パラオ・南洋地域 ― 2014年05月01日 12:39
パラオ・南洋地域
第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約において、我が国は南洋地域の施政権を得て統治した。
国際連盟による委任統治領としていうことであったのだが、脱退後も統治を継続した(国際連盟もこれを認めた)。
委任統治領には軍事施設を置くことができない規定があったが、脱退後は、この制約が外れて、南洋諸島各地には大日本帝国海軍の施設が建設された。
行政区域としては、パラオに南洋庁が置かれ、各地に支所が置かれた。
(南洋諸島)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%AB%B8%E5%B3%B6
「南洋諸島(なんようしょとう)は、かつて大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域である。」
(よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ)
http://blogs.yahoo.co.jp/tknkmsys/33396264.html
まあ、明治天皇は、人類皆兄弟と思っていたのだろう。
「明治天皇が日露戦争の折に詠まれ、昭和天皇が対米戦争決定の御前会議で奉唱されました。」とある。
日本以外で、こんなお目出度い考えをしている国家元首がいるとは思えない。
侵略し、占領し、統治し、収奪する。
我が国も、同じようなことをやってきたが、諸外国とは少しアプローチが違ったようだな。
(南洋庁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E5%BA%81
「南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年の太平洋戦争敗戦時に事実上消滅した。」
「支庁:
発足時には6つの支庁が置かれた。
・サイパン支庁:サイパン島、テニアン島、ロタ島
・ヤップ支庁:ヤップ島
・パラオ支庁:バベルダオブ島、アンガウル島
・トラック支庁:春島、夏島、水曜島
・ポナペ支庁:ポナペ島、クサイ島(コスラエ島)
・ヤルート支庁: ヤルート島(ジャルート環礁ジャボール島)」
南洋諸島のことを語るときに、南洋興発について触れないわけには行かない。
(南洋興発)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%88%88%E7%99%BA
「南洋興発株式会社(なんようこうはつ)は、大正・昭和期の日本の株式会社。1921年(大正10年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を「海の満鉄」「北の満鉄、南の南興」と呼ぶこともある。南洋庁、日本海軍と密接な関係を持ち、南洋庁長官は南洋群島の統治に強い影響力を持つ南洋興発を「群島と興発会社は共存共死、一蓮托生の関係」と評した。」
南洋興発については、稿を改めて書く。
ここで指摘しておきたいのは、現在の米国を中心とした経済援助が、産業の育成を伴わず、生活支援を中心に行われているのに対し、我が国の統治下にあっては、殖産興業と教育(まあ、戦前の教育ってやつですが)が行われていたということだ。
米軍を駐留させておくための施策ではなく、経済的な独立を目指したわけだな。
当時は環境保護思想などもなかったので、やりたい放題だったのだろう。
これはしかし、有体に言って、植民地政策以外の何物でもない。
「1932年から1933年にかけては、南洋興発は日本海軍の依頼を受け、国際連盟理事会が定めた委任統治条項(4条:域内では陸海空軍の根拠地、築城の建設を禁止する)を回避するため、「南洋興発第一農場」という名の軍用機の飛行場を建設した」
あれま、抜け道やってたわけだな。
まあいい。
南洋興発の事業を、ざっと見ておく。
「製糖所等の所在地
製糖所等:場所:現在地(以下、同じ)
・本社:南洋サイパン島チヤランカノア:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・サイパン製糖所:南洋サイパン島チヤランカノア:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・テニアン製糖所:南洋テニアン島テニアン:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・ロタ製糖所:南洋ロタ島ソンソン:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・ポナペ澱粉製造所:南洋ポナペ島マタラニユウム:ミクロネシア連邦共和国
・ペリリユウ採礦所:南洋ペリリユウ島:パラオ共和国ペリリュー州
・パラオ水産事務所:南洋パラオ島マラカル:パラオ共和国コロール州
・ニユーギニア事務所 蘭領ニユーギニア、マノクワリ:インドネシア共和国マノクワナ州
・大阪出張所:大阪市西區西道頓堀通五ノ四:当時
・下關出張所:下關市岬町三〇:当時
・東京事務所:東京市麹町區内幸町一ノ二東拓ビルディング内:当時」
「傍系会社と主たる事業地:
南洋群島内事業会社
・南貿汽船 - 群島内
・海洋殖産 - パラオ
・南方産業 - パラオ
・南洋石油 - パラオ
・南洋船渠 - パラオ
・南洋交通 - トラック諸島(チューク諸島)
・南洋毎日新聞社 - パラオ」
「海外事業会社:(海外となっているのは、当時は内南洋は、国内だから)
・南洋興発合名 - オランダ領ニューギニア
・SAPT - ティモール島
・南太平洋貿易 - セレベス島
・マニラ醸造 - フィリピン
・東印度水産 - セレベス島
・マカッサル水産 - セレベス島
・日本真珠 - アラフラ海」
「内地事業会社:
・東京測機 - 東京
・興亜航空工業 - 東京
・興亜航空木工 - 東京
・興亜木工 - 東京」
「事業地域:
・マリアナ諸島
・サイパン島
・テニアン島
・ロタ島
・ニューギニア島
・セレベス島(スラウェシ島)
・ティモール島」
こうしてみると、帝国海軍の後ろ盾を得て、広範に事業を展開していたことが分かる。
で、メインの製糖事業はサイパンの本社が仕切っていたようだが、関連産業の拠点の殆どがパラオに置かれていたことがわかる。
浮沈子的には、この地域の核となる島であるグアムが登場しないことが気になったので確認してみた。
「1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、同年のパリ条約によりグアム島はフィリピン、プエルトリコとともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれた。アメリカはスペイン同様に現地の文化や風習を無視してグアムのアメリカ化を進めるなど、過酷な植民地支配を推し進めた。」
「1941年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。日本海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空攻撃を開始し、同月10日に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して日本領土とし、その後2年7か月にわたり占領した[4]。1944年8月にアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本本土への爆撃拠点として使用した。」
太平洋戦争当時は別として、グアムだけは、19世紀から米国の支配下にあったわけだ。
戦前の南洋諸島の中で、グアムだけは、大日本帝国の版図に楔のように打ち込まれた別の国であったということになる。
今でこそ、日本人を初めとして、中国や韓国の旅行者が引きも切らない島々だが、振り返れば数奇な運命を辿った島々である。
浮沈子は、北マリアナ諸島のサイパン、テニアン、ロタを初めとして、現在は米国準州であるグアムくらいしか行ったことはない。
今月末のパラオは、初めての渡航になる。
(パラオ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AA
「「南洋」という言葉が旧植民地宗主国の主観に基づくものとして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不要です」」
第5代大統領の言葉だそうだが、南洋という語感に、植民地臭さを感じるというのはいささか意外であるな。
確かに、記事にあるように、パラオは北半球であり、概ねトゥバタハリーフと同じくらいだ。
ヘレンですら、ギリギリ北半球である。
(ハトホベイ州)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%99%E3%82%A4%E5%B7%9E
「基礎自治体(島):村落:面積:
(km²):人口(2000年当時):位置(以下、同じ)
・トビ島:ハトホベイ:0.85:20:北緯03度00分22秒 東経131度07分26秒
・ヘレン環礁(ホトサリヒエ環礁):-:0.03:3(国境警備隊員のみ):北緯03度00分 東経131度11分
・トランジット環礁(ピエラウロウ環礁):-:-:-:北緯02度47分 東経132度32分」
浮沈子は、今年ヘレンに行くことはできないようだ(龍馬は、ルマン行きとバッティングした)。
パラオスポート号も、今年のスケジュールは組まれていないようだ(未確認)。
浮沈子は、赤道を越えたことがない。
生まれてこの方50有余年、南半球には行ったことがない。
GBRで潜る以外は、用がないといえばない。
今後も行くことはないかもしれないな。
パラオ(ヘレン)は、その意味でも浮沈子にとっては最南端の地だ。
パラオの方には申し訳ないが、南であることは、憧れの地の意味でもある。
南洋という表現も、旧宗主国としての意味合いではなく、日本から見て南という、相対的位置関係からの表現として使っていきたい。
太平洋地域(正確には、北西太平洋地域)というのは、余りにもパサパサしていて味気ないじゃん!?。
「List of islands of Palau:
Name:Population:Area (square kilometer):State(以下、同じ)
・Angaur (Island):190:8:Angaur (State)
・Babeldaob:5,000-6,000:331:Various
・Kayangel:140:1.4:Kayangel
・Ngerekebesang:1,500:5:Koror (Part)
・Oreor:12,000:25:Koror
・Peleliu (Island):800:13:Peleliu (State)
・Sonsorol (Island):50:1.3:Sonsorol (State)
・Tobi:30:0.5:Hatohobei」
浮沈子は、当初の予定ではこの前の年末年始にCCRでパラオデビューするはずであった。
(パラオ!)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/08/11/6943904
日本のリゾートダイバートしては、押えておきたいゲレンデである。
今回、龍馬に乗船してのダイビングなので、陸上滞在時間が短い。
最終日(31日)にガス抜きをする程度だ。
今後、何回か行くことになるだろうが、その際も、たぶん龍馬だろうな(スピードボートの船酔いが耐えられなければ)。
(パラオ予習)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/01/15/7193382
「先日、品川のMIC21に残っていた、月刊ダイバーを買ってきた。
手塚優とかいうモデル(?)が出ていて、「パラオでダイバーになるっ!」という特集が組まれている。
初ダイビング2日目で、中性浮力を完全にモノにしていると書かれている。
浮沈子は、手塚優ってタレントを知らないんだが、これだけでキライになりそうだ(やっかみです!)。」
まあ、どうでもいいんですが。
浮沈子がイントラに要求されている中性浮力のスキルは、CCR(インスピ)で、水深3mにおいて誤差10cm以内のホバリング(1分以内とかじゃなくて、ずっと・・・:できっこないじゃん!)なので、海洋の水深20mで、1m位の誤差でいいならOCでもなんとかなる(というか、そのくらい杜撰になってしまう)。
この間使ったディスカバリーは、初めて扱った割には具合が良くて、4mのプールで十分コントロールできた。
うーん、やはり、CCRがいいな。
南洋でのCCRの導入に向けて、少しずつ動き始めよう。
第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約において、我が国は南洋地域の施政権を得て統治した。
国際連盟による委任統治領としていうことであったのだが、脱退後も統治を継続した(国際連盟もこれを認めた)。
委任統治領には軍事施設を置くことができない規定があったが、脱退後は、この制約が外れて、南洋諸島各地には大日本帝国海軍の施設が建設された。
行政区域としては、パラオに南洋庁が置かれ、各地に支所が置かれた。
(南洋諸島)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%AB%B8%E5%B3%B6
「南洋諸島(なんようしょとう)は、かつて大日本帝国が国際連盟によって委任統治を託された西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシア連邦に相当する地域である。」
(よもの海 みなはらからと 思ふ世に
など波風の たちさわぐらむ)
http://blogs.yahoo.co.jp/tknkmsys/33396264.html
まあ、明治天皇は、人類皆兄弟と思っていたのだろう。
「明治天皇が日露戦争の折に詠まれ、昭和天皇が対米戦争決定の御前会議で奉唱されました。」とある。
日本以外で、こんなお目出度い考えをしている国家元首がいるとは思えない。
侵略し、占領し、統治し、収奪する。
我が国も、同じようなことをやってきたが、諸外国とは少しアプローチが違ったようだな。
(南洋庁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E5%BA%81
「南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年の太平洋戦争敗戦時に事実上消滅した。」
「支庁:
発足時には6つの支庁が置かれた。
・サイパン支庁:サイパン島、テニアン島、ロタ島
・ヤップ支庁:ヤップ島
・パラオ支庁:バベルダオブ島、アンガウル島
・トラック支庁:春島、夏島、水曜島
・ポナペ支庁:ポナペ島、クサイ島(コスラエ島)
・ヤルート支庁: ヤルート島(ジャルート環礁ジャボール島)」
南洋諸島のことを語るときに、南洋興発について触れないわけには行かない。
(南洋興発)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%88%88%E7%99%BA
「南洋興発株式会社(なんようこうはつ)は、大正・昭和期の日本の株式会社。1921年(大正10年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を「海の満鉄」「北の満鉄、南の南興」と呼ぶこともある。南洋庁、日本海軍と密接な関係を持ち、南洋庁長官は南洋群島の統治に強い影響力を持つ南洋興発を「群島と興発会社は共存共死、一蓮托生の関係」と評した。」
南洋興発については、稿を改めて書く。
ここで指摘しておきたいのは、現在の米国を中心とした経済援助が、産業の育成を伴わず、生活支援を中心に行われているのに対し、我が国の統治下にあっては、殖産興業と教育(まあ、戦前の教育ってやつですが)が行われていたということだ。
米軍を駐留させておくための施策ではなく、経済的な独立を目指したわけだな。
当時は環境保護思想などもなかったので、やりたい放題だったのだろう。
これはしかし、有体に言って、植民地政策以外の何物でもない。
「1932年から1933年にかけては、南洋興発は日本海軍の依頼を受け、国際連盟理事会が定めた委任統治条項(4条:域内では陸海空軍の根拠地、築城の建設を禁止する)を回避するため、「南洋興発第一農場」という名の軍用機の飛行場を建設した」
あれま、抜け道やってたわけだな。
まあいい。
南洋興発の事業を、ざっと見ておく。
「製糖所等の所在地
製糖所等:場所:現在地(以下、同じ)
・本社:南洋サイパン島チヤランカノア:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・サイパン製糖所:南洋サイパン島チヤランカノア:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・テニアン製糖所:南洋テニアン島テニアン:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・ロタ製糖所:南洋ロタ島ソンソン:アメリカ合衆国自治領・北マリアナ諸島
・ポナペ澱粉製造所:南洋ポナペ島マタラニユウム:ミクロネシア連邦共和国
・ペリリユウ採礦所:南洋ペリリユウ島:パラオ共和国ペリリュー州
・パラオ水産事務所:南洋パラオ島マラカル:パラオ共和国コロール州
・ニユーギニア事務所 蘭領ニユーギニア、マノクワリ:インドネシア共和国マノクワナ州
・大阪出張所:大阪市西區西道頓堀通五ノ四:当時
・下關出張所:下關市岬町三〇:当時
・東京事務所:東京市麹町區内幸町一ノ二東拓ビルディング内:当時」
「傍系会社と主たる事業地:
南洋群島内事業会社
・南貿汽船 - 群島内
・海洋殖産 - パラオ
・南方産業 - パラオ
・南洋石油 - パラオ
・南洋船渠 - パラオ
・南洋交通 - トラック諸島(チューク諸島)
・南洋毎日新聞社 - パラオ」
「海外事業会社:(海外となっているのは、当時は内南洋は、国内だから)
・南洋興発合名 - オランダ領ニューギニア
・SAPT - ティモール島
・南太平洋貿易 - セレベス島
・マニラ醸造 - フィリピン
・東印度水産 - セレベス島
・マカッサル水産 - セレベス島
・日本真珠 - アラフラ海」
「内地事業会社:
・東京測機 - 東京
・興亜航空工業 - 東京
・興亜航空木工 - 東京
・興亜木工 - 東京」
「事業地域:
・マリアナ諸島
・サイパン島
・テニアン島
・ロタ島
・ニューギニア島
・セレベス島(スラウェシ島)
・ティモール島」
こうしてみると、帝国海軍の後ろ盾を得て、広範に事業を展開していたことが分かる。
で、メインの製糖事業はサイパンの本社が仕切っていたようだが、関連産業の拠点の殆どがパラオに置かれていたことがわかる。
浮沈子的には、この地域の核となる島であるグアムが登場しないことが気になったので確認してみた。
「1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、同年のパリ条約によりグアム島はフィリピン、プエルトリコとともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれた。アメリカはスペイン同様に現地の文化や風習を無視してグアムのアメリカ化を進めるなど、過酷な植民地支配を推し進めた。」
「1941年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。日本海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空攻撃を開始し、同月10日に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して日本領土とし、その後2年7か月にわたり占領した[4]。1944年8月にアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本本土への爆撃拠点として使用した。」
太平洋戦争当時は別として、グアムだけは、19世紀から米国の支配下にあったわけだ。
戦前の南洋諸島の中で、グアムだけは、大日本帝国の版図に楔のように打ち込まれた別の国であったということになる。
今でこそ、日本人を初めとして、中国や韓国の旅行者が引きも切らない島々だが、振り返れば数奇な運命を辿った島々である。
浮沈子は、北マリアナ諸島のサイパン、テニアン、ロタを初めとして、現在は米国準州であるグアムくらいしか行ったことはない。
今月末のパラオは、初めての渡航になる。
(パラオ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AA
「「南洋」という言葉が旧植民地宗主国の主観に基づくものとして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不要です」」
第5代大統領の言葉だそうだが、南洋という語感に、植民地臭さを感じるというのはいささか意外であるな。
確かに、記事にあるように、パラオは北半球であり、概ねトゥバタハリーフと同じくらいだ。
ヘレンですら、ギリギリ北半球である。
(ハトホベイ州)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%99%E3%82%A4%E5%B7%9E
「基礎自治体(島):村落:面積:
(km²):人口(2000年当時):位置(以下、同じ)
・トビ島:ハトホベイ:0.85:20:北緯03度00分22秒 東経131度07分26秒
・ヘレン環礁(ホトサリヒエ環礁):-:0.03:3(国境警備隊員のみ):北緯03度00分 東経131度11分
・トランジット環礁(ピエラウロウ環礁):-:-:-:北緯02度47分 東経132度32分」
浮沈子は、今年ヘレンに行くことはできないようだ(龍馬は、ルマン行きとバッティングした)。
パラオスポート号も、今年のスケジュールは組まれていないようだ(未確認)。
浮沈子は、赤道を越えたことがない。
生まれてこの方50有余年、南半球には行ったことがない。
GBRで潜る以外は、用がないといえばない。
今後も行くことはないかもしれないな。
パラオ(ヘレン)は、その意味でも浮沈子にとっては最南端の地だ。
パラオの方には申し訳ないが、南であることは、憧れの地の意味でもある。
南洋という表現も、旧宗主国としての意味合いではなく、日本から見て南という、相対的位置関係からの表現として使っていきたい。
太平洋地域(正確には、北西太平洋地域)というのは、余りにもパサパサしていて味気ないじゃん!?。
「List of islands of Palau:
Name:Population:Area (square kilometer):State(以下、同じ)
・Angaur (Island):190:8:Angaur (State)
・Babeldaob:5,000-6,000:331:Various
・Kayangel:140:1.4:Kayangel
・Ngerekebesang:1,500:5:Koror (Part)
・Oreor:12,000:25:Koror
・Peleliu (Island):800:13:Peleliu (State)
・Sonsorol (Island):50:1.3:Sonsorol (State)
・Tobi:30:0.5:Hatohobei」
浮沈子は、当初の予定ではこの前の年末年始にCCRでパラオデビューするはずであった。
(パラオ!)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/08/11/6943904
日本のリゾートダイバートしては、押えておきたいゲレンデである。
今回、龍馬に乗船してのダイビングなので、陸上滞在時間が短い。
最終日(31日)にガス抜きをする程度だ。
今後、何回か行くことになるだろうが、その際も、たぶん龍馬だろうな(スピードボートの船酔いが耐えられなければ)。
(パラオ予習)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2014/01/15/7193382
「先日、品川のMIC21に残っていた、月刊ダイバーを買ってきた。
手塚優とかいうモデル(?)が出ていて、「パラオでダイバーになるっ!」という特集が組まれている。
初ダイビング2日目で、中性浮力を完全にモノにしていると書かれている。
浮沈子は、手塚優ってタレントを知らないんだが、これだけでキライになりそうだ(やっかみです!)。」
まあ、どうでもいいんですが。
浮沈子がイントラに要求されている中性浮力のスキルは、CCR(インスピ)で、水深3mにおいて誤差10cm以内のホバリング(1分以内とかじゃなくて、ずっと・・・:できっこないじゃん!)なので、海洋の水深20mで、1m位の誤差でいいならOCでもなんとかなる(というか、そのくらい杜撰になってしまう)。
この間使ったディスカバリーは、初めて扱った割には具合が良くて、4mのプールで十分コントロールできた。
うーん、やはり、CCRがいいな。
南洋でのCCRの導入に向けて、少しずつ動き始めよう。
満鉄と南興 ― 2014年05月01日 22:23
満鉄と南興
(南満州鉄道)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93
「日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州国に存在した日本の特殊会社である。通称満鉄(まんてつ)。」
「南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年(明治39年)に設立した半官半民の特殊会社である。設立は勅令により、資本金2億円のうち、1億円は日本政府によって鉄道・炭坑などの現物で出資された。」
われわれは、中国の鉄道が、軍の組織であり、旅客の安全よりも軍事物資の輸送に重点を置いた形態であることを知っている。
もともと、鉄道は大陸国家にとっては軍事物資の重要な輸送手段で、兵員を含めて機動的に軍を動かしたり、兵站を行ったりするのに欠かせない。
ミサイルだって、鉄道で輸送するのだ。
我が国は、増え続ける人口を養い、国力の増強を図るために、中国大陸へ進出する。
「都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁して、あたかも1つの独立国であった。」
満鉄は、鉄道会社ではなく、国家であった。
「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」
「満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。」
つまり、鉄道が、国家になったわけだ。
満鉄総裁の中に、松岡洋右の名を見る事ができる。
第14代総裁で、1935年から39年まで勤めている。
外務省を41歳で辞して、満鉄理事となり、その後、代議士となった。
(松岡洋右)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
1932年、国際連盟における演説、翌33年の脱退と、全権としての役割を果たし、政界から足を洗う。
「もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。」
この後、満鉄総裁に就任したわけだ。
「1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外相として松岡を指名した。」
日本外交が、軍部(陸軍)の圧力を受け、大陸に深く関与していく時期である。
この後の展開については、ウィキをご覧いただきたい。
自らの理想とする大東亜共栄圏とその先の世界政府を夢見ながら、現実の国際政治に翻弄され、1941年7月の内閣改造で外相を事実上解任された。
そして、この年の12月8日、我が国は、太平洋戦争をおっぱじめることになる・・・。
満鉄の方も、1928年の張作霖事件、1931年の柳条湖事件をきっかけとした満州事変を起こし、これが契機となって満州国が建国される。
「この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。」
「関連企業・団体:
満鉄衛生研究所
満鉄調査部
満洲映画協会
満州日日新聞
満州航空
華北交通
華中鉄道
大連都市交通
南満州電気
大連汽船
昭和製鋼所(現在の鞍山鋼鉄集団)
日満倉庫(現在の東洋埠頭)
日満マグネシウム(現在の宇部マテリアルズ)
日本精蝋
満鉄会」
満州事変から日中戦争、太平洋戦争をまとめて、15年戦争という括りでいうこともあるらしい。
(十五年戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
日露戦争の戦利品である満州鉄道を得た陸軍と、第一次世界大戦終結後、ドイツの植民地である南洋諸島を得た海軍が、それぞれの権益を拡大するなかで育っていった会社である。
満鉄と南興、次は、南洋興発の様子をもう一度見ていく。
(南洋興発)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%88%88%E7%99%BA
「南洋群島の統治を受任した日本が直面する国際的な社会問題を解決するため、松江に白羽の矢が立てられる。設立時の資本金の約70%を東洋拓殖とその子会社が出資、松江春次を初めとする社員と技術者が内地・台湾の製糖会社から招致された」
ここに、東洋拓殖という会社が登場する。
(東洋拓殖)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%8B%93%E6%AE%96
「日露戦争後の1908年(明治41年)12月18日に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで京城府及び満州国、モンゴル、サハリン、南洋諸島、ミクロネシアに存在した大日本帝国の特殊会社である。」
「戦前の日本における南満州鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有。北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた。」とある。
満鉄と南興を繋ぐ、太い線だ。
元々は、韓国に対する植民地政策を推進する国策会社として立ち上げられたという歴史を持つ。
直接の関連があるかどうかは不明だが、南洋拓殖という会社もある。
(南洋拓殖)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E6%8B%93%E6%AE%96
「南洋群島開発十ヵ年計画ではそれまで南洋興発株式会社(南興)によって主導され製糖業に偏っていた産業構造を見直し、外南洋への経済発展、移民拓殖事業の推進、熱帯産業の実験地としての南洋群島の活用を掲げており、南拓はそれらの事業の担い手として期待され設立された」とある。
植民地を経営するに当たって、当時の当局は、国策会社を作って資本を投下し、人を集めて入植を進め、産業育成を図ったわけだ。
「先行した南洋興発はその業務の一部において国策を遂行したが民間企業であり、南拓は半官半民ではあるものの国営企業であることが大きく異なっている。経営は拓務大臣(大東亜省設置以降は大東亜大臣)の管轄下に置かれ、社長は拓務大臣が任命したが、経営には海軍軍人、国会議員、東洋拓殖や南洋興発の関係者も加わっていた」
戦前の植民地を擁していた我が国に、共通したパターンである。
満鉄や南洋興発などの事業会社は、これらの国策会社と車の両輪となって植民地を運営していったと思われる。
まあ、1社独占で競争原理が働かないので、事業がうまくいくかどうかは、経営に係っている。
投資に見合う成果が出なければ、撤退を考えなければならないが、なかなかそううまくはいかないようだ。
南洋興発も、立ち上げ時は苦労の連続だったようだ。
「第一次世界大戦のドイツ帝国敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として日本内地の資本が次々と進出したが、大戦後の恐慌の影響を受けて初期の進出会社は経営に行き詰まる。1920年に南洋殖産、1921年には西村拓殖が倒産した。そして、後には従業員である約1,000人の移民が取り残された」
「1923年よりサイパン島の製糖工場が稼働するが、オサゾウムシによる虫害、サトウキビを運搬する鉄道路の不備が会社を悩ませた。また、同年に発生した関東大震災により、東京に蔵置していた製品の砂糖が焼失する被害を受ける。先行きの見えない経営のため、内地からは南洋群島の開発の可能性を疑問視する「南洋群島放棄論」も呈された」
(オサゾウムシ科)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%B7#.E3.82.AA.E3.82.B5.E3.82.BE.E3.82.A6.E3.83.A0.E3.82.B7.E7.A7.91_Rhynchophoridae
なるほど、しかし、状況は好転する。
「ジャワ品種のサトウキビの導入による虫害の撲滅、輸送状況の改善により、1925年から経営は好転する。1925年に南洋興発の工場で9,000トンの砂糖が生産され、1935年には68,000トンにまで増加する。南洋庁は南洋興発に製糖事業を独占させ、耕作地の貸与に始まり砂糖の出荷に終わる工程では制度面・資金面において厚い保護を受けた。製糖業の中心地であるサイパン島とテニアン島のジャングルは開拓されて工場・農場に変わり、道路・軽便鉄道が敷設された。1932年の南洋庁の歳入は約482万円であり、うち約309万円を南洋興発からの出港税が占めていた。」
「サイパン島とテニアン島での製糖事業に成功した南洋興発は順調に発展を続け、松江はさらなる事業の拡大を試みる。南洋興発は外領にも事業を広げ、1931年にオランダ領ニューギニア島、1937年にセレベス島(スラウェシ島)とティモール島に進出した。1935年、日本政府が実施した移民政策に従って南洋興発はミクロネシアの主要な島々に施設を建設、パラオ島にパイナップルの缶詰工場、ポンペイ島に澱粉精製の工場が建てられた。」
「太平洋戦争の開戦後、南洋興発は海南島、グアム島、ジャワ島などの占領地の統治に関与する。1942年に南洋興発には南洋貿易(NBK)と合併し、事業分野を拡大する。」
だが、戦争による影響は、事業の終焉を招いてしまった。
地力の低下によるサトウキビの減産もあった。
「アメリカ軍の上陸・占領により施設・従業員の両方に多大な被害を受け、会社の機能は事実上停止する。終戦後、1945年9月にGHQにより閉鎖機関に指定され、解散した。1954年に閉鎖機関指定は解除されたが、南洋興発の経営が再開されることは無かった。」
テニアン島からB29が原爆を積んで飛び立ち、広島と長崎に相次いで投下したのは1945年8月のことである。
浮沈子は、ガラスの温室のようなカバーに覆われた、原爆搭載用ピットを何度か訪れた。
パネルで紹介されている原爆の資料が収められていた。
「当初の主たる事業は製糖事業であったが、1930年代から事業を水産業、農園業、酒造から鉱業、油脂工業、交通運輸業、貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。南洋群島に移住した日本人の多くが南洋興発、および南洋興発に関連する仕事に従事し、南洋興発は日本人移民の招致と定着に貢献した」
「最終的には従業員・関係者は約48,000人と満鉄に匹敵する規模の大会社に成長した。1934年以降のサイパン島、テニアン島の日本人人口は現地住民の10倍以上に増加し、1930年代半ばまでに南洋興発の従業員数は南洋群島の全人口の約半分を占めるようになっていた。」
満鉄の従業員数は、日本語のウィキには記述がない。
南洋興発の大きな特徴は、その従業員人口が南洋諸島に占める割合の多さである。
家族を含めれば、もう、殆ど全員であろう。
しかも、現地人の割合は、人口的には10分の1だというから、植民地といっても、現地人労働者による収奪ではなく、入植し、ジャングルを切り開いてサトウキビなどを栽培するというスタイルだったわけだ。
「1942年の南洋貿易の併合後は製糖業、酒精・酒造、鉱業、水産業、農園、運輸交通、油脂工業、貿易業を展開し、20数社の傍系企業を有していた」
こういった事業展開の背景には、もちろん、委任統治を任されたということもあるだろうが、南進論という対外政策があったことも大きい。
(南進論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%80%B2%E8%AB%96
「1880年代から提唱され、日清戦争による台湾領有、第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に支那事変の頃に主唱された。」
「日清戦争中の南進論は台湾領有の具体的主張であった。
「日清・日露戦争以降、日本の国策の基本は朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったため南進論は民間・非主流派の対外政策論、および、台湾総督府による南洋航路開拓等にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。」
「1914年の第一次世界大戦参戦にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「内南洋」ないし「裏南洋」、すなわち「外南洋」ないし「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。この時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。」
「1930年代、満州事変以降、英米との関係が悪化して日本の国際的な孤立化が進むと、「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになり、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきものであるとされた。1936年8月7日、広田内閣の五相会議で対外問題を中心とする重要国策が決定された。その内容は公表されなかったが、帝国の根本国策が「外交国防相まって東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに南方海洋に進出発展するに在り」とされ、「東亜共栄圏」の盟主構想が、南方進出の方針として重要国策と決定された。これによって海軍の南進論が力を得てきた」
ははあ、陸軍の北進論に対する海軍の南進論ということかあ?。
しかし、武力南進論は、陸軍の発案であったとある。
「武力南進が実際に国策として決定されたのは1940年のことである。この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意した。」
「この武力南進は陸軍省軍務局長の武藤章の発案に基づき企画院の鈴木貞一が調査企画を行ったが周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた」
当初は、穏便に行われたらしい。
「日本の武力南進の最初はフランス領インドシナで、当時のインドシナは中国国民政府(蒋介石政権)に対する英米の支援ルートになっており、日本軍はフランスとの合意に基づき1940年9月この地に進駐した(仏印進駐#北部仏印進駐)。」
「翌1941年6月、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の第2次近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きる。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認した。」
なるほど、松岡は南進論に反対だったわけだ。
米国を知る松岡は、日米の戦争の結末が見えていたのかもしれないな。
「7月、南部仏印への進駐を実行すると、アメリカ合衆国は石油の全面禁輸に踏み切る。この反応は日本政府の予想外のもので、これを契機に日米関係は悪化、最終的には対米戦争に突入する原因となった。」
現在の日本は、人口減少と少子高齢化によって、衰退の一途を辿っている。
為政者は、この国難を乗り切るために、開発途上国の資源を狙っているわけだ。
資源といっても、地下資源や農産物などの一次産品だけではなく、道路、鉄道、上下水道などのインフラ事業に参入したり、大規模な都市計画や、安くて豊富な労働力を使った製造業を投入して、成長の活力の上前を跳ねようとしている。
やっぱ、手っ取り早いのは近くの東南アジアで、次はアフリカだな。
インドや中国は、強大なライバルである。
当時の南洋政策は、東南アジア(インドシナと島嶼地域)に対する足がかりとしての意味があった。
そもそもが、南洋諸島だけで完結する話ではなかったのだ。
「日本が南進で確保を目指した資源:
・中国大陸
小麦、綿花、麻、石炭、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン
・アメリカ領フィリピン
米、小麦、砂糖、木材、タバコ、麻、ポプラ、石炭、鉄鋼、銅、鉛、硫黄、クローム、モリブデン、金、マンガン
・仏領インドシナ
米、とうもろこし、ゴム、ジュート、石炭、亜鉛、タングステン
・イギリス領ボルネオ
米、砂糖、タバコ、石油
・オランダ領東インド
米、とうもろこし、砂糖、ゴム、コプラ、キニーネ、石油、石炭、ボーキサイト、ニッケル、錫、金
・イギリス領マレー
砂糖、綿花、ゴム、タバコ、石炭、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、タングステン
・タイ
米、砂糖、木材、タバコ、鉄鉱石、石炭、錫、亜鉛、アンチモン、タングステン、マンガン
・英領ビルマ
米、小麦、豆類、綿花、タバコ、石油、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、タングステン、ニッケル、金、銀」
米国が日本への石油を止めたことが、我が国を米国を敵とする太平洋戦争に突入させるわけだが、米国政府はそんなことは百も承知で行ったに違いない。
結果、戦に負けた我が国は、南洋諸島を失い、東南アジアへ進出することも出来なくなった。
多くの国々は独立し、植民地としての収奪から逃れて、自前の国家経営に乗り出したわけだ。
まあ、タイは別ですが。
現代では、武力を背景とした現状変更は、一部地域でしか実行力がなく、南進論であれ北進論であれ、公に語ることはアホらしくなった。
(北進論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%80%B2%E8%AB%96
「日清戦争中の北進論は朝鮮半島、遼東半島を制圧した上、渤海湾奥に上陸し北京侵攻を目指す直隷作戦を意味した。」
ぺ、ぺ、ペキン侵攻ですかあ?。
「満州事変以降、満州国より北のソビエト連邦(ロシア)へ侵攻すべきとの議論となり、大日本帝国陸軍と関東軍の思想的イデオロギーとして定着した。」
ロ、ロ、ロシア侵攻ですかあ?。
まあいい。
かつて、我が国は、現在の中国が行おうとしている海洋進出を行い、太平洋の西半分を手に入れた(グアム除く)。
さらに、実際に東南アジアを支配しようと仏印進駐を果たし、さらに戦争によってマレー半島やフィリピンなどにも版図を広げた。
世界の4分の1を手に入れようという、まあ、とんでもないことを考えたわけだな。
米国政府は、そんなことは認めないぞ、戦争するぞ、といってきたわけだ。
もちろん、当時の米国は国際連盟にも加入していなかったし、国内の世論は戦争参加に反対だった。
日本政府を追い詰めれば、窮鼠猫を噛むに違いない。
日本に米国を攻撃させて、国論を参戦に動かすことが出来れば、大日本帝国の野望を叩き潰すことが出来る・・・。
真珠湾攻撃を知りながら、現地司令官に伝えていなかった米国国務省は、自国民の犠牲が出ることよりも、米国国民を戦争に向かわせることが重要と考えたわけだ。
降りかかった火の粉は、払いのけなければならない。
その後の歴史は、全てその延長上にある。
世界は、我が国が限られた島国の中で、静かに滅んでいくことを期待しているのだ。
今、自動車の生産だけが、この国を支えている。
航空機も、ロケットも、世界へ向けて輸出することは出来ない。
まあ、下請けぐらいだな。
MRJも飛んでいなければ、ホンダジェットも本格生産していない。
衛星打ち上げについては、いくらで取引したのかが公表されないので分からないが、米国の衛星を1つ打ち上げる契約が取れただけだ。
おそらく、商売にはなっていないだろう。
その他全ての産業は、中国や韓国、東南アジアが世界の工場になっている。
この先、中国の経済発展が鈍化し、社会不安が起こって共産主義政権が崩壊して、新たな社会秩序が生まれるまで、我が国が存在していられるかどうか・・・。
移民の受け入れを積極的に行い、共通語を英語にし、労働者の権利なんかクソ食らえという環境に出来たとしても、百年は持たないんじゃないか。
北進論や南進論を唱えていた時代は、既に歴史的過去になった。
「「北進」はあくまでもソ連の打倒が目的であり、得られる資源は北樺太の原油程度にすぎず、日本国の需要を賄えるものではなかったのである。」
「大東亜戦争(太平洋戦争)において、「南進」と「北進」は調整されることがなく、併存したまま日米開戦を迎えることになった。北進は、結果的に資源的には何も資することがない対ソ戦で消耗戦となり、米英からの資源が断たれることに加えて、米ソ連合の成立でソ連領の航空基地から出撃する爆撃機によって日本本土が壊滅的な被害を受けることにつながった。陸軍省幹部の瀬島龍三は「日本が軍国主義に染まっていても内実は二つに分裂していた」とし海軍省に対しては陸軍の敗退などの情報はなるべく出さないようにしていたという。」
我が国は、負けるべくして負けた。
そうして、21世紀を迎えて、衰退への道を、ゆっくりと確実に歩み始めている。
もう、50年前から分かっていたことだ。
人口の減少は、止まることを知らない。
200年後には、日本人というのはこの国には殆どいなくなるのではないか。
(7月11日 世界人口デー)
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0711.htm
国連人口部のいい加減な推計はともかく、国立社会保障・人口問題研究所の推計も甘い数字だろう。
今世紀の終わりには、3000万人いるかどうか・・・。
それからさらに100年経って、この国は、滅びる。
まあ、どうでもいいんですが。
土地の生産力はあるので、農業国家に戻ってもいいのだ。
観光資源に頼る国家になって、どこが悪いのか?。
富岡製糸場を訪ねる中国人に食わせてもらうというのも癪だが、仕方なかろう。
その頃は、北京政府も共産党が牛耳っていることもないだろうし、五星紅旗が翻っていることもなく、米国と太平洋を二分する自由主義国家として、南洋諸島を守っているかも知れない(グアム除く?)。
(南満州鉄道)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93
「日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州国に存在した日本の特殊会社である。通称満鉄(まんてつ)。」
「南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年(明治39年)に設立した半官半民の特殊会社である。設立は勅令により、資本金2億円のうち、1億円は日本政府によって鉄道・炭坑などの現物で出資された。」
われわれは、中国の鉄道が、軍の組織であり、旅客の安全よりも軍事物資の輸送に重点を置いた形態であることを知っている。
もともと、鉄道は大陸国家にとっては軍事物資の重要な輸送手段で、兵員を含めて機動的に軍を動かしたり、兵站を行ったりするのに欠かせない。
ミサイルだって、鉄道で輸送するのだ。
我が国は、増え続ける人口を養い、国力の増強を図るために、中国大陸へ進出する。
「都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁して、あたかも1つの独立国であった。」
満鉄は、鉄道会社ではなく、国家であった。
「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」
「満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。」
つまり、鉄道が、国家になったわけだ。
満鉄総裁の中に、松岡洋右の名を見る事ができる。
第14代総裁で、1935年から39年まで勤めている。
外務省を41歳で辞して、満鉄理事となり、その後、代議士となった。
(松岡洋右)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
1932年、国際連盟における演説、翌33年の脱退と、全権としての役割を果たし、政界から足を洗う。
「もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。」
この後、満鉄総裁に就任したわけだ。
「1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外相として松岡を指名した。」
日本外交が、軍部(陸軍)の圧力を受け、大陸に深く関与していく時期である。
この後の展開については、ウィキをご覧いただきたい。
自らの理想とする大東亜共栄圏とその先の世界政府を夢見ながら、現実の国際政治に翻弄され、1941年7月の内閣改造で外相を事実上解任された。
そして、この年の12月8日、我が国は、太平洋戦争をおっぱじめることになる・・・。
満鉄の方も、1928年の張作霖事件、1931年の柳条湖事件をきっかけとした満州事変を起こし、これが契機となって満州国が建国される。
「この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。」
「関連企業・団体:
満鉄衛生研究所
満鉄調査部
満洲映画協会
満州日日新聞
満州航空
華北交通
華中鉄道
大連都市交通
南満州電気
大連汽船
昭和製鋼所(現在の鞍山鋼鉄集団)
日満倉庫(現在の東洋埠頭)
日満マグネシウム(現在の宇部マテリアルズ)
日本精蝋
満鉄会」
満州事変から日中戦争、太平洋戦争をまとめて、15年戦争という括りでいうこともあるらしい。
(十五年戦争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
日露戦争の戦利品である満州鉄道を得た陸軍と、第一次世界大戦終結後、ドイツの植民地である南洋諸島を得た海軍が、それぞれの権益を拡大するなかで育っていった会社である。
満鉄と南興、次は、南洋興発の様子をもう一度見ていく。
(南洋興発)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%88%88%E7%99%BA
「南洋群島の統治を受任した日本が直面する国際的な社会問題を解決するため、松江に白羽の矢が立てられる。設立時の資本金の約70%を東洋拓殖とその子会社が出資、松江春次を初めとする社員と技術者が内地・台湾の製糖会社から招致された」
ここに、東洋拓殖という会社が登場する。
(東洋拓殖)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%8B%93%E6%AE%96
「日露戦争後の1908年(明治41年)12月18日に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで京城府及び満州国、モンゴル、サハリン、南洋諸島、ミクロネシアに存在した大日本帝国の特殊会社である。」
「戦前の日本における南満州鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有。北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた。」とある。
満鉄と南興を繋ぐ、太い線だ。
元々は、韓国に対する植民地政策を推進する国策会社として立ち上げられたという歴史を持つ。
直接の関連があるかどうかは不明だが、南洋拓殖という会社もある。
(南洋拓殖)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E6%8B%93%E6%AE%96
「南洋群島開発十ヵ年計画ではそれまで南洋興発株式会社(南興)によって主導され製糖業に偏っていた産業構造を見直し、外南洋への経済発展、移民拓殖事業の推進、熱帯産業の実験地としての南洋群島の活用を掲げており、南拓はそれらの事業の担い手として期待され設立された」とある。
植民地を経営するに当たって、当時の当局は、国策会社を作って資本を投下し、人を集めて入植を進め、産業育成を図ったわけだ。
「先行した南洋興発はその業務の一部において国策を遂行したが民間企業であり、南拓は半官半民ではあるものの国営企業であることが大きく異なっている。経営は拓務大臣(大東亜省設置以降は大東亜大臣)の管轄下に置かれ、社長は拓務大臣が任命したが、経営には海軍軍人、国会議員、東洋拓殖や南洋興発の関係者も加わっていた」
戦前の植民地を擁していた我が国に、共通したパターンである。
満鉄や南洋興発などの事業会社は、これらの国策会社と車の両輪となって植民地を運営していったと思われる。
まあ、1社独占で競争原理が働かないので、事業がうまくいくかどうかは、経営に係っている。
投資に見合う成果が出なければ、撤退を考えなければならないが、なかなかそううまくはいかないようだ。
南洋興発も、立ち上げ時は苦労の連続だったようだ。
「第一次世界大戦のドイツ帝国敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として日本内地の資本が次々と進出したが、大戦後の恐慌の影響を受けて初期の進出会社は経営に行き詰まる。1920年に南洋殖産、1921年には西村拓殖が倒産した。そして、後には従業員である約1,000人の移民が取り残された」
「1923年よりサイパン島の製糖工場が稼働するが、オサゾウムシによる虫害、サトウキビを運搬する鉄道路の不備が会社を悩ませた。また、同年に発生した関東大震災により、東京に蔵置していた製品の砂糖が焼失する被害を受ける。先行きの見えない経営のため、内地からは南洋群島の開発の可能性を疑問視する「南洋群島放棄論」も呈された」
(オサゾウムシ科)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%82%A6%E3%83%A0%E3%82%B7#.E3.82.AA.E3.82.B5.E3.82.BE.E3.82.A6.E3.83.A0.E3.82.B7.E7.A7.91_Rhynchophoridae
なるほど、しかし、状況は好転する。
「ジャワ品種のサトウキビの導入による虫害の撲滅、輸送状況の改善により、1925年から経営は好転する。1925年に南洋興発の工場で9,000トンの砂糖が生産され、1935年には68,000トンにまで増加する。南洋庁は南洋興発に製糖事業を独占させ、耕作地の貸与に始まり砂糖の出荷に終わる工程では制度面・資金面において厚い保護を受けた。製糖業の中心地であるサイパン島とテニアン島のジャングルは開拓されて工場・農場に変わり、道路・軽便鉄道が敷設された。1932年の南洋庁の歳入は約482万円であり、うち約309万円を南洋興発からの出港税が占めていた。」
「サイパン島とテニアン島での製糖事業に成功した南洋興発は順調に発展を続け、松江はさらなる事業の拡大を試みる。南洋興発は外領にも事業を広げ、1931年にオランダ領ニューギニア島、1937年にセレベス島(スラウェシ島)とティモール島に進出した。1935年、日本政府が実施した移民政策に従って南洋興発はミクロネシアの主要な島々に施設を建設、パラオ島にパイナップルの缶詰工場、ポンペイ島に澱粉精製の工場が建てられた。」
「太平洋戦争の開戦後、南洋興発は海南島、グアム島、ジャワ島などの占領地の統治に関与する。1942年に南洋興発には南洋貿易(NBK)と合併し、事業分野を拡大する。」
だが、戦争による影響は、事業の終焉を招いてしまった。
地力の低下によるサトウキビの減産もあった。
「アメリカ軍の上陸・占領により施設・従業員の両方に多大な被害を受け、会社の機能は事実上停止する。終戦後、1945年9月にGHQにより閉鎖機関に指定され、解散した。1954年に閉鎖機関指定は解除されたが、南洋興発の経営が再開されることは無かった。」
テニアン島からB29が原爆を積んで飛び立ち、広島と長崎に相次いで投下したのは1945年8月のことである。
浮沈子は、ガラスの温室のようなカバーに覆われた、原爆搭載用ピットを何度か訪れた。
パネルで紹介されている原爆の資料が収められていた。
「当初の主たる事業は製糖事業であったが、1930年代から事業を水産業、農園業、酒造から鉱業、油脂工業、交通運輸業、貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。南洋群島に移住した日本人の多くが南洋興発、および南洋興発に関連する仕事に従事し、南洋興発は日本人移民の招致と定着に貢献した」
「最終的には従業員・関係者は約48,000人と満鉄に匹敵する規模の大会社に成長した。1934年以降のサイパン島、テニアン島の日本人人口は現地住民の10倍以上に増加し、1930年代半ばまでに南洋興発の従業員数は南洋群島の全人口の約半分を占めるようになっていた。」
満鉄の従業員数は、日本語のウィキには記述がない。
南洋興発の大きな特徴は、その従業員人口が南洋諸島に占める割合の多さである。
家族を含めれば、もう、殆ど全員であろう。
しかも、現地人の割合は、人口的には10分の1だというから、植民地といっても、現地人労働者による収奪ではなく、入植し、ジャングルを切り開いてサトウキビなどを栽培するというスタイルだったわけだ。
「1942年の南洋貿易の併合後は製糖業、酒精・酒造、鉱業、水産業、農園、運輸交通、油脂工業、貿易業を展開し、20数社の傍系企業を有していた」
こういった事業展開の背景には、もちろん、委任統治を任されたということもあるだろうが、南進論という対外政策があったことも大きい。
(南進論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%80%B2%E8%AB%96
「1880年代から提唱され、日清戦争による台湾領有、第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に支那事変の頃に主唱された。」
「日清戦争中の南進論は台湾領有の具体的主張であった。
「日清・日露戦争以降、日本の国策の基本は朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったため南進論は民間・非主流派の対外政策論、および、台湾総督府による南洋航路開拓等にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。」
「1914年の第一次世界大戦参戦にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「内南洋」ないし「裏南洋」、すなわち「外南洋」ないし「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。この時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。」
「1930年代、満州事変以降、英米との関係が悪化して日本の国際的な孤立化が進むと、「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになり、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきものであるとされた。1936年8月7日、広田内閣の五相会議で対外問題を中心とする重要国策が決定された。その内容は公表されなかったが、帝国の根本国策が「外交国防相まって東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに南方海洋に進出発展するに在り」とされ、「東亜共栄圏」の盟主構想が、南方進出の方針として重要国策と決定された。これによって海軍の南進論が力を得てきた」
ははあ、陸軍の北進論に対する海軍の南進論ということかあ?。
しかし、武力南進論は、陸軍の発案であったとある。
「武力南進が実際に国策として決定されたのは1940年のことである。この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意した。」
「この武力南進は陸軍省軍務局長の武藤章の発案に基づき企画院の鈴木貞一が調査企画を行ったが周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた」
当初は、穏便に行われたらしい。
「日本の武力南進の最初はフランス領インドシナで、当時のインドシナは中国国民政府(蒋介石政権)に対する英米の支援ルートになっており、日本軍はフランスとの合意に基づき1940年9月この地に進駐した(仏印進駐#北部仏印進駐)。」
「翌1941年6月、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の第2次近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きる。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認した。」
なるほど、松岡は南進論に反対だったわけだ。
米国を知る松岡は、日米の戦争の結末が見えていたのかもしれないな。
「7月、南部仏印への進駐を実行すると、アメリカ合衆国は石油の全面禁輸に踏み切る。この反応は日本政府の予想外のもので、これを契機に日米関係は悪化、最終的には対米戦争に突入する原因となった。」
現在の日本は、人口減少と少子高齢化によって、衰退の一途を辿っている。
為政者は、この国難を乗り切るために、開発途上国の資源を狙っているわけだ。
資源といっても、地下資源や農産物などの一次産品だけではなく、道路、鉄道、上下水道などのインフラ事業に参入したり、大規模な都市計画や、安くて豊富な労働力を使った製造業を投入して、成長の活力の上前を跳ねようとしている。
やっぱ、手っ取り早いのは近くの東南アジアで、次はアフリカだな。
インドや中国は、強大なライバルである。
当時の南洋政策は、東南アジア(インドシナと島嶼地域)に対する足がかりとしての意味があった。
そもそもが、南洋諸島だけで完結する話ではなかったのだ。
「日本が南進で確保を目指した資源:
・中国大陸
小麦、綿花、麻、石炭、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン
・アメリカ領フィリピン
米、小麦、砂糖、木材、タバコ、麻、ポプラ、石炭、鉄鋼、銅、鉛、硫黄、クローム、モリブデン、金、マンガン
・仏領インドシナ
米、とうもろこし、ゴム、ジュート、石炭、亜鉛、タングステン
・イギリス領ボルネオ
米、砂糖、タバコ、石油
・オランダ領東インド
米、とうもろこし、砂糖、ゴム、コプラ、キニーネ、石油、石炭、ボーキサイト、ニッケル、錫、金
・イギリス領マレー
砂糖、綿花、ゴム、タバコ、石炭、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、タングステン
・タイ
米、砂糖、木材、タバコ、鉄鉱石、石炭、錫、亜鉛、アンチモン、タングステン、マンガン
・英領ビルマ
米、小麦、豆類、綿花、タバコ、石油、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、タングステン、ニッケル、金、銀」
米国が日本への石油を止めたことが、我が国を米国を敵とする太平洋戦争に突入させるわけだが、米国政府はそんなことは百も承知で行ったに違いない。
結果、戦に負けた我が国は、南洋諸島を失い、東南アジアへ進出することも出来なくなった。
多くの国々は独立し、植民地としての収奪から逃れて、自前の国家経営に乗り出したわけだ。
まあ、タイは別ですが。
現代では、武力を背景とした現状変更は、一部地域でしか実行力がなく、南進論であれ北進論であれ、公に語ることはアホらしくなった。
(北進論)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%80%B2%E8%AB%96
「日清戦争中の北進論は朝鮮半島、遼東半島を制圧した上、渤海湾奥に上陸し北京侵攻を目指す直隷作戦を意味した。」
ぺ、ぺ、ペキン侵攻ですかあ?。
「満州事変以降、満州国より北のソビエト連邦(ロシア)へ侵攻すべきとの議論となり、大日本帝国陸軍と関東軍の思想的イデオロギーとして定着した。」
ロ、ロ、ロシア侵攻ですかあ?。
まあいい。
かつて、我が国は、現在の中国が行おうとしている海洋進出を行い、太平洋の西半分を手に入れた(グアム除く)。
さらに、実際に東南アジアを支配しようと仏印進駐を果たし、さらに戦争によってマレー半島やフィリピンなどにも版図を広げた。
世界の4分の1を手に入れようという、まあ、とんでもないことを考えたわけだな。
米国政府は、そんなことは認めないぞ、戦争するぞ、といってきたわけだ。
もちろん、当時の米国は国際連盟にも加入していなかったし、国内の世論は戦争参加に反対だった。
日本政府を追い詰めれば、窮鼠猫を噛むに違いない。
日本に米国を攻撃させて、国論を参戦に動かすことが出来れば、大日本帝国の野望を叩き潰すことが出来る・・・。
真珠湾攻撃を知りながら、現地司令官に伝えていなかった米国国務省は、自国民の犠牲が出ることよりも、米国国民を戦争に向かわせることが重要と考えたわけだ。
降りかかった火の粉は、払いのけなければならない。
その後の歴史は、全てその延長上にある。
世界は、我が国が限られた島国の中で、静かに滅んでいくことを期待しているのだ。
今、自動車の生産だけが、この国を支えている。
航空機も、ロケットも、世界へ向けて輸出することは出来ない。
まあ、下請けぐらいだな。
MRJも飛んでいなければ、ホンダジェットも本格生産していない。
衛星打ち上げについては、いくらで取引したのかが公表されないので分からないが、米国の衛星を1つ打ち上げる契約が取れただけだ。
おそらく、商売にはなっていないだろう。
その他全ての産業は、中国や韓国、東南アジアが世界の工場になっている。
この先、中国の経済発展が鈍化し、社会不安が起こって共産主義政権が崩壊して、新たな社会秩序が生まれるまで、我が国が存在していられるかどうか・・・。
移民の受け入れを積極的に行い、共通語を英語にし、労働者の権利なんかクソ食らえという環境に出来たとしても、百年は持たないんじゃないか。
北進論や南進論を唱えていた時代は、既に歴史的過去になった。
「「北進」はあくまでもソ連の打倒が目的であり、得られる資源は北樺太の原油程度にすぎず、日本国の需要を賄えるものではなかったのである。」
「大東亜戦争(太平洋戦争)において、「南進」と「北進」は調整されることがなく、併存したまま日米開戦を迎えることになった。北進は、結果的に資源的には何も資することがない対ソ戦で消耗戦となり、米英からの資源が断たれることに加えて、米ソ連合の成立でソ連領の航空基地から出撃する爆撃機によって日本本土が壊滅的な被害を受けることにつながった。陸軍省幹部の瀬島龍三は「日本が軍国主義に染まっていても内実は二つに分裂していた」とし海軍省に対しては陸軍の敗退などの情報はなるべく出さないようにしていたという。」
我が国は、負けるべくして負けた。
そうして、21世紀を迎えて、衰退への道を、ゆっくりと確実に歩み始めている。
もう、50年前から分かっていたことだ。
人口の減少は、止まることを知らない。
200年後には、日本人というのはこの国には殆どいなくなるのではないか。
(7月11日 世界人口デー)
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0711.htm
国連人口部のいい加減な推計はともかく、国立社会保障・人口問題研究所の推計も甘い数字だろう。
今世紀の終わりには、3000万人いるかどうか・・・。
それからさらに100年経って、この国は、滅びる。
まあ、どうでもいいんですが。
土地の生産力はあるので、農業国家に戻ってもいいのだ。
観光資源に頼る国家になって、どこが悪いのか?。
富岡製糸場を訪ねる中国人に食わせてもらうというのも癪だが、仕方なかろう。
その頃は、北京政府も共産党が牛耳っていることもないだろうし、五星紅旗が翻っていることもなく、米国と太平洋を二分する自由主義国家として、南洋諸島を守っているかも知れない(グアム除く?)。
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