隣人 ― 2015年12月31日 08:28
隣人
午前中の座学、昼間の海洋プレゼン、夜のEFR(これは別口)のアシストが続く(30日)。
年末年始の時期にまとめて講習が組まれている。
でも、受講生が、上達する様を見るのは楽しい。
久しぶりに、EFRのインストラクター用のテキストを開いて、内容を見返しながら、講師役の名調子に聞き入る。
実技の部分では、少しお手伝いをさせて頂いた。
グッド・サマリタン法の話に、昔書いた記事を思い出す。
(善きサマリア人)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199838
(隣人)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/07/12/7386859
相変わらずのヨタぶりだな。
自らもEFRの講習を受け、今日のように新たな受講生を迎えて、普及を図る側にいながら、その限界を感じているわけだ。
講師は、シアトルの話をしていた。
(世界一の救命都市と言われている場所、ご存じですか?)
http://news.doctor-trust.co.jp/?p=10320
「背景には、法的責任への不安 がある。」
(私が「千葉市を日本のシアトルに!」を始めた理由[1])
http://coffeedoctors.jp/news/581/
「シアトルではバイスタンダーCPR(そばに居合わせた人による救急蘇生)が、人間としてやるべき当然のことという文化があり、BLS(Basic Life Support:一次救命処置)と救命の鎖の重要性を皆が知っています。」
文化の違い、法律の違いで人の命は救われたり救われなかったりする。
それは、仕方がないことなんだろう。
隣人を救うことに、勇気が必要とされる我が国の文化の中では、救命という切羽詰まった状況ですら、なかなか対応が出来ないでいる。
「1:倒れている人がいたら「どうしました」と声をかける勇気
2:その人の意識がなかったら「おーい、誰か来てくれ」と大きな声で助けを呼ぶ勇気
3:AEDが来たら自分でショックボタンを押す勇気」
まあ、AEDが届くまでの間、CPRを続けなければ効果は期待できないけどな。
隣人に対して、益々無関心になり、面倒に巻き込まれずにいるにはどうしたらいいかという点に関心が向く。
隣にいる人とのコミュニケーションにスマホを弄り、バーチャルな世界でしか自己実現が出来なくなっている。
そんな現代の風潮の中で、隣人とは、文字通り隣の人で、赤の他人のことだと解かる。
しかし、嘆いていても仕方ない。
隣人が助け合い、支えあって生きていた時代は過去のものになり、金銭のやり取りや電子のチカチカを通じて繋がりを保つようになる。
それが21世紀の隣人というものなのかもしれない。
そもそも、サマリア人の話は、何人であれ、そこに居合わせた者は助け合うべきだという意味で、隣人というたとえを出しているに過ぎない。
そもそも、隣人は助け合うものだという前提がある。
その、助け合いの方法が、2000年前と今とでは変わっているだけなのかもしれない。
その意味では、21世紀になっても、やはり、バイスタンダー(偶然、その場に居合わせた者)は、互いに助け合うべきなんだろうな。
実技では、救急車を呼びに行くというシチュエーションで、ポケットからスマホを取り出して掛けていたっけ・・・。
AEDだって、電子の世界の器械だ。
心電図を取り、解析し、治療を行う。
医療ロボットなのだ。
CPRしたり、AEDを取りに行ったりということは、やはり人間がやらなくっちゃならないが、それだってそのうちロボットがやるようになるに決まっている。
隣人のように。
EFRの後、救命の連鎖の先にあるのは、エリジウムに出てきた医療ポッドや、看護ロボットの世界になっているかも知れないな。
そんな未来の隣人とは何だろう?。
不沈子は、それでも、ロボットが隣人になることはないと信じたい。
医療ロボットを作り、自動運転救急車を走らせるのは、あくまでも隣人愛に基づく行為である(たぶん)。
人が人を大切にし、人が人を助ける。
人の世の掟が変わることはない。
変わったように見えるのは、その手段に過ぎない・・・。
だが、果たして、そう言い切れるんだろうか?。
気が付けば、ロボットがロボットを救助するようになっていたりして(CPRは必要ないかもしれませんが)。
人の世は、隣人で出来ている。
人と人との繋がりが数回重なるだけで、世界中の人々が知り合いになるというのがフェイスブックの売りだった(記憶では、6回で米国大統領にたどり着くとか?)。
しかし、それは虚構である。
バーチャルな世界は、あくまでもリアルな世界を補完するものだ。
未来は電子のチカチカの中にも、金銭のやり取りの中にもない。
道ですれ違う極々ふつーの人々の中にしかないのだ。
人の世が、人の世である限り、それは変わることはない。
夜7時から始まったEFR講習が終わったのは、11時を過ぎてからだった。
また、何人かの若いエマージェンシー・レスポンダーが人の世に送り出された。
この連鎖を繋げていくことでしか、人の世は保てない。
良き隣人の手助けになれたことは幸せだった。
午前中の座学、昼間の海洋プレゼン、夜のEFR(これは別口)のアシストが続く(30日)。
年末年始の時期にまとめて講習が組まれている。
でも、受講生が、上達する様を見るのは楽しい。
久しぶりに、EFRのインストラクター用のテキストを開いて、内容を見返しながら、講師役の名調子に聞き入る。
実技の部分では、少しお手伝いをさせて頂いた。
グッド・サマリタン法の話に、昔書いた記事を思い出す。
(善きサマリア人)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2011/11/12/6199838
(隣人)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/07/12/7386859
相変わらずのヨタぶりだな。
自らもEFRの講習を受け、今日のように新たな受講生を迎えて、普及を図る側にいながら、その限界を感じているわけだ。
講師は、シアトルの話をしていた。
(世界一の救命都市と言われている場所、ご存じですか?)
http://news.doctor-trust.co.jp/?p=10320
「背景には、法的責任への不安 がある。」
(私が「千葉市を日本のシアトルに!」を始めた理由[1])
http://coffeedoctors.jp/news/581/
「シアトルではバイスタンダーCPR(そばに居合わせた人による救急蘇生)が、人間としてやるべき当然のことという文化があり、BLS(Basic Life Support:一次救命処置)と救命の鎖の重要性を皆が知っています。」
文化の違い、法律の違いで人の命は救われたり救われなかったりする。
それは、仕方がないことなんだろう。
隣人を救うことに、勇気が必要とされる我が国の文化の中では、救命という切羽詰まった状況ですら、なかなか対応が出来ないでいる。
「1:倒れている人がいたら「どうしました」と声をかける勇気
2:その人の意識がなかったら「おーい、誰か来てくれ」と大きな声で助けを呼ぶ勇気
3:AEDが来たら自分でショックボタンを押す勇気」
まあ、AEDが届くまでの間、CPRを続けなければ効果は期待できないけどな。
隣人に対して、益々無関心になり、面倒に巻き込まれずにいるにはどうしたらいいかという点に関心が向く。
隣にいる人とのコミュニケーションにスマホを弄り、バーチャルな世界でしか自己実現が出来なくなっている。
そんな現代の風潮の中で、隣人とは、文字通り隣の人で、赤の他人のことだと解かる。
しかし、嘆いていても仕方ない。
隣人が助け合い、支えあって生きていた時代は過去のものになり、金銭のやり取りや電子のチカチカを通じて繋がりを保つようになる。
それが21世紀の隣人というものなのかもしれない。
そもそも、サマリア人の話は、何人であれ、そこに居合わせた者は助け合うべきだという意味で、隣人というたとえを出しているに過ぎない。
そもそも、隣人は助け合うものだという前提がある。
その、助け合いの方法が、2000年前と今とでは変わっているだけなのかもしれない。
その意味では、21世紀になっても、やはり、バイスタンダー(偶然、その場に居合わせた者)は、互いに助け合うべきなんだろうな。
実技では、救急車を呼びに行くというシチュエーションで、ポケットからスマホを取り出して掛けていたっけ・・・。
AEDだって、電子の世界の器械だ。
心電図を取り、解析し、治療を行う。
医療ロボットなのだ。
CPRしたり、AEDを取りに行ったりということは、やはり人間がやらなくっちゃならないが、それだってそのうちロボットがやるようになるに決まっている。
隣人のように。
EFRの後、救命の連鎖の先にあるのは、エリジウムに出てきた医療ポッドや、看護ロボットの世界になっているかも知れないな。
そんな未来の隣人とは何だろう?。
不沈子は、それでも、ロボットが隣人になることはないと信じたい。
医療ロボットを作り、自動運転救急車を走らせるのは、あくまでも隣人愛に基づく行為である(たぶん)。
人が人を大切にし、人が人を助ける。
人の世の掟が変わることはない。
変わったように見えるのは、その手段に過ぎない・・・。
だが、果たして、そう言い切れるんだろうか?。
気が付けば、ロボットがロボットを救助するようになっていたりして(CPRは必要ないかもしれませんが)。
人の世は、隣人で出来ている。
人と人との繋がりが数回重なるだけで、世界中の人々が知り合いになるというのがフェイスブックの売りだった(記憶では、6回で米国大統領にたどり着くとか?)。
しかし、それは虚構である。
バーチャルな世界は、あくまでもリアルな世界を補完するものだ。
未来は電子のチカチカの中にも、金銭のやり取りの中にもない。
道ですれ違う極々ふつーの人々の中にしかないのだ。
人の世が、人の世である限り、それは変わることはない。
夜7時から始まったEFR講習が終わったのは、11時を過ぎてからだった。
また、何人かの若いエマージェンシー・レスポンダーが人の世に送り出された。
この連鎖を繋げていくことでしか、人の世は保てない。
良き隣人の手助けになれたことは幸せだった。
潜りおさめ ― 2015年12月31日 17:25
潜りおさめ
今日も、午前中の講義に引き続き、限定水域、海洋プレゼン。
昼飯にありついたのは、午後4時前。
夢中になって取り組む講習生に、コースディレクターが放った最後の矢は、20m程の透明度の中でのファンダイブ。
タンクの残圧(海洋プレゼンでは、ほとんど減らないので)を使って、気分転換・・・。
ドライスーツのホースをつけ忘れた浮沈子は、水中でホースの端を探してもらう羽目に。
まあいい。
左手のテトラポッド(これは、商品名だそうです)の方角に、10mくらいの中層を浮遊しつつ、三ツ岩の上空(?)を通過する。
美味そうな魚の群れ。
イカもいるし。
富戸の冬の海は、絶品だな。
温泉丸に浸かって、冷えた手や顔を温める。
ドライスーツとはいえ、出ているところは冷たいのだ。
受講生の知識プレゼンのお題に、サンゴ礁の形成に関する問題が出ている。
処方的な解説をどのように行うかというところだが、サポート役の浮沈子は特に役割はない。
サンゴは海中の二酸化炭素を炭酸カルシウムとして固定し、地球の大気をコントロールする上で重要な役割を果たしている。
しかし、その絶対量は決して多くはない。
海中のプランクトンなどが生産する割合に比べれば、微々たるものだ。
しかし、海中生物種の多様化に果たす役割は多いといわれる。
サンゴ礁については、このブログでも取り上げたことがある。
(珊瑚礁)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/04/11/7272785
「造礁サンゴの繁殖に適している海は、25-30℃ほどの高水温、3-4%ほどの高い塩分濃度、深くても水深30mほどの浅くてきれいな海域である。地球は西から東へ自転するため、赤道付近では海水が自転に置き去りにされる形で西向きの暖流が発生し、高緯度地方からの寒流がその後に入りこんでいる。太平洋、インド洋、大西洋どれも西側にサンゴ礁が集中し、東側にあまり見られないのはこの理由による。」
南の海なら、どこにでもあるというわけでもないのだ。
ふーん・・・。
「まず熱帯の火山島の周囲に珊瑚礁が形成される。その後、火山島が沈降することにより、珊瑚礁のみが上方に成長、中央の火山島が完全に海面下になると、楕円状の珊瑚礁のみが海面に残る。現在では、沈降の原因はプレート運動で説明される。したがって、環礁は海洋プレート上の、ホットスポットから離れた周辺部で、しかも低緯度の地域に存在する。」
サンゴ礁の形成には、地球のダイナミックな運動が関わっているようだ。
もちろん、太陽の恵みも受けている。
海中のプランクトンを捕食するだけではなく、褐虫藻との共存により、光合成によって得た有機物を活用する。
宇宙の運行とも、深く結び付いているのだ。
今、目の前にあるものだけを見ていては、物事は理解できない。
全ては、全体の中の一部分であり、悠久の時の流れに漂うひとひらの花びらのようなものだ。
それは、全てに共通する何かに他ならない。
命とか、存在とか、神とか・・・。
まあ、どうでもいいんですが。
富戸のヨコバマは、今日も波穏やかな年末を迎えている。
これから、ナイトダイビングに出発する面々が、IOPに向かう車に乗り込むところだ。
彼らにとっては、これで、本当の潜りおさめである。
今夜は、浮沈子にとっても、長い長い1年の終わりを迎える。
ダイブマスターを取った昨年。
AIとOWSIを取った今年。
念願のCCRインストラクターを目指す来年(あくまで、予定ですが)。
良い仲間に恵まれ、新しい年を心豊かに迎えられそうだ。
天体の運行に区切りはない。
地球軌道上の1年が経ったからいって、何が変わるわけでもないのだ。
区切りなき時間の流れを区切り、何かが終わったことにして、新しい事へと取り組むよすがとする。
人間の知恵が生み出した、この区切りの時を楽しむ。
いつの間にか、夜はとっぷりと暮れ、部屋は静寂に満たされている。
いや、厨房では大晦日のパーティに出すカルパッチョの味付けについて、何やらもめる声と共に、鍋の蓋が触れ合う音もする。
今年も、相変わらず、賑やかな年越しになりそうだ。
しかし、今回の年末は、先代のオーナーは来ないという。
歳歳年年人同じからず・・・。
皿の触れ合う音、料理の素材のパックを開ける音。
新しい器に盛る、新しい年を迎えようとしている。
まあ、カルパッチョでもいいか・・・。
今日は、潜りおさめ。
ヨコバマの砂地の風景と共に、記憶に残る1本だったな。
今日も、午前中の講義に引き続き、限定水域、海洋プレゼン。
昼飯にありついたのは、午後4時前。
夢中になって取り組む講習生に、コースディレクターが放った最後の矢は、20m程の透明度の中でのファンダイブ。
タンクの残圧(海洋プレゼンでは、ほとんど減らないので)を使って、気分転換・・・。
ドライスーツのホースをつけ忘れた浮沈子は、水中でホースの端を探してもらう羽目に。
まあいい。
左手のテトラポッド(これは、商品名だそうです)の方角に、10mくらいの中層を浮遊しつつ、三ツ岩の上空(?)を通過する。
美味そうな魚の群れ。
イカもいるし。
富戸の冬の海は、絶品だな。
温泉丸に浸かって、冷えた手や顔を温める。
ドライスーツとはいえ、出ているところは冷たいのだ。
受講生の知識プレゼンのお題に、サンゴ礁の形成に関する問題が出ている。
処方的な解説をどのように行うかというところだが、サポート役の浮沈子は特に役割はない。
サンゴは海中の二酸化炭素を炭酸カルシウムとして固定し、地球の大気をコントロールする上で重要な役割を果たしている。
しかし、その絶対量は決して多くはない。
海中のプランクトンなどが生産する割合に比べれば、微々たるものだ。
しかし、海中生物種の多様化に果たす役割は多いといわれる。
サンゴ礁については、このブログでも取り上げたことがある。
(珊瑚礁)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/04/11/7272785
「造礁サンゴの繁殖に適している海は、25-30℃ほどの高水温、3-4%ほどの高い塩分濃度、深くても水深30mほどの浅くてきれいな海域である。地球は西から東へ自転するため、赤道付近では海水が自転に置き去りにされる形で西向きの暖流が発生し、高緯度地方からの寒流がその後に入りこんでいる。太平洋、インド洋、大西洋どれも西側にサンゴ礁が集中し、東側にあまり見られないのはこの理由による。」
南の海なら、どこにでもあるというわけでもないのだ。
ふーん・・・。
「まず熱帯の火山島の周囲に珊瑚礁が形成される。その後、火山島が沈降することにより、珊瑚礁のみが上方に成長、中央の火山島が完全に海面下になると、楕円状の珊瑚礁のみが海面に残る。現在では、沈降の原因はプレート運動で説明される。したがって、環礁は海洋プレート上の、ホットスポットから離れた周辺部で、しかも低緯度の地域に存在する。」
サンゴ礁の形成には、地球のダイナミックな運動が関わっているようだ。
もちろん、太陽の恵みも受けている。
海中のプランクトンを捕食するだけではなく、褐虫藻との共存により、光合成によって得た有機物を活用する。
宇宙の運行とも、深く結び付いているのだ。
今、目の前にあるものだけを見ていては、物事は理解できない。
全ては、全体の中の一部分であり、悠久の時の流れに漂うひとひらの花びらのようなものだ。
それは、全てに共通する何かに他ならない。
命とか、存在とか、神とか・・・。
まあ、どうでもいいんですが。
富戸のヨコバマは、今日も波穏やかな年末を迎えている。
これから、ナイトダイビングに出発する面々が、IOPに向かう車に乗り込むところだ。
彼らにとっては、これで、本当の潜りおさめである。
今夜は、浮沈子にとっても、長い長い1年の終わりを迎える。
ダイブマスターを取った昨年。
AIとOWSIを取った今年。
念願のCCRインストラクターを目指す来年(あくまで、予定ですが)。
良い仲間に恵まれ、新しい年を心豊かに迎えられそうだ。
天体の運行に区切りはない。
地球軌道上の1年が経ったからいって、何が変わるわけでもないのだ。
区切りなき時間の流れを区切り、何かが終わったことにして、新しい事へと取り組むよすがとする。
人間の知恵が生み出した、この区切りの時を楽しむ。
いつの間にか、夜はとっぷりと暮れ、部屋は静寂に満たされている。
いや、厨房では大晦日のパーティに出すカルパッチョの味付けについて、何やらもめる声と共に、鍋の蓋が触れ合う音もする。
今年も、相変わらず、賑やかな年越しになりそうだ。
しかし、今回の年末は、先代のオーナーは来ないという。
歳歳年年人同じからず・・・。
皿の触れ合う音、料理の素材のパックを開ける音。
新しい器に盛る、新しい年を迎えようとしている。
まあ、カルパッチョでもいいか・・・。
今日は、潜りおさめ。
ヨコバマの砂地の風景と共に、記憶に残る1本だったな。
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