ルマン観戦記(その2:予選そして)2014年06月18日 07:59

ルマン観戦記(その2:予選そして)
ルマン観戦記(その2:予選そして)


予選の観戦は、TGVでモンパルナスからルマンへの移動が必要だ。

オルセーの時間を拘束されたくなかったので、当日買いにした。

一等車で83ユーロというべらぼうな値段である。

まあいい。

この辺りは、金に糸目は付けない。

地下鉄の駅からの乗り継ぎに、延々と歩くが、許容範囲だな。

一度、入りなおさないといけないので、切符は捨てないで持っておく必要がある。

帰りは、そんな必要はなかった。

国鉄の駅に着いて、自動販売機で切符を買う。

英語モードにして、いい加減にタッチしたら、なんとか買えたが、19時頃の列車しかなかった。

モンパルナスの駅で時間を潰す。

こんなことなら、もっとオルセーにいても良かったのに。

浮沈子は、自動車レースの観戦というのは生まれて初めてである。

本番のレースは、様々な要件が加わって、自動車の本来の性能というのが分からないが、予選は耐久性を別にすればクルマ本来の実力が見える。

そこで、是非とも予選(しかも、最終レグ)を観戦したかったわけだ。

まあ、TGVに乗りたかったというのもあるんだが。

駅構内の喫茶店で時間を潰し、列車の入線を待つ。

何番線に入ってくるかは、直前にならないと表示されない。

この辺が日本と違うところだな。

席に着くと、その広さに驚く。

ボックス席で、足元は狭いが、幅は広い。

雑誌が置いてあったのだが、貰って来るのを忘れた。

なめらかに動き出すと、その静かさと振動のなさに驚いた。

新幹線よりも振動を感じない。

線路のせいなのか、列車の構造によるものなのかは不明だが、本当に疲労が違う。

都心部を抜けると、景色は田園風景に一変する。

小麦畑や牧草地が広がり、牛が草を食っている。

ああ、フランスは農業国なのだと納得する。

55分の短い間だったが、あっという間に着いてしまった。

ルマン駅といっても、駅前に商店街が軒を連ねているということはない。

閑散とした駅前だ。

トラムの切符を自動販売機で買う。

画面の選択は、丸いボタンで行うが、左右に回すというのが分からなくて、往復の2枚買いが出来ずに1枚だけ買った。

帰りの夜中の列車の切符も買っておきたかったのでインフォメーションで聞くと、どうやらストの影響で列車がなくなったらしく、朝7時頃のTGVを買えと言われた。

またもや83ユーロの大出費である。

まあ、仕方ない。

トラムは、サーキット方面は2つの系統があるらしく、最終駅のアンタレス行きに乗る。

当日の表示は、「24」という数字が入っていた(すいません、後は覚えていないので)。

ルマン市内から、歩いていける距離ではない。

アンタレスの一つ前で、殆どの乗客が降りてしまったので、この駅の方が近いのかもしれない。

(トラムの路線図あります)
http://www.setram.fr/upload/horaires_hiver_2013/LTram.pdf

トラムのチケットは、カード大で、乗車してから車内の機械に通すのだが、意味は不明である。

検札もなく、そのまま降りても、何の問題もない。

もちろん、券を買わずに乗れば、周りの乗客の目があるので肩身が狭いということはある。

相互牽制させているんだろうか。

そのための機械だとしたら、なかなか奥が深い仕組だ。

まあ、どうでもいいんですが。

終点の駅で降りて、事前に杉山さんからもらった去年の地図を頼りにゲートにたどり着く。

サルト・サーキットは、普段は2輪レース用のサーキットらしい。

(ブガッティ・サーキット)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%88

「「ブガッティ・サーキット」は、非常設の公道コースである「サルト・サーキット」(全長13.629km)に増設する形で1966年に造られた。2輪の「ル・マン24時間レース」は、「ブガッティ・サーキット」で開催される。4輪の「ル・マン24時間耐久レース」のみ、公道を閉鎖する「サルト・サーキット」で開催される。
「ブガッティ・サーキット」と「サルト・サーキット」が併用する部分は、ターン14「Reccordement」からターン5「La Chapelle」までと、ピットレーンやパドックなどの諸設備である」

このサーキットの、ルマン24時間レースでは使用されていないコースを潜るトンネルを抜けて、ダンロップブリッジ(というか、横断歩道橋だな)を渡って、第1コーナー手前の、モニターと順位を表示する電光掲示板の見える場所に陣取る(画像参照)。

着いた時には、ちょうど第2レグが終わったところで、もう少し早く着いていれば第2レグも観られたのにと悔やまれた。

まあいい。

とにかく驚いたのは、その音の大きさである。

LM-GTEクラスのフェラーリが通り過ぎると、耳の穴の掃除になるくらいの爆音である。

それに引き換え、アウディのR18eトロンクワトロは、殆ど排気音が聞こえないくらい静かだ。

不気味なほどである。

そのくせ速い!。

ポルシェやトヨタは、それなりの排気音だ。

特徴ある音をさせていたのは、アストンマーチンであった。

予選第3戦では、アウディ3号車が3位から4位に落ち、トヨタの8号車と入れ替わったくらいしか順位の変動はなかった。

ちと、期待はずれだな。

参考までに、予選の順位とタイムをLMP1クラスだけ書いておく(当日、メモしたものです)。

1位:7号車:トヨタ:3分21秒789
2位:14号車:ポルシェ:3分22秒146
3位:8号車:トヨタ:3分22秒523
4位:3号車:アウディ:3分23秒364
5位:20号車:ポルシェ:3分24秒513(ちょっと怪しい:字が汚くて読めない)
6位:2号車:アウディ:3分24秒729
7位:1号車:アウディ:3分25秒814
8位:12号車:リベリオン:3分29秒763
9位:13号車:リベリオン:3分33秒050

これを見ると、トヨタの優位性は抜群で、アウディの勝ち目なんか全くない。

ポルシェは、壊れさえしなければ、いいとこ行くだろうという感じだった。

トップの7号車と、LMP1-Hクラスのドンジリの1号車のタイムが3秒以上離れているが、LMP1ーLは、そこからさらに4秒弱離れているので、勝負にならないことが分かる。

今回、このLMP1-Lクラスは、リベリオンだけだったが、タナボタでもない限りは、LMP1-Hクラスの敵ではない。

それにしても、ポルシェ20号車のドンガメ振りには腹が立つ!。

トップの7号車の、ほとんど3秒落ちじゃん!。

こんなことでいいと思ってるのかあ?。

よくない!。

従って、浮沈子的には予選の結果には、大いに不満である。

14号車だって、もっとタイムを削ってもいいはずだ。

予選は、さっきも書いたが、車としての性能のアピールの場である。

ということは、ポルシェがトヨタに及ばないという結果になったということである。

許せん!。

確かに、第1戦、第2戦をみても、TSー040の戦闘力は高いし、性能も安定している。

ポルシェも、性能は侮れないが、完成度や耐久性に難があることは確かだ。

しかし、ここ一発の速さを競う予選に於いて、トヨタの後塵を拝する結果となったことは、大いなる屈辱であろう。

予選、いのち!。

浮沈子のルマンは、実質的にはここで終わった!。

本戦は、予選の数秒遅れのちんたらしたペースで、周回遅れの下のクラスをかわしながらの、ゆるーい旅路になるわけで、さらにはクラッシュでペースカーがはいったりするわけで、ある意味でスピードレースではない。

燃料のマネジメントもあるし、ドライバーの疲労、タイヤの管理、それこそメカの耐久性の問題が複雑に絡んで、クルマの出来不出来だけでは結果が出せないこともある。

そこが耐久レースの面白さでもあるわけだが、予選は機械としてのクルマの優劣を明らかにする。

そこで、ポルシェが負けるかあ?。

20号車に至っては、アウディにすら負けている。

絶句・・・。

本戦は、浮沈子にとっては、まあ、余興のようなものである。

がっくりと肩を落として、トラムの駅に向かった。

時刻は、もうすぐ夜中の1時である。

ルマン駅に着いても(一駅乗り過ごして、歩いて戻りましたが)、国鉄の駅は閉まっていて、表で夜明かししなければならない。

同じツアーのKさんがいて、2人でトラムのベンチに座って話しながら時間を潰していた。

そんなことをしているのは、我々だけである。

酔っ払いが一人、絡んできたが、しばらく相手をして、離れないのでこっちが移動して振り切った。

駅の向かいの店の前のベンチで休んでいると、3時頃に駅が開いた。

駅の中に移動すると、暖かいので助かる。

この時期のルマンは、明け方は寒い。

駅の中で、日本から予選だけ観に来た日本人の留学生に会った。

3人で話しながら待っていると、こんどは寸借詐欺に引っ掛かってしまった。

留学生が、仏心を出して、1ユーロをやってしまったら、たぶん同じグループの連中が、次々にやってくる。

仕方ないので、あちこち移動しながら逃げてまわった。

5時頃になって、駅員がうろうろしだしたらいなくなった。

フランスって、意外な面を持っている国だと感じた。

結局、Kさんと留学生は、5時半頃の普通列車で帰っていった。

浮沈子は、7時頃のTGVで後を追いかけて、8時頃にモンパルナスに着いた。

TGVの席には、マドモアゼルがしっかり座っていたので、正規購入のチケットをちらつかせてどいてもらう。

こういうお国柄なのだろう、浮沈子も、慣れてしまって、にっこり笑ってどいてもらった。

夜明かしして疲れていたので、パリまでの1時間は、ぐっすりと眠れた。

帰りの車両は、ボックス席ではなく、前向きの椅子だったが、ゆとりがあってストレスはない。

向かい合わせでないほうが、浮沈子はいいな。

こっちの方が、足元にゆとりがある。

残念なことに、TGVマガジンは置いてなかった。

モンパルナスから12号線でピガレに着いて、2号線に乗り換える時に失敗して、出口から出てしまった。

さてと、そこは出口専用なので、改めて乗るにしても入り口を探さなければならないし、ピガレからホテルは近いので、なんとか歩いて戻ることにしたが、どっちにいっていいのかわからない。

モンマルトルの辺りは、坂を上れば知ってる道に出るだろうと踏んで歩き始めた。

行けども行けども、見たことのある景色には行き着かない。

仕方なく、今度は下り始めて、ようやく知った道にぶつかり、ムーランルージュにたどり着いた。

ここからは、ホテルまですぐである。

9時頃にホテルに着いて、朝食を食べ、シャワーを浴びて仮眠を取った。

目が覚めると、14時半である。

しまった、寝過ごした!。

今日は、1日、パリ観光をする予定だったのに・・・。

ターゲットを絞って、作戦を練る。

ぐっすり寝たので、体調もまあまあだ(足が筋肉痛なだけ)。

地下鉄の路線図と、事前に調べた情報を元に、3つのターゲットに絞る。

・マルモッタン美術館
・オランジェリー美術館
・凱旋門登頂

昼飯抜きで、再び行動開始である。

(この項、続く)

ルマン観戦記(その3:パリの日本人)2014年06月18日 10:33

ルマン観戦記(その3:パリの日本人)
ルマン観戦記(その3:パリの日本人)


2日目のパリ観光については、その一部を既に書いた。

(印象の印象)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/06/14/7343846

マロニエの並木が連なる公園を抜けて、午後の日差し溢れるマルモッタン美術館に通じる道を歩くのは、本当に気持ちが良かった。

公園の中では、生の音楽を演奏していたり、子供たちがシャボンをぬたくり合って遊んでいたりした。

ああ、パリって、観光地じゃなくて人間が住む所なんだとつくづく感じる。

旅行に行くと、いつも思うのだが、どこに行っても、そこは地元の人々にとってはおらが町なのであって、日々の生活が営まれているのだ。

われわれは、常によそ者であり、遠慮がちに(図々しく?)、その生活の一端を盗み見ているに過ぎない。

ベンチに腰掛け、芝生に寝転び、思い思いに寛ぐ人々。

その中で、浮沈子は、一人浮いている。

この国では、東洋人に対して、あからさまな差別を感じることがある。

誰もがそうだとは言わないが、そういう目線があるというのは、実感としてある。

言葉の問題があるのかも知れず、浮沈子の風采が上がらないことを差し引いても、人種差別はあるのだ。

欧州は、日本から遠い地である。

日本もまた、欧州から遠い。

そのパリの街中で、浮沈子は、孤独だった。

この町に、住みたいとは思わなかったが、町の景色に溶け込んでいる人々を見ると、妙に望郷の念に駆られたことも確かだ。

所詮は、異邦人なのである。

しかし、まあ、来ちまったものは仕方ない。

マルモッタンを観た後、ラ・ミュエット駅から地下鉄に乗り、昨日車で走り抜けたコンコルド(広場)に着く。

チュイルリー庭園の一角にあるオランジェリー美術館に向かう。

(テュイルリー宮殿)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%AE%AE%E6%AE%BF

収蔵品は限られているが、モネの睡蓮の壁画(?)を観ずに、パリを離れるわけには行かない。

インプレッショ二ズムおたくとしては、この連作は外せないな。

(オランジュリー美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

「もともとはテュイルリー宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったが、1927年、モネの『睡蓮』の連作を収めるために美術館として整備されたのである。」

そう、この美術館の2つのオーバルルームは、この美術館の存在意義そのものである巨大な睡蓮の連作(1室に4点、計8点)が納められている。

(睡蓮 (モネ))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A1%E8%93%AE_(%E3%83%A2%E3%83%8D)

(オランジェリーのオーバルルームを、クイックタイムで見ることができるページ)
http://www.musee-orangerie.fr/homes/home_id24799_u1l2.htm

まあ、実際に見ると、巨大な壁画に圧倒されて、やや食傷気味になる。

げっぷが出るほど、睡蓮漬けになること請け合いだ。

浮沈子が好きなのは、ブリヂストン美術館のヤツだな。

あれはいい。

今回も、モネの睡蓮は何点か観たが、ブリヂストンを超えるものはなかったように思う。

(クロード・モネ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D

「『睡蓮』の連作:
「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作したが、もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。」

「晩年はモネが白内障を患い、失明寸前の状態にあったこともあり、画面は限りなく抽象に近付いている。」

「1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。」

「パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、(2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。」

なお、この記事には、マルモッタンの印象・日の出が、実は夕日だという記述もある。

「1873年12月には、仲間の画家ピサロ、シスレー、ルノワールらと「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。1874年4月 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこの「匿名協会」の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる、歴史的展覧会である。この第1回展にモネは油絵5点、パステル7点を出品。出品作のうち、『印象・日の出』(1873年)は、「印象派」という名称の由来となったことでよく知られている。なお、一般にはパリのマルモッタン美術館所蔵の絵が、この時の出品作だとされているが、マルモッタンの絵は実は「日没」を描いたもので、第1回印象派展に出品された『印象、日の出』とは別の作品だとする見方もある。」

まあ、どうでもいいんですが。

浮沈子は、モネがなぜあんなどでかい絵を描いていたのかを不思議に思っていたが、白内障との関連であったとは知らなかったな。

白内障を患っていたことは知っていたが、そのせいで画格が大きくなっていたということは初めて知った。

印象派の絵画は、世界中の美術館にある。

(印象派)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

「印象派の登場当初は、貴族や富豪らのパトロンを持たぬ画家の作品ということもあり、画壇での注目は低かったが、絵画市場や投機家によるもっぱら、経済絵画として扱われ始め、その後、世界の画壇を席捲するようにしている。」

やっぱ、金かあ・・・。

描写技術を確立した写実主義から、屋外絵画としてのバルビゾン派、その即興性の技術が、写真の発明、普及と呼応して、伝統的な絵画に飽き足らない需要を掘り起こし、ジャポニズムの刺激を受けて、印象派の台頭を見るに至るんだそうだ。

ホントかあ?。

まあいい。

「第1回印象派展の開催:
1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが私的に開催した展示会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになる。当時この展示会は社会に全く受け入れられず、印象派の名前はこのときモネが発表した『印象、日の出(Impression, soleil levant)』から、新聞記者が「なるほど印象的にヘタクソだ」と揶揄してつけたものである。」

改革の時期は、辛いものがあるなあ。

「印象派絵画の技法:
印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることである。時にはある瞬間の変化を強調して表現することもあった。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいる。また当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴である。また、それまでの画家たちが主にアトリエの中で絵を描いていたのとは対照的に、好んで屋外に出かけて絵を描いた。」

こういった絵画を成立させるに至る過程で、ジャポニズムが果たした役割が大きいという。

「日本画の自由な平面構成による空間表現や、浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家に強烈なインスピレーションを与えた。そして何よりも、絵画は写実的でなければならない、とする制約から画家たちを開放させる大きな後押しとなった。」

まあ、そういう解釈もあるだろう。

浮沈子は、印象派の台頭は、写真の発明、普及の影響と、屋外での絵画の作成という技術的な問題の方が大きいと感じている。

つまり、写実主義では食っていけなくなったわけだな。

明るいパステル調の絵が好まれ、家の中に屋外の風景を飾るという商業的な需要があればこそ、印象派の絵画が売れたわけだ。

絵画が、ステータスシンボルから、大衆に近づいていったということも出来るかも知れない。

特定のパトロンを持たずに出発していることも、その証のような気がする。

ルノワール、ゴッホ、モネなど、日本で人気の画家は、概ね印象派に連なる。

さて、孤独なパリの日本人である浮沈子は、18時に閉館となるオランジェリー美術館を追い出されるようにして、コンコルド広場に戻る。

夕日はまだ高く、人々は午後の日差しを楽しんでいる。

これから向かうのは、凱旋門である。

コンコルド広場の北東にあるメトロの入り口を見つけて、1号線でシャルル・ド・ゴール・エトワールに向かう。

1号線は、2号線と同じで全自動ドアだった。

で、駅から凱旋門に行くには、一旦地上に出て、ロータリーを渡る地下道入り口を探さなければならない。

適当に地上に出ても、横断歩道で放射状に伸びる街区に渡れるので、問題ない。

(エトワール凱旋門)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%87%B1%E6%97%8B%E9%96%80

浮沈子が行った時には、なんかの式典が行われていた。

螺旋階段を登るチケットは、地下道から地上に上がる階段のところで売っている。

10ユーロくらいだったかな。

そんでもって、螺旋階段の入り口でもぎりしてもらって、必死になって登るわけだ。

もう、昨日から歩き詰めで、足は痛いし、くたびれてるし、踊り場はないし(上のほうに行くと、扉のところでちょっと休むことが出来る)、しかし、根性出して一気に上った。

上には、2層の広い部屋があって、さらに階段を登ってようやく屋上に出る。

パリの街が一望の下に広がる。

苦労しても、登る価値は十分にある。

30分ほど、パノラマを堪能して、下りの階段を降りたところで下から見上げて写真を撮った(画像参照)。

さて、これで本日の予定は全て終了した。

晩飯をどこかで食べようと、杉山さんに教わったオペラ座近くのラーメン屋を目指すことにする。

またまた地下鉄に乗ると、車内でミッシェル(ビートルズ)をギターで歌っている2人組みがいた。

歌はうまかったが、うるさくて適わなかったので、途中駅で降りて、2本後の列車に乗ったが、こっちもカラオケで女性が歌っていた。

諦めて、ヴィリエ駅までガマンする。

オペラ座から少し歩いて、横道を覗くと、「サツポロラーメン」(ツが大文字)と書いたのぼりが出ていたので、速攻で店に入る。

(ここです!:グーグルマップのストリートビューで見られます)
https://www.google.co.jp/maps/@48.869185,2.332428,3a,75y,5.08h,89.26t/data=!3m4!1e1!3m2!1sz6RgZppUG23-A-1pR1taiw!2e0?hl=ja

なんと、中国語がバンバン飛び交っている(いやな予感はしたんだよなあ)。

店の壁に掛かってるメニューは、縦書きの日本語だけ。

まあ、仕方ない。

米の飯が食いたくなって、セットメニューのカツ丼を頼む。

13.5ユーロ。

たっけえなあ。

まあ、仕方ない。

生野菜のサラダ、餃子3個、おしんこ、味噌汁付きである。

餃子って、なんなのさ!。

まあ、仕方ない。

生野菜のサラダは美味しかったな。

肝心のカツ丼の味はサイテー。

量は十分だったので、浮沈子的には一応満足した。

やれやれ、ようやく今日の予定は終了である。

ヴィリエで2号線に乗り換え、ブランシェ(ホテルの最寄り駅、ムーランルージュのまん前)で降りる。

時刻は、8時過ぎであった。

シャワーを浴びてさっぱりしてから、ブログを書いていると、睡魔が襲ってきて寝てしまった。

パリの日本人は、疲れるのである・・・。

(この項、続く)

ルマン観戦記(その4:決勝初日)2014年06月18日 12:27

ルマン観戦記(その4:決勝初日)
ルマン観戦記(その4:決勝初日)


6月14日(現地時間)、今日はいよいよルマン本戦が始まる日だ。

しかし、浮沈子は、既にボロボロになっていて、筋肉痛と疲労と睡眠不足でものの役に立たない状態である。

それでも、モンマルトルに泊まっているのにサクレクール寺院を訪れないわけにはいかないだろうと。

で、早朝、書きかけのブログをアップすると、朝飯前にとことこと歩いて出かけた。

最寄り駅は、ブランシェから2号線で2駅のアンバース(?)とかいう駅なのだが、2号線の上は公園になっていて歩きやすいので、てくてくと歩く。

案内の標識が出ていたので、そこを左に曲がる。

(ここです!:グーグルマップのストリートビューで見られます)
https://www.google.co.jp/maps/@48.882872,2.34359,3a,27.6y,102.21h,84.31t/data=!3m4!1e1!3m2!1syYqP12QYjrHxZdSY3GGTRQ!2e0?hl=ja

ここを左に上がっていくと、T字路で突き当たって、左手に階段とケーブルカーがあるわけだ。

当然のように、最後の1枚の切符を使って、ケーブルカーで上がる(軟弱なので)。

朝のサクレクール寺院の前の階段は、ゴミだらけだった。

まあ、前日は金曜の夜なので、どんちゃん騒ぎでもやったんだろう。

清掃の人たちが、ゴミを収集していた。

モンマルトルの丘からの眺めは、なかなかいい。

時間も迫っていたので、短時間で切り上げ、下りは階段を使って、ホテルまで小走りで帰った。

大体、15分くらいか。

ゆっくり歩くと、20分以上かかる。

で、速攻で朝飯を食って、部屋に戻ってシャワーして、ツアーバスに乗る。

もう少しで、乗り遅れるところだった。

ツアーに乗ってしまえばこっちのものだ。

普段はミュージシャンが使うというバスで、2階には2段ベッドがあって、身体を伸ばして眠ることも出来る。

これは助かった。

とりあえず、往きの車中は、バスの前にある2階席に陣取って、某トラックメーカーのSさんのカルトな話を聞いたり、窓の外を過ぎていく景色を眺めたりしつつ、ルマンに近づくまでの時間を過ごす。

休憩を挟んで、高速の旅は順調だった。

途中から、しっかりと渋滞になったが、想定の範囲内で、午前中に到着した。

4時間だな。

ゲートから、スタンドの前まで案内してもらって、一応解散。

浮沈子は、腹ごしらえをすべく、ダンロップブリッジの向こう側まで遠征する。

なんとか、ド高い食料をゲットして、スタンドに戻り、指定席に収まって観戦モードに入る。

フリー走行があって、しばしの後、空から落下傘が降りてきたりしてイベントが続き、ようやく10分くらい前からローリングスタートが始まった。

そして、ほぼ定刻にスタートとなる。

午後3時、ルマン決勝のスタートである。

決勝の模様については、浮沈子よりも、メディアに詳しい。

(【ルマン24時間 2014】スタート…ファーストラップはポールのトヨタ TS040ハイブリッドがトップ)
http://response.jp/article/2014/06/14/225430.html

(【ルマン24時間 2014】序盤から大波乱…日産 ZEOD RCがストップ、ポルシェ14号車がスローダウン)
http://response.jp/article/2014/06/14/225431.html

(【ルマン24時間 2014】開始30分…逃げるトヨタ、アウディ怒濤の追い上げ)
http://response.jp/article/2014/06/14/225432.html

(【ルマン24時間 2014】ガレージで修理のポルシェ 919の14号車がコース復帰)
http://response.jp/article/2014/06/14/225433.html

(【ルマン24時間 2014】天候急変、豪雨でトヨタとアウディがクラッシュ)
http://response.jp/article/2014/06/14/225434.html

(【ルマン24時間 2014】アウディ3号車無念のリタイア、トヨタ8号車はカウル全破損も復帰)
http://response.jp/article/2014/06/14/225435.html

(【ルマン24時間 2014】豪雨で3台絡むクラッシュ発生…アウディ3号車がリタイア[動画])
http://response.jp/article/2014/06/15/225436.html

(【ルマン24時間 2014】3時間経過、豪雨で2度のセーフティーカー導入…ZEOD RCもリタイア)
http://response.jp/article/2014/06/15/225437.html

(【ルマン24時間 2014】4時間半経過、トップのトヨタ7号車にアウディ2号車が続く)
http://response.jp/article/2014/06/15/225438.html

(【ルマン24時間 2014】6時間経過、トップのトヨタ7号車は中嶋一貴にバトンタッチ…ポルシェの追い上げにも期待)
http://response.jp/article/2014/06/15/225439.html

浮沈子は、この辺りで既に引き上げてしまっている。

ポルシェ14号車が落ちた時点で、ほとんどテンションが下がってしまって、腹も減ったし、バスに戻って夜にもう一度来ようという魂胆である。

2度の豪雨で、サーキットは大荒れである。

天の計らいで、アウディの3号車が潰れたのはいいが、トヨタ8号車もクラッシュしてしまった。

なんとかピットまでたどり着いたのはいいが、なかなか出られない。

フロントサスペンションのリンクを交換しようとしていたらしいが、結局、左側は、フルアッセンブリー交換をしたようだった。

ポルシェの14号車もトラブルでピットに入って遅れてたし、惨憺たる状況である。

頼みの20号車は予選ドンガメなので、多くを期待できない。

浮沈子的には、既にルマンは終わったも同然である。

やってらんねえよ!。

バスに戻って、コーヒー飲んだりして時間を潰し、30分ほど仮眠して、11時頃再びスタンドに行くと、Sさんが一人で凍えていた。

食事に行った以外は、ずっとスタンドに張り付いていたらしい。

(【ルマン24時間 2014】8時間経過、サーキットは闇に包まれる…トヨタがトップを堅持)
http://response.jp/article/2014/06/15/225440.html

(【ルマン24時間 2014】9時間半経過、非ワークス勢はトヨタ・日産・ホンダバトルが熱い)
http://response.jp/article/2014/06/15/225443.html

(【ルマン24時間 2014】9時間経過、トヨタ中嶋一貴の力走でアウディとの差を広げる)
http://response.jp/article/2014/06/15/225444.html

Sさんと一緒に、1時間ほどでバスに戻る。

カップラーメンをご馳走になって、再び仮眠を取る。

仮眠の間にも、動きがあったようだ。

(【ルマン24時間 2014】まもなく折り返し、熾烈極めるトップ6の高速バトル)
http://response.jp/article/2014/06/15/225446.html

(【ルマン24時間 2014】12時間経過、アウディ1号車がガレージへ…ポルシェ3位浮上)
http://response.jp/article/2014/06/15/225448.html

(【ルマン24時間 2014】12時間経過、アウディ2号車が追撃再開…トヨタ7号車に猛烈なプレッシャー)
http://response.jp/article/2014/06/15/225449.html

(【ルマン24時間 2014】12時間半経過、ポルシェ14号車が再度のスローダウン)
http://response.jp/article/2014/06/15/225451.html

浮沈子は、この頃、ようやく始動して動き出したのだが、コース上ではとんでもないことが起こってた。

後で知ったのだが、トヨタ7号車が突然死してしまったのだ。

スタンドの自分の席に行って、順位が表示される電光掲示板を見ても、7号車が下がってしまっている。

あれ?。

2号車、1号車、20号車のオーダーである。

どーなってんの?、と思って、コントロールラインに近いトヨタのピットに行ってみると、7号車のピットはシャッターが降りていた。

あっちゃーっ!、リタイアかよ!。

(【ルマン24時間 2014】14時間経過、深夜の悪夢…首位走行中のトヨタ7号車がコース上でストップ)
http://response.jp/article/2014/06/15/225454.html

(【ルマン24時間 2014】トヨタ、優勝の悲願遠のく…7号車リタイア、アウディ2号車が独走態勢に)
http://response.jp/article/2014/06/15/225455.html

しかし、この時点では、ポルシェ20号車が3位を走っていて、何かあればワンチャンスでトップに立つ可能性もあるわけだ。

とりあえず、この状況を報告するために、一度バスに戻った。

7号車の脱落を告げると、さすがに動揺が走ったが、このツアーには、関係者2名以外にトヨタのファンはいない。

浮沈子と、もう一人のポルシェファンであるYさんは、あからさまに喜んだりしている(もちろん、トヨタ関係者はサーキットに行っていて不在でしたが)。

まあ、観客なんて、残酷なもんだ。

夜が明けて、いよいよルマン24時間の後半に突入する。

(この項、続く)

ルマン観戦記(その5:決勝ゴール)2014年06月18日 13:35

ルマン観戦記(その5:決勝ゴール)
ルマン観戦記(その5:決勝ゴール)


15日の明け方にトヨタ7号車がリタイアして、しかし、まだアウディ2台と共にポルシェが残っていた頃、浮沈子は、3度目の仮眠を取っていた。

他のツアー参加者は、アウディとポルシェの戦いを観に行っていて、留守番役の杉山さんと浮沈子だけがバスにいるのだ。

しかも、浮沈子は寝ている・・・。

(【ルマン24時間 2014】16時間経過、今度はアウディ2号車にトラブル発生…1号車がトップに浮上)
http://response.jp/article/2014/06/15/225459.html

(【ルマン24時間 2014】トヨタ TS040ハイブリッド 7号車、リタイアの原因は電気系統のトラブル)
http://response.jp/article/2014/06/15/225462.html

浮沈子は、そんなことも知らずにグーグーと仮眠を取り、起きたのは10時半(現地時間)だった。

その後の動きがないことを確認して、カルフールというスーパーマーケットに買出しに出かける。

(ここです!:グーグルマップのストリートビューで見られます)
https://www.google.co.jp/maps/@47.96864,0.203141,3a,42.5y,195.1h,88.73t/data=!3m4!1e1!3m2!1sHJUCJ49X0k2QgaUgsDXhQg!2e0

水を2本も買ってしまったのと、食料をしこたま買ったので、帰りは重くて大変だった。

ポルシェの臨時ホテルの前に、918スパイダーが止まっていたので、当然、写真を撮る(画像参照)。

バスに戻ると、ポルシェがトップを走っているという。

おおっ!、これでわざわざフランスまで来た甲斐があったというものだ。

ご機嫌な気分で、昼食を食べ、ポルシェのゴールを楽しみにサーキットへ戻っていった。

(【ルマン24時間 2014】19時間経過、各クラスのトップに次々とトラブル発生…LMP1はアウディ1号車がリード)
http://response.jp/article/2014/06/15/225464.html

(【ルマン24時間 2014】アウディ1号車をトラブルが襲う…ポルシェ20号車がトップ)
http://response.jp/article/2014/06/15/225467.html

スタンドに向かって歩いていくと、ポルシェの旗を持った観客が、ぞろぞろと帰り道を歩いていく。

あれえ?、みんな、どーしちゃったのかなあ?。

答えは、スタンドに辿り着いた時にわかった。

電光掲示板に、20号車がいなくなっていたのだ。

(【ルマン24時間 2014】22時間経過、何とか逃げていたポルシェ20号車がまさかのリタイア)
http://response.jp/article/2014/06/15/225470.html

(【ルマン24時間 2014】残り1時間半、トヨタ8号車が3位浮上)
http://response.jp/article/2014/06/15/225471.html

コース上にポルシェの姿はない。

この時点で、名実共に、浮沈子のルマンは終わってしまった。

そして、フィニッシュを迎える。

(【ルマン24時間 2014】アウディが1-2フィニッシュ、トヨタ8号車は3位)
http://response.jp/article/2014/06/15/225473.html

最後に、ポルシェ14号車が、1周だけ走っていたが、そんなもんはどーでもいい。

(【ルマン24時間 2014】アウディ5連覇、トヨタ&ポルシェとの三つ巴を制し偉業達成)
http://response.jp/article/2014/06/15/225475.html

(【ルマン24時間 2014】ハイブリッド3強レース総括…アウディの強さ、トヨタの速さ、ポルシェのしぶとさ)
http://response.jp/article/2014/06/16/225476.html

(【ルマン24時間 2014】波乱と感動に満ちたハイブリッドマシン三つ巴戦を振り返る[まとめ])
http://response.jp/article/2014/06/16/225505.html

「テスト走行ではロイック・デュバルのドライブする1号車が大クラッシュ、レース序盤には雨の中、3号車がトヨタ8号車と絡みリタイヤを余儀なくされるなど、トラブルに見舞われたアウディ勢だったが、蓋を開けてみれば1-2フィニッシュを飾る貫禄の勝利だった。」

いや、経過を知る浮沈子にしてみれば、アウディの優勝は、タナボタ以外の何物でもない。

1号車も2号車も、トラブルを抱えながらの満身創痍でのゴールである。

なんとかゴールまで持たせたというのが本当のところだ。

余裕などは微塵もなかったに違いない。

それが耐久レースの真実であり、トヨタが勝っても、ポルシェが勝っても、全くおかしくはなかったといえる。

7号車の突然死、20号車のエンジントラブルがなければ、アウディの優勝はなかった。

まあ、20号車の方は、どうなってたかわかんないけど。

タラレバが通用しない現実の結果、その結果だけを重んじるならば、わざわざルマンに観戦に行く必要はない。

プロセスを楽しみ、耳をつんざくフェラーリの排気音や、不気味に静かなアウディの排気音を聞くという臨場感を味わい、何万人という観衆と共に興奮に浸れなければ、Jスポーツの中継を見ていたほうがいい。

帰りのバスの中で、結果について語るメンバーはいなかったが、トヨタのリタイアの原因については、大激論だったな。

ハーネスが外れただけだとか、動力系には関係ないんじゃないかとか、火が出た原因は何なんだなど、技術的な話から、ポルシェの呪い(電磁波攻撃説?)まで、百家争鳴!。

(トヨタ:首位走行中の7号車が無念のリタイア (ル・マン24時間))
http://f1-gate.com/toyota/lemans_24045.html

「村田久武 (モータースポーツユニット開発部部長)
「ハイブリッド系のシャットダウンによるリタイアとなってしまい、非常に残念だ。ドライバーも復帰すべく試みてくれたが、メイン電源が落ちた状態でそれもかなわなかった。これまでのテストでも経験のないトラブルなので、詳細は今後調べる。応援いただいている関係者をはじめ皆さんの期待も膨らんでいただけに、とにかく残念だ」
中嶋一貴:
「電気系統のトラブルで、アルナージュコーナーを過ぎたところで、何の予兆もなく突然止まってしまった。電源が落ちたので無線も使えない状態だった。止まった時には火も出ていたのでその対応でも忙しかった。皆で良いクルマを作ってくれて、全体に良い流れでここまで快調に走って来たので、TS040 HYBRIDのパフォーマンスは示せる良いレースが出来たと思うが、その分、期待も高まっていたので非常に残念だ。来年も頑張りたい」」

(WEC 2014年 第3戦 ル・マン24時間レース 決勝レース6 レース終了)
http://ms.toyota.co.jp/jp/wec/racereport/1403-lemans-r06.html

「木下美明 チーム代表:
ル・マンでの3位は大変喜ぶべき名誉だが、我々のTS040 HYBRIDは勝てるスピードを持っていただけに、今日は複雑な気持ちだ。予想外の出来事が多く、改めてこれがル・マンなんだと実感した。幸運は要らないが、もう少し、アクシデントが少なければ、と思う。しかし、それがモータースポーツであり、結果は厳粛に受け止めなければならない。この経験を糧に、我々はより強くなって帰って来る。加えて、世界選手権に照準を合わせ、次のアメリカ・オースティン戦から再び全力を尽くす。#8の酷いダメージを短時間で修復してくれたチームメンバー、またその車で諦める事無く走り続け、3位表彰台を獲得したドライバーに心から感謝したい。自分は、このチームを誇りに思う。最後に、アウディ、ポルシェの素晴らしいパフォーマンスを讃えたい。このレースに参加した全員が非常に激しく戦い、素晴らしいスピリットを見せてくれた。」

まあ、実際の話はともかく、「幸運は要らないが、もう少し、アクシデントが少なければ、と思う。」というのは、主催者側への苦言だろう。

8号車が普通に走っていれば、余裕で優勝していたわけだし。

まあ、その分、8号車の電気系統が突然死する可能性も高くなるわけだから、なんともいえない。

ホテルについて、同室のSさんと部屋に入る。

さすがに疲れて、出かける気分にはならず、そのままシャワーを浴びてカルフールで買ったパンを食べて寝てしまった。

(この項、続く)

ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)2014年06月18日 17:01

ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)
ルマン観戦記(その6:余韻そして帰国)


帰国の朝、同室のSさんとサクレ・クール寺院に朝の散歩に行く。

といっても、往きは地下鉄利用、かつ、ケーブルカー利用。

朝食を食べて、ブランシェの駅に行く。

地下鉄は直ぐにやってきて、2駅先で降りる。

2度目なので、道を間違える心配はなく、坂を上がってケーブルカーに乗る。

この時間だと、教会下の階段の清掃も終わって、綺麗になっている。

こうでなくっちゃ!。

今日は時間にゆとりがあるので、教会の中に入ってみることにした。

撮影禁止、おしゃべり禁止。

朝の祈りを捧げる人が、数人いるだけの静かな教会だ(画像参照)。

(サクレ・クール寺院)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AF%BA%E9%99%A2

「サクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur) は、フランスおよびフランス語圏に多く存在する教会堂。
「聖なる心臓」(聖心)を意味し、イエス・キリストに捧げ、守護として祀っていることを意味する。」

「モンマルトルのサクレ・クール寺院 (パリ) - パリのモンマルトルの丘にあるバジリカ聖堂。日本では最も良く知られ、単にサクレ・クール寺院と呼ばれた時にはこれを指すことが多い。」

「フランス:
・サクレ・クール寺院 (マルセイユ)
・サクレ・クール寺院 (パレ・ル・モニアル) - 10世紀のロマネスク様式のバジリカ聖堂。
・サクレ・クール寺院 (アルジェ)
・サクレ・クール寺院 (ナンシー)
・サクレ・クール教会 (ジャンティイ) - パリ最南端の国際大学都市に含まれる教会。ジャンティイ市はパリ市14区南端に接する近郊市街。」

「ベルギー:
・サクレ・クール寺院 (ブリュッセル) - ケケルベルクの丘にある聖堂。世界で5番目に大きな教会堂で、サンミッシェル大聖堂と共にブリュッセルを代表する教会堂。
・サクレ・クール教会 (リエージュ)」

まあ、日本でいえば八幡様のようなもんだな(そういう比較かあ?)。

まあいい。

「モンマルトルのサクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre) はフランスのパリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱し、アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。」

比較的、最近の建築になる。

「第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。」

パリの名所は、多かれ少なかれ、政治的な意味合いがある。

地震もなく、火災に強い石造建築は、長く使われ続け、その間に政変を経て時の権力者による利用に供される。

建造物は、歴史を見ているのだ。

いや、歴史そのものだといってもいい。

サクレクールのような新しいものでも、それは同じである。

パリは、そんな建造物で溢れている。

回廊を1周して表に出る。

裏にも回ってみた。

軍服を着た見回りの3人組にカメラを向けると、制止された。

けちっ!。

帰りは階段を降りる。

パリには、さぞかし教会堂が多いだろうと思ってウィキのカテゴリーをみると、9つしかない。

(カテゴリ「パリの教会堂」にあるページ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%91%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%A0%82

・サクレ・クール寺院:1914年に完成
・サント・クロチルド聖堂:1857年竣工
・サン=ジェルマン=デ=プレ教会:542年建造:パリに現存する最古の教会
・サン=シュルピス教会:1745年に完成:パリ第2の大きさの教会堂
・サント・シャペル:1248年献堂
・サントトリニテ教会:1867年竣工
・贖罪礼拝堂:1826年完成:マドレーヌ墓地跡地に建設
・ノートルダム大聖堂 (パリ):最終的な竣工は1345年
・マドレーヌ寺院:1842年完成

次回のパリ訪問が何時になるかは分からないが、このうちのいくつかは、訪れてみたい。

贖罪礼拝堂の説明にある、マドレーヌ墓地といえば、マリー・アントワネットが葬られた場所として知られる。

(尊厳を奪われたアントワネットの遺体)
http://xn--u9je9ezesd9jmdrb.qooin.com/article/71075342.html

「女帝マリア・テレジアの娘として、フランス最後の王妃として、気高く命を終えることを自らに課し、最期の瞬間までエレガンス、そして気高さを失うことなく断頭台に散ったアントワネット。しかし・・・その遺体の扱いは、王妃の遺志をあまりにも踏みにじる惨たらしいものだったという。」

「1793年1月21日・・革命広場で処刑されたルイ16世の遺体は、広場から数100メートル離れたマドレーヌ寺院でミサを受けた後に埋葬される予定だった。
しかし、処刑に昴揚した群衆は、それすらも許さなかった。葬列は、予定の変更を余儀なくされ、王の遺体は直接寺院近くのマドレーヌ墓地に運びこまれた。そこは、処刑者を埋葬する共同墓地のような区画だった。
 一方、アントワネットの遺体も同じようにマドレーヌ墓地に運ばれたが、役人達は・・なんと、遺体を草むらに放置したまま昼食にでかけてしまったのだ。両足の間に首を置かれた王妃の遺体が埋葬されたのは、処刑から約2週間後のことだったという。」

「1814年の王政復古の後、ルイ16世夫妻を讃える行事が公式に行われるようになった中で、二人の遺体は改葬されることになった。しかし・・・、遺体は投げ込まれるようにして葬られた為、確実な場所が特定できず、当時の墓堀人夫を呼び出してその場所を探したのだという。」

「掘り出された遺体は、サン・ドニ大聖堂に改葬され、跡地には王弟アルトア伯によって贖罪礼拝堂が建てられた。」

まあ、フランスの共和制の獲得は、王政への革命によって行われ、民衆の血で贖われたわけだが、この間の状況は、それを象徴的に現しているといえよう。

「1815年のルイ16世の22回目の命日にあたる日に、二人の遺体はマドレーヌ墓地からサン・ドニ大聖堂へと改葬され、アントワネットの魂は、ここにようやく永遠の安息を得たというわけですね。」

やれやれ、サン・ドニ大聖堂については、既に触れたが、ノートルダム寺院の奥にある横たわった聖人の話だ。

この聖堂は、王族の殆どが埋葬されている。

(サン=ドニ大聖堂)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%89%E3%83%8B%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

「イングランドにおけるウェストミンスター寺院同様、フランス王のほとんどがこのバシリカに埋葬されている」

「ギロチンにかけられたルイ16世、王妃マリー・アントワネット、王妹エリザベートの遺体はサン=ドニには埋葬されなかった。国王夫妻の遺体はマドレーヌ墓地(fr、1794年に墓地は廃止され、王政復古期にルイ16世広場となり、現在は贖罪礼拝堂が建つ)に埋葬され、酸化カルシウムで覆われていた。」

「ナポレオン・ボナパルトが教会を1806年に再開させたが、王の遺体は埋められた穴に残されたままだった。ナポレオンがエルバ島に流されると、王政復古がなされた。ルイ18世は、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を捜すよう命じた。わずかな遺骸、おそらく王のものと思われる骨、女性のガーターベルトを含んだ灰色の物質が1815年1月21日に発見され、サン=ドニに運ばれて地下室(crypt)に埋葬された。1817年には、他のすべての遺体が入った穴が開けられたが、どれが誰の骨かを識別することは不可能だった。それらの遺体はサン=ドニ地下室の納骨堂(ossuary)に置かれ、前に大理石板が2枚置かれ、何代ものフランス王朝の王族の名前が、教会に記録された順に何百人も連ねられている。」

パリの教会堂の話が長くなった。

帰り道は、地下鉄沿いの道を歩いた。

朝の気持ちのいい空気を吸いながら、パリの街に名残を惜しむ。

生活者の町、観光の町、スリの町、ゴミの町、路上のウンコの町、花の町、エッチな店が連なる町、路上駐車の町、物価が高い町、そして、何より、浮沈子にとっては初めてのヨーロッパの町であった。

ルマンのような田舎町とは違う、大都会の喧騒。

文化の大遺産を抱え、今尚、モードを発信し続ける町。

斜陽といわれ続けながらも、新しい風を取り入れ、改革を求め続ける町。

午前10時30分(車のせいで30分遅れ!)チェックアウト。

ピックアップのワゴン車に乗って、シャルル・ド・ゴール空港へと向かう。

高速に乗るまでは、ちょっと渋滞したが、あとはスムーズに進んだ。

空港で、預け入れ荷物のない浮沈子は、自動的に他の方と別れ別れになった。

成田についても、他の方とは会わない。

忘れがたい夜をご一緒したKさん、同室のSさん、Jスポーツを見せていただいたYさんご夫妻、ポルシェファンのYさん、自動車関係のSさん、その他の方々とも、ちゃんとご挨拶をしないで別れ別れになった。

来年も、どなたかとルマンをご一緒するかも知れない。

パリ経由で行くことになるか、ミュンヘンから直接乗り込むことになるか。

ミュンヘンから行くというのはなかなか魅力的だな。

当然、ポルシェの優勝である。

そうでなくてはならない。

機上の空論(パリ帰国編)では、そんなことには殆ど意味が無いと悟ったばかりなのに・・・。

(機上の空論(パリ帰国編))
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/06/17/7346552

成田から東京駅へは、例によって京成バスで900円である。

東京駅に着いた時、ふと、ブリヂストン美術館に寄ってみたくなった。

(ブリヂストン美術館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%82%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

(クロード・モネ《睡蓮の池》:浮沈子が好きな作品)
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/works/83/

残念ながら、常設展示ではなくなっていて、現在は観ることができない。

パリの睡蓮は、そこに行って観るから価値があるのだろう。

特に、オランジェリー美術館の睡蓮は、殆ど壁画であり、持ち出すことはできまい。

様々な作品に出会えたことも、今回の旅行の多きな収穫だったし、その機会を与えてくれたパリ滞在型のルマン観戦だった。

ブリヂストン美術館は、いつでも行ける(といいつつ、少なくともこの10年は行っていないな)。

縦長の「睡蓮の池」の展示がいつになるかは、美術館の事務室(03-3563-0241)に問い合わせても、未定ということだった。

まあ、横長の「睡蓮」でも、別にいいんですが。

フランスの睡蓮と、日本の睡蓮、洋の東西を越えて愛される作品を育んだパリから帰って、その作品を観たくなったのは偶然だったのか(たまたま、東京駅に近いだけ!?)。

およそ100年前の新興絵画の潮流が、今尚、人々の心を引き付けるのはなぜなんだろう?。

それよりも、モネが、なぜ200点もの睡蓮を描き続けたんだろう?。

「スイレン属(スイレンぞく、学名:Nymphaea)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。
日本にはヒツジグサ(未草)の1種類のみ自生する。日本全国の池や沼に広く分布している。白い花を午後、未の刻ごろに咲かせる事からその名が付いたと言われる。睡蓮はヒツジグサの漢名であるが、一般にスイレン属の水生植物の総称として用いられる。」

(ヒツジグサ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%82%B5

「日本全国の池や沼に広く分布している。寒さに強く、山地の沼や亜高山帯の高層湿原にも生えている。
日本以外ではシベリア、欧州、中国及び朝鮮半島、インド北部、北アメリカに分布している。」

我が国だけではなく、北半球に広く分布している。

同じ花を見て、美しいと思う心。

庭の池に水を張り、水生植物を浮かべて愛でる感性。

(Nymphaea:英語による睡蓮の解説)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nymphaea

(Nymph:語源となったニンフの解説)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nymph

ひょっとすると、モネは、睡蓮の精であるニンフたちに取り付かれてしまったのかも知れない。

それとも、白内障を患った彼の目には、常人では見ることのできない何かが見えていたのだろうか。

(モネ 絵画作品と所蔵美術館)
http://kininaruart.com/artist/world/monet.html

「モネの『 睡蓮 』等の作品にどういった秘密のキーが埋め込めてあるのか謎なのだが、しばしば - それは若い女性に多いのだが - 熱狂的な信奉者が現れる(しかし、しばらくすると腫れ物が引いたように、すーっと落ち着いてしまうことも多いのだが)。この100年、彼の作品は世界中のいろんなところで強烈なファンをたくさん生んできたのだろう。そして、今後も生まれてくるはずである。」

世界中の美術館に所蔵されている印象派の絵画を、全て観ることは出来ないに違いない。

それは、今後行われる全てのルマンを観戦することに比べれば、可能性があるだけ容易ともいえる。

もちろん、ルマンとインプレッショニズムには、全く何の関係もない。

しかし、浮沈子の中では、今回の旅行を通じて、両者は混然となっている。

次回のルマンの出走まで、すでに361日しかないのだ・・・!。

(この項、終わり)