🐱マインクラフト・シミュレーション仮説・邯鄲の枕2022年09月18日 06:31

マインクラフト・シミュレーション仮説・邯鄲の枕


宇宙ネタで何か書きたいことはないかと漁ってみても、SLSは地上に釘付け、ファルコン9もフロリダの悪天候で4日も飛ばず、キャップストーンも回路が温まるまでは手も足も出ない状況。

仕方がないので、ギガジンの記事を眺めていたら、ちょっと引っ掛かった。

(「マインクラフトの中でマインクラフトをプレイする」という狂気のチャレンジを実現してしまった猛者が登場)
https://gigazine.net/news/20220916-minecraft-in-minecraft/

「マインクラフトにはレッドストーンと呼ばれる信号を発信するための回路素子が存在しており、これを駆使することでマインクラフト内で実際に動作する1KBの記憶装置などを自作するユーザーが登場しています。」

「「マインクラフトの中でマインクラフトをプレイする」ことを実現」

まあ、正確に言えば、マインクラフトの中でマインクラフトがプレイできるマシンを構築したというのが正しい(プレイする主体(人間?)まで作ったわけじゃないからな)。

浮沈子は、ゲームとかやらないので、マインクラフトのことは知らないけど、仮想世界の中に仮想世界を作るという話は、ちょっと興味を引く。

そう、シミュレーション仮説な話だからな。

(科学者「この世はニセモノかもしれない」 我々は完全にフェイクな世界で生きている可能性!!)
https://tocana.jp/2015/08/post_7091_entry.html

「ものづくりゲームとして人気の『マインクラフト』など、最近のビデオゲームはビジュアル表現にも優れ、ゲームの舞台となる世界もきわめて広く、まさに“第2の人生”を送れる場所になっている。」

「この“現実”もまた何かのシミュレーションゲームの舞台かも知れないと考えるのは飛躍し過ぎであろうか。しかし驚くべきことに昨今、この「シミュレーション仮説」は哲学や脳科学の分野で真剣に議論されている。」

「SF作家のデイヴィッド・ブリン氏は、うたた寝中の夢の中で50年の生活を体験したという中国の故事「邯鄲の夢(邯鄲の枕)」を引き合いに出し、2050年の社会では人々はコンピュータ・シミュレーション上で生活しているだろうと語っている。」

シミュレーション仮説については、以前にもちょっと興味を惹かれて調べたことがある。

バグだらけのプログラム的存在な浮沈子には、到底理解できない話だということだけはよく分かった(そんなあ!)。

まあいい。

この記事の中に、出てくる邯鄲(かんたん)の枕という話が印象に残った。

(邯鄲の枕)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E3%81%AE%E6%9E%95

「黄粱の一炊、邯鄲の夢など多数の呼び方がある。」

長いが、丸ごと引用する。

「「盧生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。盧生はそこで呂翁という道士に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を盧生に授ける。そして盧生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻したりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣にするに至る。」

「子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮上がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。盧生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰っていった。」

この話、どこかで聞いたような気がして、既視感に囚われていたんだが、杜子春に似ているな。

(杜子春)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E5%AD%90%E6%98%A5

「李復言編の『続玄怪録(中国語版)』及び 牛僧孺編の『玄怪録』双方に収録されたとされる伝奇小説『杜子春』を童話化したものである。」

「唐王朝の洛陽の都。ある春の日の日暮れ、西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。」

「そんな彼を哀れんだ片眼眇(すがめ、斜視)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」と杜子春に言い含める。その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。」

「3度目、西門の下に来た杜子春の心境には変化があった。金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。」

「峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないというのだ。虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も発しなかった。怒った閻魔大王は、畜生道に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった。」

「叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。これからは人間らしい暮らしをすると言う杜子春に、仙人は泰山の麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。」

こっちの方は、後段にひねりが加わっているので、邯鄲の枕を下敷きにしているのかも知れない(未確認)。

「原拠とされる『杜子春』では、杜子春は地獄に落ちた後、女に生まれ変わって誕生するが、やはり全く物を言わず、結婚して子を産んでも喜びの声一つ発しなかったため、怒った夫が赤ん坊を叩き殺し、そこで妻(杜子春)が悲鳴を上げたところで現実に戻り、仙人は声を出さなかったら仙薬ができ仙人になれたのに、と言って突き放す。これは、すべてのものに対する執着を捨ててこそ昇仙出来るという道教の思想に根差している。対して芥川は、親が地獄の責め苦を受ける場面に変えて、「あの時もし声を出さなかったら、お前を殺していた」と仙人に言わせ、他者への慈しみの心を尊ぶ大乗仏教に即した結末に変えている。」

中国の話は、物騒なのが多いのかも知れないな・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

宗教の教義を広める際などには、物語を作って説くという手法は広く見られる。

運転免許証の更新の際に見せられるビデオとかも、そういう「分かりやすく伝える」手法の一つだ。

庶民が欲を捨てて慎ましい暮らしで満足するというのは、統治者にとっては好ましいのかも知れない。

まあ、そういう人ばかりだと社会に活力が生まれないから、欲に駆られてガツガツと頑張る人間も必要だろうけどな。

戦争起こしたりするのは、概ね、そういう人間の本性に根差している(そうなのかあ?)。

浮沈子は、「夢」という、脳が作り出す仮想現実の方に興味を惹かれる。

(胡蝶の夢)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E3%81%AE%E5%A4%A2

「夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのかといった説話である。」

「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。」

このブログでも、何度となく書いている。

浮沈子が好きな話だ。

若い頃は、その相対化された表現や、無常観が興味を引いたものだが、自分が歳食ってみると別の味わいがある。

そう、生きてきた時間は本当に夢なのだと知る。

記憶は消え、何も残らず、全ては幻となる。

荘子がいうところの「主体としての自分」の不確かさを、身をもって知ることになるのだ。

破棄された、バグだらけのプログラムだな。

昨夜も、妙にリアルな夢を見た。

マインクラフトの中のモノクロのモニターとは異なり、色も付いていたし、臨場感も十分で、夢の中で感動したりもする。

目が覚めてからも、暫くはボーゼンとして、夢の余韻に浸っていた。

超リアルな夢を見た後は、この現実世界のリアリティを受け入れるのに時間がかかる。

脳は、それを区別できないのだ。

それって、シミュレーション仮説でいうところの創造者のバグ(プログラムミス)なのではないか?。

或いは、我々の脳こそが、マインクラフトの中のレッドストーン回路素子なのではないのか。

夢と現実との区別が出来ないような仕掛け。

それを仕込んでしまったことが、創造者の最大のミスかも知れない。

いや、逆に、最高の傑作なのか。

今、浮沈子は、目の前のパソコンでブログを書いていると思っているけど、一瞬後には目を覚まして、ああ、今のは夢だったんだと思うのではないか。

ひょっとすると、統合失調症が始まっているのかも知れないな。

現実(たぶん)のリアルな感覚を疑い出し、目の前のありのままの世界を受け入れられず、仮想な世界に逃避して生活するようになる。

いや、そこでも受け入れられずに、別の世界に逃避し、逃げて逃げて逃げまくって・・・。

はっと気が付くと、デブだった自分は仮想の存在で、実はスリムな現実が待っていてくれたりするといいんだがな。

ぽっこりお腹をさすりながら、意識的に現実を疑ってみても、何も解決しそうもないしなあ・・・。