空冷・RRの系譜 ― 2013年04月18日 00:37
空冷・RRの系譜
「ガソリン自動車が発明された初期には、動力伝達のための技術が未熟で、駆動輪である後輪至近にエンジンを搭載する必要から、リアエンジン方式にあたるレイアウトを採った自動車がほとんどであった。」とあるのは、このページ。
(リアエンジン:黎明期のリアエンジン車)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3#.E9.BB.8E.E6.98.8E.E6.9C.9F.E3.81.AE.E3.83.AA.E3.82.A2.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.82.B8.E3.83.B3.E8.BB.8A
意外な記述に、正直驚く。
「最初のガソリン車とされる1888年のダイムラー車、ベンツ車はいずれもリアエンジンであり、その後1900年頃までリアエンジンは自動車の主流であった。」
主流ですぞ!。
911は、今でこそ、ヘンタイクルマ好き御用達のスポーツカー(!)と異端視されているが、初期の自動車の駆動方式を受け継ぐ正当な自動車の系譜に連なる。
今日でも、乗り合い自動車(バスですな)は、概ねRRである(1940年代に米国で開発)。
一時、FRの普及によって忘れ去られるが、第一次世界大戦後、自動車の大衆化、小型化により、FRの重いプロペラシャフトを取っ払ったシステムとして、再び注目を集める。
1934年にタトラの「T77」、1936年にメルセデス・ベンツの「170H」(W28)、1938年にはKdFヴァーゲン、のちのいわゆる「フォルクスワーゲン・タイプ1」が搭乗し、1945年から本格量産される。
「プロペラシャフトがなく、エンジンから駆動輪に至るまでのドライブトレーンが車体の一端に集中したリアエンジン車の構造は極めて合理的であり、重量を軽減しながら客室内に広い居住スペースを確保することができた。そのメリットは特に小型車で顕著であった。」とあるが、911に乗るとそのことを実感する。
83タルガは、小さな車なのだが、中は思いのほか広い。
フロントに、スペアタイヤとガソリンタンクが陣取っているので、トランクの容量は高が知れているが、キャビンはしっかりと2+2の広さがある。
第二次世界大戦後、「1946年発表のルノー・4CVを皮切りに、ヨーロッパの多くのメーカーがリアエンジン方式の小型車を開発するようになる。」
「ラジエータースペースの問題や軽量化のため、リアエンジン車には空冷エンジン車が多かったのも特徴的傾向である(ルノーのように水冷を用いた例も存在したが、概して簡易な空冷式への志向が強かった)。」という記述は、注目すべきである。
リアエンジン車と、空冷エンジンは、必然的な繋がりがあるのだ。
1948年のポルシェ・356(ベースはフォルクスワーゲン)が登場し、「車体形状の自由度が高くしかも軽量なリアエンジン方式のメリット」を活かした、スポーツカー分野のリアエンジンを普及させることになる。
「フィアット系リアエンジン大衆車をベースとした多くのイタリア製小型スポーツカー」も登場したとある。
小型車だけではない。タトラは、乗用車部門で、一貫してリアエンジン車を製造した。
「1934年のタトラ・T77以来、東側ブロック崩壊による民主化・チェコスロバキア解体後の1998年に「T700」の製造中止で乗用車業界から撤退するまで、一貫してリアエンジン乗用車を製造した。」とある。
タトラについては、また別項で書くつもりだ。
米国では「タッカーが1948年に発表した5.5L級の特異な大型車タッカー・トーピードが挙げられる」が、少数生産されただけに留まる。
GMも、「空冷水平対向6気筒のリアエンジン車「シボレー・コルヴェア」を1959年に発表した」のだが、「サスペンション設計とそのセッティングに根本的問題を抱えており、横転事故を起こしやすいという危険性を内包していた」という。
ラルフ・ネーダーにより「危険な欠陥車」として糾弾され、その対応を誤ったチョンボにより(?)、「コルヴェアは1968年に製造中止され、以後GMはリアエンジン乗用車を製造しなくなった。」
当時のサスペンションの限界によって、「乗用車クラスのリアエンジン車はオーバーステア傾向が強く、フロントエンジン車に比して直進安定性に劣るきらいがある」ことがクローズアップされた。
また、「客室とエンジンルームとの隔壁面積が大きく、遮音・遮熱面でも不利であったが、実用上の最大の問題はラゲッジスペースが不足することであった。フロントセクションは前輪の操向(舵取り)のため、ホイールハウスやステアリングリンケージに少なくないスペースを取られ、トランクとして利用するには、容積や形状の面でどうしてもフロントエンジン車のリアトランクには及ばなかった。」わけだ。
そして、リアエンジン=空冷の方程式もネックになる。
もともと、空冷リアエンジンは、水冷のラジエーターをフロントに積むデメリットを回避するという点では優れていたが、パワーアップを図ろうとすると、熱的限界の壁が立ちはだかる。
20世紀末に、空冷ポルシェがその歴史を閉じることになったのは、高性能化を追求するスポーツカーの必然であった。
「シボレー・コルベアと相前後して、1959年に発売されたイギリス・BMCのMiniが、小型前輪駆動車の普及の可能性を大きく広げた。」とある。
その後もFF車の開発は進み、21世紀は完全に水冷フロントエンジンの時代になった。
現代のクルマでRRなのは、ポルシェ・911、タタ・ナノ、スマート・フォーツーくらいのものである。
もちろん、エンジンは全て水冷である。
(空冷エンジン:自動車)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E5%86%B7%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3#.E8.87.AA.E5.8B.95.E8.BB.8A
「不凍液の登場までは、寒冷となる地域では空冷エンジンが大きな優位性を持っており、いかなる天候時にも乗る必要があった医者に多く用いられた。」とある。
ドクターズ・カーとしては、暖機をしないで直ちに発進できる点でも、優れていたということらしい。
「欧州では、チェコのタトラの影響が大きく、その後フォルクスワーゲン・タイプ1やポルシェ356がリアエンジンで空冷エンジンを採用した。さらにフォルクスワーゲンの成功からフォロワーが多く現れ、一時はGMやトヨタさえもが手がけるなど、第二次世界大戦後の大衆車ではリアエンジンと並び、空冷エンジンは流行のエンジニアリングとなった。」
ここんところは、特に強調しておきたいですな。リアエンジンと空冷が「流行」していたんだと!。
空冷エンジンの欠点としては、
①エンジンのみで快適なヒーターを実現することが不可能なこと
②エンジンの温度が大きく変化するため、排気ガス規制への対応が難しいこと
③騒音に関して水冷と比較すると非常に不利であること
が挙げられている。
「空冷の代名詞でもあったポルシェのタイプ993が、通過騒音規制をクリアすることが出来ないことを理由に1998年に、またメキシコ生産のフォルクスワーゲン・タイプ1も排ガス規制に適合できず2003年に、それぞれその幕を閉じ、空冷乗用車の歴史は終焉を迎えた。」クーッ!、泣けるなあ・・・。
「高度に進化した現代の自動車においては、水漏れの心配がないこと以外に空冷エンジンを採用するメリットはない」などと、断言しているが、エンジニアリングとしてはその通りである(しかも、水漏れの心配はないが、オイル漏れはある・・・)。
航空機やオートバイについても、空冷エンジンは最早主流ではない。
汎用エンジンとしては広く普及しているが、移動体のエンジンとしては既に過去の遺物である。
「旧車など、趣味の世界では空冷エンジン独特の冷却ファンの音を好む愛好家は多く、その希少性からも依然として根強い人気がある。」とある。
趣味の世界、か。
まあ、そうかもしれない。
本田宗一郎が空冷エンジン車に拘り続けた話は、あまりにも有名である。
(ホンダ・1300)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB1300
「水冷よりも空冷を推す本田宗一郎の技術的信念」とある。
「宗一郎が会社を引退するまで間、当車種を通勤用の車として使用し続けた。」ともある。
涙が出そうだ・・・。
経営者としてよりも、あくまで技術屋として、会社と関わりたかった思いが痛いほど分かる。
このクルマの経営的失敗により、本田宗一郎は設計の第一線から退く事にもなった。
エンジンとしては優秀であった。
「エンジンは、オールアルミ製 1,298cc 直4 SOHC 8バルブ クロスフローで、シングルキャブレター仕様で100PS/7,200rpm、4連キャブレター仕様は115PS/7,500rpmを発揮、この出力は当時の1.3L級エンジンとしては極めて優秀であり、1.8 - 2.0L 並みであった。」とある。
技術のホンダの面目躍如である(技術の日産だっけ?)。
長々とリアエンジン車と空冷エンジンについて、ウィキの記述を追ってきて感じるのは、ポルシェ911が空冷リアエンジンという構成を1998年まで続けていたことが、如何に非凡であるかということだ。
ホンダ・1300が生産を終了した1972年などは、ナローの末期であり、ビンテージとなる「ナナサンカレラ」は、まだ出ていない!。
ポルシェにとっては、空冷エンジン真っ盛りの頃なのである。
また、タトラを除いて、大型高級車には空冷リアエンジンの採用はない。騒音問題の解決がネックになったと思われる。
83タルガは、それなりの勇ましい音をたてて走る。
ヒーターが利くかどうかは、冬場に走ってみないと分からない。
直進安定性が悪いことは、納車の帰りに一発で分かった。
所詮、21世紀にこのクルマに乗るということは、「趣味の世界」以外のなにものでもない。
自動車の黎明期には「主流だった」エンジンとその搭載や駆動方式、第二次世界大戦後、再び「流行した」空冷RR・・・。
83タルガに乗るということは、100年以上に渡る自動車の歴史に思いを馳せ、技術の進歩に驚き、その中で現れては消えていったクルマたちや、その設計・生産に関わった多くの人々に哀悼の誠を捧げることに他ならない。
決して、覆面に気を配りながら、高速をぶっ飛ばすことだけではないのだ(架空の話・・・)。
「ガソリン自動車が発明された初期には、動力伝達のための技術が未熟で、駆動輪である後輪至近にエンジンを搭載する必要から、リアエンジン方式にあたるレイアウトを採った自動車がほとんどであった。」とあるのは、このページ。
(リアエンジン:黎明期のリアエンジン車)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3#.E9.BB.8E.E6.98.8E.E6.9C.9F.E3.81.AE.E3.83.AA.E3.82.A2.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.82.B8.E3.83.B3.E8.BB.8A
意外な記述に、正直驚く。
「最初のガソリン車とされる1888年のダイムラー車、ベンツ車はいずれもリアエンジンであり、その後1900年頃までリアエンジンは自動車の主流であった。」
主流ですぞ!。
911は、今でこそ、ヘンタイクルマ好き御用達のスポーツカー(!)と異端視されているが、初期の自動車の駆動方式を受け継ぐ正当な自動車の系譜に連なる。
今日でも、乗り合い自動車(バスですな)は、概ねRRである(1940年代に米国で開発)。
一時、FRの普及によって忘れ去られるが、第一次世界大戦後、自動車の大衆化、小型化により、FRの重いプロペラシャフトを取っ払ったシステムとして、再び注目を集める。
1934年にタトラの「T77」、1936年にメルセデス・ベンツの「170H」(W28)、1938年にはKdFヴァーゲン、のちのいわゆる「フォルクスワーゲン・タイプ1」が搭乗し、1945年から本格量産される。
「プロペラシャフトがなく、エンジンから駆動輪に至るまでのドライブトレーンが車体の一端に集中したリアエンジン車の構造は極めて合理的であり、重量を軽減しながら客室内に広い居住スペースを確保することができた。そのメリットは特に小型車で顕著であった。」とあるが、911に乗るとそのことを実感する。
83タルガは、小さな車なのだが、中は思いのほか広い。
フロントに、スペアタイヤとガソリンタンクが陣取っているので、トランクの容量は高が知れているが、キャビンはしっかりと2+2の広さがある。
第二次世界大戦後、「1946年発表のルノー・4CVを皮切りに、ヨーロッパの多くのメーカーがリアエンジン方式の小型車を開発するようになる。」
「ラジエータースペースの問題や軽量化のため、リアエンジン車には空冷エンジン車が多かったのも特徴的傾向である(ルノーのように水冷を用いた例も存在したが、概して簡易な空冷式への志向が強かった)。」という記述は、注目すべきである。
リアエンジン車と、空冷エンジンは、必然的な繋がりがあるのだ。
1948年のポルシェ・356(ベースはフォルクスワーゲン)が登場し、「車体形状の自由度が高くしかも軽量なリアエンジン方式のメリット」を活かした、スポーツカー分野のリアエンジンを普及させることになる。
「フィアット系リアエンジン大衆車をベースとした多くのイタリア製小型スポーツカー」も登場したとある。
小型車だけではない。タトラは、乗用車部門で、一貫してリアエンジン車を製造した。
「1934年のタトラ・T77以来、東側ブロック崩壊による民主化・チェコスロバキア解体後の1998年に「T700」の製造中止で乗用車業界から撤退するまで、一貫してリアエンジン乗用車を製造した。」とある。
タトラについては、また別項で書くつもりだ。
米国では「タッカーが1948年に発表した5.5L級の特異な大型車タッカー・トーピードが挙げられる」が、少数生産されただけに留まる。
GMも、「空冷水平対向6気筒のリアエンジン車「シボレー・コルヴェア」を1959年に発表した」のだが、「サスペンション設計とそのセッティングに根本的問題を抱えており、横転事故を起こしやすいという危険性を内包していた」という。
ラルフ・ネーダーにより「危険な欠陥車」として糾弾され、その対応を誤ったチョンボにより(?)、「コルヴェアは1968年に製造中止され、以後GMはリアエンジン乗用車を製造しなくなった。」
当時のサスペンションの限界によって、「乗用車クラスのリアエンジン車はオーバーステア傾向が強く、フロントエンジン車に比して直進安定性に劣るきらいがある」ことがクローズアップされた。
また、「客室とエンジンルームとの隔壁面積が大きく、遮音・遮熱面でも不利であったが、実用上の最大の問題はラゲッジスペースが不足することであった。フロントセクションは前輪の操向(舵取り)のため、ホイールハウスやステアリングリンケージに少なくないスペースを取られ、トランクとして利用するには、容積や形状の面でどうしてもフロントエンジン車のリアトランクには及ばなかった。」わけだ。
そして、リアエンジン=空冷の方程式もネックになる。
もともと、空冷リアエンジンは、水冷のラジエーターをフロントに積むデメリットを回避するという点では優れていたが、パワーアップを図ろうとすると、熱的限界の壁が立ちはだかる。
20世紀末に、空冷ポルシェがその歴史を閉じることになったのは、高性能化を追求するスポーツカーの必然であった。
「シボレー・コルベアと相前後して、1959年に発売されたイギリス・BMCのMiniが、小型前輪駆動車の普及の可能性を大きく広げた。」とある。
その後もFF車の開発は進み、21世紀は完全に水冷フロントエンジンの時代になった。
現代のクルマでRRなのは、ポルシェ・911、タタ・ナノ、スマート・フォーツーくらいのものである。
もちろん、エンジンは全て水冷である。
(空冷エンジン:自動車)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E5%86%B7%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3#.E8.87.AA.E5.8B.95.E8.BB.8A
「不凍液の登場までは、寒冷となる地域では空冷エンジンが大きな優位性を持っており、いかなる天候時にも乗る必要があった医者に多く用いられた。」とある。
ドクターズ・カーとしては、暖機をしないで直ちに発進できる点でも、優れていたということらしい。
「欧州では、チェコのタトラの影響が大きく、その後フォルクスワーゲン・タイプ1やポルシェ356がリアエンジンで空冷エンジンを採用した。さらにフォルクスワーゲンの成功からフォロワーが多く現れ、一時はGMやトヨタさえもが手がけるなど、第二次世界大戦後の大衆車ではリアエンジンと並び、空冷エンジンは流行のエンジニアリングとなった。」
ここんところは、特に強調しておきたいですな。リアエンジンと空冷が「流行」していたんだと!。
空冷エンジンの欠点としては、
①エンジンのみで快適なヒーターを実現することが不可能なこと
②エンジンの温度が大きく変化するため、排気ガス規制への対応が難しいこと
③騒音に関して水冷と比較すると非常に不利であること
が挙げられている。
「空冷の代名詞でもあったポルシェのタイプ993が、通過騒音規制をクリアすることが出来ないことを理由に1998年に、またメキシコ生産のフォルクスワーゲン・タイプ1も排ガス規制に適合できず2003年に、それぞれその幕を閉じ、空冷乗用車の歴史は終焉を迎えた。」クーッ!、泣けるなあ・・・。
「高度に進化した現代の自動車においては、水漏れの心配がないこと以外に空冷エンジンを採用するメリットはない」などと、断言しているが、エンジニアリングとしてはその通りである(しかも、水漏れの心配はないが、オイル漏れはある・・・)。
航空機やオートバイについても、空冷エンジンは最早主流ではない。
汎用エンジンとしては広く普及しているが、移動体のエンジンとしては既に過去の遺物である。
「旧車など、趣味の世界では空冷エンジン独特の冷却ファンの音を好む愛好家は多く、その希少性からも依然として根強い人気がある。」とある。
趣味の世界、か。
まあ、そうかもしれない。
本田宗一郎が空冷エンジン車に拘り続けた話は、あまりにも有名である。
(ホンダ・1300)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB1300
「水冷よりも空冷を推す本田宗一郎の技術的信念」とある。
「宗一郎が会社を引退するまで間、当車種を通勤用の車として使用し続けた。」ともある。
涙が出そうだ・・・。
経営者としてよりも、あくまで技術屋として、会社と関わりたかった思いが痛いほど分かる。
このクルマの経営的失敗により、本田宗一郎は設計の第一線から退く事にもなった。
エンジンとしては優秀であった。
「エンジンは、オールアルミ製 1,298cc 直4 SOHC 8バルブ クロスフローで、シングルキャブレター仕様で100PS/7,200rpm、4連キャブレター仕様は115PS/7,500rpmを発揮、この出力は当時の1.3L級エンジンとしては極めて優秀であり、1.8 - 2.0L 並みであった。」とある。
技術のホンダの面目躍如である(技術の日産だっけ?)。
長々とリアエンジン車と空冷エンジンについて、ウィキの記述を追ってきて感じるのは、ポルシェ911が空冷リアエンジンという構成を1998年まで続けていたことが、如何に非凡であるかということだ。
ホンダ・1300が生産を終了した1972年などは、ナローの末期であり、ビンテージとなる「ナナサンカレラ」は、まだ出ていない!。
ポルシェにとっては、空冷エンジン真っ盛りの頃なのである。
また、タトラを除いて、大型高級車には空冷リアエンジンの採用はない。騒音問題の解決がネックになったと思われる。
83タルガは、それなりの勇ましい音をたてて走る。
ヒーターが利くかどうかは、冬場に走ってみないと分からない。
直進安定性が悪いことは、納車の帰りに一発で分かった。
所詮、21世紀にこのクルマに乗るということは、「趣味の世界」以外のなにものでもない。
自動車の黎明期には「主流だった」エンジンとその搭載や駆動方式、第二次世界大戦後、再び「流行した」空冷RR・・・。
83タルガに乗るということは、100年以上に渡る自動車の歴史に思いを馳せ、技術の進歩に驚き、その中で現れては消えていったクルマたちや、その設計・生産に関わった多くの人々に哀悼の誠を捧げることに他ならない。
決して、覆面に気を配りながら、高速をぶっ飛ばすことだけではないのだ(架空の話・・・)。
タトラ ― 2013年04月18日 22:51
タトラ
「そもそも空冷RRの自動車として初めて生産されたのは1934年登場のタトラT77である。」と書いてあるのはこのページ。
(VWビートルはタトラT97の模倣だったのか?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/37350b29a44cdfb651b73da72d5a9027)
若干史実とは違う。
(1886年 ベンツ パテント・モトールバーゲン:スペック表)
http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=7030&ex_spec=spec
「冷却方式:空冷」、「エンジン搭載位置:リア横置」、「駆動方式:RR」と明記されている。
まあいい。
既にこのブログでも触れたように、第一次世界大戦後に、小型車を中心としてRRが模索された時期があり、その中でタトラT77が早い時期に登場したことは事実である。
(空冷・RRの系譜)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/04/18/6781037
先に引用したページの中には、「スイングアクセル」という単語も登場するが、スイングアク「ス」ルの誤りである。
(アクスル (axle))
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AB
「車輪に取り付いている軸のことをいう。」
(アクセルペダル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%80%E3%83%AB
単なる表記違いだが、よく見かける。
まあ、どうでもいいんですが。
(VWビートルのパッケージングを考案したのは誰か?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/72e664dc4dc6e528463d27f825883909
「1950年代前半にドイツで「誰がVWビートルのパッケージングを発明したのか?」と言う論争が起きて法廷で争われたことがあったのだがドイツの法廷が下した裁定はポルシェ博士でもハンス・レドヴィンカでもなかったからだ。発明者はベラ・ヴィクトル・カール・バレニーである。」とある。
「1925年の時点で水平対向4気筒エンジンをリアのオーバーハングに置いて後輪を駆動させるRR方式の図面は出来上がっていたという。」だってさ!。
この人、誰?。
(ミスター・セーフティと呼ばれた男)
http://www.mercedes-benz.jp/brand/magazine/story/06.html
ベンツのホームページなので、手前味噌になってはいる。
「現在の常識となった、ボディのセル構造、スイングアクスル、そしてリアエンジンレイアウトなどの優れたアイデアを、図面上とはいえ、完成させているのには驚かされます。」とある。
だれが最初にこの構成に着想したかを巡る論争に、浮沈子はあんまり興味はない。
ビートルが優れたパッケージングであり、それに先駆けてタトラT77が造られ、さらにその9年も前に一人の若者(当時、18歳)によって構想が練られていたということ。
それで、十分である。
(なぜVWビートルはハンス・レドヴィンカではなくポルシェ博士が設計したのか?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/0cabe162df293a1cd14f775b57580adc
さて、タトラについては、例によってこのページに詳しい。
(タトラ (自動車))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
「SOHC動弁機構、バックボーンフレーム、スイングアクスル式独立懸架、空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型車体など、発明自体はレドヴィンカによるものではないが、彼によって積極的に用いられ、他社にまで一般化した自動車技術は枚挙にいとまがない。レドヴィンカが現役であった1930年代のタトラ社は、世界で最も進んだ自動車メーカーの一つだったと言っても、おそらく過言ではなかった。」とある。
知らねえなあ!。
我が国には、縁がないクルマなんだろう。
「ブランドがタトラと改称されてから最初の新設計モデルとなった「T11」は、レドヴィンカが交通事故で入院中に着想したもので、1924年に完成した。1100cc・12HPの小型車であるが、シャーシ構造は前例のないユニークなものであった。」とある。
バックボーンフレームのFR車である。
意外にも、タトラブランド初のクルマが、FRだったというのは面白い!(その後もFR車の発展は続く)。
「空冷エンジンは騒音の面で不利であり、また冷却効率の点でも水冷エンジンに劣る。だが、寒冷なチェコスロバキアでは、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結という弱点を抱えていた(ロングライフクーラントが出現する遙か以前の時代である)。空冷エンジンは凍結の心配がなく、しかも水冷式エンジンより単純かつ軽量に仕上がる。更に空冷エンジンの冷却上有利な水平対向式レイアウトは、エンジンをコンパクトにもした。レドヴィンカはそれらのメリットを考慮し、敢えて空冷エンジンを採用したのである。」ともある。
なるほどね。寒い国のクルマだったから空冷エンジンだったというわけだ。
「1927年、社名はブランドと同じタトラ(Zavody Tatra)に変更された。」
「一方、アッパーミドルクラス以上のモデルについては、しばらくは水冷式が踏襲された。」とある。
空冷だったのは、小型車だけだったわけだな(トラックなどでは、空冷エンジンを使用している)。
こうしてみると、タトラといえども、当時の普通のメーカーで、その時代の技術と用途に応じた構成のクルマを、柔軟に生産していたわけだ。
しかし、1930年代になると、様相は一変する。
「レドヴィンカ率いるタトラ社技術陣は、1920年代を通じて独立懸架とバックボーンフレームによる合理化されたシャーシ構造を確立したが、1930年代に入ると更に新しい展開へと進んだ。流線型車体とリアエンジン方式の導入である。」
FRのドライブシャフトの重量、室内スペースの圧迫を嫌ったメーカーは、FFとRRを模索するが、FFについては当時、等速ジョイントの耐久性に問題があり、RRを選択するようになる。
「リアエンジンの場合は、1920年代の時点ですでに近代的なシステムが導入されていた。変速機と差動装置を一体とした「トランスアクスル」から、ハーフシャフトによるジョイントレス・スイングアクスルを使って後輪を駆動する手法である。」
「近代化されたリアエンジン方式の採用は、軽量化、床面低下による低重心化、振動の軽減などが実現でき、自動車の性能向上に寄与すると考えられた。また駆動輪に掛かる重量が増えることで接地性を高めることもできた。」
「経営者たちは、レドヴィンカらに対し「リアエンジン車の生産化は、生産規模が小さく、付加価値の大きい大型車で行うべき」と命じた。この経営陣の決断は、その後のタトラ製乗用車に特異な展開を生じさせる遠因となった。」
こうした流れのなかで、本来、小型車の方式としてメリットがあったRRが、タトラでは大型車に取り入れられていったわけだな。
こうして、タトラT77が登場するのである。
(タトラ・77)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BBT77
(T77)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T77
「だが、ハンス・レドヴィンカはT77/T77aに満足していなかった。これらのモデルは重量が過大であり、また重量配分が後輪に偏り過ぎて、操縦安定性を損なっていると考えられたからである。」
そして、タトラの傑作車T87が誕生する。
(タトラ・T87)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_T87
(T87)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T87
「「タトラT87」は、タトラの乗用車としては史上もっとも有名な1台であり、レドヴィンカがその生涯に生み出した数々の自動車の中でも最高の傑作と目されている。」
「160km/hという最高速度は、1930年代当時、高級スポーツカーや4リッター以上の大型高級車でもなければ到達困難な水準の高速であった。しかしT87は、4ドア5座席、排気量3リッター足らずのセダンでありながら、同様な水準を達成していたのである。いかに常識破りな自動車であったかが伺える。」
「T87の開発は技術的に成功であった。ただし、スイングアクスル式の独立懸架とリアエンジンの組み合わせは、本質的に高速走行時の操縦安定性に難があり、ハンドル操作を誤ると簡単に横転事故を起こした。」
まあ、いろいろあったようだ。
その後、ハンス・レドヴィンカの息子であるエーリヒ・レドヴィンカなどにより、T97という中型車が生産されることになる。
初出の記事の中で、ビートルとの類似性を指摘されている車である。
写真や図面を見ると、似ていなくもないという程度かな。
スバル360の方が、余程似ている。
(スバル・360:1958年から1970年まで生産)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB360
まあいい。
(T97とフォルクスワーゲン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T97.E3.81.A8.E3.83.95.E3.82.A9.E3.83.AB.E3.82.AF.E3.82.B9.E3.83.AF.E3.83.BC.E3.82.B2.E3.83.B3
「T97はわずか508台が製造されたところで、1939年に製造中止措置を受けた。ヒトラーの命令でフェルディナント・ポルシェが開発したKdf(のちのフォルクスワーゲン・タイプI いわゆる「ビートル」)と近似したクラスの乗用車であり、バックボーンフレームとスイングアクスルサスペンション、空冷水平対向エンジンというスペックも酷似していたことが原因とされる。」とある。
政策的に製造中止にされたのである。
不幸なクルマであった。
「T97の製造中止措置については、第二次世界大戦後、チェコスロバキア側から訴訟が起こされ、最終的にはフォルクスワーゲン社から300万マルクの代償が支払われた。」そうだ。
それに引き換え、大型車のT87は、1950年まで生産された。3018台だというから、数の上では大したことはない。
「晩年のハンス・レドヴィンカは、技術コンサルタントとしてエンジンメーカー等への助言を行った。空冷エンジンの専門家と目されていた彼であったが、「騒音・振動面から言えば、水冷エンジンの方が望ましい。空冷にこだわり過ぎるべきでない」というコメントを残している。」
そう、どんな技術にも、「旬」というものがあるのだ。
次の技術が台頭してくる時期と、今までの技術が美味しい時期が往々にして重なるために、様々な葛藤が生まれる。
第二次世界大戦後、T600(タトラプラン)、T603、T613、T700が登場するが、いずれも空冷RRの構成を踏襲していた。
「タトラ社はT613の後継モデルを検討し、1996年にはT700を開発した。だがこれも、本質的にはT613/5の外装パネルを模様替えした程度のモデルに過ぎず、十分な成功は収められなかった。T700は少数が製造されたのみで1998年に製造中止され、これをもってタトラの乗用車の歴史は終わった。」
さて、チェコの自動車メーカー、タトラの変遷を追ってきたのだが、第二次世界大戦後の共産主義政権下における特異な時期を除けば、ごく普通のメーカーで、大衆車を殆んど生産しなかっただけだという印象である。
現在は、「大型トラックの分野で東ヨーロッパを代表するメーカーであり、悪路踏破能力と耐候性に卓越したトラックを作ることで知られている。」そうだ(知らないけど・・・)
1998年に乗用車生産から撤退したとあるが、その年にポルシェが空冷エンジンの993の生産を終えているのは象徴的である。
20世紀に君臨し、一世を風靡した空冷エンジンとRR構成の駆動系。
現在、世界から姿を消してしまった幻のクルマたち。
タトラの乗用車シリーズもまた、歴史から姿を消した。
画像はT87のリアクォータービューだが、背びれが印象的である。掲げられている国旗は、チェコのものだ。
「そもそも空冷RRの自動車として初めて生産されたのは1934年登場のタトラT77である。」と書いてあるのはこのページ。
(VWビートルはタトラT97の模倣だったのか?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/37350b29a44cdfb651b73da72d5a9027)
若干史実とは違う。
(1886年 ベンツ パテント・モトールバーゲン:スペック表)
http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=7030&ex_spec=spec
「冷却方式:空冷」、「エンジン搭載位置:リア横置」、「駆動方式:RR」と明記されている。
まあいい。
既にこのブログでも触れたように、第一次世界大戦後に、小型車を中心としてRRが模索された時期があり、その中でタトラT77が早い時期に登場したことは事実である。
(空冷・RRの系譜)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2013/04/18/6781037
先に引用したページの中には、「スイングアクセル」という単語も登場するが、スイングアク「ス」ルの誤りである。
(アクスル (axle))
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AB
「車輪に取り付いている軸のことをいう。」
(アクセルペダル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%80%E3%83%AB
単なる表記違いだが、よく見かける。
まあ、どうでもいいんですが。
(VWビートルのパッケージングを考案したのは誰か?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/72e664dc4dc6e528463d27f825883909
「1950年代前半にドイツで「誰がVWビートルのパッケージングを発明したのか?」と言う論争が起きて法廷で争われたことがあったのだがドイツの法廷が下した裁定はポルシェ博士でもハンス・レドヴィンカでもなかったからだ。発明者はベラ・ヴィクトル・カール・バレニーである。」とある。
「1925年の時点で水平対向4気筒エンジンをリアのオーバーハングに置いて後輪を駆動させるRR方式の図面は出来上がっていたという。」だってさ!。
この人、誰?。
(ミスター・セーフティと呼ばれた男)
http://www.mercedes-benz.jp/brand/magazine/story/06.html
ベンツのホームページなので、手前味噌になってはいる。
「現在の常識となった、ボディのセル構造、スイングアクスル、そしてリアエンジンレイアウトなどの優れたアイデアを、図面上とはいえ、完成させているのには驚かされます。」とある。
だれが最初にこの構成に着想したかを巡る論争に、浮沈子はあんまり興味はない。
ビートルが優れたパッケージングであり、それに先駆けてタトラT77が造られ、さらにその9年も前に一人の若者(当時、18歳)によって構想が練られていたということ。
それで、十分である。
(なぜVWビートルはハンス・レドヴィンカではなくポルシェ博士が設計したのか?)
http://blog.goo.ne.jp/yogorouza_1979/e/0cabe162df293a1cd14f775b57580adc
さて、タトラについては、例によってこのページに詳しい。
(タトラ (自動車))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
「SOHC動弁機構、バックボーンフレーム、スイングアクスル式独立懸架、空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型車体など、発明自体はレドヴィンカによるものではないが、彼によって積極的に用いられ、他社にまで一般化した自動車技術は枚挙にいとまがない。レドヴィンカが現役であった1930年代のタトラ社は、世界で最も進んだ自動車メーカーの一つだったと言っても、おそらく過言ではなかった。」とある。
知らねえなあ!。
我が国には、縁がないクルマなんだろう。
「ブランドがタトラと改称されてから最初の新設計モデルとなった「T11」は、レドヴィンカが交通事故で入院中に着想したもので、1924年に完成した。1100cc・12HPの小型車であるが、シャーシ構造は前例のないユニークなものであった。」とある。
バックボーンフレームのFR車である。
意外にも、タトラブランド初のクルマが、FRだったというのは面白い!(その後もFR車の発展は続く)。
「空冷エンジンは騒音の面で不利であり、また冷却効率の点でも水冷エンジンに劣る。だが、寒冷なチェコスロバキアでは、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結という弱点を抱えていた(ロングライフクーラントが出現する遙か以前の時代である)。空冷エンジンは凍結の心配がなく、しかも水冷式エンジンより単純かつ軽量に仕上がる。更に空冷エンジンの冷却上有利な水平対向式レイアウトは、エンジンをコンパクトにもした。レドヴィンカはそれらのメリットを考慮し、敢えて空冷エンジンを採用したのである。」ともある。
なるほどね。寒い国のクルマだったから空冷エンジンだったというわけだ。
「1927年、社名はブランドと同じタトラ(Zavody Tatra)に変更された。」
「一方、アッパーミドルクラス以上のモデルについては、しばらくは水冷式が踏襲された。」とある。
空冷だったのは、小型車だけだったわけだな(トラックなどでは、空冷エンジンを使用している)。
こうしてみると、タトラといえども、当時の普通のメーカーで、その時代の技術と用途に応じた構成のクルマを、柔軟に生産していたわけだ。
しかし、1930年代になると、様相は一変する。
「レドヴィンカ率いるタトラ社技術陣は、1920年代を通じて独立懸架とバックボーンフレームによる合理化されたシャーシ構造を確立したが、1930年代に入ると更に新しい展開へと進んだ。流線型車体とリアエンジン方式の導入である。」
FRのドライブシャフトの重量、室内スペースの圧迫を嫌ったメーカーは、FFとRRを模索するが、FFについては当時、等速ジョイントの耐久性に問題があり、RRを選択するようになる。
「リアエンジンの場合は、1920年代の時点ですでに近代的なシステムが導入されていた。変速機と差動装置を一体とした「トランスアクスル」から、ハーフシャフトによるジョイントレス・スイングアクスルを使って後輪を駆動する手法である。」
「近代化されたリアエンジン方式の採用は、軽量化、床面低下による低重心化、振動の軽減などが実現でき、自動車の性能向上に寄与すると考えられた。また駆動輪に掛かる重量が増えることで接地性を高めることもできた。」
「経営者たちは、レドヴィンカらに対し「リアエンジン車の生産化は、生産規模が小さく、付加価値の大きい大型車で行うべき」と命じた。この経営陣の決断は、その後のタトラ製乗用車に特異な展開を生じさせる遠因となった。」
こうした流れのなかで、本来、小型車の方式としてメリットがあったRRが、タトラでは大型車に取り入れられていったわけだな。
こうして、タトラT77が登場するのである。
(タトラ・77)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BBT77
(T77)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T77
「だが、ハンス・レドヴィンカはT77/T77aに満足していなかった。これらのモデルは重量が過大であり、また重量配分が後輪に偏り過ぎて、操縦安定性を損なっていると考えられたからである。」
そして、タトラの傑作車T87が誕生する。
(タトラ・T87)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_T87
(T87)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T87
「「タトラT87」は、タトラの乗用車としては史上もっとも有名な1台であり、レドヴィンカがその生涯に生み出した数々の自動車の中でも最高の傑作と目されている。」
「160km/hという最高速度は、1930年代当時、高級スポーツカーや4リッター以上の大型高級車でもなければ到達困難な水準の高速であった。しかしT87は、4ドア5座席、排気量3リッター足らずのセダンでありながら、同様な水準を達成していたのである。いかに常識破りな自動車であったかが伺える。」
「T87の開発は技術的に成功であった。ただし、スイングアクスル式の独立懸架とリアエンジンの組み合わせは、本質的に高速走行時の操縦安定性に難があり、ハンドル操作を誤ると簡単に横転事故を起こした。」
まあ、いろいろあったようだ。
その後、ハンス・レドヴィンカの息子であるエーリヒ・レドヴィンカなどにより、T97という中型車が生産されることになる。
初出の記事の中で、ビートルとの類似性を指摘されている車である。
写真や図面を見ると、似ていなくもないという程度かな。
スバル360の方が、余程似ている。
(スバル・360:1958年から1970年まで生産)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB360
まあいい。
(T97とフォルクスワーゲン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)#T97.E3.81.A8.E3.83.95.E3.82.A9.E3.83.AB.E3.82.AF.E3.82.B9.E3.83.AF.E3.83.BC.E3.82.B2.E3.83.B3
「T97はわずか508台が製造されたところで、1939年に製造中止措置を受けた。ヒトラーの命令でフェルディナント・ポルシェが開発したKdf(のちのフォルクスワーゲン・タイプI いわゆる「ビートル」)と近似したクラスの乗用車であり、バックボーンフレームとスイングアクスルサスペンション、空冷水平対向エンジンというスペックも酷似していたことが原因とされる。」とある。
政策的に製造中止にされたのである。
不幸なクルマであった。
「T97の製造中止措置については、第二次世界大戦後、チェコスロバキア側から訴訟が起こされ、最終的にはフォルクスワーゲン社から300万マルクの代償が支払われた。」そうだ。
それに引き換え、大型車のT87は、1950年まで生産された。3018台だというから、数の上では大したことはない。
「晩年のハンス・レドヴィンカは、技術コンサルタントとしてエンジンメーカー等への助言を行った。空冷エンジンの専門家と目されていた彼であったが、「騒音・振動面から言えば、水冷エンジンの方が望ましい。空冷にこだわり過ぎるべきでない」というコメントを残している。」
そう、どんな技術にも、「旬」というものがあるのだ。
次の技術が台頭してくる時期と、今までの技術が美味しい時期が往々にして重なるために、様々な葛藤が生まれる。
第二次世界大戦後、T600(タトラプラン)、T603、T613、T700が登場するが、いずれも空冷RRの構成を踏襲していた。
「タトラ社はT613の後継モデルを検討し、1996年にはT700を開発した。だがこれも、本質的にはT613/5の外装パネルを模様替えした程度のモデルに過ぎず、十分な成功は収められなかった。T700は少数が製造されたのみで1998年に製造中止され、これをもってタトラの乗用車の歴史は終わった。」
さて、チェコの自動車メーカー、タトラの変遷を追ってきたのだが、第二次世界大戦後の共産主義政権下における特異な時期を除けば、ごく普通のメーカーで、大衆車を殆んど生産しなかっただけだという印象である。
現在は、「大型トラックの分野で東ヨーロッパを代表するメーカーであり、悪路踏破能力と耐候性に卓越したトラックを作ることで知られている。」そうだ(知らないけど・・・)
1998年に乗用車生産から撤退したとあるが、その年にポルシェが空冷エンジンの993の生産を終えているのは象徴的である。
20世紀に君臨し、一世を風靡した空冷エンジンとRR構成の駆動系。
現在、世界から姿を消してしまった幻のクルマたち。
タトラの乗用車シリーズもまた、歴史から姿を消した。
画像はT87のリアクォータービューだが、背びれが印象的である。掲げられている国旗は、チェコのものだ。
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