って、筐体買って、HDD買って、FDD(死語!)からOSインストールして・・・。
グラボは、余り用はないから、使いまわしたりして(昔は、オンボードでは乗っていなかったので)。
今じゃ、グラボの進化の方が早いから、別体になっているんだろう。
メモリーなんて、1メガ1万円だったのに、1000倍のメモリーが、遥かに安い。
そんな時代を通り過ぎてきて、パソコンがスマホになるのも見てきたし、タブレットの登場で、ノートパソコンが駆逐されていくのも見てきた。
世界がインターネットに繋がり、その向こうに別の世界が生まれている。
サイバー空間では、(ホンモノの)戦争までやってる。
今思うと、昔の秋葉原は、それ自体がサイバー空間だったような気がする。
今の人にとっては、リアルな世界なんだろうが。
人が作りしコンピューターの原点、地に足の着いた、電子技術のメッカ。
電子部品の店がある限り、その地位は揺るぎない。
家電量販店が郊外に移り、パソコン屋がスマホ屋に替わり、裏道の怪しげな中古部品屋や中古パソコン屋が、オタクの店になったとしても、それは一時期のものだ。
通り過ぎていく、表層。
まあ、浮沈子は、それを見に行くのが楽しいんだがな。
もう、新しいパソコンを組むことはないだろう。
10台近い、過去に組んだパソコンは、どれも役目を終えた。
今、このブログを打っているX220は、レノボの中古ノートだ。
それで、十分である。
その先を追いかけるのは、今、アキバの部品屋を漁る若い人たちに任せよう。
オヤジが多いんだがな。
まあ、どうでもいいんですが。
何でもネットで手に入る時代に、わざわざ秋葉原まで出かけてきて、怪しげな店をうろつく。
ネットでは、とても商品にならないだろうクズ同然のデバイスに、喜々として飛びつく。
ああ、俺って、アホだな。
間違いない。
片隅でもいい、そんなアキバが、いつまでも続いていって欲しいような気がする。
既に、チラッと書いたが、今日は秋葉原に出かけた。
たいがいは愚弟と行くが、久々に一人で歩く。
長居するつもりはなく、何時もめぐる辺りを、ちょろっと見て回る。
連休に来ていることもあって、あまり様子は変わっていない。
ボーナス商戦に向けての模様替えは、これからなんだろうな。
日曜の午後の遅い時間に歩き回ったので、それ程混んではいなかった。
ホコ天もガラガラ(画像参照)。
怪しげな買い物(シックスパックトレーナー)をしてしまって、やや興奮気味で帰ってきた。
浮沈子は、健康グッズとかには、今まで全く興味がわかなかったし、歩数計を買っても、3日と持たずに外してしまっていた。
ダイビングの器材は、丸ごと健康グッズかも知れないし、そういう意味では広義の健康機器に興味がないわけではない。
それでも、わざわざ、そのために何か特定のものをあつらえるというのは、何となく恥ずかしいというか、照れるというか、そういう心理が働いていた。
ダイビングをきっかけにして、健康管理に興味が出てきて、3段腹を何とかしようとか、体脂肪率を改善しようなどと、いままで考えたこともなかったようなことを考えるようになった。
今日の衝動買いにしたって、連休の時から売ってたのかもしれないが、その時には気付かなかったろう。
この1週間で、プチリバウンドを期に、危機意識が芽生えて、様々な情報に一気にアクセスし出した。
今のところ、秋葉原の街を普通に歩く限り、VR元年と言われながら、それについてのディスプレイを見かけることは少ない。
コアな人々の間で盛り上がっているだけだ。
マジョリティには、達していない。
秋のPSVR以降だろうな。
そういう、雰囲気というか、空気みたいなものを感じながら歩く。
ホコ天の日というのは、普段はアキバ通いをしないお客さんが来る日だ。
通は、平日来る。
雨の日なら、なおいい。
裏道の、濃い感じの店に行って、棚の品物を穴のあくほど見る。
ルーチンで回る店だけではなく、普段は入らないような店に行って、しっかりと比較したり、出物がないかを探したりできる。
買うかどうかは別にして、そういう普段からの調査が、何か欲しいものが出来た時の力になる。
何事も同じだ。
ネットで全てが分かるわけじゃない。
現場に出て、しかも、頻繁に出て、生の情報を仕入れ、それを消化していく。
神田のお店(EX-Scuba)で、テクニカルダイビングについて、同じような話を聞いたことを思い出す。
第一線で潜っていなければ、日進月歩の世界では、あっという間に過去の人になる。
ネットに上がった頃には、すでに過去の話になっていたりもするのだ。
浮沈子のように、ネット情報の二次配布がメインだったりすると、その古くなった情報を、再配布していたりするのだ。
気をつけよう。
秋葉原には、30年以上通っている。
殆どの店が入れ替わり、続いている店も昔ながらのところは限られている。
もちろん、店員は、何代も変わっている。
電気部品から家電になり、パソコンが普及して、今やオタクのメッカだ。
しかし、それでも、電気部品の店は残っているし、たぶん、世界で一番豊富な品ぞろえの街だろう。
トランジスタからダイオード、さらにICになって、LSIが当たり前になったのも、遥か昔の話だ。
ソフトウェアが万能になり、チップは消耗品になってしまう。
アーキテクチャーをまたいでアプリケーションが走るようになり、そのアプリさえ、ネットで無料配信される時代だ。
業界は、通信料と広告料で成り立っていて、プログラマーはただの労働者である。
統合ツールを使って、アイデアを形にするだけ。
その形を、消費者に届ける仕組みは、競争の中でたたき合いになる。
電子部品は、その中のほんの一部だ。
しかし、それがなければ、世界は動かない。
クルマも家電も、飛行機も発電所も、もちろんスマホもデータセンターも。
無機的な素材が織りなす不思議の世界。
人工物でありながら、電子の振る舞いという自然の生の性質に、100パーセント依存している世界だ。
最近は、光子とかも絡んできて、ややっこしいけどな。
そのデバイスを、末端でばら売りするなんて、ふつーなら有り得ない話だが、ここでは、当たり前だ。
流通コストの問題もあり、何時まで続けることが出来るかは分からない。
鈴商もなくなったしな。
秋月は、今日も混み合っていた。
マルツ本店は、そうでもないけどな(やや高い?)。
電子工作とかしなくなってから久しいし、ゲーム機を改造して、怪しげな仕掛けを楽しんでいた時代は終わった。
最近は、軟弱になって、出来合いのパソコンで満足している。
つーか、その方が安いからな。
今や、高機能パソコンというのは、VRがサクサク動くゲーム機のことになったようだ。
まあ、どうでもいいんですが。
CPU買って、筐体買って、HDD買って、FDD(死語!)からOSインストールして・・・。
グラボは、余り用はないから、使いまわしたりして(昔は、オンボードでは乗っていなかったので)。
今じゃ、グラボの進化の方が早いから、別体になっているんだろう。
メモリーなんて、1メガ1万円だったのに、1000倍のメモリーが、遥かに安い。
そんな時代を通り過ぎてきて、パソコンがスマホになるのも見てきたし、タブレットの登場で、ノートパソコンが駆逐されていくのも見てきた。
世界がインターネットに繋がり、その向こうに別の世界が生まれている。
サイバー空間では、(ホンモノの)戦争までやってる。
今思うと、昔の秋葉原は、それ自体がサイバー空間だったような気がする。
今の人にとっては、リアルな世界なんだろうが。
人が作りしコンピューターの原点、地に足の着いた、電子技術のメッカ。
電子部品の店がある限り、その地位は揺るぎない。
家電量販店が郊外に移り、パソコン屋がスマホ屋に替わり、裏道の怪しげな中古部品屋や中古パソコン屋が、オタクの店になったとしても、それは一時期のものだ。
通り過ぎていく、表層。
まあ、浮沈子は、それを見に行くのが楽しいんだがな。
もう、新しいパソコンを組むことはないだろう。
10台近い、過去に組んだパソコンは、どれも役目を終えた。
今、このブログを打っているX220は、レノボの中古ノートだ。
それで、十分である。
その先を追いかけるのは、今、アキバの部品屋を漁る若い人たちに任せよう。
オヤジが多いんだがな。
まあ、どうでもいいんですが。
何でもネットで手に入る時代に、わざわざ秋葉原まで出かけてきて、怪しげな店をうろつく。
ネットでは、とても商品にならないだろうクズ同然のデバイスに、喜々として飛びつく。
ああ、俺って、アホだな。
間違いない。
片隅でもいい、そんなアキバが、いつまでも続いていって欲しいような気がする。
散歩 ― 2016年05月16日 20:13
散歩
ビボフィット(初代)を購入して、孫悟空状態(頭に金のわっかを着けられて、動け動けと催促される)になってから、3日目だ。
愚弟と秋葉原に出かけて、さんざん歩いて帰ってきてからも赤いバーが出る。
どれだけ歩いたかとかを斟酌してくれるわけではない。
スリープモードにしない限りは、一切の抗議を受け付けないのだ。
歩くしかない。
或いは、無視するか。
そもそも、活動量計なんだから、パッシブに、動いた分だけ記録して、およその運動量を算出するだけでいいのに、余計なことしやがって!(既に、敵対関係)。
お腹にシックスパックトレーナー貼って、散歩に出る。
赤いバー自体は、2分も歩けば消えてしまうので、戻ってきて、腹筋が刺激で収縮するのを感じながら、残りの時間を過ごす。
人体実験のモルモットになったようで、何とも言えない。
あきばおーでは、昨日あった店には既になく、別の店にあった。
今日見つけたのは、パッドが4つ着いている999円(たぶん税抜き)のやつだったが、買わなかった。
毎日のように、ジムで筋トレ(最弱で)やってるんだから、腹筋だって、鍛えている。
べつに、EMSのお世話にならなくても、布団の上で腹筋やるだけでいいのだ。
しかし、・・・。
面白い!。
血も涙もないビボフィットの野郎に監視され続けていると、何か仕返しをしてやろうという気になってくる。
こいつに低周波流して、ぶっ壊してやりたくなる(ああ、良い子は、マネしないでね!)。
たぶん、何ともないでしょうが。
食生活を管理し、筋トレと有酸素運動を継続し、1時間毎の散歩に駆り出される。
散歩というのは、本来、高尚な気分転換のはずだ。
(散歩)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E6%AD%A9
「散歩(さんぽ)とは、気分転換や健康のため、あるいは好奇心から、または特に目的地を設けずに歩く行為である。」
「目的意識を持って歩く行為には、ハイキング」
「登山もその一環」
「健康増進のための歩行としてはウォーキング」
「これらに対して散歩は気軽に住居の周辺地域を歩くこと」
活動量計の赤いバーを消すためという明確な目的(健康のため)があるので、この定義によれば、ウォーキングに当たるんだろうな。
散策とか、逍遙などという、気ままなイメージはない(浮沈子の場合は、徘徊に近いかも)。
しかし、昨夜は、近所を歩いていて、アジサイの花(まあ、正確には萼(ガク)ですが)が咲いているのを見つけた。
(アジサイ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4
「5月から7月に紫(赤紫から青紫)の花を咲かせる。」
「土壌が酸性だと・・・青色を呈する。」
「土壌が中性やアルカリ性であれば・・・赤色となる」
「花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する」
「最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯び・・・赤や青に色づいていく」
「日が経つと・・・青色の花も赤味を帯びるようになる」
「これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こる」
青かったアジサイが、赤みを帯びて来たら、ジジババになったということだな。
「あじさい(紫陽花)は夏の季語。」
アジサイには、毒があるといわれている。
解明はされていないようだが、食い物ではないようだな。
そんな季節の変化を見つけながらの、短い散歩(ウォーキング)を繰り返している。
話は違うが、バレエの有名な演目に、ジゼルというのがあるそうだ。
(ジゼル)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BC%E3%83%AB
「1841年にフランスで初演されたバレエ作品。全2幕。」
「ロマンティック・バレエの代表作の一つであり、大規模な改訂を経て今日でも頻繁に上演されている。」
「結婚を目前にして亡くなった娘達が妖精ウィリとなり、夜中に森に迷い込んできた男性を死ぬまで踊らせるというハインリヒ・ハイネによって紹介されたオーストリア地方の伝説に着想を得て作られた。」
まあ、ストーリーをよむと悲惨だが、ビボフィットの赤いバーを消すために歩かされている浮沈子は、さしずめアルブレヒトというところか(ヒラリオンかな)。
朝の光が差すまでに何とかしないと、踊り疲れてしまうかもしれない。
おっと、またまた踊れ踊れと催促の赤線が出てきた。
スリープモードにするか、睡眠時間帯として設定すれば消えることは分かったが、素直に歩くことにしよう。
ジゼルに許しを請うために、少し踊ってくるかな・・・。
ビボフィット(初代)を購入して、孫悟空状態(頭に金のわっかを着けられて、動け動けと催促される)になってから、3日目だ。
愚弟と秋葉原に出かけて、さんざん歩いて帰ってきてからも赤いバーが出る。
どれだけ歩いたかとかを斟酌してくれるわけではない。
スリープモードにしない限りは、一切の抗議を受け付けないのだ。
歩くしかない。
或いは、無視するか。
そもそも、活動量計なんだから、パッシブに、動いた分だけ記録して、およその運動量を算出するだけでいいのに、余計なことしやがって!(既に、敵対関係)。
お腹にシックスパックトレーナー貼って、散歩に出る。
赤いバー自体は、2分も歩けば消えてしまうので、戻ってきて、腹筋が刺激で収縮するのを感じながら、残りの時間を過ごす。
人体実験のモルモットになったようで、何とも言えない。
あきばおーでは、昨日あった店には既になく、別の店にあった。
今日見つけたのは、パッドが4つ着いている999円(たぶん税抜き)のやつだったが、買わなかった。
毎日のように、ジムで筋トレ(最弱で)やってるんだから、腹筋だって、鍛えている。
べつに、EMSのお世話にならなくても、布団の上で腹筋やるだけでいいのだ。
しかし、・・・。
面白い!。
血も涙もないビボフィットの野郎に監視され続けていると、何か仕返しをしてやろうという気になってくる。
こいつに低周波流して、ぶっ壊してやりたくなる(ああ、良い子は、マネしないでね!)。
たぶん、何ともないでしょうが。
食生活を管理し、筋トレと有酸素運動を継続し、1時間毎の散歩に駆り出される。
散歩というのは、本来、高尚な気分転換のはずだ。
(散歩)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E6%AD%A9
「散歩(さんぽ)とは、気分転換や健康のため、あるいは好奇心から、または特に目的地を設けずに歩く行為である。」
「目的意識を持って歩く行為には、ハイキング」
「登山もその一環」
「健康増進のための歩行としてはウォーキング」
「これらに対して散歩は気軽に住居の周辺地域を歩くこと」
活動量計の赤いバーを消すためという明確な目的(健康のため)があるので、この定義によれば、ウォーキングに当たるんだろうな。
散策とか、逍遙などという、気ままなイメージはない(浮沈子の場合は、徘徊に近いかも)。
しかし、昨夜は、近所を歩いていて、アジサイの花(まあ、正確には萼(ガク)ですが)が咲いているのを見つけた。
(アジサイ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4
「5月から7月に紫(赤紫から青紫)の花を咲かせる。」
「土壌が酸性だと・・・青色を呈する。」
「土壌が中性やアルカリ性であれば・・・赤色となる」
「花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する」
「最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯び・・・赤や青に色づいていく」
「日が経つと・・・青色の花も赤味を帯びるようになる」
「これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こる」
青かったアジサイが、赤みを帯びて来たら、ジジババになったということだな。
「あじさい(紫陽花)は夏の季語。」
アジサイには、毒があるといわれている。
解明はされていないようだが、食い物ではないようだな。
そんな季節の変化を見つけながらの、短い散歩(ウォーキング)を繰り返している。
話は違うが、バレエの有名な演目に、ジゼルというのがあるそうだ。
(ジゼル)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BC%E3%83%AB
「1841年にフランスで初演されたバレエ作品。全2幕。」
「ロマンティック・バレエの代表作の一つであり、大規模な改訂を経て今日でも頻繁に上演されている。」
「結婚を目前にして亡くなった娘達が妖精ウィリとなり、夜中に森に迷い込んできた男性を死ぬまで踊らせるというハインリヒ・ハイネによって紹介されたオーストリア地方の伝説に着想を得て作られた。」
まあ、ストーリーをよむと悲惨だが、ビボフィットの赤いバーを消すために歩かされている浮沈子は、さしずめアルブレヒトというところか(ヒラリオンかな)。
朝の光が差すまでに何とかしないと、踊り疲れてしまうかもしれない。
おっと、またまた踊れ踊れと催促の赤線が出てきた。
スリープモードにするか、睡眠時間帯として設定すれば消えることは分かったが、素直に歩くことにしよう。
ジゼルに許しを請うために、少し踊ってくるかな・・・。
記録 ― 2016年05月16日 22:03
記録
レコーディングダイエットというのがあるんだそうだが、浮沈子は、知らなかったな。
(レコーディング・ダイエット)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88
「日々摂取する食物とそのエネルギー量を記録することで、自分が摂取しているエネルギー量、食事の内容、間食などを自覚し、食生活の改善につなげるというもの」
もちろん、それだけで痩せるわけはない。
(書くだけで55kg痩せも!?レコーディングダイエット完全ガイド)
http://diet-de-yasetai.jp/howto/recording
「岡田斗司夫さんが117kgから62kgまで、体重を激減させた減量方法」
この人が、どんな人かも知らないし、短期間で痩せた方が、その後リバウンドした話は、いくらもある。
浮沈子も、25kg程減量してから、ものの見事にリバウンドした経験がある。
この記事にあるように、単に情報を可視化して、脳にフィードバックを与えようとしても、脳がそれを受け付けなければ始まらないのだ。
体重を減らさなければ命がないとか、そういう状況に追い込まれて、必死になってダイエットに取り組む姿勢がなければ、何をやっても同じことの繰り返しになる。
「成功者が続出し社会的なブームにもなりました。」
それは、短期的な話であって、10年、20年トレースしなければ、成功したかどうかは分からない。
体重を減らすことは誰でも出来るが、減らした体重を維持することの方が、100倍難しい。
100人減量に成功しても、99人はリバウンドする(まあ、調べたわけではありませんが)。
リバウンドを繰り返す程、痩せにくく、太りやすくなる。
そうして、デブが世界に溢れるのだ。
「もちろん、カロリーを可視化したとしてもそれを抑えるようにする自制心は必要」
もともと、自制心がないから食べ過ぎているわけで、可視化しても、消費カロリーを超えて食べてしまえば、太るだけだ。
可視化して、よりデブになることも簡単に可能である。
「機能の良い体重計なら基礎代謝も計算できる」
基礎代謝を計算するなら、年齢とか身長、性別を考慮しなければならないし、体脂肪率も若干影響するので、精密な値は簡単には分からない。
およその計算なら、普通の体重計で測った値で十分だ。
(基礎代謝量)
http://keisan.casio.jp/exec/system/1161228736
年齢とか身長、性別を入力すると、計算してくれる。
この程度で十分だし、それ以上精度を上げても意味はない。
記事の中では、重要なことも書かれている。
「真価を発揮するのは、痩せたあと」
「痩せるために記録をとり続けた事で、それが習慣化し毎日の食事内容を把握し続けることができます。」
「これが習慣化すると、太るような食べ方をしなくなる」
概ね、大多数のダイエット実行者は、目標体重に達すると、今までの苦労に対するご褒美として、食いたいだけ食う。
それは、短期的に痩せたことにより、正しい食生活が習慣にならず、従来の食いたいだけ食う(食べたいものを食べたい時に食べたい量(場合によっては、それ以上)食う)という、確固たる習慣に戻るからだ。
ダイエットは、その食習慣や運動習慣を改善せずに、あるいは、そうなってしまった根本原因を解消せずに、成功などするわけはないのだ。
ダイエットの成功とは、減量した体重を、最低でも10年以上、厳密には、死ぬまで維持して、初めて成功したといえる。
加齢に伴い、基礎代謝は落ちてくるから、標準体重近辺を維持することは、より困難になってくる。
運動も、若い時ほどは出来なくなる。
その中で、社会生活を維持しながら、一生、死ぬまで、体重管理をし続けなければならない。
ハッキリ言って、人生、丸ごと変える覚悟がなければ、ダイエットなんて成功するわけないのだ。
10年、20年掛かって身に着けた、運動習慣(運動しない習慣?)、食事習慣は、1年や2年で変わることはない。
最低10年維持できて、さらに、加齢に伴うネガを克服するために、死ぬまで続けて、初めて成功と言える。
減量するだけなら、基礎代謝量程度のエネルギーになるようにカロリーをコントロールし、栄養のバランスに気を付ければいいんだろうが、その後のことについては、全く触れられていない。
減量が終わった後、それでは、基礎代謝量にどれだけ上乗せして食べていいのかは、どこにも書いていない。
「よほど自堕落な生活を送らない限りはもう今までのような体型には戻らないはず。」
そんなことはない。
必ず、元の習慣に戻る(断定的!)。
「今後も同じようにレコーディングダイエットを続けていくことで体型が大きく崩れてしまうリスクは、限りなくゼロに近くなるはず。」
では、いつまで続けたらいいのか。
浮沈子は、例によって、断言する。
一生続けるしかない!。
しかも、記録は、摂取カロリーだけでなく、消費カロリーも付けていかなければならない。
両方とも誤差(個人による吸収の違い、年齢による変化、消費カロリーの計算誤差、筋肉量の違いによる誤差など)を含むために、その結果である体重も、一生計り続ける必要がある。
同じ運動をし、同じ食事をしたとしても、体重は変わる。
そもそも、中年になって太り始めた場合は、身体の仕掛けが変わったことに気付かず、若い時のままの習慣を続けたことが体重が増加したことの原因なのだ。
計測時間を同じにするとか、条件をそろえるなどは、計測のいろはだが、そういう細かいところよりも、いつまで続ければいいのかとか、適正体重になった後のリバウンドは、どうやったら防げるのかということが分かっていなければ、一時的に体重を減らしただけで、直ぐに元に戻る。
デブは、それだけでは直ちに病気ではない。
しかし、確実に死に至る病気を抱える。
死にたくなければ、適正体重(体脂肪率の適正化含めて)にすること、そして、それを一生維持すること。
なんとなく減量しようとか、そういう曖昧な考えで始めれば、必ず挫折するし、リバウンドも起こす。
しかし、まあ、何も始めないよりはいい。
計るだけダイエットに失敗した浮沈子は、やっと気付いた。
簡単に出来るダイエットなどはない。
もう、二度と今の生活には戻らないという、悲壮な覚悟がなければ成功はしない。
さらば飽食、さらば怠惰・・・。
とかいいながら、ふとビボフィットを見ると、赤いバーが伸びてきている。
威勢のいいことをブログに書いているだけでは、ダイエットはおろか、赤い線を消すこともできない。
ブログなんて書いていても、ダイエットは出来ないのだ(当たり前ですが)。
適度な運動を習慣にし、過食を避け、バランスの取れた食事をし、ストレスのない穏やかな日々を送る。
運動と食事のバランスが崩れることがないように、毎日の運動量と摂取カロリーを管理し、体脂肪率も定期的に計測する(もちろん、電気抵抗による簡易計測で十分)。
それを続けるしかない。
死ぬまで続ける。
ああ、金のわっかが頭から取れるのは、何時になることやら・・・。
レコーディングダイエットというのがあるんだそうだが、浮沈子は、知らなかったな。
(レコーディング・ダイエット)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88
「日々摂取する食物とそのエネルギー量を記録することで、自分が摂取しているエネルギー量、食事の内容、間食などを自覚し、食生活の改善につなげるというもの」
もちろん、それだけで痩せるわけはない。
(書くだけで55kg痩せも!?レコーディングダイエット完全ガイド)
http://diet-de-yasetai.jp/howto/recording
「岡田斗司夫さんが117kgから62kgまで、体重を激減させた減量方法」
この人が、どんな人かも知らないし、短期間で痩せた方が、その後リバウンドした話は、いくらもある。
浮沈子も、25kg程減量してから、ものの見事にリバウンドした経験がある。
この記事にあるように、単に情報を可視化して、脳にフィードバックを与えようとしても、脳がそれを受け付けなければ始まらないのだ。
体重を減らさなければ命がないとか、そういう状況に追い込まれて、必死になってダイエットに取り組む姿勢がなければ、何をやっても同じことの繰り返しになる。
「成功者が続出し社会的なブームにもなりました。」
それは、短期的な話であって、10年、20年トレースしなければ、成功したかどうかは分からない。
体重を減らすことは誰でも出来るが、減らした体重を維持することの方が、100倍難しい。
100人減量に成功しても、99人はリバウンドする(まあ、調べたわけではありませんが)。
リバウンドを繰り返す程、痩せにくく、太りやすくなる。
そうして、デブが世界に溢れるのだ。
「もちろん、カロリーを可視化したとしてもそれを抑えるようにする自制心は必要」
もともと、自制心がないから食べ過ぎているわけで、可視化しても、消費カロリーを超えて食べてしまえば、太るだけだ。
可視化して、よりデブになることも簡単に可能である。
「機能の良い体重計なら基礎代謝も計算できる」
基礎代謝を計算するなら、年齢とか身長、性別を考慮しなければならないし、体脂肪率も若干影響するので、精密な値は簡単には分からない。
およその計算なら、普通の体重計で測った値で十分だ。
(基礎代謝量)
http://keisan.casio.jp/exec/system/1161228736
年齢とか身長、性別を入力すると、計算してくれる。
この程度で十分だし、それ以上精度を上げても意味はない。
記事の中では、重要なことも書かれている。
「真価を発揮するのは、痩せたあと」
「痩せるために記録をとり続けた事で、それが習慣化し毎日の食事内容を把握し続けることができます。」
「これが習慣化すると、太るような食べ方をしなくなる」
概ね、大多数のダイエット実行者は、目標体重に達すると、今までの苦労に対するご褒美として、食いたいだけ食う。
それは、短期的に痩せたことにより、正しい食生活が習慣にならず、従来の食いたいだけ食う(食べたいものを食べたい時に食べたい量(場合によっては、それ以上)食う)という、確固たる習慣に戻るからだ。
ダイエットは、その食習慣や運動習慣を改善せずに、あるいは、そうなってしまった根本原因を解消せずに、成功などするわけはないのだ。
ダイエットの成功とは、減量した体重を、最低でも10年以上、厳密には、死ぬまで維持して、初めて成功したといえる。
加齢に伴い、基礎代謝は落ちてくるから、標準体重近辺を維持することは、より困難になってくる。
運動も、若い時ほどは出来なくなる。
その中で、社会生活を維持しながら、一生、死ぬまで、体重管理をし続けなければならない。
ハッキリ言って、人生、丸ごと変える覚悟がなければ、ダイエットなんて成功するわけないのだ。
10年、20年掛かって身に着けた、運動習慣(運動しない習慣?)、食事習慣は、1年や2年で変わることはない。
最低10年維持できて、さらに、加齢に伴うネガを克服するために、死ぬまで続けて、初めて成功と言える。
減量するだけなら、基礎代謝量程度のエネルギーになるようにカロリーをコントロールし、栄養のバランスに気を付ければいいんだろうが、その後のことについては、全く触れられていない。
減量が終わった後、それでは、基礎代謝量にどれだけ上乗せして食べていいのかは、どこにも書いていない。
「よほど自堕落な生活を送らない限りはもう今までのような体型には戻らないはず。」
そんなことはない。
必ず、元の習慣に戻る(断定的!)。
「今後も同じようにレコーディングダイエットを続けていくことで体型が大きく崩れてしまうリスクは、限りなくゼロに近くなるはず。」
では、いつまで続けたらいいのか。
浮沈子は、例によって、断言する。
一生続けるしかない!。
しかも、記録は、摂取カロリーだけでなく、消費カロリーも付けていかなければならない。
両方とも誤差(個人による吸収の違い、年齢による変化、消費カロリーの計算誤差、筋肉量の違いによる誤差など)を含むために、その結果である体重も、一生計り続ける必要がある。
同じ運動をし、同じ食事をしたとしても、体重は変わる。
そもそも、中年になって太り始めた場合は、身体の仕掛けが変わったことに気付かず、若い時のままの習慣を続けたことが体重が増加したことの原因なのだ。
計測時間を同じにするとか、条件をそろえるなどは、計測のいろはだが、そういう細かいところよりも、いつまで続ければいいのかとか、適正体重になった後のリバウンドは、どうやったら防げるのかということが分かっていなければ、一時的に体重を減らしただけで、直ぐに元に戻る。
デブは、それだけでは直ちに病気ではない。
しかし、確実に死に至る病気を抱える。
死にたくなければ、適正体重(体脂肪率の適正化含めて)にすること、そして、それを一生維持すること。
なんとなく減量しようとか、そういう曖昧な考えで始めれば、必ず挫折するし、リバウンドも起こす。
しかし、まあ、何も始めないよりはいい。
計るだけダイエットに失敗した浮沈子は、やっと気付いた。
簡単に出来るダイエットなどはない。
もう、二度と今の生活には戻らないという、悲壮な覚悟がなければ成功はしない。
さらば飽食、さらば怠惰・・・。
とかいいながら、ふとビボフィットを見ると、赤いバーが伸びてきている。
威勢のいいことをブログに書いているだけでは、ダイエットはおろか、赤い線を消すこともできない。
ブログなんて書いていても、ダイエットは出来ないのだ(当たり前ですが)。
適度な運動を習慣にし、過食を避け、バランスの取れた食事をし、ストレスのない穏やかな日々を送る。
運動と食事のバランスが崩れることがないように、毎日の運動量と摂取カロリーを管理し、体脂肪率も定期的に計測する(もちろん、電気抵抗による簡易計測で十分)。
それを続けるしかない。
死ぬまで続ける。
ああ、金のわっかが頭から取れるのは、何時になることやら・・・。
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