rootで幸せになる2017年04月26日 01:34

rootで幸せになる
rootで幸せになる


ウブンツでは、ルートではなく、ユーザーでコンソールを使用して、必要な時だけsudoしてコマンド打つというんだが、それでは煩わしい。

で、浮沈子が当初行っていたのは、コンソールを立ち上げて、sudo mltermで別のコンソールをたてて、そこで作業するというもの。

プロンプトは#になっていて、ルートとして作業が捗る。

大丈夫、システムぶっ壊しても、VMウェアの上の仮想マシンで動かしているだけだから、2時間くらいで再構築できる。

ノートパソコンのハードディスクは、まだ余ってるからな。

もう一つくらい、バックアップ用で作っておいてもいい。

これで、心置きなくシステム領域のファイルを弄れる・・・。

まあ、それでもいいんですが。

そんなルートコンソールづくりを、一気に解決する記事を見つけた。

((Ubuntu)ルートパスワードの設定なしでrootになる)
http://80286.blog62.fc2.com/blog-entry-43.html

「しかし、以下の方法でもrootにスイッチすることが出来る
[コマンド]
$ sudo su -」

うろ覚えで、$ sudo suまでは試したんだが、ハイフン付けるというのは知らなかったな(試したのは、ただのsuで、sudo suだけでOK)。

もちろん、ちゃんとルートのパスワードを設定するのがよろしい。

この後に、パスワードを求められるので、ユーザーのパスワードを入力すると、ルートとして幸せになれる。

人様が決して弄ることがないパソコンでこそ許される仕様だ。

サーバーとかでは大変なことになる。

ついでに、GUI画面で、デスクトップ上でマウスの右クリックでコンソールが立ち上がるのも分かった。

コントロール+オルト+tで立ち上げるだけだったが、これで幸せ2倍だな(たんじゅん・・・)。

コンソール画面にも入ってみる(コントロール+オルト+F1:GUIへの戻り方は後述)。

同じように、ルートになることが出来る。

ほほう、便利だ。

ユニックス系のOSは、結局複数の人間が使うことを想定して作っている。

それぞれに環境を割り当てて、使わせているわけだからな。

仮想マシンは、その下に、さらにOS自体をつくるわけだ。

親のメタルマシン、親のOS、仮想マシン、子供のOS達。

ウインドウズのマシンで、リナックスも運用できる。

それはそうと、画面のイメージをキャプチャする(キーボードのプリントスクリーンボタン押すだけ)のに、フルスクリーンモードから行うとウブンツ側での操作(シャッター音までします)になるのに、VMウェアのガワが付いている状態だと、親のOS(ウインドウズ10)側でのキャプチャになる。

ほほう・・・。

2つの世界が同居しているわけだ。

ついでに、起動時のランレベルの変更についても調べる。

(Ubuntu日本語フォーラム:CUIでの起動、ログインについて)
https://forums.ubuntulinux.jp/viewtopic.php?id=17675

「$ systemctl get-default
graphical.target

$ sudo systemctl set-default multi-user.target
Removed symlink /etc/systemd/system/default.target.
Created symlink from /etc/systemd/system/default.target to /lib/systemd/system/multi-user.target.

$ sudo reboot」

あっちゃー!、何のことやら・・・。

(ln -s /lib/systemd/system/<target name>.target /etc/systemd/system/default.target)
http://mrs.suzu841.com/mini_memo/numero_11.html

「ログイン画面を runlevel 3 に変更したい場合は、一番下の行、 ln -s /lib/systemd/system/<target name>.target /etc/systemd/system/default.target と 記述されている <target name> を multi-user に変更してシンボリックリンクを作成するようにと指示」

ははあ、それをやってたんだなと、納得する。

ここは、バックアップ環境を作ってからやろう。

ちなみにウブンツには、/etc/inittabがない。

(【Ubuntu】ランレベルの変更)
http://blog.goo.ne.jp/leaurouge/e/6808ee18cf11702c9953234038ffd445

「UNIX経験者ならば「起動時のランレベルを変更しろ」といわれたら
/etc/inittab を探すはず。」

一応、浮沈子も探した。

異なる仕組みを持っているようだな。

CUI環境で、ルートに化ける方法も分かったし、ランレベルを変更してしまうというのもアリかもしれないな。

軽さは正義だ。

ランレベル3で、コマンド打って頑張ろう。

コンピューターのユーザー像2017年04月26日 10:41

コンピューターのユーザー像


(キャラクタユーザインタフェース)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B9

コンピューターなんて、何に使うのか。

特殊な人々の道具であり、一般人はコンピューターなどは使わないのだ。

一般人が使うのは、スマホやタブレットだからな。

キーボードなんて付いてないしな。

それと、ワープロとか、表計算ソフトだ。

あれは、ソフトであって、コンピューターじゃない・・・。

いいとこ、プレゼンソフトくらいだろうな。

そこまで出来れば、まあ、恥ずかしい思いをすることはない。

プログラマーやデータベース技術者とかでない限り、コマンドを打ちこんで操作するなどということはやらない。

大きな企業になれば、業務管理用のソフトが動いていて、顧客管理や従業員管理、生産管理、在庫管理、財務管理などに細かく分かれている。

それらにデータを入れたり出したりするのも、最近は機械が行うようになってきて、人間はデータに直接触らないようになってきた。

改ざんとかするしな・・・。

POSで入れた生データをそのまま使う。

キーボードとかから打ち込むことはしない。

分析ソフトにDBから流し込んで、結果だけ出てくる。

そのうち、その結果の評価もAIが行うようになって、人間はそういう仕事から解放される。

コミュニケーションツールとしてのスマホやタブレットに、キーボードは不要だ。

コンテンツを流し込むための仕掛けで、それは専門の人たちが作ってくれて、一般人は使うだけだ。

そう、打ち込んでるのは、消費され、消えていく言葉だけだ。

どこかで、ビッグデータとして、金もうけの役には立つんだろうが、端末からコマンド打ちこんで、手元にある限られたデータをちょろちょろと処理する時代は終わっている。

それが意味を持つのは、ほんの一握りの人々、研究者とか、開発者とか、プログラマーとか、そういう、コンピューター業界で飯を食ってる人や、手持ちのデータで何か画期的なことをしなければならない人たちだけだ。

20年間土星の周りを廻っていたカッシーニは、膨大なデータを送ってきただろう。

その解析には、今後何十年もかかるに違いない。

遺伝子情報や、分子原子の話になれば、途方もない量のデータを扱うことになり、そういう世界の人々にとっては、コマンドラインコンピューティングも有用な時代が続くだろう。

が、しかし、人類の中で1パーセントもいるかどうかだ。

多くの勤め人は、朝の電車に乗るのに自動改札を通過するが、そのデータの入力を、キーボードから行うことは絶対にない。

使っているのは、紛れもないコンピューターだが、それは、GUIでもなければCUI(CLI)でもない。

クルマを運転するのに、今時コンピューターのお世話にならない人はいないが、アクセルペダルを踏んだり、ハンドルを切れば、コンピューターがセンサーからの信号を読み取り、良きに計らう。

マンマシンインターフェイスは、多様化していて、コンピューターを使っているかどうかさえ隠蔽されている。

テレビのチャンネルを変えるのも、チンするときに時間を設定するのも、全てはコンピューターに指令を出すことで行われているが、リモコンのボタンや電子レンジのボタンも、立派なマンマシンインターフェイスだ。

ダイヤル式の電話機は、最近見なくなったが、デジタル交換機は立派なコンピューターで、あれは、リモート端末から親機を直接叩いているコンソールのようなもんだ。

0から1までの数字だけで指示を出す(正確には、受話器を上げたり、降ろしたりするのもコマンドだがな)。

受話器を置く台(フックスイッチ)のところを、素早く2回叩くと幸せになれるという機能もあったような気がする(何だったか忘れましたが)。

まあ、どうでもいいんですが。

ノイマン型コンピューターの端末を、タイプライター(又はテレタイプ)のメタファーであるキーボードをたたきながら、ラインプリンターのこれまたメタファーであるフルスクリーンエディタであるコンソール画面を眺めながらの作業なんて、コンピューターの使い方の1パーセントにもならないだろう。

マウスを使おうが、キーボードだけで操作しようが、大差はない。

浮沈子は、成田で出国や帰国する際は、たとえガラガラでも、自動改札機(自動化ゲート)を通るようにしているが、パスポートをガラスの上に置いたり、指を読み取り機に押し付けたりするのも、立派なコンピューターの使い方だ。

やり方を知らないと、使えないぞお!(アホか・・・)。

テキストしか入っていないファイルの中身を、コマンド打ってゴニョゴニョしたり、そのファイルを繋げたりして弄るだけが、コンピューターの使い方じゃあない。

それは、ごくごく一部の人々の、特殊な使い方だ。

そういう誤解が生まれるのは、コンピューターが未完成の機械だからだ。

完成された機械は、特定の用途で極めて優れた性能を発揮するが、その用途を離れるとクソの役にも立たない。

F1マシンは、サーキットを走らせれば鬼のように速いが、大根の皮むきには使えないしな(誰が使うかよ!)。

文化包丁では、F1のチャンピオンにはなれない。

世の中は、そういうもの達で出来ている。

コンピューターは、その意味では、未熟な機械だ。

人間が、操作をしてやらなければ、何もできない。

粘土細工のようなものかもしれない。

どんな形にもなるが、それ自体は、何の役にも立たない。

形を作り、焼いて固めて陶器にして、初めて水を溜めたり、食器になったりするのだ。

世の中では、粘土細工の職人だけが陶器の使い手ではないだろう。

大部分は、コップやお皿を使っている人々だ。

キーボードからコマンド打つのは、職人だけ。

浮沈子は、そのまねごとをしているが、このブログを書いたりするのは、陶器のカップで水を飲んでいるようなものだ。

もちろん、コーヒーも飲めるし、紅茶も飲める。

インターネットを徘徊したり、タダソフトをダウンロードして使ったりする類だ。

アマゾンから買い物するときには、キーボードはほとんど使わないしな。

マウスで、ぽちっとするだけだ。

お仕着せの機能でも、十分便利に使えるし、そんな、データをグリグリするプログラムを書く必要もない。

結局、そこに落ち着く。

一般人には、キーボードなど不要なのだ。

コマンドは画面をタッチするだけ。

文字の入力はフリック入力。

無線で繋がったホスト機のデータベースをグリグリして、必要な処理を行わせている。

今日のコンピューターリテラシーというのは、そういうことだ。

小指を立てて3本の指でティーカップを優雅に口に運ぶ作法が大事なのであって、マイセンの陶器を美しく作ることではないのだ・・・。

が、しかし、使い潰されていくプログラムの中でも、残っていくものはある。

それは、人の作りしもの。

神ならぬ人が、精魂込めて作り上げたものだからだ。

言葉が、歌い継がれ、書物に記されて伝承されるように、プログラムもまた、それが走るコンピューターの中で生き続ける。

浮沈子が好きな話の中に、ロビタの話がある。

(【ロビタ】火の鳥の最高傑作は間違いなく復活編【人間】)
http://bond-kokontey-bond.hateblo.jp/entry/2016/07/27/104243

「私の頭脳に不条理な再生出力が発生して停滞しています
・・・消去不可能です・・・作業が停滞します・・・ああ・・・」

子供は、分かんなくていいです!。

いつの日か、コンピューターは、ヒトの形をした汎用機械として完成する。

人に寄り添い、人と共に生活し、長い一生を送る。

話しかけ、思い出し、時に忘れ、勘違いもする(メモリーリークか、ビット反転?)。

まあ、どうでもいいんですが。

そこに書かれているプログラムが、人の手になるものである以上、人の作りしロボットは完全ではない。

自動運転し、乗り換え案内し、食事のメニュー見てカロリー計算しても、そこにはGUIもなければ、CUI(CLI)もない。

膨大な書物を読み、そこに書かれた多くの人生の機微を知ってはいても、限りある命を生きる存在としての悲哀と歓喜を知ることはない。

ロボットも、沈船のように、やがては土に還る。

人の作りしものの運命として、避けて通ることは出来ない。

しかし、その心(プログラム)は、次のロボットに移され、遺伝子のように受け継がれていく。

コード自体は変わっていくが、実現しようとする機能は変わらない。

その時代の実装の制約で、統合されたり分断されることがあっても、基本的な構造が変わることはない。

人が人に求めることが変わらない限り、人に求められる機械の理想形は同じだ。

Hello,World!

(Hello world)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Hello_world

「新しくプログラミング言語を習得する際に最初に作るのがこのプログラムである。そのため、「世界一有名なプログラム」と呼ばれることもある。」

再帰的に存在を継承していく人間のように、コンピューターのプログラムもまた、同じように繰り返し書かれる。

コンピューターが、電子機器として実装されてから、まだ100年経っていない。

その間、様々なコンピューターが人間の傍にいたが、誰もそれが人間の求めるものになるとは思わなかった。

コンピューターが人間になる時、そこには、ロビタの中に宿るレオナのように、プログラムを書いた人間の名残があって、単なる機械ではない人間臭さを感じさせることだろう。

本当にそうなのかどうかは知らない。

ただ、きっとそうじゃないかと思うだけだ。

ああ、そして、きっと、人間と同じようにキーボードを打ったりするのかもしれない。

タイプミスとかもしたりしてな・・・。