見えない糸2014年03月17日 22:59

見えない糸


須賀次郎氏のブログを愛読している。

(スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」)
http://jsuga.exblog.jp/

お会いしたことはないのだが、CCRの先輩でもある(イントラに習った兄弟子である)。

浮沈子が始めた頃は、日本でも数十人しかいなかった頃で、インストラクターといえば、田中さんか、鷹野さんか、豊田さん(イントラ)か、田原さんか、日本にはそのくらいしかいなかったのではないか。

彼が習っていた頃のブログを、繰り返し読んでは、自分のダイビングの参考にしようとした。

ジャパニーズスタイルのダイビングの権化のような方なので、水中では立ち姿勢になって、呼吸で浮力を調整するというのが条件反射のように染み付いていたようだ。

CCRでは、浮力のコントロールに苦労されたらしい(うーっ、身に詰まされるようですなあ)。

浮沈子は、今でも浮力調整は、オープンサーキットよりCCRの方が安定している。

まあ、オープンサーキットの10倍以上の時間をCCRで潜っているのだから、当然といえば当然である。

なんで、息を吸うと浮かんで、吐くと沈むのか・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

で、ブログを拝見していると、やはり安全管理のことが多い。

(0314 ケーブルダイビングシステムと自己責任)
http://jsuga.exblog.jp/22263630/

ケーブルダイビングというのは、通話用のケーブルを仕込んだワイヤーを引っ張って潜るダイビングのスタイルで、20年ほど前に取り組み始めたようだ。

これで潜れば、何かあれば声で船の上に伝えられるし、最悪、ケーブルを引っ張って引き上げてもらうことも出来る。

「しかし、ダメだった。
 どうしても一人はボートの上で監視員に残さなければならない。こんなことは当たり前の事なのだが、いざやるとなるとスクーバダイバーにとっては大きな負担なのだ。事故を起こしたスガ・マリンメカニックでさえも、このシステムを使わないことが多くなったとき、僕はあきらめた。これはスクーバではないのだ。スクーバダイバーというものは、命を失っても、ケーブルでつながれることは嫌なのだ。自由に動きたい。その代償が、たとえ命であったとしても、フリーで居たいのだ。
 
 事故を起こして死んでも自由で居たい。ならば勝手にしろ、すなわち自己責任なのだ。しかし、自己責任ではない体験ダイビングや、講習、そしてサイエンスダイバーのソロには役立つと水中科学協会を作ってから、たびたび、人に勧めもしたし使ってもらいもした。しかしそれでも、スクーバダイバーは自由がほしいのだ。」

このくだりを読んで、浮沈子は胸に刺さるものがあった。

せめて水中では自由に泳ぎたい(まあ、あんまり泳いではいないですが)。

紐に括り付けられて潜るのはいやだ(引っ張られて潜るのは、そうでもない?)。

何かあったら、周りの誰かに助けてもらい、周りの誰かは、自分で何とかしてもらう。

他力本願の極地だな。

それでも、自己の能力と装備の範囲の中では自由に泳げる。

そう、自由といっても、全き完璧な自由ではないのだ。

どんなダイビングにも制約があり、その制約の範囲で潜っている。

だいたい、呼吸するガスが無くなれば浮上せざるを得ない。

それでも潜っていたいから、浮沈子はダブルタンクやナイトロックスやCCRといった器材を繰り出す。

窒素やヘリウムの蓄積といった問題が無ければ、1時間でも2時間でも潜っていたい。

その自由を手に入れるために、修練を積み、器材を整えてきたわけである。

元々、見えない糸に繋がれているのだ。

もちろん、音声によるコミュニケーションとかは、セブのコンチキなどのビーチダイビングではケーブルを使えないので出来ないし、ボートダイビングにしても、ピピのように、50人ものダイバーが、グループに分かれて勝手気ままに潜りだすような環境では使えないだろう。

何キロメートルもDPVでペネトレーションするような、洞窟潜水にも使えない。

スクーバの意味は、自給式水中呼吸器(Self Contained Underwater Breathing Apparatus)である。

その特性を発揮しようとするなら、ケーブルダイビングは邪道なのだ。

水上との繋がりの中でのスクーバというのは、おそらく原理的に相容れない組み合わせだろう。

しかし、ダイバーはいつまでも潜っているわけにはいかない。

いつかは浮上してこなければならない。

そこは、船の上かもしれないし、海岸かもしれないが、見えない糸を手繰ってエキジットするわけだ。

潜行索やガイドロープなど、文字通りの糸を手繰る場合もあるし、ガイドが上げたマーカーブイの下から浮上することもある。

海底の地形や生物の集まりなどを目安にエキジットすることもある。

ロタなんかは、透明度がいいので、浮かんでいるボートを目指して水底30mから浮上することも出来る(まあ、概ね潜行索がありますけど)。

ダイバーとはいえ、陸の上でしか生きられない生物に変わりは無い。

どこかで、浮上しなければならない。

水中から陸上へと続く、細く見えない糸を手繰らなくてはならない。

「スクーバはケーブルでつながれていない以上、初心者であろうと、ベテランであろうと同じように自己責任なのだ。」

「潜降索、ガイドライン、様々な手法を凝らして、舟との間接的でも良いから連携を取って潜ろうとするのが僕のフィロソフィーで、僕が生き伸びている理由でもある。」

スクーバの器材の故障など、ケーブルダイビングであれば、自己責任がなくなるとは思えないが、そこには手繰るべき糸がある。

ケーブルがないダイビングは、そこに見えない糸を見出す努力をしなければならない。

いつだったか、潜行索がないポイントでは潜らない、というポリシーの方の話を聞いたことがある。

それもまた、一つの見識ではある。

浮沈子のように、セルフダイビングはしない(必ず、インストラクターかその海域に精通したプロのガイドと一緒に潜る)というのもある。

浮沈子には、エキジットの糸は見えないままだが、ガイドと逸れなければ、ガイドが手繰っている見えない糸にくっ付いて上がってこられる。

まあ、いつまでもそれじゃあ仕方ないので、自分の限界の中で、スキルアップしようというわけだ。

安全索、ガイドロープ、ケーブルダイビングのケーブル、そして見えない糸、何でもいい、人間の棲む陸上の世界、酸素分圧はいささか少ないが、鳥が歌い、木々が生い茂る世界へと続く糸を、しっかりと手繰れるように精進することだな。

それが、ケーブルを使わないダイバーの生き延びる道だ。

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