電脳自動車 ― 2012年04月08日 06:55
電脳自動車
デバイスとして自動車にコンピューターが積まれる様になってからはずいぶんになる。エンジンを制御したり、エアコンを制御したり、レーダーを探知したり(!)、エトセ、エトセ・・・。
カーナビも、今では標準で付くようになってきて、コモディティ化した感がある。
20世紀に買った私の車にだって、ETCが付いていて、「カードが残っています」なんてしゃべったりしている。
(日産、インフィニティの高級EV「LEコンセプト」
ワイヤレス充電やインテル共同開発のインフォテインメントを搭載)
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20120406_524534.html
電気自動車なんて、もう当たり前になってきて目新しささえ薄れてきている。
(日産リーフ、販売エリアを全米50州に拡大)
http://response.jp/article/2012/03/01/170723.html
これからは、スマホとかタブレット(?)と連携して、「私だけの自動車」が当たり前になる。レンタカーを借りても、人の車に乗っても、シートやミラー、ハンドル、カーステは自分用にアッセンブルしてくれて、加速減速の加減、ブレーキの利き具合(ポルシェライクなのがいいな!)も調整して、普段乗っている車と同じドライバビリティを提供してくれるようになる。
それじゃあ、クルマってなんなんだ?。
快適な移動「空間」、運転の楽しさを与えてくれる「装置」。シトロエンのいうように、「魔法の絨毯」になる。外見だけはどうしょうもないし、好みの問題もあるが、インスツルメントパネルは3D技術でどうにでもなる。3連メーターとかデジタル表示とかお好みでどうぞ。
サスペンションのコントロールが電子制御で自由自在になるのは、既に当たり前になった。スーパーカーの乗り心地にも、ショーファードリブンカーの乗り心地にも、スイッチ一つで切り替え可能である。
そして、それらを実現するコンピューターとデバイス達。自分の足で歩くことや、自分の目で見ることや、自分の頭で考えることの代わりに、あるいは、その延長として拡張された機能。
もはや、「コンピューター付きの自動車」ではなく、「自動車の形をしたコンピューター」、あるいは、交通システム全体を考えれば、「コンピューターの中での暮らし」がいつの間にか始まっているのだ。
そのコンピューターさえ、だんだんと見えなくなっていく。意識されることのない、縁の下の力持ちとなって、ブラックボックス化され、インフラ化され、当たり前になる。
失われてはじめて、その存在の大きさを思い知ることになる。水道や電気やガスのように。ネットワーク化されたコンピューター達は、都市という名の「巣」の中で必要不可欠なものとなって、人間の生活を支える。
電気自動車は、その象徴的な存在かもしれない。スマートグリッドに組み込まれて、都市の電力網を補完していくのだから。
クルマとは何か。
かつて「自動車」と呼ばれていたものの形をした、「スマホ」なのかもしれない。
デバイスとして自動車にコンピューターが積まれる様になってからはずいぶんになる。エンジンを制御したり、エアコンを制御したり、レーダーを探知したり(!)、エトセ、エトセ・・・。
カーナビも、今では標準で付くようになってきて、コモディティ化した感がある。
20世紀に買った私の車にだって、ETCが付いていて、「カードが残っています」なんてしゃべったりしている。
(日産、インフィニティの高級EV「LEコンセプト」
ワイヤレス充電やインテル共同開発のインフォテインメントを搭載)
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20120406_524534.html
電気自動車なんて、もう当たり前になってきて目新しささえ薄れてきている。
(日産リーフ、販売エリアを全米50州に拡大)
http://response.jp/article/2012/03/01/170723.html
これからは、スマホとかタブレット(?)と連携して、「私だけの自動車」が当たり前になる。レンタカーを借りても、人の車に乗っても、シートやミラー、ハンドル、カーステは自分用にアッセンブルしてくれて、加速減速の加減、ブレーキの利き具合(ポルシェライクなのがいいな!)も調整して、普段乗っている車と同じドライバビリティを提供してくれるようになる。
それじゃあ、クルマってなんなんだ?。
快適な移動「空間」、運転の楽しさを与えてくれる「装置」。シトロエンのいうように、「魔法の絨毯」になる。外見だけはどうしょうもないし、好みの問題もあるが、インスツルメントパネルは3D技術でどうにでもなる。3連メーターとかデジタル表示とかお好みでどうぞ。
サスペンションのコントロールが電子制御で自由自在になるのは、既に当たり前になった。スーパーカーの乗り心地にも、ショーファードリブンカーの乗り心地にも、スイッチ一つで切り替え可能である。
そして、それらを実現するコンピューターとデバイス達。自分の足で歩くことや、自分の目で見ることや、自分の頭で考えることの代わりに、あるいは、その延長として拡張された機能。
もはや、「コンピューター付きの自動車」ではなく、「自動車の形をしたコンピューター」、あるいは、交通システム全体を考えれば、「コンピューターの中での暮らし」がいつの間にか始まっているのだ。
そのコンピューターさえ、だんだんと見えなくなっていく。意識されることのない、縁の下の力持ちとなって、ブラックボックス化され、インフラ化され、当たり前になる。
失われてはじめて、その存在の大きさを思い知ることになる。水道や電気やガスのように。ネットワーク化されたコンピューター達は、都市という名の「巣」の中で必要不可欠なものとなって、人間の生活を支える。
電気自動車は、その象徴的な存在かもしれない。スマートグリッドに組み込まれて、都市の電力網を補完していくのだから。
クルマとは何か。
かつて「自動車」と呼ばれていたものの形をした、「スマホ」なのかもしれない。
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