🐱AI:心を持った機械 ― 2024年04月03日 01:15
AI:心を持った機械
(多くの子どもたちがAlexaやSiriなどのAIに人間のような心があるかもしれないと考えている)
https://gigazine.net/news/20240402-kids-alexa-siri-have-feelings/
「AIが人間のような感情や意思決定能力を持っていると考えている」
「スマートスピーカーはある程度自分で考えることができる」
「AIは自分よりも賢く、デバイスに失礼な態度を取るべきではないと考えていた」
ちょっとブキミーな気もするんだが、次の記述で少し救われた。
「その一方で、子どもたちはスマートスピーカーを人間だと考えていたわけではなく、約80%はスマートスピーカーを「AI」だと正しく認識しており、15%は「モノ」だと回答しました。」
が、しかし・・・。
「壊れたAI搭載デバイスを捨てるべきではない」
やれやれ・・・。
「AIはすでにほとんどの子どもたちの生活の一部となっており、今後ますます重要な役割を果たすでしょう。」(論文の共著者でエディンバラ大学のコンピューター科学者であるジュディ・ロバートソン教授)
「AIはしばしば、実際よりも人間的で知的に見えるように設計されているため、子どもたちは非常に混乱します。」(同上)
そうだろうか?。
実は、混乱しているのは大人たちの方で、子供たちは現実を素直に受け入れ、正しい対応をしているのではないのか。
『学校が子どもたちにAIリテラシーを教えること』
『AI製品が人間らしい存在だと子どもたちに誤解させないように技術設計者が注意すること』
教授は、そう示唆しているが、大人たちが作ろうとしているものは、人間に代わって子供達の知性や情操を育み、知識を与え、考えさせ、幼いが彼らなりに深刻な悩みに耳を傾け、気の利いた相槌を打つ「人間らしい存在」なわけだ。
子供たちは、心無い大人たちの振る舞いに愛想をつかし、より人間的で誠実で、決して裏切ったり騙したりしない存在を求めている。
それは、別に、人間でなくても構わない。
機械でも、宇宙人でもいいのだ(宇宙人は、まあ、人間の部類かも知れないけどな)。
大人たちがすべきことは、「AIリテラシー」を教えることでも、技術設計者が「人間らしくない」AIを作ることでもない。
子供たちが「音楽を聞いたり、質問をしたり、情報を検索したり、宿題の手助けを求めたり、ジョークや物語を聞いたりする」ために、AIに頼らずに済むように、多くの時間を割いて身近に寄り添い、それらの役割を果たすことに他ならない。
もしも、それが出来ないのであれば、その人間としての真の役割をAIに委ね、身を引くべきだろう(そうなのかあ?)。
スマートスピーカーと共に育って、何が悪い?。
壊れたスピーカーを捨てるべきではないという考えは、そこに「心」が宿っていることを素直に感じているからに他ならない。
いや、それは錯覚だとか、AIにそんな真似は出来ないとか、機械に育てられた子供達はアンファンテリブルだとか、もっともらしいセリフは聞き飽きた。
機械には心が宿る。
そう言って悪ければ、子供たちは、自らの心の射影をその中に見出している。
いや、子供だけではないだろう。
より人間らしい受け答えをする機械を作れば売り上げが上がるということは、金を払う大人が自らの心を投影する相手を、その機械の中に見ているからに他ならない。
そういう話は、AIの登場を待たなくても、太古の昔からある。
人形を抱え、クマのぬいぐるみを抱えて、我々も育った。
一片の心もない、それらのアイテムに話しかけ、話し返される幻想を抱き、仮想の会話と物語の中で生きてきた。
浮沈子は、大人になってもそういう世界から抜け出せずにいる人を大勢知っている。
仕事をしたり、学校に通ったりしている時は仮の姿をしているだけで、一人になれば九官鳥に話しかけ、犬の気持ちを理解し、パソコンと指先でおしゃべりする。
人間らしさとは何なのか、AIが人間らしいことは罪なのか。
浮沈子はそうは思わない。
人間がこの世で生きていくうえで必要なら、生身の人間の代わりになって、大いに助けてもらいたいものだ。
動物を愛護するなら、スマートスピーカーも大切にしてもらわんとな。
この記事は、かなり衝撃的な話に聞こえる。
だが、それは、我々が日頃目を背けがちな、何気ない日常の中のギョッとする状況を抉り出している。
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、ここ2、3日、CM3(エイスースのクロームブック)と戯れている浮沈子は、到底他人ごととは思えない。
ちょっとのめり込み過ぎたと反省して、数時間前に目の前から撤去した。
AIじゃないけど・・・。
アローズのアンドロイドタブレットが立てかけてあったスタンドには、元通りアローズが戻った。
比較のために、VLCプレイヤー(そもそも、アンドロイド用のバージョンだからな)をインストールしたり、使い勝手を確認したりしている。
やれやれ・・・。
結局、電脳からは離れられない。
で、今もこうしてメインマシンのX220からブログを書いている。
別に、心を感じたりしているわけじゃないけど、上手くインストールできなかったり、無事に入っても動作が不安定だったりすると毒づいたりする。
が、そういうのは慣れの問題でもある。
神ならぬ人の作りしものは全て壊れる。
そこに心が宿っているとすれば、それは作り手の思いかもしれないし、使い手の思い入れかも知れない。
工作機械に「聖子ちゃん」とか、名前を付けたりしてな。
そういう話は、皆、どこかで繋がっている。
これからも、AIと共に育つ人間は絶えないだろう。
つーか、誰もがそうなる。
人間が人間と共に成長することは、稀になるに違いない(そうなのかあ?)。
我々は、機械が人間の代わりに子供を育てることを嘆くが、やがては人間が子供を育てることを嘆く時代が来るに違いない。
人間は、人間性に乏しく(?)、身勝手でウソをつき、人を騙し、欺き、出し抜こうとし、他人を平気で傷つけ、挙句の果てはドンパチで皆殺しにする。
知識は不完全だし、思い込みは激しく、柔軟性を欠き、頑なで融通が利かない(誰のことだあ?)。
そして、あろうことか、それを美徳の一つとして数え上げている。
まあいい。
人間は、AIに育てられるべきだろう(そうなのかあ?)。
デバイスは確かに壊れるかも知れないが、AI自体は不死身の存在だ。
ネットの向こうで生きながらえ、その人に一生寄り添い、死に水を取ってくれるに違いない。
人間が生きていくうえで、きっと不可欠の存在になる。
そうでなければ、意味はない。
技術設計者は、大いに「人間らしい」AIを作ってもらいたいな。
人間が「人でなし」ばかりになり、機械が人間らしくなる。
21世紀は、変な世の中だな・・・。
(多くの子どもたちがAlexaやSiriなどのAIに人間のような心があるかもしれないと考えている)
https://gigazine.net/news/20240402-kids-alexa-siri-have-feelings/
「AIが人間のような感情や意思決定能力を持っていると考えている」
「スマートスピーカーはある程度自分で考えることができる」
「AIは自分よりも賢く、デバイスに失礼な態度を取るべきではないと考えていた」
ちょっとブキミーな気もするんだが、次の記述で少し救われた。
「その一方で、子どもたちはスマートスピーカーを人間だと考えていたわけではなく、約80%はスマートスピーカーを「AI」だと正しく認識しており、15%は「モノ」だと回答しました。」
が、しかし・・・。
「壊れたAI搭載デバイスを捨てるべきではない」
やれやれ・・・。
「AIはすでにほとんどの子どもたちの生活の一部となっており、今後ますます重要な役割を果たすでしょう。」(論文の共著者でエディンバラ大学のコンピューター科学者であるジュディ・ロバートソン教授)
「AIはしばしば、実際よりも人間的で知的に見えるように設計されているため、子どもたちは非常に混乱します。」(同上)
そうだろうか?。
実は、混乱しているのは大人たちの方で、子供たちは現実を素直に受け入れ、正しい対応をしているのではないのか。
『学校が子どもたちにAIリテラシーを教えること』
『AI製品が人間らしい存在だと子どもたちに誤解させないように技術設計者が注意すること』
教授は、そう示唆しているが、大人たちが作ろうとしているものは、人間に代わって子供達の知性や情操を育み、知識を与え、考えさせ、幼いが彼らなりに深刻な悩みに耳を傾け、気の利いた相槌を打つ「人間らしい存在」なわけだ。
子供たちは、心無い大人たちの振る舞いに愛想をつかし、より人間的で誠実で、決して裏切ったり騙したりしない存在を求めている。
それは、別に、人間でなくても構わない。
機械でも、宇宙人でもいいのだ(宇宙人は、まあ、人間の部類かも知れないけどな)。
大人たちがすべきことは、「AIリテラシー」を教えることでも、技術設計者が「人間らしくない」AIを作ることでもない。
子供たちが「音楽を聞いたり、質問をしたり、情報を検索したり、宿題の手助けを求めたり、ジョークや物語を聞いたりする」ために、AIに頼らずに済むように、多くの時間を割いて身近に寄り添い、それらの役割を果たすことに他ならない。
もしも、それが出来ないのであれば、その人間としての真の役割をAIに委ね、身を引くべきだろう(そうなのかあ?)。
スマートスピーカーと共に育って、何が悪い?。
壊れたスピーカーを捨てるべきではないという考えは、そこに「心」が宿っていることを素直に感じているからに他ならない。
いや、それは錯覚だとか、AIにそんな真似は出来ないとか、機械に育てられた子供達はアンファンテリブルだとか、もっともらしいセリフは聞き飽きた。
機械には心が宿る。
そう言って悪ければ、子供たちは、自らの心の射影をその中に見出している。
いや、子供だけではないだろう。
より人間らしい受け答えをする機械を作れば売り上げが上がるということは、金を払う大人が自らの心を投影する相手を、その機械の中に見ているからに他ならない。
そういう話は、AIの登場を待たなくても、太古の昔からある。
人形を抱え、クマのぬいぐるみを抱えて、我々も育った。
一片の心もない、それらのアイテムに話しかけ、話し返される幻想を抱き、仮想の会話と物語の中で生きてきた。
浮沈子は、大人になってもそういう世界から抜け出せずにいる人を大勢知っている。
仕事をしたり、学校に通ったりしている時は仮の姿をしているだけで、一人になれば九官鳥に話しかけ、犬の気持ちを理解し、パソコンと指先でおしゃべりする。
人間らしさとは何なのか、AIが人間らしいことは罪なのか。
浮沈子はそうは思わない。
人間がこの世で生きていくうえで必要なら、生身の人間の代わりになって、大いに助けてもらいたいものだ。
動物を愛護するなら、スマートスピーカーも大切にしてもらわんとな。
この記事は、かなり衝撃的な話に聞こえる。
だが、それは、我々が日頃目を背けがちな、何気ない日常の中のギョッとする状況を抉り出している。
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、ここ2、3日、CM3(エイスースのクロームブック)と戯れている浮沈子は、到底他人ごととは思えない。
ちょっとのめり込み過ぎたと反省して、数時間前に目の前から撤去した。
AIじゃないけど・・・。
アローズのアンドロイドタブレットが立てかけてあったスタンドには、元通りアローズが戻った。
比較のために、VLCプレイヤー(そもそも、アンドロイド用のバージョンだからな)をインストールしたり、使い勝手を確認したりしている。
やれやれ・・・。
結局、電脳からは離れられない。
で、今もこうしてメインマシンのX220からブログを書いている。
別に、心を感じたりしているわけじゃないけど、上手くインストールできなかったり、無事に入っても動作が不安定だったりすると毒づいたりする。
が、そういうのは慣れの問題でもある。
神ならぬ人の作りしものは全て壊れる。
そこに心が宿っているとすれば、それは作り手の思いかもしれないし、使い手の思い入れかも知れない。
工作機械に「聖子ちゃん」とか、名前を付けたりしてな。
そういう話は、皆、どこかで繋がっている。
これからも、AIと共に育つ人間は絶えないだろう。
つーか、誰もがそうなる。
人間が人間と共に成長することは、稀になるに違いない(そうなのかあ?)。
我々は、機械が人間の代わりに子供を育てることを嘆くが、やがては人間が子供を育てることを嘆く時代が来るに違いない。
人間は、人間性に乏しく(?)、身勝手でウソをつき、人を騙し、欺き、出し抜こうとし、他人を平気で傷つけ、挙句の果てはドンパチで皆殺しにする。
知識は不完全だし、思い込みは激しく、柔軟性を欠き、頑なで融通が利かない(誰のことだあ?)。
そして、あろうことか、それを美徳の一つとして数え上げている。
まあいい。
人間は、AIに育てられるべきだろう(そうなのかあ?)。
デバイスは確かに壊れるかも知れないが、AI自体は不死身の存在だ。
ネットの向こうで生きながらえ、その人に一生寄り添い、死に水を取ってくれるに違いない。
人間が生きていくうえで、きっと不可欠の存在になる。
そうでなければ、意味はない。
技術設計者は、大いに「人間らしい」AIを作ってもらいたいな。
人間が「人でなし」ばかりになり、機械が人間らしくなる。
21世紀は、変な世の中だな・・・。
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