時間と才能 ― 2012年08月12日 00:45
時間と才能
記憶が確かでない(今さら・・・)ので、間違っていたら訂正する(セリフの詳細は、もちろん、覚えていない)。
(心はいつもラムネ色:第33回)
http://www9.nhk.or.jp/asadora/
吉本興業の創始者であり、役名「福本桁乃」として登場した吉本せい(本名:吉本勢)を演じた眞野あずさが、主人公にたずねる。
「お金で買えないものがある。何だかわかりますか?。」
主人公の漫才作家は、一瞬怯んで答えられない。
「時間と才能です。」
女主人は、病んでいて死期を悟っている。若くて才能溢れる主人公が、羨ましいのだ。もちろん、彼には金がない。
だが、それが、なに?。
彼女は、夫と死別し、子供とも死に別れて、商売一筋に生きてきた。事業を起こし、財を成し、どこから見ても成功者に違いない。しかし、自分にないものを豊かに持っている主人公を支えていく。
山崎豊子原作の直木賞受賞作品「花のれん」のモデルにもなっている。読んだことはない。このところ、山崎豊子が時々登場するが、偶然である。
本題に入る(このところ、前振りが長い)。
大衆車と高級車の違いは何か(前振りとどんな関係が・・・)。
時間と才能である(直球勝負!)。
クルマに乗っている「時間」を、如何に快適に(ただ乗せられているだけではなく)、楽しく過ごさせるか。そして、乗り手を満足させされるか。その「才能」が必要なのである(ちょい、苦しい)。
良質の時間。それを演出するのは、乗り心地、音、加速、減速、コーナーリング、空調、内装、照明、座り心地、音楽、最近はカーナビも必要だ。
高い次元で、バランスし、乗り手を飽きさせない。
エンジンだけが突出しても、ボディ剛性だけがガチガチでも、ふわふわのサスペンションだけでも、それらは満たされない。
観光バスを運転していて、満足が得られると思いますか?。
乗用車を所有する前提であれば、適切なサイズがある。一般的な車庫や駐車場に入れなければ、使用するにあたって制限が生じてしまう(極端なシャコタンでは、踏み切りも超えられない)。
最低限の制約が課された上で、乗り手を満足させなければならない。大衆車に比べてコストがかけられるといっても、限度がある。技術者が好きなように作ったクルマに、儲けを乗せて値付けをし、それで商売になった時代は終わったのだ(現代の技術でそんなことをしたら、10億円位のクルマがごろごろ出来てしまう)。
それでも、相当潤沢にコストをかけて作ることが出来る。逆にいうと、大衆車は、銭単位のコストを削りに削って、乾いた雑巾をさらに絞って、生産原価を下げている。ボディがペナペナだとか、内張りが安っぽいとか、エンジンのバランスがどうのこうの言う前に、その値段で、買える事に感謝しなければならない。企業努力の賜物なのだ。
しかし、高級車は、そうはいかない。厳しい目で評価される。エンジンの音がガサツだったり、サスペンションのチューニングが杜撰だったり、ボディに軋みがあったりしたら、誰も買ってくれない。本当に買わない。
大衆車は、最低限、使用価値だけで売れる車である。所有する満足感がなくても、売れる。だから、レンタカーになる。だが、高級車には所有価値、モノとしての絶対的な価値が要求される。手触り、足ざわり(?)、耳ざわり(??)、尻ざわり(???)など、人間の感触を満足させることが要求される。そこに金を払うのだから。
そして、それは目に見えない。数字に出ない。
一体、高級車を高級たらしめるために、メーカーは何を基準にしているのだろうか。
レクサス(セルシオ)を開発する時に、トヨタは「高級とは何か」を知るために、スタッフを一流ホテルに泊まらせたそうだ。涙なくして語れない話である。高級車を作る人間は、一流ホテルに私費では泊まることもできないクラスの人間なのだ。
そうして、出来上がったクルマは、1千万円を超えるクルマになったという。当然だろう、ベンツもBMWもその位の価格で売っているのだから。
しかし、そこからトヨタの戦いが始まる。
コストとの戦いである。高級でありながら、それを悟られずに安物を作る(そのまま売れば良かったのに)。10年10万キロで朽ち果てる大衆車にしてしまう。
もちろん、新車で乗り始めたときには、そんなことは分からない。紛れもない高級車である。ベンツが大慌てで400Eを北米市場に投入したことは、如何にレクサスLS400の価格性能比が優れていたかを物語っている。
10年経って、セルシオの価格がどうなっているかを見たときに、初めて違いが分かる。
そうして、世の中に残るものと、消えていくものが別れる。
消えていくものが悪いのではない。そういうものとして作られたものを、そうでないもの、後々まで残るように作られたものと比べる私が悪いのだ。
値段が高いから、優れているから残るのではない。高くても、消耗品として作られるものもある(旅客機なんかそうでしょうな)。船だって、タンカーとかは消耗品である。
しかし、百年以上前の船が、エンジンを載せ換え、新しい艤装を施されて甦るように、本物の高級車は、時代を超えて生き残り、伝え続けられる。もちろん、一代限りのものではない。世代を超えていくのだ。
人間個人の時間や才能は、金では買えない。
しかし、その限られた時間を豊かにしてくれる道具を、それを作り上げた稀有な才能と共に買い求めることは出来る。
500Eが、その意味における「高級車」に値するかどうか。それは、整備から戻った時に明らかになるだろう。
記憶が確かでない(今さら・・・)ので、間違っていたら訂正する(セリフの詳細は、もちろん、覚えていない)。
(心はいつもラムネ色:第33回)
http://www9.nhk.or.jp/asadora/
吉本興業の創始者であり、役名「福本桁乃」として登場した吉本せい(本名:吉本勢)を演じた眞野あずさが、主人公にたずねる。
「お金で買えないものがある。何だかわかりますか?。」
主人公の漫才作家は、一瞬怯んで答えられない。
「時間と才能です。」
女主人は、病んでいて死期を悟っている。若くて才能溢れる主人公が、羨ましいのだ。もちろん、彼には金がない。
だが、それが、なに?。
彼女は、夫と死別し、子供とも死に別れて、商売一筋に生きてきた。事業を起こし、財を成し、どこから見ても成功者に違いない。しかし、自分にないものを豊かに持っている主人公を支えていく。
山崎豊子原作の直木賞受賞作品「花のれん」のモデルにもなっている。読んだことはない。このところ、山崎豊子が時々登場するが、偶然である。
本題に入る(このところ、前振りが長い)。
大衆車と高級車の違いは何か(前振りとどんな関係が・・・)。
時間と才能である(直球勝負!)。
クルマに乗っている「時間」を、如何に快適に(ただ乗せられているだけではなく)、楽しく過ごさせるか。そして、乗り手を満足させされるか。その「才能」が必要なのである(ちょい、苦しい)。
良質の時間。それを演出するのは、乗り心地、音、加速、減速、コーナーリング、空調、内装、照明、座り心地、音楽、最近はカーナビも必要だ。
高い次元で、バランスし、乗り手を飽きさせない。
エンジンだけが突出しても、ボディ剛性だけがガチガチでも、ふわふわのサスペンションだけでも、それらは満たされない。
観光バスを運転していて、満足が得られると思いますか?。
乗用車を所有する前提であれば、適切なサイズがある。一般的な車庫や駐車場に入れなければ、使用するにあたって制限が生じてしまう(極端なシャコタンでは、踏み切りも超えられない)。
最低限の制約が課された上で、乗り手を満足させなければならない。大衆車に比べてコストがかけられるといっても、限度がある。技術者が好きなように作ったクルマに、儲けを乗せて値付けをし、それで商売になった時代は終わったのだ(現代の技術でそんなことをしたら、10億円位のクルマがごろごろ出来てしまう)。
それでも、相当潤沢にコストをかけて作ることが出来る。逆にいうと、大衆車は、銭単位のコストを削りに削って、乾いた雑巾をさらに絞って、生産原価を下げている。ボディがペナペナだとか、内張りが安っぽいとか、エンジンのバランスがどうのこうの言う前に、その値段で、買える事に感謝しなければならない。企業努力の賜物なのだ。
しかし、高級車は、そうはいかない。厳しい目で評価される。エンジンの音がガサツだったり、サスペンションのチューニングが杜撰だったり、ボディに軋みがあったりしたら、誰も買ってくれない。本当に買わない。
大衆車は、最低限、使用価値だけで売れる車である。所有する満足感がなくても、売れる。だから、レンタカーになる。だが、高級車には所有価値、モノとしての絶対的な価値が要求される。手触り、足ざわり(?)、耳ざわり(??)、尻ざわり(???)など、人間の感触を満足させることが要求される。そこに金を払うのだから。
そして、それは目に見えない。数字に出ない。
一体、高級車を高級たらしめるために、メーカーは何を基準にしているのだろうか。
レクサス(セルシオ)を開発する時に、トヨタは「高級とは何か」を知るために、スタッフを一流ホテルに泊まらせたそうだ。涙なくして語れない話である。高級車を作る人間は、一流ホテルに私費では泊まることもできないクラスの人間なのだ。
そうして、出来上がったクルマは、1千万円を超えるクルマになったという。当然だろう、ベンツもBMWもその位の価格で売っているのだから。
しかし、そこからトヨタの戦いが始まる。
コストとの戦いである。高級でありながら、それを悟られずに安物を作る(そのまま売れば良かったのに)。10年10万キロで朽ち果てる大衆車にしてしまう。
もちろん、新車で乗り始めたときには、そんなことは分からない。紛れもない高級車である。ベンツが大慌てで400Eを北米市場に投入したことは、如何にレクサスLS400の価格性能比が優れていたかを物語っている。
10年経って、セルシオの価格がどうなっているかを見たときに、初めて違いが分かる。
そうして、世の中に残るものと、消えていくものが別れる。
消えていくものが悪いのではない。そういうものとして作られたものを、そうでないもの、後々まで残るように作られたものと比べる私が悪いのだ。
値段が高いから、優れているから残るのではない。高くても、消耗品として作られるものもある(旅客機なんかそうでしょうな)。船だって、タンカーとかは消耗品である。
しかし、百年以上前の船が、エンジンを載せ換え、新しい艤装を施されて甦るように、本物の高級車は、時代を超えて生き残り、伝え続けられる。もちろん、一代限りのものではない。世代を超えていくのだ。
人間個人の時間や才能は、金では買えない。
しかし、その限られた時間を豊かにしてくれる道具を、それを作り上げた稀有な才能と共に買い求めることは出来る。
500Eが、その意味における「高級車」に値するかどうか。それは、整備から戻った時に明らかになるだろう。
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