清貧 ― 2013年03月17日 12:06
清貧
浮沈子の日常から、最も遠い言葉の一つである。
(せい‐ひん【清貧】)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/122600/m0u/
「私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること。」とある。
私欲の塊で、汚濁にまみれ、行いが悪いために当局のお世話になることが多い(といっても、スピード違反くらいですが)。
貧しく、生活が質素である点では、後半の「・・・貧」は当てはまる(意味なし!)。
で、ローマ法王が代わった。
(ローマ法王)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2012/12/24/6668158
ベネディクト16世を名乗ったヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガーさんに代わり、「フランチェスコ」を名乗るホルヘ・マリオ・ベルゴリオさんが就任することとなった(正式な即位は3月19日)。
(フランチェスコ1世 (ローマ教皇))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B31%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
イタリア系移民の子として、ブエノスアイレスで育ち、化学を専攻した「理系脳」というやつですな。55年間に渡り、バリバリのイエズス会士として活動している(法王になったイエズス会士は、史上初!)。
ウィキペディアの表題も「~1世」となっているが、解説の通り、2世を名乗る法王が出ない限りは、付けないのが正しい。
「質素な生活は彼の謙遜の評判に貢献した。彼は宮殿のような司教邸よりも小さなアパートに居住していた。彼はお抱えのリムジンの使用をせずに公共交通を利用し、食事は自炊していた」とある。
血糖値の高い浮沈子などは、見習うべきであろう。
教皇名である「フランチェスコ」の由来である、「アッシジのフランチェスコ」についてはこちら。
(アッシジのフランチェスコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3
「もともとの洗礼名はジョバンニであったが、当時は風変わりで珍しかったフランチェスコという名前で呼ばれるようになった。これは「フランス人」ぐらいの意味であるが、その理由としては父親がフランスとの商取引を主としていてフランス贔屓だったから、フランス人の母親への敬意から、本人がフランス語で歌うことが好きであったから等、様々に言われている。」とある。
「フランス人」という意味のイタリア語だったんですねえ。
この人は、最初から清貧に甘んじていたわけではない。
「気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。プロバンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを引き受けていた。」とあるように、若い頃は、ミーハーであったわけだ。
「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」というイエスの言葉にカンドーしたのは、後の話だ。
「福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。「裸のキリストに裸で従った」のである。」とあるように、極めて従順に神に仕えた。
その一方で、「フランチェスコは歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたとされている。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。」とあるように、なかなかのやり手でもあったようだ。
フランシスコ会のガバナンスに苦労するが、晩年は「初期の同志数人と共に森や洞窟で祈りと観想に日々を過ごした。」そうだ。
やはり、世俗を捨てた修道者(というよりは、イエスの模倣者)として、生きたかったのだろう。
大事なことは、「貧しい」ことではなく、「清く正しい」ことであり、その結果として貧しくてもしょうがない、ということである。しかも、ここでいう貧しさは、喜捨により支えられている貧しさであり、絶対的な貧困とは全く異なる。
世俗的な富との決別により、それを得るための「汚く悪しき」行いを排除するためのものである。
この、「フランチェスコ」を初めて名乗るベルゴリオさんが、21世紀の現代に、どのような手腕を発揮し、12億のカソリック教徒を導いていくのか。
宗教を持たず、清貧とは程遠い日常を送る浮沈子としても、気になるところである。
浮沈子の日常から、最も遠い言葉の一つである。
(せい‐ひん【清貧】)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/122600/m0u/
「私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること。」とある。
私欲の塊で、汚濁にまみれ、行いが悪いために当局のお世話になることが多い(といっても、スピード違反くらいですが)。
貧しく、生活が質素である点では、後半の「・・・貧」は当てはまる(意味なし!)。
で、ローマ法王が代わった。
(ローマ法王)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2012/12/24/6668158
ベネディクト16世を名乗ったヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガーさんに代わり、「フランチェスコ」を名乗るホルヘ・マリオ・ベルゴリオさんが就任することとなった(正式な即位は3月19日)。
(フランチェスコ1世 (ローマ教皇))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B31%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
イタリア系移民の子として、ブエノスアイレスで育ち、化学を専攻した「理系脳」というやつですな。55年間に渡り、バリバリのイエズス会士として活動している(法王になったイエズス会士は、史上初!)。
ウィキペディアの表題も「~1世」となっているが、解説の通り、2世を名乗る法王が出ない限りは、付けないのが正しい。
「質素な生活は彼の謙遜の評判に貢献した。彼は宮殿のような司教邸よりも小さなアパートに居住していた。彼はお抱えのリムジンの使用をせずに公共交通を利用し、食事は自炊していた」とある。
血糖値の高い浮沈子などは、見習うべきであろう。
教皇名である「フランチェスコ」の由来である、「アッシジのフランチェスコ」についてはこちら。
(アッシジのフランチェスコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B8%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3
「もともとの洗礼名はジョバンニであったが、当時は風変わりで珍しかったフランチェスコという名前で呼ばれるようになった。これは「フランス人」ぐらいの意味であるが、その理由としては父親がフランスとの商取引を主としていてフランス贔屓だったから、フランス人の母親への敬意から、本人がフランス語で歌うことが好きであったから等、様々に言われている。」とある。
「フランス人」という意味のイタリア語だったんですねえ。
この人は、最初から清貧に甘んじていたわけではない。
「気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。プロバンス(南フランス)の言葉で歌われていた宮廷詩や吟遊詩を吟じ、珍奇な衣服を好み、宴会の支払いを引き受けていた。」とあるように、若い頃は、ミーハーであったわけだ。
「行って、そこかしこで「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」というイエスの言葉にカンドーしたのは、後の話だ。
「福音書でイエスが命じている全てをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣することがフランチェスコの生活の全てとなっていた。「裸のキリストに裸で従った」のである。」とあるように、極めて従順に神に仕えた。
その一方で、「フランチェスコは歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたとされている。そうした芸能的ともいえる活動から、フランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。」とあるように、なかなかのやり手でもあったようだ。
フランシスコ会のガバナンスに苦労するが、晩年は「初期の同志数人と共に森や洞窟で祈りと観想に日々を過ごした。」そうだ。
やはり、世俗を捨てた修道者(というよりは、イエスの模倣者)として、生きたかったのだろう。
大事なことは、「貧しい」ことではなく、「清く正しい」ことであり、その結果として貧しくてもしょうがない、ということである。しかも、ここでいう貧しさは、喜捨により支えられている貧しさであり、絶対的な貧困とは全く異なる。
世俗的な富との決別により、それを得るための「汚く悪しき」行いを排除するためのものである。
この、「フランチェスコ」を初めて名乗るベルゴリオさんが、21世紀の現代に、どのような手腕を発揮し、12億のカソリック教徒を導いていくのか。
宗教を持たず、清貧とは程遠い日常を送る浮沈子としても、気になるところである。
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