クルマの価値2012年06月16日 10:00

クルマの価値
クルマの価値


私の300Eの現在価値は、5万円である。

正確な見積もりを取ったわけではないが、中古車屋さんにメールで聞いたらそういわれた。

んな、ぶゎくぁなっ!

しかし、それが現実である。

金属とガラスと樹脂とゴムでできた機械の値段だ。20年以上昔の車である。当時、新車価格で700万円位だというから、140分の1になったわけだ。

機関良好、内装ボロボロ、使用感満載、ミッションオーバーホールなし、エアコン不調、修復歴あり・・・。

売り物にはなりませんなあ。

5万円というのも、義理でつけてくれた価格であろう。

世間の価値はなくても、私にとっては最低でも300万の価値がある。150万の本体価格、乗り出し180万のクルマだ。それからかけた修理費は、ゆうに100万円を超える。

ボディーをひっぱってゆがみを取り、右前のロアアームを交換し、ぶつけた右後ろのドアとフェンダーを交換し、前後のショックを2回交換し、ワイパーをモーターごとアッセンブリ交換し、オートクルーズのコンピューターを交換し、ルームミラーを交換し、パナソニックの純正オーディオを取り付け、ETCを取り付け、レーダーを取り付け、コンパニオンプレートを交換し、ステアリングのダンパーやブッシュを交換し、フロントガラスを交換し、あれもこれも交換し、どれもこれも修理してきた。

18万4千6百キロメートルになる。

下駄である。洗車は年に1回くらい。内装のメンテナンスなど自慢じゃないが一度もしたことはない!。後席はゴミ箱と化し、トランクには部屋に入りきらないCCRのケースがドーンとはいっている。

で、体の一部のようになったこのクルマに別れを告げて、20世紀の工業製品を(マクラーレンF1と共に)代表する500Eに乗り換えようとしている。

クルマの価値は人それぞれだが、ボディが全てである。エンジンも、ミッションも、足回りも、内装も、他のものは全て「部品」である。消耗し、修理し、交換がきく。しかし、ボディは交換がきかない。そして、全ての「部品」はボディに取り付けられる。

ボディを交換するということは、車を交換することである。

W124のボディの耐久性は、50万キロとも100万キロともいわれている。実際には、乗り方にもよるのだろうが、もっと長いと思われる。20万キロでは、ヘタリもしない。300Eは、まだまだ現役バリバリのクルマだ。

しかし、最近、車の価値は別のところにあるように思えてきた。それは、設計思想そのもの、人間の頭の中にある形のないもの、あるいは、それを形にすると決めた経営者の見識ではないか。もっといえば、そういった工業製品を産み出すメーカーの力、それを飲み込む市場の需要、ユーザーの欲望そのものではないか。

もちろん、道路などのインフラを含む国情やその時代の技術水準、経済状態なども関わってくる。

クルマとは時代の表象、シンボルである。

500Eは、そうして誕生した車だ。最善か無か。コストを度外視(若干、削減したところもあるらしいですが)して製作され、そのコストに利潤を乗せてプライスを設定し、それでも飛ぶように売れた車である。

そして、おそらくは、二度と作られることのない類のクルマである。工業製品の価値が、ストックからフローになり、高くても良いものを修理しながらできるだけ長く使う時代から、適正なものを随時更新し、収益構造の中の構成要素としての価格性能比を最大に保つ時代になったからだ。

つまり、工業製品としての独立した価値は認められずに、収益モデルの一部としての消耗品になったということだ。

所有価値ではなく、使用価値の時代である。

このこと自体は当然のことだし、正しいことである。どんな工業製品にも寿命はあり、使用期限は到来する。技術の進歩が緩やかな時代には、確かに良いものを長く使うことが使用価値の増大に繋がっていただけのことだ。

このことは、コンピュータの普及と無関係ではない。

電子制御技術の進歩が、工業製品のあり方を激変させ、そのことが製品寿命を短くしているということはある。

CCRのように、ユニットを交換すれば済む機械とは異なり、自動車は機械部分との結合が密であるために、全体の寿命が電子機器の寿命にひっぱられるのだ。電子制御を失った現代の車は微動だにしなくなる。エンジンもサスペンションもハンドルも全てがコンピュータで制御されている。

500Eが産まれた時代、二度と戻ることのない機械技術の王国、リンケージと油で動力を伝達していた自動車の最後のカタチ。

いや、500Eにだって、コンピュータが積まれている。それでも、まだ、メカニカルな価値が尊ばれていた時代の幸せなクルマ。20世紀最後の残光を浴びて輝いていた車(マクラーレンF1と共に)。

その栄光のクルマに乗り換えるために、かけがえのない価値のある300Eを手放そうとする21世紀の私(輝いているのは頭部だけ・・・)。

内燃機関自体が自動車から消えようとしている時代にあって、敢えて時代に逆行する選択。

クルマの価値は、やはり、最後にはそのクルマを選ぶ乗り手の心の中だけにあるのかもしれない。

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