🐬ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」2025年04月15日 23:32

ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」
ワレワレハコドクデハナイ:「イルカの日」


(Googleがイルカと話せるAI「DolphinGemma」を開発、スマホを使った会話マシンもあり)
https://gigazine.net/news/20250415-google-dolphin-communication-ai-dolphingemma/

「イルカが人間を見ている状態で、片方の人間がCHATから音声を発し、もう片方の人間からスカーフを受け取ります。」

「この様子を目撃したイルカは「あの音を出せば、スカーフをもらえる」と学習するわけです。」

なんかなあ、イルカをバカにしているような話に思えるんだがな。

イルカが発することが出来る音なら、何でもいいような気がする。

それを「会話」と称するなら、何をかいわんやだな。

まあいい。

浮沈子的には、AIがどうのこうのというより、このCHAT(Cetacean Hearing and Telemetry)というデバイスの方に興味がある(画像参照)。

「CHATは「既知のイルカ言語を人間用に翻訳する機能」や「イルカ用に設計した音声を水中で発する機能」などを備えており、イルカと人間の双方向コミュニケーションを可能にすることを目指して改良が続けられています。」

「記事作成時点ではCHATのコンピューターにはPixel 6が用いられているとのこと。すでにPixel 9を搭載したCHATの開発が進んでおり、2025年夏にはPixel 9とDolphinGemmaを用いた研究が始まる予定です。」

水中で使えるアンドロイドか・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

(DolphinGemma: Google AIがイルカのコミュニケーションを解読する仕組み)
https://blog.google/technology/ai/dolphingemma/

「本日、ナショナル・イルカ・デー(全米イルカデー)にあたり、Googleはジョージア工科大学の研究者およびWild Dolphin Project(WDP)のフィールド調査と連携し、DolphinGemmaの開発進捗を発表します。」

ギガジンの記事にリンクされたグーグルのページを読んでいたら、昨日(4月14日)が、全米イルカデーなことを知った。

浮沈子の頭の中には、役に立たない情報がしこたま詰まっているからな。

イルカの日か・・・。

(イルカの日)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Day_of_the_Dolphin

「1973年のアメリカのSFスリラー 映画です。フランスの作家ロベール・メルルによる1967年の小説『知覚する動物』を原作とし、アメリカ人のバック・ヘンリーが脚本を執筆」

映画を見たことはないけど、イルカと人間の物語と言えば、浮沈子の世代ではわんぱくフリッパーというのも頭に浮かぶ。

(わんぱくフリッパー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%82%93%E3%81%B1%E3%81%8F%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC

「MGMが制作していたアメリカのテレビドラマシリーズである。1964年からNBCテレビで放送された。全88話。カラー制作。」

人間は、同じ人間同士であってもコミュニケーションに苦労する。

時にはドンパチ始めちまったりするしな。

その一方で、宇宙人を探したり動物と会話しようとしたりする。

AI、海洋、アンドロイドと、三拍子そろった今風の記事だが、浮沈子的にはしっくりこない気がする。

犬とかじゃダメなのかあ?。

(令和2年版 科学技術白書)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13731853/www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa202001/1421221.html

「概要版 (PDF:1.5MB) PDF
刊行に寄せて (PDF:166KB) PDF
目次 (PDF:613KB) PDF
令和2年版科学技術白書 本文(PDF版)
令和2年版科学技術白書 本文(HTML版)
正誤表
2040年社会のイメージ「人間性の再興・再考による柔軟な社会」

本文には、こんな記述がある。

(第1部 科学技術が広げる未来社会の可能性と選択肢:第2節 2040年の社会のイメージ)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13731853/www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2020/06/15/1427221_004.pdf

「A3:
<解説・科学技術トピック>
発話ができない人や動物等が言語表現を理解したり、自分の意志を言語にして表現することができるポータブル会話装置

<科学技術的実現時期>
2031年

<社会的実現時期>
2034年」

眉唾だな・・・。

人間も畜生も、一緒くたにしている。

このブログでも取り上げた記憶があるんだが、ドリトル先生シリーズというのもあった。

(ドリトル先生シリーズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%88%E7%94%9F%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA

「20世紀前半にアメリカ合衆国で活動したイギリス出身の小説家、ヒュー・ロフティングによる児童文学作品のシリーズ。」

「ロフティングは第一次世界大戦においてイギリス陸軍・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として従軍した際に、動けなくなった軍用馬の射殺処分に遭遇して心を痛め、この体験から動物の言葉を解する獣医師の物語のインスピレーションを得たとされる。」

「従軍先から2人の子供に宛てた手紙で、動物語を話すイギリスの田舎町に住む「ドリトル先生」の短い物語を挿絵付きで書くようになり、これが1920年に刊行された第1作『ドリトル先生アフリカゆき』の原型となった。」

浮沈子が最初に読んだのは航海記だ。

(ドリトル先生航海記)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%88%E7%94%9F%E8%88%AA%E6%B5%B7%E8%A8%98

「トミーは先生の屋敷に日々足を運ぶようになり研究の手伝いをするとともに、アフリカから戻ってきたオウムのポリネシアの助けもあって動物の言葉を覚えていく。」(トミー:トーマススタビンズ:物語の語り手の少年)

手元に当時読んだ本がないんだが、ポリネシアがトミーに動物の言葉を教える際に、「よく気が付きますか?」と言っていた記憶がある。

動物は、音声だけではなく、しぐさなどでも表現するということで、そこに気付くことが大切という話だった気がする。

まあ、人間も同じだけどな。

ダイビングを始めた時に、同じようなことを言われた(レスキューコースの時かな?)。

ストレスを感じているダイバーは、呼吸が早くなったり多動多弁になったり、また逆に鬱々として無口になったりするからな。

よく観察して、適切なコミュニケーションを図り、本人が問題解決するのを手助けしたり、そっと見守ったりすることが大切だ。

そもそも、水中では音声によるコミュニケーションに限界がある。

「航海記」では、大ガラス海カタツムリ(架空の生物か)の殻の中に入り、クモサル島から海底旅行をしてパドルビー(ドリトル先生の自宅)まで帰ってくるという結末だった。

浮沈子が読んだのは小学生の時だから、もう、半世紀以上昔になる。

遠い記憶をたどりながら、言葉の持つ力と、それを受け止め、咀嚼していく聞く力の強さについて考えさせられる。

話は変わるが、半世紀前と言えば川端康成の「朝の光の中で」という文章を思い出す。

(みつむら web magazine
教科書クロニクル
教科書クロニクル 中学校編
昭和47年度版(昭和47年~昭和49年使用)2年)
https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/chronicle/chugaku/s47-2nen

「朝の光の中で:
あらすじを読む
川端康成」

リンク先はコピペできないので参照されたい。

概要はこのページでも読むことが出来た。

(朝の光の中で (川端康成))
https://write-box.appspot.com/

「カハラ-ヒルトン-ホテルに滞在しているとき、テラスの食堂で朝の日光にガラスのコップの群れが輝くのを、美しいと何度見たことだろう。この美しさはハワイのホノルルに限らないかもしれないし、ハワイの美しさを象徴するものはもっと他にあるだろう。しかしながら私は、ガラスのコップの美しさに初めて出会った。このような邂逅こそが文学ではないか。この美しさの発見を、このときここで自分のことばで表現しておきたい思いも、私の心行きだったのだろう。これと同じ美しさは、よその土地、ほかの時間にはないかもしれないので、一期一会と言えるかもしれない。」

こんなブログも見つけた。

(美の存在と発見「朝の光の中で」)
http://ems-blog.sblo.jp/article/101627634.html

「川端康成全集 第二十八巻の「美の存在と発見」を読んでいると、中学校の教科書の「朝の光の中で」の原文に出合いました。」

「わたくし、カハラ・ヒルトン・ホテルに滞在して、二月近くなりますが,朝,濱に張り出した放ち出しのテラスの食道で、片隅の長い板の臺(だい)におきならべた、ガラスのコップの群れが朝の日光にかがやくのを、美しいと、幾度見たことでせう。ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。やはり日の光が明るく、海の色があざやかであるといふ、南フランス海岸のニイスやカンヌでも、南イタリアのソレント半島の海べでも、見たことがありません。カハラ・ヒルトン・ホテルのテラス食堂の、朝のガラスのコップの光りは、常夏の楽園といはれるハワイ、あるひはホノルルの日のかがやき、空の光り、海の色、木々のみどりの、新鮮な印象の一つとして、生涯、わたくしの心にあるだらうと思ひます。」

(中略)

「しかしまた、ガラスのコップが朝日にきらめく美しさの発見と感得とを、この時ここで、自分の言葉にとどめておきたいといふ思ひも、わたくしの心行きだったのでせう。どこかよその土地、いつかほかの時間にも、ガラスのコップの、これと似た美しさは、もちろんありますでせう。けれどももしかすると、これとまったく同じ美しさは,よその土地、ほかの時間には、ないかもしれないではありませんか。少なくとも、わたくしはこれまでに見たことはありませんので、「一期一会」と言へるかもしれません。」

光村の教科書は、それ用に書き下ろしたもののようだ。

中学生の多感な時期に読んだみずみずしい文章は、今でも心の中に残っている。

「邂逅」とか「一期一会」とかは、言葉の意味としては分かったつもりになっていても、それが人生の中でどういう意味を持つかは何も分かっていなかった。

この一瞬は、二度と戻っては来ない。

その、再現性の欠如、一回性の連続の中で、奇跡ともいえる出会いを喜ぶ。

ワレワレハコドクデハナイ。

AIには、決して理解できないだろうな・・・。

<以下追加>ーーーーーーーーーー

「朝の光の中で」或いは、「美の存在と発見」の該当箇所を読んで、康成が、「日光」「日の光」「光り」「朝日にきらめく」など、重複する表現を極力避けて、幾通りもの言葉を連ねていることに気付いた。

コピペできずに引用しなかった光村の「あらすじ」では、コップの「底」の朝の日光に輝くのと、コップの「胴」に宿るほのかに柔らかな光を区別している。

「よく気が付きますか?」

もしかすると、康成なら動物の言葉を理解し得たかもしれないな(そうなのかあ?)。

表現や、観察の繊細さだけの話じゃない。

「ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。やはり日の光が明るく、海の色があざやかであるといふ、南フランス海岸のニイスやカンヌでも、南イタリアのソレント半島の海べでも、見たことがありません。」

仮に、物理的な光が同じであったとしても、それを見て感じている者の心が捉えた光は異なる。

目で見ているのではない、心で見る光・・・。

「少なくとも、わたくしはこれまでに見たことはありません」

1972年4月16日に、72歳でガス自殺する3年前の話だ(1969年5月にハワイ大学で講演している)。

浮沈子が、国語の授業で習ったのは自殺の直後だった(中学の国語の教師が自殺を知らずに、生徒から指摘されて驚いていたのを記憶している)。

53年も前の話だ(これは、同じ4月16日に書いています)。

まあいい。

康成がカハラヒルトンでの邂逅の後、朝の光の中で再びコップのガラスが輝く美を感得しえたどうかは知らない。

失われた魂は、二度と戻ることはない。

そして、その心が捉えた美もまた、永遠に失われる。

「言葉」だけが残され、その言葉を手掛かりに、作家の心が捉えた美を求めて、もう一つの魂が新たな探索の旅に出るのだ・・・。

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