😼デザインの潮流:モノリシック:思想と機能2025年04月15日 00:21

デザインの潮流:モノリシック:思想と機能
デザインの潮流:モノリシック:思想と機能


(シグマ製レンズ交換カメラ「Sigma BF」外観レビュー、金属の塊っぽさが全開で「感圧式ハップティックボタン」「内蔵ストレージ230GB」など異質のミラーレス)
https://gigazine.net/news/20250414-sigma-bf-appearance/

「シグマのフルサイズセンサー搭載ミラーレスカメラ「Sigma BF」が2025年4月24日に発売」

浮沈子は、カメラとか写真については全くと言っていいほど何も知らない。

愚弟は、ミラーレス一眼とか持っていて、スマホもカメラで選ぶマニアだが(税込み3000円のジャンクとかは見向きもしません!)、浮沈子的には、んなもん写りゃいいだろう程度にしか考えていない(そんなあ!)。

実際、このブログに掲載されている画像を見れば、その拘りの無さ(!)は明らかだからな(自分でも、そう思います・・・)。

写ってりゃいいだろう!?。

まあ、どうでもいいんですが。

しかし、このシグマBFというカメラの形には、ちょっとしたショックを受けた。

正直に言うと、この会社、知らなかったからな。

先日、記事にした画像のRAWデータの話の中で、ちらっと見た記憶がある程度だ。

(RAW画像:標準なき乱世の世界)
https://kfujito2.asablo.jp/blog/2025/04/08/9767018

「・シグマ:
独自のデータ形式を用いることで、カメラの情報を現像ソフトに正確に提供できるようになります。ただし、汎用(はんよう)性は低くなります。」

ふーん、ソニー、キヤノン、ニコン、オリンパス、フジフィルムだけじゃないんだ・・・。

シグマBFは、ギガジンで発表当時にも記事になっている。

(シグマ製フルサイズミラーレスカメラ「Sigma BF」登場、超シンプルなボディに「230GBの内蔵ストレージ」「振動フィードバック式のボタン」などを詰め込んだユニークなカメラ)
https://gigazine.net/news/20250225-sigma-bf-camera/

「アルミニウムインゴットから7時間かけて削り出した継ぎ目のないユニボディが特徴」

そう、浮沈子が注目したのもそこだ。

まるで、2001年宇宙の旅(映画)に出てくるモノリスのような直方体を彷彿とさせるボディ本体。

カメラは、手に持って、重量のあるレンズを付けた状態でホールドし、動きのある被写体を狙ってシャッターを切るという動的な扱いを要する究極の道具だ。

知的な武器であり、目の機能の延長であり、悠久な時間の一瞬と無限な宇宙の一角をスパッと切り取る鋭利なナイフだ。

機能優先な形で手に馴染み、ホールド感良く、軽量化が難しいレンズシステムとの重量バランスも考慮される必要がある。

カタチは機能に沿う・・・。

が、シグマBFはそうじゃない。

フルサイズの画像センサーや、大容量メモリーなど、機能に妥協はないものの、右手の親指部分と表面の滑り止め加工以外に、持ちやすさを追求した感じはない(未確認)。

カタチ優先なわけだ(そうなのかあ?)。

浮沈子は詳しくないけど、機能もおそらく必要最小限に絞られているんだろう。

それでも、妥協のない性能を発揮するための仕掛けは詰め込まれている。

モノリシックなデザインの中に、見かけによらない機能が隠されているわけだ。

数年前、浮沈子はエジプトに行ってピラミッドを見てきた。

まあ、あれこそモノリシックデザインの原点と言ってもいい。

しかし、内部構造の複雑さや正確な方位による位置決めなど、シンプルで唯一無二のデザインの中に、驚くほどの機能が詰め込まれている。

でもな、浮沈子的にはその対比はあまり感動を呼ばない。

塊感のあるデザインそのものが持つ力、神秘性、超越性がポイントな気がする。

モノリシックというのは、コンピューターの世界でも登場する概念だ。

どっちかと言えば、最近は否定的なニュアンスで語られることが多い気もする。

マイクロサービスとの対比だ。

OSのカーネルが、いい例かもしれない。

モジュール化されず、ガチガチに作られてしまって、何かを変えようとすると全体に影響が及び、発展性に乏しく時代に付いて行けないレガシーなアーキテクチャというニュアンスだな(そうなのかあ?)。

それでも、モジュール間通信のオーバーヘッドなく、資源を最大に生かして高速で高効率に機能を実現できるという何物にも代えがたいメリットがある。

そう、モノリシックな思想に、互換性や発展性は必要ないのだ(そういうことかあ?)。

んなもんはクソ食らえだ!(言葉が汚くてスイマセン・・・)。

唯一無二の存在。

それをカタチにしたデザイン。

何物にも代えがたい価値・・・。

(Sigma BF
本質に宿る美しさ)
https://www.sigma-global.com/jp/cameras/bf/

「Sigma BFの真髄は、そのシンプルさにあります。」

「かつてないほど直感的な撮影体験を提供するカメラを作りたい」

「創造性を妨げるあらゆる要素を排除」

「全ての要素は純粋な撮影体験を体現するために設計」

それが実現できているかどうかはともかく、目的のために機能を絞り込み、それをカタチにするというメーカーとしての姿勢は明確に伝わってくる。

このカメラの評価はこれからだ(4月24日発売)。

本体だけで40万円に迫る価格は安いとは言えない。

もちろん、陸上でしか使えないしな(水中撮影はムリポ!)。

フラッシュとかも使えないのかもしれない(未確認)。

唯一無二の存在に価値を見出すことが出来る人々のための、自己満足なコンセプトのカメラなのかもしれない(そんなあ!)。

でもな、RAWデータの時もそう思ったんだが、モジュール化され、互換性で妥協を強いられた、どれもおんなじようなもんばっかの世界じゃ面白くない(断定的!)。

独自設計、大いに結構!。

浮沈子が、最初にそれを感じたのは、ソニーの初代ウォークマンが出た時だ。

(ウォークマン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3

「日本では最初からウォークマンの商品名で発売されたが、文法に合わない和製英語であるウォークマン(Walkman)を避けて、海外では当初、他の商品名で発売された。」

それは知らなかったな・・・。

カセットテーププレイヤーであることから、直方体デザインは想定の範囲内だが、こういうものはなぜかモノリスに似てくる(そうなのかあ?)。

直方体に限らず、モノリシック(塊感)なカタチが持つデザイン上の力強さ、そこに秘められた超越的な力への憧憬、それを所有し意外な機能性を楽しむ喜びは、製品としての魅力を高めるだろう。

まあ、ピラミッドじゃ、持ち歩くのに不便だしな。

おっと、今気づいたんだが、今日買い求めたモバイルバッテリーも直方体のモノリシックデザインだった。

浮沈子的には、究極のモノリシックな形状は球形だと思っている。

恒星や惑星など、デカい単一の天体は概ね球形だからな(回転していて、多少潰れてるのもありますけど)。

銀河とかは別の形状だけど、あれは、どっちかといえばマイクロチックな形状ともいえる(多数の天体の集合だし:モノリシックじゃない!)。

まあ、どうでもいいんですが。

シグマBFのデザインは、いい意味でちょっとショックだった。

それを可能にしたのは、メカニカルな機構を廃してデジタルに特化したことだろう。

機械の王国から電子の帝国への変貌は、こんなところにも現れている。

思想をカタチにする技術。

うーん、カメラみたいに機能追及のアイテムは、もっと、こう、有機的というか、人間工学的(エルゴノミックな)デザインになってもおかしくはない(キヤノンとかはそっちですなあ・・・)。

カメラそのもののデザインが自己主張するというのは、本道ではないような気もする。

が、カメラ愛好家の中には、カメラを棚に飾って眺めて楽しむ方もいるのかもしれない(そうなのかあ?)。

シグマBFは、間違いなく至高の満足感を与えるだろうな・・・。

今日は、ギガジンの記事に刺激されて、良く知らないカメラの話を書いた。

頓珍漢なことを言ってるかも知れないけど、んなんは今に始まったことじゃないからな・・・。

🚀スターリンク:世界を変える衛星インターネット2025年04月15日 13:22

スターリンク:世界を変える衛星インターネット
スターリンク:世界を変える衛星インターネット


(マスクの野望を支える「衛星インターネット」事業の未来が危うい)
https://forbesjapan.com/articles/detail/78464

「スターリンクの将来性が、投資家が想定しているほど高くないかもしれない」

・衛星には人口密集地域で多数のインターネット利用者を同時にカバーする能力がそもそもなく、過疎地域においては高額な料金を支払える人口が限られている。

・まだアフリカやアジアの多くの国でサービスを開始していないが、これらの地域では既存市場よりも富裕層が少ない。

・先進国においては、もはや拡大余地があまり残っていない可能性

・ジェフ・ベゾス率いるアマゾンなども競合サービスの立ち上げの準備を進めている。

一見すると、もっともな理由に思える。

技術的限界と市場が限られている点については、確かに懸念材料と言える。

が、やや疑問も感じる。

そんなに将来性がない市場に、なぜ、ライバルは参入しようとしているのか。

しかも、コスト効率ははるかに悪い(自前の打ち上げロケット無いしな)。

「打ち上げ予定のV3衛星によって、データ送信能力を既存の第2世代衛星の10倍にしようとしているが仮にそれによって1平方キロあたり10人にサービスを提供できるようになったとしても、都市部で対応できる顧客数は限られる。例えば、人口が800万人強のニューヨーク市で、スターリンクが対応可能なのはせいぜい7000世帯程度だという。」

支払い能力がある顧客が都市に集中し、そこでは技術的限界から顧客数を伸ばせないという構造は、確かに懸念材料だ。

が、ちょっと待って欲しい。

その、潜在的顧客は、なぜ都市に住んでいるのか。

労働集約的業務をこなす点では、確かに労働力を確保する点で都市が好ましいけど、インターネットによる通信革命でその状況は大きく変わりつつあるのではないのか。

「スターリンクは、通信会社の大きな脅威になったりしない。それだけは、はっきり明言しておきたい」(2020年の話:コロナの大流行前だからな)

10年後にその状況が大きく変わっている可能性は高いだろう。

しかも、顧客には既存の通信事業者が含まれる。

バックホール回線やバックボーンをスターリンクに上げて、一般の顧客に近いところでのサービスに注力するビジネスモデルを選択するわけだ(バックホール用に専用の帯域を確保したしな)。

それは、既存の通信会社にとっては大きな脅威になる。

スターシップに対する予測も、的を得ているとは言えない。

「スターリンクを除けば、通信衛星の打ち上げ需要はほぼ横ばいのままで、地球観測衛星はそれほど多くの数を必要としない。そして宇宙観光に関しては、打ち上げコストが劇的に下がったとしても、生命維持装置などのコストを考慮すると、1人あたりのチケット代は10万ドル(約1430万円)を超える。「そんな金額を払える人がどれほどいるのか?」」

蒸気機関車(自動車)が登場した時、その前を旗を持った人間が走ったという話を思い出す(赤旗法)。

浮沈子は、宇宙旅行の収益の持続性については同じような懸念を持っているが、輸送手段の革命が状況を劇的に変える可能性は否定できない。

「伝統的な指標をあてはめても意味がないんだ」

正にその通り。

昨日のように明日があるという時代じゃない。

変革は、今日、今、この瞬間に起こっている。

まあ、どうでもいいんですが。

浮沈子的最大の懸念は、市場合理性などクソ食らえの中国の台頭だな。

国家の威信を賭けて、スターリンクを凌駕しようとするだろう。

地球低軌道を巡る熱い戦いは始まったばかりだ。

限界だってえ?。

少し、気が早いような感じがするんだがな・・・。

<以下追加>ーーーーーーーーーー

(技術の進歩は受け入れるしかないが)
https://wirelesswire.jp/2017/05/59907/

「人類の歴史を振り返ると、大きな技術革新があった時、人類は技術を社会に合わせるのではなく、技術に合わせて社会を変えてきた。技術を封じ込めて、これまでの社会体制を維持しようとする試みはすべて失敗した。」

赤旗法のところで、浮沈子は鉄道と勘違いしていたんだが、蒸気機関を使った自動車だった。

やれやれ・・・。

この記事を読んで訂正した。

「進歩する技術への社会からの抵抗として有名なのは赤旗法だ。イギリスにおいて19世紀後半に施行された法律である。自動車——といっても当時は内燃機関ではなく蒸気機関を使った蒸気自動車だったのだが——は赤い旗を持った者が自動車の前を歩かなければ道路を走ってはいけないとする法律である。そうしなければ自動車は危険であると考えられたのだ。当然、自動車は前を歩く赤旗を持った者以上の速度を出すことはできない。」

「今の感覚からすれば馬車を引く馬のほうがいつ暴走するかも分からず危険に感じる。しかし当時のイギリスでは馬は御者で押さえることができるが、火力を使う蒸気自動車はいつ故障するかも分からず(実際、初期の蒸気機関はよく爆発事故を起こした)、また、周囲の馬を驚かせて暴走を引き起こす危険性があると考えられたのだった。」

新しい技術の登場と、それに対する社会の反応は様々な悲劇(喜劇かあ?)を生む。

浮沈子のように、スマホは自宅でサーバー化され、携帯電話は家電と化している話もある(ワケワカ・・・)。

今日は、出がけに電話が掛かってきて、最近留守電を入れてい頂いていた銀行のご担当の方と、やっとお話しできた(携帯、持って出ればあ?)。

やれやれ・・・。

以後は、メールでのやり取りをお願いしておいた。

まあ、どうでもいいんですが。

都市部にすむ浮沈子は、低軌道衛星コンステレーションによるインターネット接続とは無縁だ。

スターリンクはあくまでブログネタに過ぎない。

山奥で異なるアーキテクチャのスマホ持ちとばったり会っても、スマホを持ち歩かない浮沈子は例のミッションにも対応できないしな(相手の方には、メールに添付して送って欲しいと頼んでアドレスを登録してもらうのがせいぜいだろう)。

「技術を封じ込めて、これまでの社会体制を維持しようとする試みはすべて失敗」(再掲)

まあいい。

世の中の流れに棹差して生きるというのも、一つの生き方ではある。

今日は、HTTPサーバー(HTTP FS:無料版)の設定を少し弄って様子を見ている(画像参照:変更できないパスワード設定したり:そんなあ!)。

無駄な抵抗はやめて有料版にするか、リナックス環境を整えて、素直にアパッチを入れるか。

ジャンクライフに大きな技術革新があれば、また書くかもな・・・。

🚀アルテミス:月軌道ステーションの危機2025年04月15日 19:52

アルテミス:月軌道ステーションの危機


(月面ゲートウェイの骨組みが完成 ― 次の目的地はトランプ大統領の解体台になるかもしれない)
https://arstechnica.com/space/2025/04/heres-the-latest-on-nasas-lunar-gateway-a-program-many-people-want-to-cancel/

「NASAが月に恒久的な前哨基地を望むなら、なぜ月面に置かないのでしょうか?」(そうだそうだ!!)

「スターシップとブルーオリジン社が製造するNASAの2番目の月面着陸船は、月面に到達するためにゲートウェイのような前哨基地にドッキングする必要はありません。」(自動翻訳訂正済み)

「ゲートウェイは不要であるだけでなく、NASAの目標の妨げ」

「国際的なパートナーはゲートウェイの開発と建設の費用の約60%を負担」

「ステーションの運用と補給もNASAが担う」

うーん、必ずしもお得な取引というわけではないようだ。

「第2期トランプ政権下では月と火星のバランスが変化する可能性があり、ゲートウェイがNASAにとってどれほどの価値を持つのかという不確実性はさらに高まる」

「ゲートウェイは私たちにどんなチャンスをもたらしてくれるのでしょうか?そして、課題はどこにあるのでしょうか?ゲートウェイは、予算超過やスケジュール遅れに陥っている多くのプログラムの一部であると考えているからです。」(ジャレッドアイザックマン:NASA長官候補)

HALOモジュールとPPEモジュールの建造は進んでいるようだが、いくつかの問題が残っている。

・PPEのスラスターは納入試験中
・通信システムはこれから納入
・質量管理問題は当面棚上げ(推力の範囲に収まるかどうかは未定)
・スターシップのような巨大訪問機がドッキングした際の制御性は未解決(改善はされているようですが)

で、前述のように、予算と納期の問題があるわけだな。

やれやれ・・・。

ルナゲートウェイなんていらないんじゃね?。

月面に降り立ったなら、そこから飛び立つ必要があり、そのためには燃料を用意しなければならない(空気や水や食糧も)。

月軌道ステーションなら、地球から持って行った燃料だけで帰ってくることが出来る(未確認:短期滞在なら可能かも)。

つまり、有人月探査は3つに分かれる。

➀月周回軌道(自由帰還軌道含む)まで
➁ルナゲートウェイ(NRHO:Near Rectilinear Halo Orbit)滞在
➂正真正銘の月面探査

自由帰還軌道や、月軌道を何周か回って帰ってくるというミッションがあってもいいかも知れない(➀)。

目的地としては、やっぱ月面まで行きたい(➂)ところだが、周回軌道上のルナゲートウェイまで(➁)でもいいや・・・(そういうことかあ?)。

毎回月面まで行くというのは辛いものがあるからな。

米国は、自由主義陣営の国々のお客さん(宇宙飛行士)を、月周回ツアーと月面着陸ツアーに振り分けることになる。

バリエーションとして、ルナゲートウェイに滞在するというプランがあればなおいいだろう(➁)。

そうすることで、ISSで地球低軌道で展開したように、有人宇宙開発の盟主でいられるわけだ。

そこは、ほれ、政治的な動機なわけだから、どんだけ貢献したかによって色分けされるということになる。

ルナゲートウェイは、必ずしも無用の長物ではないかも知れない・・・。

滞在期間の延長とか、そういうバリエーションも付けられるしな。

ISSでもそうした対応は行われたが、384,400kmの彼方と400kmとでは、アットーテキな距離感の違いがある(961倍)。

ルナゲートウェイを維持するということになれば、ロジ(輸送)が重要になるわけだが、我が国はそこへの貢献も求められるに違いない。

月面着陸ということになれば猶更だ。

有人月面基地なんてのは、夢のまた夢だろう(そうなのかあ?)。

まして、そこに人類を常駐させることは、おそらく今世紀中には不可能だ。

火星は、更にその先にある(最も近い時でも5,500万km:月までの距離の143倍、ISSまでの距離の137,500倍)。

べらぼーめ・・・。

その距離を移動するリスク、その間に受ける放射線や無重力のリスク、宇宙船の故障、人間関係のトラブル、その他ありとあらゆる障害が横たわり、しかも、たどり着く先にあるのは楽園などではない!。

火星は、人類にとっては地獄そのものだ・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

アイザックマンは、おそらくルナゲートウェイを切るだろう。

周回だけして帰ってくるだけでも、ツアーは成り立つ。

月面に降り立つだけなら、月軌道上の拠点は必要ない。

元々、常駐を前提にしていないわけだし、ぶっちゃけ、無用の長物だ。

あれば、それに越したことはないけど、なくてもいい。

最大の問題は、そこへ観光客をどうやって運ぶかという話になる。

もう、アルテミスの中でSLSとオリオン宇宙船は飛ばない(あと2回でお終い)。

アルテミス4以降はキャンセルになる。

スターシップとニューグレンを有人化していくしか道はないのだ。

それは、早くても2030年代になる。

2020年代の後半は、寂しい時代になるんだろうな・・・。

🐬ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」2025年04月15日 23:32

ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」
ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」


(Googleがイルカと話せるAI「DolphinGemma」を開発、スマホを使った会話マシンもあり)
https://gigazine.net/news/20250415-google-dolphin-communication-ai-dolphingemma/

「イルカが人間を見ている状態で、片方の人間がCHATから音声を発し、もう片方の人間からスカーフを受け取ります。」

「この様子を目撃したイルカは「あの音を出せば、スカーフをもらえる」と学習するわけです。」

なんかなあ、イルカをバカにしているような話に思えるんだがな。

イルカが発することが出来る音なら、何でもいいような気がする。

それを「会話」と称するなら、何をかいわんやだな。

まあいい。

浮沈子的には、AIがどうのこうのというより、このCHAT(Cetacean Hearing and Telemetry)というデバイスの方に興味がある(画像参照)。

「CHATは「既知のイルカ言語を人間用に翻訳する機能」や「イルカ用に設計した音声を水中で発する機能」などを備えており、イルカと人間の双方向コミュニケーションを可能にすることを目指して改良が続けられています。」

「記事作成時点ではCHATのコンピューターにはPixel 6が用いられているとのこと。すでにPixel 9を搭載したCHATの開発が進んでおり、2025年夏にはPixel 9とDolphinGemmaを用いた研究が始まる予定です。」

水中で使えるアンドロイドか・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

(DolphinGemma: Google AIがイルカのコミュニケーションを解読する仕組み)
https://blog.google/technology/ai/dolphingemma/

「本日、ナショナル・イルカ・デー(全米イルカデー)にあたり、Googleはジョージア工科大学の研究者およびWild Dolphin Project(WDP)のフィールド調査と連携し、DolphinGemmaの開発進捗を発表します。」

ギガジンの記事にリンクされたグーグルのページを読んでいたら、昨日(4月14日)が、全米イルカデーなことを知った。

浮沈子の頭の中には、役に立たない情報がしこたま詰まっているからな。

イルカの日か・・・。

(イルカの日)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Day_of_the_Dolphin

「1973年のアメリカのSFスリラー 映画です。フランスの作家ロベール・メルルによる1967年の小説『知覚する動物』を原作とし、アメリカ人のバック・ヘンリーが脚本を執筆」

映画を見たことはないけど、イルカと人間の物語と言えば、浮沈子の世代ではわんぱくフリッパーというのも頭に浮かぶ。

(わんぱくフリッパー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%82%93%E3%81%B1%E3%81%8F%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC

「MGMが制作していたアメリカのテレビドラマシリーズである。1964年からNBCテレビで放送された。全88話。カラー制作。」

人間は、同じ人間同士であってもコミュニケーションに苦労する。

時にはドンパチ始めちまったりするしな。

その一方で、宇宙人を探したり動物と会話しようとしたりする。

AI、海洋、アンドロイドと、三拍子そろった今風の記事だが、浮沈子的にはしっくりこない気がする。

犬とかじゃダメなのかあ?。

(令和2年版 科学技術白書)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13731853/www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa202001/1421221.html

「概要版 (PDF:1.5MB) PDF
刊行に寄せて (PDF:166KB) PDF
目次 (PDF:613KB) PDF
令和2年版科学技術白書 本文(PDF版)
令和2年版科学技術白書 本文(HTML版)
正誤表
2040年社会のイメージ「人間性の再興・再考による柔軟な社会」

本文には、こんな記述がある。

(第1部 科学技術が広げる未来社会の可能性と選択肢:第2節 2040年の社会のイメージ)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13731853/www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2020/06/15/1427221_004.pdf

「A3:
<解説・科学技術トピック>
発話ができない人や動物等が言語表現を理解したり、自分の意志を言語にして表現することができるポータブル会話装置

<科学技術的実現時期>
2031年

<社会的実現時期>
2034年」

眉唾だな・・・。

人間も畜生も、一緒くたにしている。

このブログでも取り上げた記憶があるんだが、ドリトル先生シリーズというのもあった。

(ドリトル先生シリーズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%88%E7%94%9F%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

「20世紀前半にアメリカ合衆国で活動したイギリス出身の小説家、ヒュー・ロフティングによる児童文学作品のシリーズ。」

「ロフティングは第一次世界大戦においてイギリス陸軍・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として従軍した際に、動けなくなった軍用馬の射殺処分に遭遇して心を痛め、この体験から動物の言葉を解する獣医師の物語のインスピレーションを得たとされる。」

「従軍先から2人の子供に宛てた手紙で、動物語を話すイギリスの田舎町に住む「ドリトル先生」の短い物語を挿絵付きで書くようになり、これが1920年に刊行された第1作『ドリトル先生アフリカゆき』の原型となった。」

浮沈子が最初に読んだのは航海記だ。

(ドリトル先生航海記)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%88%E7%94%9F%E8%88%AA%E6%B5%B7%E8%A8%98

「トミーは先生の屋敷に日々足を運ぶようになり研究の手伝いをするとともに、アフリカから戻ってきたオウムのポリネシアの助けもあって動物の言葉を覚えていく。」(トミー:トーマススタビンズ:物語の語り手の少年)

手元に当時読んだ本がないんだが、ポリネシアがトミーに動物の言葉を教える際に、「よく気が付きますか?」と言っていた記憶がある。

動物は、音声だけではなく、しぐさなどでも表現するということで、そこに気付くことが大切という話だった気がする。

まあ、人間も同じだけどな。

ダイビングを始めた時に、同じようなことを言われた(レスキューコースの時かな?)。

ストレスを感じているダイバーは、呼吸が早くなったり多動多弁になったり、また逆に鬱々として無口になったりするからな。

よく観察して、適切なコミュニケーションを図り、本人が問題解決するのを手助けしたり、そっと見守ったりすることが大切だ。

そもそも、水中では音声によるコミュニケーションに限界がある。

「航海記」では、大ガラス海カタツムリ(架空の生物か)の殻の中に入り、クモサル島から海底旅行をしてパドルビー(ドリトル先生の自宅)まで帰ってくるという結末だった。

浮沈子が読んだのは小学生の時だから、もう、半世紀以上昔になる。

遠い記憶をたどりながら、言葉の持つ力と、それを受け止め、咀嚼していく聞く力の強さについて考えさせられる。

話は変わるが、半世紀前と言えば川端康成の「朝の光の中で」という文章を思い出す。

(みつむら web magazine
教科書クロニクル
教科書クロニクル 中学校編
昭和47年度版(昭和47年~昭和49年使用)2年)
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/chronicle/chugaku/s47-2nen

「朝の光の中で:
あらすじを読む
川端康成」

リンク先はコピペできないので参照されたい。

概要はこのページでも読むことが出来た。

(朝の光の中で (川端康成))
https://write-box.appspot.com/

「カハラ-ヒルトン-ホテルに滞在しているとき、テラスの食堂で朝の日光にガラスのコップの群れが輝くのを、美しいと何度見たことだろう。この美しさはハワイのホノルルに限らないかもしれないし、ハワイの美しさを象徴するものはもっと他にあるだろう。しかしながら私は、ガラスのコップの美しさに初めて出会った。このような邂逅こそが文学ではないか。この美しさの発見を、このときここで自分のことばで表現しておきたい思いも、私の心行きだったのだろう。これと同じ美しさは、よその土地、ほかの時間にはないかもしれないので、一期一会と言えるかもしれない。」

こんなブログも見つけた。

(美の存在と発見「朝の光の中で」)
http://ems-blog.sblo.jp/article/101627634.html

「川端康成全集 第二十八巻の「美の存在と発見」を読んでいると、中学校の教科書の「朝の光の中で」の原文に出合いました。」

「わたくし、カハラ・ヒルトン・ホテルに滞在して、二月近くなりますが,朝,濱に張り出した放ち出しのテラスの食道で、片隅の長い板の臺(だい)におきならべた、ガラスのコップの群れが朝の日光にかがやくのを、美しいと、幾度見たことでせう。ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。やはり日の光が明るく、海の色があざやかであるといふ、南フランス海岸のニイスやカンヌでも、南イタリアのソレント半島の海べでも、見たことがありません。カハラ・ヒルトン・ホテルのテラス食堂の、朝のガラスのコップの光りは、常夏の楽園といはれるハワイ、あるひはホノルルの日のかがやき、空の光り、海の色、木々のみどりの、新鮮な印象の一つとして、生涯、わたくしの心にあるだらうと思ひます。」

(中略)

「しかしまた、ガラスのコップが朝日にきらめく美しさの発見と感得とを、この時ここで、自分の言葉にとどめておきたいといふ思ひも、わたくしの心行きだったのでせう。どこかよその土地、いつかほかの時間にも、ガラスのコップの、これと似た美しさは、もちろんありますでせう。けれどももしかすると、これとまったく同じ美しさは,よその土地、ほかの時間には、ないかもしれないではありませんか。少なくとも、わたくしはこれまでに見たことはありませんので、「一期一会」と言へるかもしれません。」

光村の教科書は、それ用に書き下ろしたもののようだ。

中学生の多感な時期に読んだみずみずしい文章は、今でも心の中に残っている。

「邂逅」とか「一期一会」とかは、言葉の意味としては分かったつもりになっていても、それが人生の中でどういう意味を持つかは何も分かっていなかった。

この一瞬は、二度と戻っては来ない。

その、再現性の欠如、一回性の連続の中で、奇跡ともいえる出会いを喜ぶ。

ワレワレハコドクデハナイ。

AIには、決して理解できないだろうな・・・。

<以下追加>ーーーーーーーーーー

「朝の光の中で」或いは、「美の存在と発見」の該当箇所を読んで、康成が、「日光」「日の光」「光り」「朝日にきらめく」など、重複する表現を極力避けて、幾通りもの言葉を連ねていることに気付いた。

コピペできずに引用しなかった光村の「あらすじ」では、コップの「底」の朝の日光に輝くのと、コップの「胴」に宿るほのかに柔らかな光を区別している。

「よく気が付きますか?」

もしかすると、康成なら動物の言葉を理解し得たかもしれないな(そうなのかあ?)。

表現や、観察の繊細さだけの話じゃない。

「ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。やはり日の光が明るく、海の色があざやかであるといふ、南フランス海岸のニイスやカンヌでも、南イタリアのソレント半島の海べでも、見たことがありません。」

仮に、物理的な光が同じであったとしても、それを見て感じている者の心が捉えた光は異なる。

目で見ているのではない、心で見る光・・・。

「少なくとも、わたくしはこれまでに見たことはありません」

1972年4月16日に、72歳でガス自殺する3年前の話だ(1969年5月にハワイ大学で講演している)。

浮沈子が、国語の授業で習ったのは自殺の直後だった(中学の国語の教師が自殺を知らずに、生徒から指摘されて驚いていたのを記憶している)。

53年も前の話だ(これは、同じ4月16日に書いています)。

まあいい。

康成がカハラヒルトンでの邂逅の後、朝の光の中で再びコップのガラスが輝く美を感得しえたどうかは知らない。

失われた魂は、二度と戻ることはない。

そして、その心が捉えた美もまた、永遠に失われる。

「言葉」だけが残され、その言葉を手掛かりに、作家の心が捉えた美を求めて、もう一つの魂が新たな探索の旅に出るのだ・・・。