毒を飲む ― 2014年01月07日 10:06
毒を飲む
内戦の様相を呈している南スーダンで、新たな動きがあったようだ。
(南北混成部隊の配備検討 南スーダン油田地帯守備で大統領会談)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140107/mds14010709070003-n1.htm
「スーダンのバシル大統領は6日、内戦の危機にある南スーダンの首都ジュバを訪れ、キール大統領と会談、南スーダンの油田地帯を守るために両国軍の混成部隊の配置を検討することで合意した。スーダンのカルテ外相が明らかにしたとフランス公共ラジオが報じた。」
バシール(バシル)政権率いるスーダンは、テロ支援国家に名指しされ、バシール大統領は国際的に犯罪者として手配されている人物である。
(オマル・アル=バシール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB
「2003年から続くダルフール紛争での集団虐殺に関与にしたとして国際刑事裁判所から逮捕状が出されている」とある。
紛争により石油の減産が長期化すれば、両国の国内経済に深刻な打撃が及ぶことは間違いないが、浮沈子はこの合意については、一抹の不安を拭いきれない。
石油という経済的な権益と引き換えに、人道に対する犯罪を棚上げにするようなことがあってもいいのだろうか?。
内陸国である南スーダンは、その石油資源の輸出を周辺諸国に頼らざるを得ない。
現在検討されているケニア経由のパイプラインにしても、事情は同じである。
もちろん、スーダン、南スーダン両国に権益を有する中国が仲介に乗り出してきたタイミングでの発表であり、反乱軍側への政治的圧力という点では有効かもしれない。
(南スーダン、中国が和平交渉仲介=王毅外相、エチオピア訪問)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014010700016
「中国の王毅外相は6日、同国が南スーダン政府軍と反乱軍の和平交渉の仲介に乗り出したことを明らかにした。」
先の合意について、よく読むと、「両国軍の混成部隊の配置を検討することで合意」という表現になっている。
「検討」だけなら、3秒でできるわけであるな。
費用もかからないし、5.56mmNATO弾もいらない。
国際犯罪者が率いるテロ支援国家との提携という「毒」を飲む「用意」もあるぞ!、という脅しである。
本当に飲む気があるのかどうかは、分からない。
政治の世界は、一寸先は闇である。
無意味な戦闘の停止と和平の締結という光を、当てることができるかどうか。
毒をあおることなく、闇を切り裂き、光を当てる力を発揮できれば、それに越したことはない。
内戦の様相を呈している南スーダンで、新たな動きがあったようだ。
(南北混成部隊の配備検討 南スーダン油田地帯守備で大統領会談)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140107/mds14010709070003-n1.htm
「スーダンのバシル大統領は6日、内戦の危機にある南スーダンの首都ジュバを訪れ、キール大統領と会談、南スーダンの油田地帯を守るために両国軍の混成部隊の配置を検討することで合意した。スーダンのカルテ外相が明らかにしたとフランス公共ラジオが報じた。」
バシール(バシル)政権率いるスーダンは、テロ支援国家に名指しされ、バシール大統領は国際的に犯罪者として手配されている人物である。
(オマル・アル=バシール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB
「2003年から続くダルフール紛争での集団虐殺に関与にしたとして国際刑事裁判所から逮捕状が出されている」とある。
紛争により石油の減産が長期化すれば、両国の国内経済に深刻な打撃が及ぶことは間違いないが、浮沈子はこの合意については、一抹の不安を拭いきれない。
石油という経済的な権益と引き換えに、人道に対する犯罪を棚上げにするようなことがあってもいいのだろうか?。
内陸国である南スーダンは、その石油資源の輸出を周辺諸国に頼らざるを得ない。
現在検討されているケニア経由のパイプラインにしても、事情は同じである。
もちろん、スーダン、南スーダン両国に権益を有する中国が仲介に乗り出してきたタイミングでの発表であり、反乱軍側への政治的圧力という点では有効かもしれない。
(南スーダン、中国が和平交渉仲介=王毅外相、エチオピア訪問)
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014010700016
「中国の王毅外相は6日、同国が南スーダン政府軍と反乱軍の和平交渉の仲介に乗り出したことを明らかにした。」
先の合意について、よく読むと、「両国軍の混成部隊の配置を検討することで合意」という表現になっている。
「検討」だけなら、3秒でできるわけであるな。
費用もかからないし、5.56mmNATO弾もいらない。
国際犯罪者が率いるテロ支援国家との提携という「毒」を飲む「用意」もあるぞ!、という脅しである。
本当に飲む気があるのかどうかは、分からない。
政治の世界は、一寸先は闇である。
無意味な戦闘の停止と和平の締結という光を、当てることができるかどうか。
毒をあおることなく、闇を切り裂き、光を当てる力を発揮できれば、それに越したことはない。
反社会的クルマ ― 2014年01月07日 22:48
反社会的クルマ
スポーツカーというカテゴリーのクルマが、売れなくなってから久しい。
7年以上前の、スポーツカーについて書かれた記事を見つけた。
(ニッポン社会の絶滅危惧種 国産スポーツカーに未来はあるか?)
http://charger440.jp/200609/contents06/theme06.php
世界ではポルシェが売れまくっていることを考えると、日本に於ける国産スポーツカーという意味なのだろう。
別に国産車でなければならない理由は、少なくとも消費者から見れば、一切ないのでここではあまり拘らない。
問題なのは、ニッポン社会の方なのではないかというのが、今日のブログの視点である。
「教習所のカリキュラムも「抜きたい」と考えることすらイケナイって発想から始まってるしね。最近の小学校の運動会で順位を付けないのと同じで、速く走ることにまったく正義がないんだもの。日本の若者は、クルマに関して去勢され続けてきてるってことなんだよね。」
小沢コージ氏の記事で、運動会で順位を付けないということを、初めて知った。
飽きれてものが言えない。
そのうち、運動会自体もなくなるだろうよ(運動競技は、軍国主義だってかあ?)。
速く走ることには、正義がないというのも、もっともな見解であるな。
高速で走行することそのものが、反社会的行為である。
排気ガスや騒音を撒き散らし、CO2を増加させ、危険極まりない極悪非道の行為である。
高速道路は100kmまで、一般道は60kmまで(みなさん、守ってますかあ?)。
それが、我が国のクルマの限界である。
それ以上の速度で走行することは、反社会的行為であり、犯罪であり、交通社会から排除される。
存在することが許されないのだ。
「国産メーカーがスポーツカーを作るのは、北米とか欧州の市場のためでしかなくなっていくのもどうしようもない。このまま「絶滅」していくのは運命でしょ。」
さすがに、プロの自動車評論家の視点は確かだ。
希望的観測など、微塵もない。
この記事には、3人の方が投稿している。
2人目は、フェラーリ教の教祖として有名な、清水草一氏である。
「スポーツカーには夢や幻想が必要」
まさに、そのとおり。
羊の皮を被った狼もいいんだが、やはり、狼の皮を被った狼の方がカッコイイ!(狼の皮を被った羊もあるが:オロチとかあ?)。
「日本メーカーは「お客様至上主義」で成長してきたけど、フェラーリは逆に「お客様無視主義」が徹底してる。エンツォ・フェラーリは「マーケティングなどというものを考えたことは、ただの一度もない」って、息子が証言してるから間違いない。」
まあ、そんでもって経営危機に陥った挙句、マーケティングを重視したモンテゼーモロによって、再興したわけなんだが・・・。
しかし、スポーツカーというのは、顧客のニーズに阿るだけではなく、顧客をリードする積極的なマーケティングが必要な商品であることも確かだ。
「日本のスポーツカーは絶滅しても、フェラーリがある限り、スポーツカーへの憧れは不滅」
最後は、熱い草一節で締めくくっているが、メーカーとしてスポーツカーを作り続けることには、意味がある。
過酷な使われ方をする各種デバイスの耐久性や、高速走行の車両の特性を把握し、量産車へフィードバックする開発ベッドとしての役割である。
しかし、そんなことをしていたのは20世紀までで、21世紀は、コンピューターのシミュレーションで行うのかもしれない。
館内端氏は、EVこそ未来のスポーツカーだと言い切る(そんなことは、書いていないが)。
「エンジンを始動させると「うるさい」「臭い」って嫌な顔してる中学生が多いのに、モーターが回転すると目を輝かせて前のめりになってくるんだ。」
本田宗一郎が、排気ガスの臭いに憧れてクルマ作りを始めたなんてエピソードは、ヘンタイの話ぐらいに思われても仕方なかろう(いや、浮沈子もそう思います)。
「20世紀型の価値観の中で日本のスポーツカーに絶望する」浮沈子は、外国のスポーツカーに希望を見出すしかない(今更、価値観変えられないし・・・)。
EVのスポーツカーといえば、テスラロードスターに乗ったことがある(助手席でしたが)。
滅茶苦茶速かったが、心はときめかなかった。
モーターじゃあ、ダメなんです!。
内燃機関でないと、燃えないから?。
まあ、どうでもいいんですが。
農耕型社会と、狩猟型社会の話を引っ張り出してきてもいいんだが、そういう歴史的な背景とは別に、高度に管理された社会の中では、突出する行為が制限されるというモデルの方が当てはまるような気がする。
スポーツカーが許容されるには、ある程度緩やかな規制と、格差を容認する社会でなくてはならない。
そして、それでも社会が成立するためには、自己規制や、自己責任、ノブレス・オブリージュなど、スポーツカーに乗る側の自律が求められる。
時速200km以上で走行することを前提として作られたクルマは、高速道路を200kmで走行してもいい、などという状況にならなければ、とてもじゃないがスポーツカーなんて売れやしない!(道路の設計速度もあるので、それこそ、自己責任ですが)。
そんなことを許容したら、国産車が売れなくなるんじゃなかろうか。
いやいや、大多数の日本人は、既に去勢されているので、ごく一部の跳ね返りだけが好き放題できるようになるだけで、社会の全体については、大きな変化はないだろう。
相変わらず、反社会的行為であるな。
無意味な改造車を野放しにし、集団暴走行為を横行させている規制当局は、スピード違反という安易な点数稼ぎに依存することなく、身体を張って、暴走車を取り締まってもらいたいものだ。
まあいい。
スピードを求めることの正義と、その結果としての爆音の許容がなければ、この国にスポーツカーが認知されるということは二度とない。
電気自動車が、自動運転で高速道路を時速200kmで走ったって、浮沈子はそれをスポーツカーとは呼べないのだ。
スポーツカーというカテゴリーのクルマが、売れなくなってから久しい。
7年以上前の、スポーツカーについて書かれた記事を見つけた。
(ニッポン社会の絶滅危惧種 国産スポーツカーに未来はあるか?)
http://charger440.jp/200609/contents06/theme06.php
世界ではポルシェが売れまくっていることを考えると、日本に於ける国産スポーツカーという意味なのだろう。
別に国産車でなければならない理由は、少なくとも消費者から見れば、一切ないのでここではあまり拘らない。
問題なのは、ニッポン社会の方なのではないかというのが、今日のブログの視点である。
「教習所のカリキュラムも「抜きたい」と考えることすらイケナイって発想から始まってるしね。最近の小学校の運動会で順位を付けないのと同じで、速く走ることにまったく正義がないんだもの。日本の若者は、クルマに関して去勢され続けてきてるってことなんだよね。」
小沢コージ氏の記事で、運動会で順位を付けないということを、初めて知った。
飽きれてものが言えない。
そのうち、運動会自体もなくなるだろうよ(運動競技は、軍国主義だってかあ?)。
速く走ることには、正義がないというのも、もっともな見解であるな。
高速で走行することそのものが、反社会的行為である。
排気ガスや騒音を撒き散らし、CO2を増加させ、危険極まりない極悪非道の行為である。
高速道路は100kmまで、一般道は60kmまで(みなさん、守ってますかあ?)。
それが、我が国のクルマの限界である。
それ以上の速度で走行することは、反社会的行為であり、犯罪であり、交通社会から排除される。
存在することが許されないのだ。
「国産メーカーがスポーツカーを作るのは、北米とか欧州の市場のためでしかなくなっていくのもどうしようもない。このまま「絶滅」していくのは運命でしょ。」
さすがに、プロの自動車評論家の視点は確かだ。
希望的観測など、微塵もない。
この記事には、3人の方が投稿している。
2人目は、フェラーリ教の教祖として有名な、清水草一氏である。
「スポーツカーには夢や幻想が必要」
まさに、そのとおり。
羊の皮を被った狼もいいんだが、やはり、狼の皮を被った狼の方がカッコイイ!(狼の皮を被った羊もあるが:オロチとかあ?)。
「日本メーカーは「お客様至上主義」で成長してきたけど、フェラーリは逆に「お客様無視主義」が徹底してる。エンツォ・フェラーリは「マーケティングなどというものを考えたことは、ただの一度もない」って、息子が証言してるから間違いない。」
まあ、そんでもって経営危機に陥った挙句、マーケティングを重視したモンテゼーモロによって、再興したわけなんだが・・・。
しかし、スポーツカーというのは、顧客のニーズに阿るだけではなく、顧客をリードする積極的なマーケティングが必要な商品であることも確かだ。
「日本のスポーツカーは絶滅しても、フェラーリがある限り、スポーツカーへの憧れは不滅」
最後は、熱い草一節で締めくくっているが、メーカーとしてスポーツカーを作り続けることには、意味がある。
過酷な使われ方をする各種デバイスの耐久性や、高速走行の車両の特性を把握し、量産車へフィードバックする開発ベッドとしての役割である。
しかし、そんなことをしていたのは20世紀までで、21世紀は、コンピューターのシミュレーションで行うのかもしれない。
館内端氏は、EVこそ未来のスポーツカーだと言い切る(そんなことは、書いていないが)。
「エンジンを始動させると「うるさい」「臭い」って嫌な顔してる中学生が多いのに、モーターが回転すると目を輝かせて前のめりになってくるんだ。」
本田宗一郎が、排気ガスの臭いに憧れてクルマ作りを始めたなんてエピソードは、ヘンタイの話ぐらいに思われても仕方なかろう(いや、浮沈子もそう思います)。
「20世紀型の価値観の中で日本のスポーツカーに絶望する」浮沈子は、外国のスポーツカーに希望を見出すしかない(今更、価値観変えられないし・・・)。
EVのスポーツカーといえば、テスラロードスターに乗ったことがある(助手席でしたが)。
滅茶苦茶速かったが、心はときめかなかった。
モーターじゃあ、ダメなんです!。
内燃機関でないと、燃えないから?。
まあ、どうでもいいんですが。
農耕型社会と、狩猟型社会の話を引っ張り出してきてもいいんだが、そういう歴史的な背景とは別に、高度に管理された社会の中では、突出する行為が制限されるというモデルの方が当てはまるような気がする。
スポーツカーが許容されるには、ある程度緩やかな規制と、格差を容認する社会でなくてはならない。
そして、それでも社会が成立するためには、自己規制や、自己責任、ノブレス・オブリージュなど、スポーツカーに乗る側の自律が求められる。
時速200km以上で走行することを前提として作られたクルマは、高速道路を200kmで走行してもいい、などという状況にならなければ、とてもじゃないがスポーツカーなんて売れやしない!(道路の設計速度もあるので、それこそ、自己責任ですが)。
そんなことを許容したら、国産車が売れなくなるんじゃなかろうか。
いやいや、大多数の日本人は、既に去勢されているので、ごく一部の跳ね返りだけが好き放題できるようになるだけで、社会の全体については、大きな変化はないだろう。
相変わらず、反社会的行為であるな。
無意味な改造車を野放しにし、集団暴走行為を横行させている規制当局は、スピード違反という安易な点数稼ぎに依存することなく、身体を張って、暴走車を取り締まってもらいたいものだ。
まあいい。
スピードを求めることの正義と、その結果としての爆音の許容がなければ、この国にスポーツカーが認知されるということは二度とない。
電気自動車が、自動運転で高速道路を時速200kmで走ったって、浮沈子はそれをスポーツカーとは呼べないのだ。
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