エンジンは部品なのか ― 2013年12月14日 05:01
エンジンは部品なのか
最近、クルマの記事を書くたびに、浮沈子の頭をよぎるのは、このことである。
「エンジンは、クルマにとって、単なる部品なのか、それとも、何か、それ以上の存在なのか」
答えは分かっている。
エンジンは、部品である。
原動機であって、それ以上でも、それ以下でもない。
人間にとって、脳が魂の座であるならば、エンジンもまた、クルマという機械の魂の座であるような錯覚に陥っているだけなのだろうか。
まあ、この比喩でいけば、最近のクルマの魂の座は、間違いなく車載コンピューターである。
今はまだ、車内のあちこちに分散しているが、そのうち、中枢神経系が発達して、統合制御を行うことになるのは目に見えている。
このことは、確信を持っていえる。
今日は、エンジンの話なので、クルマの電脳の話は、別の機会に。
で、浮沈子がエンジンにこだわるのは、クルマというのは動いてなんぼの代物であり、それを動かすのはエンジンだから、という単純な理由である。
もちろん、タイヤやボディがなければ話にならないし、ハンドルやブレーキ、サスペンション、エンジン以外の駆動系(アクスルや変速機、クラッチなど)がなければクルマは構成されない。
エンジンは、壊れたら載せ換えることもできるし、別のエンジンに変えてしまうことも出来る。
部品であることは、紛れもないのだが、内燃機関として動く不思議さ、爆発物であるガソリンを、燃焼室に閉じ込めて制御する仕組みの巧みさ、ピストンとシリンダーの熱的機械精度の微妙さ、それらがクランク軸を動かして、一体となって、バレエのダンスのように動く美しさに、心から痺れるのだ。
音や振動がもたらす刺激、排気ガスの臭い、猛獣を手懐けているような快感、クルマの挙動の中で、最大の重量物としての存在感などなど、最も意識する部品である。
浮沈子は、ランボルギーニの実車(何だったかは忘れた)を初めて見たとき、「ああ、この車は、このエンジンを載せるために作られたに違いない」と確信した。
V12気筒エンジンは、巨大で、美しく、アットーテキな存在感を持って、クルマの後ろ半分を占めていた。
そのエンジンに、申し訳程度のキャビンが付き、四隅に踏ん張るタイヤが付いて、そのクルマは出来上がっていた。
それは、決して、エンジンを「部品」と呼ぶことを許さない迫力に満ち満ちていたのだ。
その猛々しいサウンドを聞き、走り去る時の爆音を聞きながら、鳥肌が立ったのを覚えている(ディアブロのような気がしてきた)。
浮沈子は思うのだ、エンジンは単なる部品ではない、クルマに命を宿すもの、いや、命そのものといってもいい。
エンジンを降ろされたクルマを工場で見ると、まるで、抜け殻である。
そんなときも、エンジンあってのクルマであると確信する。
福野礼一郎は、ボディが命だといっていたことがある。
ボディに代わりはない。
ボディを変えるということは、クルマを変えるということだ。
ロジカルには納得しているが、それは、リクツに過ぎない。
真実ではない!。
浮沈子の中では、エンジンこそがクルマの本質であって、エンジンが異なる車は、たとえ、同じボディであっても、違うクルマなのだと感じる。
それは、ウソ偽りのない、本当のホンネだ。
クルマの挙動は、確かにボディ(というか、シャシー)のディメンションや、重心位置、ロールセンターなどの物理的な要素で、およそ決まっていく。
それに、サスペンションとか、ハンドルとか、ブレーキ、変速装置といった付加的要素が加わって、概ねドライバビリティは確定する。
あとは、その車体に載るエンジンのバリエーションを展開すれば、メーカーとしてのクルマ作りはおしまいだ。
しかし、それは、あくまでも、クルマを作る側の論理である。
我々ドライバーは、そうではない。
そんな、クルマを作る側の論理には騙されない。
同じボディに載せられた、エンジンの異なる車の違いを、しっかりと見極め、財布と相談しながら、異なる金額を払う。
その値段の差は、エンジンの部品代の違いではないはずだ。
エンジンが部品だというなら、部品代の差額で、クルマを作ってもらいたいものだ。
そうではない。
エンジンがもたらす、クルマの違い、本質的な違いがあるから、メーカーだって、それなりの価格で売り出すのだ。
胸に手を当てて、正直な話をした。
エンジンこそ、クルマの命であり、クルマをクルマたらしめている本質であると、浮沈子は思う。
エンジン抜きで、クルマを語るヤツを、信じる気にはなれないな。
最近、クルマの記事を書くたびに、浮沈子の頭をよぎるのは、このことである。
「エンジンは、クルマにとって、単なる部品なのか、それとも、何か、それ以上の存在なのか」
答えは分かっている。
エンジンは、部品である。
原動機であって、それ以上でも、それ以下でもない。
人間にとって、脳が魂の座であるならば、エンジンもまた、クルマという機械の魂の座であるような錯覚に陥っているだけなのだろうか。
まあ、この比喩でいけば、最近のクルマの魂の座は、間違いなく車載コンピューターである。
今はまだ、車内のあちこちに分散しているが、そのうち、中枢神経系が発達して、統合制御を行うことになるのは目に見えている。
このことは、確信を持っていえる。
今日は、エンジンの話なので、クルマの電脳の話は、別の機会に。
で、浮沈子がエンジンにこだわるのは、クルマというのは動いてなんぼの代物であり、それを動かすのはエンジンだから、という単純な理由である。
もちろん、タイヤやボディがなければ話にならないし、ハンドルやブレーキ、サスペンション、エンジン以外の駆動系(アクスルや変速機、クラッチなど)がなければクルマは構成されない。
エンジンは、壊れたら載せ換えることもできるし、別のエンジンに変えてしまうことも出来る。
部品であることは、紛れもないのだが、内燃機関として動く不思議さ、爆発物であるガソリンを、燃焼室に閉じ込めて制御する仕組みの巧みさ、ピストンとシリンダーの熱的機械精度の微妙さ、それらがクランク軸を動かして、一体となって、バレエのダンスのように動く美しさに、心から痺れるのだ。
音や振動がもたらす刺激、排気ガスの臭い、猛獣を手懐けているような快感、クルマの挙動の中で、最大の重量物としての存在感などなど、最も意識する部品である。
浮沈子は、ランボルギーニの実車(何だったかは忘れた)を初めて見たとき、「ああ、この車は、このエンジンを載せるために作られたに違いない」と確信した。
V12気筒エンジンは、巨大で、美しく、アットーテキな存在感を持って、クルマの後ろ半分を占めていた。
そのエンジンに、申し訳程度のキャビンが付き、四隅に踏ん張るタイヤが付いて、そのクルマは出来上がっていた。
それは、決して、エンジンを「部品」と呼ぶことを許さない迫力に満ち満ちていたのだ。
その猛々しいサウンドを聞き、走り去る時の爆音を聞きながら、鳥肌が立ったのを覚えている(ディアブロのような気がしてきた)。
浮沈子は思うのだ、エンジンは単なる部品ではない、クルマに命を宿すもの、いや、命そのものといってもいい。
エンジンを降ろされたクルマを工場で見ると、まるで、抜け殻である。
そんなときも、エンジンあってのクルマであると確信する。
福野礼一郎は、ボディが命だといっていたことがある。
ボディに代わりはない。
ボディを変えるということは、クルマを変えるということだ。
ロジカルには納得しているが、それは、リクツに過ぎない。
真実ではない!。
浮沈子の中では、エンジンこそがクルマの本質であって、エンジンが異なる車は、たとえ、同じボディであっても、違うクルマなのだと感じる。
それは、ウソ偽りのない、本当のホンネだ。
クルマの挙動は、確かにボディ(というか、シャシー)のディメンションや、重心位置、ロールセンターなどの物理的な要素で、およそ決まっていく。
それに、サスペンションとか、ハンドルとか、ブレーキ、変速装置といった付加的要素が加わって、概ねドライバビリティは確定する。
あとは、その車体に載るエンジンのバリエーションを展開すれば、メーカーとしてのクルマ作りはおしまいだ。
しかし、それは、あくまでも、クルマを作る側の論理である。
我々ドライバーは、そうではない。
そんな、クルマを作る側の論理には騙されない。
同じボディに載せられた、エンジンの異なる車の違いを、しっかりと見極め、財布と相談しながら、異なる金額を払う。
その値段の差は、エンジンの部品代の違いではないはずだ。
エンジンが部品だというなら、部品代の差額で、クルマを作ってもらいたいものだ。
そうではない。
エンジンがもたらす、クルマの違い、本質的な違いがあるから、メーカーだって、それなりの価格で売り出すのだ。
胸に手を当てて、正直な話をした。
エンジンこそ、クルマの命であり、クルマをクルマたらしめている本質であると、浮沈子は思う。
エンジン抜きで、クルマを語るヤツを、信じる気にはなれないな。
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