確信2016年05月23日 04:28

確信


人間は、その人生の中で、ある確信を得る時が何度かある。

誰が何と言おうと、揺るぎない考えを手にする時だ。

他人の言説に左右されない信念、人生観といってもいい。

まあ、概ね、暫くすると、それが幻であったことに気付き、再び混迷の世界に迷い込むことになるんだがな。

しかし、人生が有限であることから、あるいは、その自覚と共に、今信じていることが、少なくとも自分自身にとって信じ続けるに値すると思い込む時はあるのだ。

そのまま、一生を終えることができる者は、幸せである。

歳をとって、悟りを開くというのは、結局はそういうことなのではないか。

もう、余命いくばくもなく、これだけを信じて自分の生を全うしたいと拘り続ける。

周りはいい迷惑だろうが、本人はいたって真面目だ。

頑固というのとは、少し違うんだろうが、まあ、周囲から見たら似たようなもんだな。

善し悪しの問題ではない。

そういうことがあるってことを、自分でもよくわきまえておかなければいけないということだ。

人を巻き込んだり、力を借りたりするときには、そのことをよく自覚しておく必要がある。

自分だけで事が済む時には、それでいい。

世の中には、そうでないことの方がはるかに多いし、付き合わされる方はたまったもんじゃないだろう。

付き合う方も、そういうことをよくわきまえる必要がある。

えーと、端的に言えば、形だけ付き合うようにした方がいい。

とばっちりを食うのは、御免被りたいところだ。

と、まあ、抽象的で訳の分からないことを書いておいて、それでもなお、何がしかの確信をもって、物事に当たるということはある。

自分に与えられた時間と能力の限りを尽くして、何かに取り組む時、その確信がなければ全力は出せない。

誰が何と言おうと、揺るがない確信。

全力を尽くしても、上手くいくとは限らないし、概ねそうでないことの方が多く、結果は惨憺たるものになる。

死屍累々・・・。

挫折、失敗、断念、放棄・・・。

しかし、そこで折れるようでは、人生を賭けた確信とは言えないな。

捲土重来、2度でも3度でも、機会ある限り挑戦し続ける。

その機会が訪れなければ?。

機会を求めて奔走する。

回り道だろうが何だろうが、確信しているので諦めることはない。

救い難い・・・。

熱意とか、情熱とかとは異なる。

そんなもんじゃあない。

冷めることもなければ、失うこともない。

確固として、揺るぎないのだ。

クールで、冷静そのものだ。

そして動かない。

微動だにしない。

信仰のようなものかもしれない。

他人には見えないものを見て信じている。

でも、少し違うな。

似ているだけだ。

ご利益を期待しているわけではないしな。

だが、心の救いにはなる。

確かなものを信じて縋ることが出来る。

そこに迷いはない。

それで、人間が幸せになれれば、それでいいではないか。

他人さえ巻き込まなければ、内心は自由だ。

巻き込む時には、気を付けた方がいい。

こっちが巻き込まれそうになれば、そのことを考えておいた方がいい。

信じるものは救われるかもしれないが、信じていないのに巻き込まれれば不幸になるだけだ。

同じように、感化されて信じてしまったら、それはもう、救いようがない。

つーか、それはそれで、救われるともいう。

揺るぎない確信を得た者同士、大いに盛り上がっていればいい。

でも、まあ、同床異夢ということもあるしな。

夜中に目覚めて、とりとめもないことを書いた。

どうしても、書いておきたかった。

浮沈子にも、確信に似たものはあるが、百叩きしても埃が出ないような、確固たるものはない。

偽物、紛い物、のようなものでしかない。

いつか、何らかの確信を得て、それに向かって全力を尽くせればと願う。

そうして生きておられる方を、羨ましいと思う。

いや、本当に・・・。

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