地質学対考古学2014年01月31日 10:32

地質学対考古学
地質学対考古学


面白い記事を見つけた。

(考古学と地質学間に生じた層序認識の違いとその原因)
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo05/0506kito.pdf

素人にも読みやすく書かれた記事である。

浮沈子は、どちらも門外漢であるが、この記事を読みながら、あることを考えていた。

そう、自動車の運転である!。

はあ?、どういう関連があるの?。

「基本原理は同じであるにもかかわらず、地層そのものに関する認識には大きな差異が生じてしまっている。たとえば、考古学研究者が地層の断面に境界線をひく、いわゆる考古学の分層という作業において、ひとつの単層の中にわれわれ地質学研究者の肉眼ではまったく認識できない境界線がふつうに描かれていく。地質学的な訓練をうけてきた者からみると、なぜそこにそのような境界線が引かれるのか、境界線の必然性は何なのか理解できない。」

もう、この記述を読んだだけで、ワクワクドキドキしてしまう浮沈子は、ヘンタイなのだろうか?。

地質学でお勉強する範囲が、紹介されているので、長いが引用する。

「筆者の専門である層序・堆積学を例としよう。層序・堆積学を専攻するからといって、地層のみを教えられてきたわけではなく、岩石学・鉱物学・構造地質学などをひと通り学ぶ。たとえば、鉱物学ならば 1669 年にステノ(地層累重の法則を提唱したステノと同一人物)によって発見された「面角安定の法則(law of constancy of interfacial angles)」からはじまる結晶光学を学ぶ。特性 X 線や励起 X 線などの原理を学んだのち、X 線回折や蛍光 X 線分析装置を使った実習にはいる。プレートテクトニクスを考える際には、球面上の図形移動であるオイラー回転という幾何学を学習する。卒業論文にはいる前には進級論文として数名のチームを組み、論文をひとつまとめあげなければならない。また、層序学では質量保存の法則やエネルギー保存の法則をもとに、ベルヌーイのエネルギー方程式を経て、フルード数やレイノルズ数とよばれる水理学の基礎的な講義をうける。ときには実験水槽で実際の堆積粒子が堆積する様子を観察してから、実際のフィールドで確かめることをする。ここで強調したいのは、ある対象物を研究する際にも、すぐにその対象物の研究には入らず、基礎理論を徹底的に教えこまれるのである。」

そう、地質学というのは、バリバリの理系科目なのである。

こんな記述があって、なるほどと頷く。

「その発想の違いのひとつを太田 (1981) は「なぜ (WHY)」と「どうして(HOW)」の違いとして説明した。理学部の人は「なぜこんなことが起こるのか。なんとか解明できないものか」と「なぜ」がまず先に立つ。自然現象に対する好奇心が研究の動機になるのである。いっぽう、農学・工学部の人は「どうして」・「どのようにして」が先行することが多い。考古学研究者の場合「どうしてこの遺物はこのような形なのか。誰が使っていたものか。その社会的な背景は何か。」と考える。このような考え方はどちらかと言えば農学・工学部系の発想である。考古学の方々が抱く「自然科学」のイメージを、考古学と法学・経済学とをひとくくりに「人文社会系」としている、と説明すればその違いを理解していただけようか。常に「なぜ」と問いかける地質学者と「どうして」を問う考古学者とでは、発想そのものが当初から違うために層序に関する認識の違いが生まれたともいえる。」

まあ、農学・工学部系を、人文社会系になぞらえるのは、ちといき過ぎかと思うが、発想としては分りやすい。

浮沈子の認識では、「人間」が存在しなくても成立する学問分野が自然科学であり、何らかの形で「人間」の関与を要件とし、人間への回帰を行うことを目的としているのが人文科学である。

まあ、人間がいなければ、自然科学は、誰が研究するんだあ?、という突っ込みはある(哲学でいう、人間原理かあ?)。

「複雑なものをより複雑に 複雑なものを簡単に」

と、考古学と地質学の違いを表現しているが、人文系と理学系の方向性の違いであろう。

「ニュートン(1642-1727) が木からリンゴが落ちるのをみて万有引力の法則を発見した、という逸話はあまりにも有名である。この、リンゴが地面に落下した事実をもって、落下したのは木の品種のためか、季節はどうだ、天気はどうだったか、風は吹いていなかったか、などとあれこれ悩んでいる姿を浮かべる。また、先にのべた汚染の、もっとも避けるべきものに、手でさわる、異物を加えるといった人的汚染がある。ところが、考古試料では、その試料の基本にあるのが「人間」である。「人間」の介在するものを対象としてあつかうため、最初から試料そのものが汚染とは切り離せない存在なのである。つまり、物理・化学の基本法則で説明できる堆積物に、「人間」という新たな要素がひとつ加わった状態が考古学分野である。地質学の理論を検証するときには、地層の保存状態のよい、かつ、ほとんど乱されていないものを選択する。考古学では「人間」というたいへん複雑な要素を考慮しなくてはならず、もっとも難しい領域にのぞんでしまったわけである。」

自動車の運転に話を戻す。

現代の自動車が、サスペンションを初め、エンジン、ブレーキ、ハンドルさえも、仮想化されて制御されてきている話は、このブログでも何度か取り上げている。

自動運転でなくても、デバイスとしての自動車というのは、既に来るところまで来ているのだ。

自動運転というのは、既に確立されたデバイスコントロールを統合し、腐った扉を蹴破るだけのことに過ぎない。

下部構造は、既に人間の介在を許さない仕掛けになっているのだ。

アクセルを踏む行為を考えてみればいい。

浮沈子が所有する83タルガは、オルガン式のぺダルを踏み込むと、機械的に繋がった仕掛け(ワイヤー)で、ペダルの移動量がエンジンのスロットルワイヤーを動かし(当然、人間の足が動力源!)、吸入経路の途中にあるスロットルバルブを開く。

まあ、Kジェトロだから、鍋の蓋のようなベーンが負圧で動いて、燃料を送り込んだりするわけだが、これは、まあ、どうでもよろしい。

20年後の03ボクスターは、アクセルはスイッチで、スロットルバルブとの間にはコンピューターが仕込まれ、ドライバーが床まで踏んでも、エンジンは被ったりしない。

アクセルは、ECU(コンピューター)に信号を送るためのスイッチに過ぎず、スロットルボディのアクチュエイターをどれだけ駆動するか、点火時期やバルブのリフト量、タイミングをどうするかを決めるのは、コンピューター(というより、コーディングしたポルシェ(ボッシュ?)の技術者)である。

人間は、おサルの電車のエテ公よろしく、車線の前が空けば、条件反射的に床までベタ踏みして、アドレナリンの横溢を味わえばよいのだ(浮沈子は、サルかあ?)。

人間に出来ることなど、何もないのだ。

ブレーキも、ハンドルも、既に電気的に制御されている(まだ一部ですが)。

日産のQ50(スカイライン)は、緊急時以外は、ハンドルは物理的には接続されておらず、アクセルペダルと同じで、ただのスイッチである。

路面からのキックバックは、センサーからの入力を元に、コンピューターが生成し、アクチュエイターが作り出した架空のものだ。

ホンダアコードのブレーキは、ただのスイッチで、反力を与える機構は油圧であるものの、ブレーキを作動させる信号は、電気的に送られる。

それぞれのデバイス(アクセル除く)は、コンピューターが作り出したマンマシンインターフェースを持ち、なるべく違和感がないようにしているが、全くリアクションを与えないことも原理的には可能である。

小うるさい人間のことなど考えなくて済めば、クルマはもっと安く、簡単に生産できるようになる。

人間は、単なる荷物となり、運転は機械が行う。

1万年後くらいに、地質学者と考古学者の論争が起こるわけだな。

発掘された21世紀初頭のこの物体は、人為的なものか、そうではないのか。

考古学者は、人間が乗っていたものだから、人為的な遺物として丁寧に扱うべきだ、世界遺産(文化遺産かあ?)に登録しろという。

120世紀の時代には、人間は機械を作ることはない。

機械は機械が作るものだというのは、当たり前で、生まれる前からの胎児教育で、人類の常識となっている。

地質学者は、人類の関与がないものは、単なる鉱物に過ぎないので、歴史的価値などはないと主張するのだ(ということにしておこう・・・)。

83タルガが発掘されれば、世界遺産は間違いない。

それでも問題は残るな。

この機械を製造した機械が、発掘されないからだ。

幻の被造物である。

しかも、こんな機械は、どうやって動かしたかなんて、誰も説明できない。

きっと宇宙人が動かしていたに違いないとか、いや、単なる宗教儀式に使われたモックアップに過ぎないという説もでる。

だって、何処にもコンピューターなんか付いていないからだ。

謎の物体である。

この、ヨタブログの結末は、明らかである。

禁断の地を何処までも行くと、突然、海岸で砂に埋まった自由の女神が現れるというわけだな。

そう、その時代には、おサルの電車に乗っていたエテ公が、人類に代わって、この惑星の主人公になっているわけだ。

自動機械によって生産される、未来の自動車だけが、人類の遺産として動き続ける。

そして、それに乗っているのはエテ公達である。

何の問題もない。

人類は、何処へ行ったのか。

禁断の地のさらに奥地で、教育という知の伝達手段を剥奪され、石器時代さながらの、ナチュラルライフを送っていたのだ。

そのパラダイスの、大昔から伝えられている場所の名は、「ピピ島」であるというオチが付いたところで、今日はおしまい・・・。

(「これからは自動運転車の時代」:セバスチャン・スランの考えるクルマの未来:追加)
http://wired.jp/2014/01/28/safety-self-driving-car/