称揚されるべき態度 ― 2019年11月17日 07:44
称揚されるべき態度
「迅速な737MAX機の運航再開に向けかなりの圧力が存在することを理解しているが、必要な時間をかけ、安全にのみ焦点を置いてもらいたい」
当然といえば当然だが、運航再開が胸突き八丁にある現在、敢えてこの訓辞を垂れなければならないというのは考え物だ。
「ボーイングは今週、737MAX機の運航が12月半ばに承認され、操縦士の訓練要件が1月に認められるとの見通しを示していた。この日は、FAAや他の規制当局と緊密に協力しているとコメントした。」
秋波を送っているのはB社だけかもな。
(737MAX認証「必要な時間かける」、米FAA局長が指示)
https://jp.reuters.com/article/boeing-737max-idJPKBN1XP2EH
「データに基づく系統的な分析、安全な運行再開に向けた飛行制御システムと操縦士の訓練の見直しと認証手続きを堅持」
初めからそうして置けば良かったものを・・・。
浮沈子は、米国の良心のようなものを感じる。
はちゃめちゃなことを平気でやる一方、やり過ぎとも思われる保守性を発揮することがある。
守るべきものは何か。
この国の人々は、お腹の中でしっかりと分かっているに違いない。
「実際に自分が飛行し、ためらいなく自分の家族を乗せられると納得できるまで、737MAX機を認証しない」
規制当局としては当然の態度だが、本来、メーカー自身がそういう態度で臨まなければなるまい。
競争に晒されている民間企業として、コスト削減、利益追求、シェア拡大を求められるのは当然だが、それは優れた製品を適正な価格で提供することによって達成されるべき結果に過ぎない。
目も当てられない欠陥商品を、嘘八百の宣伝で糊塗して、これも欲に駆られた顧客に売りつけるなどというのはもってのほか。
内部技術者からの懸念や告発は握り潰し、運航会社のパイロットからのネガティブな意見は無視し続けて売りまくったわけだ。
命を預かる旅客機という製品を作るメーカーとして、許しがたい態度だな。
投資家に対する良心はあるのかも知れないが、顧客や最終消費者である搭乗者に対しては、そのかけらもない。
旅客機に乗る人々なんて、金を払ってくれる荷物くらいにしか考えていないんだろう。
おそらく、今現在もその態度に変わりはない。
規制当局が厳しい審査を行うから、安全な飛行機が出来上がるわけではない。
メーカー自身が、様々な局面で必要な安全性を担保した設計を施し、それを運航する際の入念なシミュレーションを行って、必要な訓練を行うからこそ安全性が確保される。
技術的にも時間的にもトレーニング的にもコストが掛かるのは当然だが、それは必要なコストだ。
切り詰めることができない、絶対的に必要なコスト。
それを圧縮することができるとすれば、技術的なブレイクスルーとか、画期的なトレーニング手法とかが編み出された時だけだ。
そして、その導入には慎重のうえにも慎重でなければならない。
飛行制御技術の進歩は、確かに物理的な特性を高め、これまでになかった飛行特性を与えることに成功している。
MCASだって、まともに機能している時には優れた仕掛けだったに違いないのだ。
アイパッドによる簡易な移行訓練(737NGシリーズからの機種転換訓練)だって、そのMCASが機能していたら、それで事足りていたかもしれない。
楽観的な、保守性に欠ける態度。
ものごとが全てうまくいっていることを前提として、次のステップを積み重ねていこうとする姿勢。
それに依存して収益を最大化させるという、命を預かる機械を作るメーカーとして、あってはならない、許されざる態度こそ問題だ。
他の民間企業とは異なる、踏み越えてはならない絶対的な敷居の線が存在する。
B社は、その線を見失い、逸脱し、踏み越え、自らかき消すことでエアバスとの競争に打ち勝とうとしている。
浮沈子の懸念は、まさにその点にある。
ビジネスとしての要件とか、株価とか、利益率とか、シェアとか、資金繰りとか、技術的な詳細とかについては分からない。
しかし、運航停止から再開に向けた一連の流れの中で、B社が取ってきた態度を見ると、優れた製品を世に出して、その評価で企業の存続や成長を図るといった健全な態度は見えない。
何度もソフトウェアの不備を指摘され、出し直しを命じられ、移行訓練も最小に留めようと働きかける目に余る態度。
一刻も早い運航再開は、B社にとって至上命題ではない。
二度と航空機の不備による墜落事故を起こさない、優れた安全性を持つ製品を作り直すことに尽きる。
もしそれができないというのなら、旅客機メーカーとして存続することは許されない。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものはいつか壊れる。
それは不動の真理だが、だからこそ、完全なものを作ろうとする態度、壊れさせまいと必死で守る態度が人間には求められているのではないか。
ある確率で壊れることを許容し、その損害を保険で補填し、その多寡をあざとく計算して利益最大化を図ろうとする態度が、神の御心に適うとは到底思えないけどな(商売の神様の御心には適うかも)。
空気より重い飛行機が空を飛ぶことができるのは奇跡だ。
それを可能としているのは、物理の神様の思し召しに違いない。
搭乗者の命を、その生贄として捧げようなどとする態度だけは、勘弁してもらいたいものだ・・・。
「迅速な737MAX機の運航再開に向けかなりの圧力が存在することを理解しているが、必要な時間をかけ、安全にのみ焦点を置いてもらいたい」
当然といえば当然だが、運航再開が胸突き八丁にある現在、敢えてこの訓辞を垂れなければならないというのは考え物だ。
「ボーイングは今週、737MAX機の運航が12月半ばに承認され、操縦士の訓練要件が1月に認められるとの見通しを示していた。この日は、FAAや他の規制当局と緊密に協力しているとコメントした。」
秋波を送っているのはB社だけかもな。
(737MAX認証「必要な時間かける」、米FAA局長が指示)
https://jp.reuters.com/article/boeing-737max-idJPKBN1XP2EH
「データに基づく系統的な分析、安全な運行再開に向けた飛行制御システムと操縦士の訓練の見直しと認証手続きを堅持」
初めからそうして置けば良かったものを・・・。
浮沈子は、米国の良心のようなものを感じる。
はちゃめちゃなことを平気でやる一方、やり過ぎとも思われる保守性を発揮することがある。
守るべきものは何か。
この国の人々は、お腹の中でしっかりと分かっているに違いない。
「実際に自分が飛行し、ためらいなく自分の家族を乗せられると納得できるまで、737MAX機を認証しない」
規制当局としては当然の態度だが、本来、メーカー自身がそういう態度で臨まなければなるまい。
競争に晒されている民間企業として、コスト削減、利益追求、シェア拡大を求められるのは当然だが、それは優れた製品を適正な価格で提供することによって達成されるべき結果に過ぎない。
目も当てられない欠陥商品を、嘘八百の宣伝で糊塗して、これも欲に駆られた顧客に売りつけるなどというのはもってのほか。
内部技術者からの懸念や告発は握り潰し、運航会社のパイロットからのネガティブな意見は無視し続けて売りまくったわけだ。
命を預かる旅客機という製品を作るメーカーとして、許しがたい態度だな。
投資家に対する良心はあるのかも知れないが、顧客や最終消費者である搭乗者に対しては、そのかけらもない。
旅客機に乗る人々なんて、金を払ってくれる荷物くらいにしか考えていないんだろう。
おそらく、今現在もその態度に変わりはない。
規制当局が厳しい審査を行うから、安全な飛行機が出来上がるわけではない。
メーカー自身が、様々な局面で必要な安全性を担保した設計を施し、それを運航する際の入念なシミュレーションを行って、必要な訓練を行うからこそ安全性が確保される。
技術的にも時間的にもトレーニング的にもコストが掛かるのは当然だが、それは必要なコストだ。
切り詰めることができない、絶対的に必要なコスト。
それを圧縮することができるとすれば、技術的なブレイクスルーとか、画期的なトレーニング手法とかが編み出された時だけだ。
そして、その導入には慎重のうえにも慎重でなければならない。
飛行制御技術の進歩は、確かに物理的な特性を高め、これまでになかった飛行特性を与えることに成功している。
MCASだって、まともに機能している時には優れた仕掛けだったに違いないのだ。
アイパッドによる簡易な移行訓練(737NGシリーズからの機種転換訓練)だって、そのMCASが機能していたら、それで事足りていたかもしれない。
楽観的な、保守性に欠ける態度。
ものごとが全てうまくいっていることを前提として、次のステップを積み重ねていこうとする姿勢。
それに依存して収益を最大化させるという、命を預かる機械を作るメーカーとして、あってはならない、許されざる態度こそ問題だ。
他の民間企業とは異なる、踏み越えてはならない絶対的な敷居の線が存在する。
B社は、その線を見失い、逸脱し、踏み越え、自らかき消すことでエアバスとの競争に打ち勝とうとしている。
浮沈子の懸念は、まさにその点にある。
ビジネスとしての要件とか、株価とか、利益率とか、シェアとか、資金繰りとか、技術的な詳細とかについては分からない。
しかし、運航停止から再開に向けた一連の流れの中で、B社が取ってきた態度を見ると、優れた製品を世に出して、その評価で企業の存続や成長を図るといった健全な態度は見えない。
何度もソフトウェアの不備を指摘され、出し直しを命じられ、移行訓練も最小に留めようと働きかける目に余る態度。
一刻も早い運航再開は、B社にとって至上命題ではない。
二度と航空機の不備による墜落事故を起こさない、優れた安全性を持つ製品を作り直すことに尽きる。
もしそれができないというのなら、旅客機メーカーとして存続することは許されない。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものはいつか壊れる。
それは不動の真理だが、だからこそ、完全なものを作ろうとする態度、壊れさせまいと必死で守る態度が人間には求められているのではないか。
ある確率で壊れることを許容し、その損害を保険で補填し、その多寡をあざとく計算して利益最大化を図ろうとする態度が、神の御心に適うとは到底思えないけどな(商売の神様の御心には適うかも)。
空気より重い飛行機が空を飛ぶことができるのは奇跡だ。
それを可能としているのは、物理の神様の思し召しに違いない。
搭乗者の命を、その生贄として捧げようなどとする態度だけは、勘弁してもらいたいものだ・・・。
安心を与えるもの ― 2019年11月17日 10:12
安心を与えるもの
737MAXの事故に絡んで、安全についていろいろ考えている。
その一方で、航空機の安全という、目に見える話ばかりを追いかけて、その背後にある、安心という目に見えない世界のことを見落としているような気がしてならない。
安全と安心というのは、よく使い分けられる便利な言葉だ。
遺伝子組み換え作物とかでも使われたりするしな。
安全ではあるが、安心ではないとか。
それって、単なる気の持ちようの問題なのか。
そこにあるのは、人の作りしものに完全なものはないという不動の真理だろう。
安全を検査したり、宣言したりするのは人間だ。
それは検証可能な客観的な基準に基づいて行われる。
人間が決めた基準に基づく、人間が行う検査。
そんなもんが、完全なわけはない(そうなのかあ?)。
もちろん、最善は尽くされるべきだが、そこには超えることができない限界が存在する。
100パーセントの安全はない。
全ては、そこからスタートする。
そして、完全なる存在を求め続ける永遠の行為が続くわけだ。
その人間の姿が安心を与える。
安心は、不完全な安全に胡坐をかくことなく、額に汗して完全を求め続ける人間が作り出す幻想だ。
現実の中で、安心を得るにはそれしかない。
福野礼一郎だったか、記憶に定かではないんだが、ピラミッドを押す話を読んだことがある。
過剰な品質についての話だったと記憶している。
先月、エジプト旅行に行った際、クフのピラミッドの礎石を力いっぱい押してみた。
もちろん、びくともしない。
そこで感じたのは、安全とか、安心とか、品質とかいう前に、あほくささのようなもんだったな。
ピラミッドを押すという行為の無意味さ・・・。
無意味なほどの過剰さ。
人間の一生を通じて、決して揺らぐことはないという確信だ。
数千年を経て変わらぬ歴史的事実、今後、数千年を経ても揺るぎっこないという実感。
せいぜい数十年しか持たない航空機や自動車などの工業製品にはない、絶対的な信頼感がそこにはあった。
まあ、比較したって意味はないだろうけどな。
そういう、絶対的な安心感というのは、現代の工業製品には求められない。
ベンツの有名なキャッチがある。
「Das Beste oder nichts(最善か無か)」
或いは、シャシーはエンジンより速くなくてはならないというのもある。
1991年製300E、1992年製500E(いずれも中古で購入)と乗り継いできた浮沈子は、同クラスの日本車にはない、その絶対的な安心感に酔った(えーと、これってクルマ酔い?)。
けれど、そのベンツにしたって、本国では警察より早く事故現場に赴くという逸話を生むほど、熱心に事故の情報収集及びその解析に当たってきたという経緯がある。
安心は一日にして成らず(浮沈子)
繰り返しになるが、神ならぬ人間が与えうる安心は、そういったソフトの部分も含めた過剰な品質、完全なる安全を求め続ける努力の継続にしかないということだ。
人間は、人間の行為にしか安心を感じない。
逆に、安心だと感じれば、多少の危険があったとしても安全と信じてしまう。
やれやれ・・・。
ロジカルな安全の確認と、実績に基づいた安心の確保。
当事者であるメーカーや規制当局には、安全に対する真摯な態度を求めるとともに、消費者に安心を与える信頼感の醸成にも力を尽くしてもらいたいものだ。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものは全て壊れる。
もの作りの当事者には、永遠不変の真理に対する謙虚な態度が求められる。
更に、改良、改善、保守に対する不断の努力も。
それは、もの作りだけではなく、役務の提供を生業とするサービス業にも当てはまるかもしれない。
安全を担保する過剰な品質と製品に対する謙虚な態度、安心を与える不断の努力。
作り手(役務の与え手)の心から、使い手(受益者)の心にダイレクトに繋げることができれば、安心はおのずから生じる。
まあ、もっとも、与える方の心が泥塗れでは、話にもなんにもならんけどな・・・。
737MAXの事故に絡んで、安全についていろいろ考えている。
その一方で、航空機の安全という、目に見える話ばかりを追いかけて、その背後にある、安心という目に見えない世界のことを見落としているような気がしてならない。
安全と安心というのは、よく使い分けられる便利な言葉だ。
遺伝子組み換え作物とかでも使われたりするしな。
安全ではあるが、安心ではないとか。
それって、単なる気の持ちようの問題なのか。
そこにあるのは、人の作りしものに完全なものはないという不動の真理だろう。
安全を検査したり、宣言したりするのは人間だ。
それは検証可能な客観的な基準に基づいて行われる。
人間が決めた基準に基づく、人間が行う検査。
そんなもんが、完全なわけはない(そうなのかあ?)。
もちろん、最善は尽くされるべきだが、そこには超えることができない限界が存在する。
100パーセントの安全はない。
全ては、そこからスタートする。
そして、完全なる存在を求め続ける永遠の行為が続くわけだ。
その人間の姿が安心を与える。
安心は、不完全な安全に胡坐をかくことなく、額に汗して完全を求め続ける人間が作り出す幻想だ。
現実の中で、安心を得るにはそれしかない。
福野礼一郎だったか、記憶に定かではないんだが、ピラミッドを押す話を読んだことがある。
過剰な品質についての話だったと記憶している。
先月、エジプト旅行に行った際、クフのピラミッドの礎石を力いっぱい押してみた。
もちろん、びくともしない。
そこで感じたのは、安全とか、安心とか、品質とかいう前に、あほくささのようなもんだったな。
ピラミッドを押すという行為の無意味さ・・・。
無意味なほどの過剰さ。
人間の一生を通じて、決して揺らぐことはないという確信だ。
数千年を経て変わらぬ歴史的事実、今後、数千年を経ても揺るぎっこないという実感。
せいぜい数十年しか持たない航空機や自動車などの工業製品にはない、絶対的な信頼感がそこにはあった。
まあ、比較したって意味はないだろうけどな。
そういう、絶対的な安心感というのは、現代の工業製品には求められない。
ベンツの有名なキャッチがある。
「Das Beste oder nichts(最善か無か)」
或いは、シャシーはエンジンより速くなくてはならないというのもある。
1991年製300E、1992年製500E(いずれも中古で購入)と乗り継いできた浮沈子は、同クラスの日本車にはない、その絶対的な安心感に酔った(えーと、これってクルマ酔い?)。
けれど、そのベンツにしたって、本国では警察より早く事故現場に赴くという逸話を生むほど、熱心に事故の情報収集及びその解析に当たってきたという経緯がある。
安心は一日にして成らず(浮沈子)
繰り返しになるが、神ならぬ人間が与えうる安心は、そういったソフトの部分も含めた過剰な品質、完全なる安全を求め続ける努力の継続にしかないということだ。
人間は、人間の行為にしか安心を感じない。
逆に、安心だと感じれば、多少の危険があったとしても安全と信じてしまう。
やれやれ・・・。
ロジカルな安全の確認と、実績に基づいた安心の確保。
当事者であるメーカーや規制当局には、安全に対する真摯な態度を求めるとともに、消費者に安心を与える信頼感の醸成にも力を尽くしてもらいたいものだ。
人の作りしものに完全なものはない。
形あるものは全て壊れる。
もの作りの当事者には、永遠不変の真理に対する謙虚な態度が求められる。
更に、改良、改善、保守に対する不断の努力も。
それは、もの作りだけではなく、役務の提供を生業とするサービス業にも当てはまるかもしれない。
安全を担保する過剰な品質と製品に対する謙虚な態度、安心を与える不断の努力。
作り手(役務の与え手)の心から、使い手(受益者)の心にダイレクトに繋げることができれば、安心はおのずから生じる。
まあ、もっとも、与える方の心が泥塗れでは、話にもなんにもならんけどな・・・。
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