趙紫陽 ― 2014年04月06日 09:01
趙紫陽
懐かしい名前を聞いた。
(北京で趙紫陽氏の追悼会 中国、天安門25年で警戒)
http://www.sakigake.jp/p/news/world.jsp?nid=2014040501001943
共産党一党独裁の政権下、天安門事件を巡って党の方針に決然と反旗を掲げ、失脚した政治家である。
(趙紫陽)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%B4%AB%E9%99%BD
「6月23日、24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。党籍のみ、そのままとされた。」
「一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。」
(六四天安門事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(胡耀邦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6
「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」
鄧小平に絶大な信任を得ていた趙紫陽が、なぜ失脚したのか。
既に、鄧小平は求心力を失いつつあり、改革開放政策の歪みが表面化していた。
不運の政治家といえないこともないが、歴史の選択は厳しい。
(トウ小平)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
「1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。」
(華国鋒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%9B%BD%E9%8B%92
「四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、鄧小平らと権力闘争を展開し、最終的に追い落とされて失脚させられたといわれる。」
中国の権力闘争の歴史の中で、鄧小平は、何度も失脚し、その都度復権した。
趙紫陽は、しかし、時の政権に阿ることなく、信念を貫いて市井に身を沈めて没した。
天安門事件というのも、両者の共通のイベントである。
(四五天安門事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BA%94%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
共産主義国家の中国に於いて、民衆の支持を集めた指導者の死が、天安門広場における事件を誘発するというのは皮肉な話だ。
その中で、片や権力中枢に復帰していった鄧小平、此方民主化の流れを信じて殉じた趙紫陽。
そうか、天安門事件から25年になるのか。
もう、誰も語ることが無い、中国共産党の真の姿を見せた大事件だ。
「この出来事は、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった。」
「デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。」
「5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による常務委員会が開かれ戒厳令を発令することについて話し合われ」たとある。
「文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。」
「1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射し、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という。」
「武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜州電視、アメリカのCNNをはじめとする中国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して世界中から多くの非難が浴びせられた。」
「ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させたことが記されていた。
またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている。」
浮沈子は、このときにテレビで流された戦車の前に立ちはだかる人物の映像を、鮮明に覚えている。
(無名の反逆者 【天安門事件.Tiananmen】.Tank Man:動画出ます)
https://www.youtube.com/watch?v=ugT6LKV2Gq0
民衆は、独裁者にとっては潜在的な脅威である。
民主的な手続きで選ばれた為政者にしても、それは同じだ。
浮沈子は、現在の中国共産党政権が何を言っても信じない。
我が国の歴史認識を問うならば、まず自らの胸に手を当てて問うべきだ。
「本件以降に学校教育を受けた世代は事実をほとんど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度であり、なかには海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者までいた)」
歴史を歪曲し、抹殺し、自らを正当化しているのは、何処の政府なのだろうか。
「19日午前4時、趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。」
「5月19日午前5時頃、当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れてハンストを続ける学生を見舞う中で涙を見せ「党の分裂を示唆した」趙紫陽は、先の政治局常務員拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、事実上党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消すことになる。」
13億人の中国人が、公式にこれらのことを知る機会はない。
我々は、こういう国家と付き合っているということを、この機会に改めて想起すべきである。
蛇足だが、中国国内から浮沈子の今日のこのブログを検索して閲覧することは出来ないに違いない。
懐かしい名前を聞いた。
(北京で趙紫陽氏の追悼会 中国、天安門25年で警戒)
http://www.sakigake.jp/p/news/world.jsp?nid=2014040501001943
共産党一党独裁の政権下、天安門事件を巡って党の方針に決然と反旗を掲げ、失脚した政治家である。
(趙紫陽)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%B4%AB%E9%99%BD
「6月23日、24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。党籍のみ、そのままとされた。」
「一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。」
(六四天安門事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(胡耀邦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6
「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」
鄧小平に絶大な信任を得ていた趙紫陽が、なぜ失脚したのか。
既に、鄧小平は求心力を失いつつあり、改革開放政策の歪みが表面化していた。
不運の政治家といえないこともないが、歴史の選択は厳しい。
(トウ小平)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
「1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。」
(華国鋒)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%9B%BD%E9%8B%92
「四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、鄧小平らと権力闘争を展開し、最終的に追い落とされて失脚させられたといわれる。」
中国の権力闘争の歴史の中で、鄧小平は、何度も失脚し、その都度復権した。
趙紫陽は、しかし、時の政権に阿ることなく、信念を貫いて市井に身を沈めて没した。
天安門事件というのも、両者の共通のイベントである。
(四五天安門事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BA%94%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
共産主義国家の中国に於いて、民衆の支持を集めた指導者の死が、天安門広場における事件を誘発するというのは皮肉な話だ。
その中で、片や権力中枢に復帰していった鄧小平、此方民主化の流れを信じて殉じた趙紫陽。
そうか、天安門事件から25年になるのか。
もう、誰も語ることが無い、中国共産党の真の姿を見せた大事件だ。
「この出来事は、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった。」
「デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。」
「5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による常務委員会が開かれ戒厳令を発令することについて話し合われ」たとある。
「文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちはこれを「動乱」として強硬に対処することで一致した。」
「1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射し、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という。」
「武力鎮圧の模様は、イギリスのBBCや香港の亜州電視、アメリカのCNNをはじめとする中国国内外のテレビ局によって世界中に中継され、無差別発砲によって市民の虐殺を伴う武力弾圧に対して世界中から多くの非難が浴びせられた。」
「ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年3月の内容には、軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させたことが記されていた。
またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている。」
浮沈子は、このときにテレビで流された戦車の前に立ちはだかる人物の映像を、鮮明に覚えている。
(無名の反逆者 【天安門事件.Tiananmen】.Tank Man:動画出ます)
https://www.youtube.com/watch?v=ugT6LKV2Gq0
民衆は、独裁者にとっては潜在的な脅威である。
民主的な手続きで選ばれた為政者にしても、それは同じだ。
浮沈子は、現在の中国共産党政権が何を言っても信じない。
我が国の歴史認識を問うならば、まず自らの胸に手を当てて問うべきだ。
「本件以降に学校教育を受けた世代は事実をほとんど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度であり、なかには海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者までいた)」
歴史を歪曲し、抹殺し、自らを正当化しているのは、何処の政府なのだろうか。
「19日午前4時、趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。」
「5月19日午前5時頃、当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れてハンストを続ける学生を見舞う中で涙を見せ「党の分裂を示唆した」趙紫陽は、先の政治局常務員拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、事実上党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消すことになる。」
13億人の中国人が、公式にこれらのことを知る機会はない。
我々は、こういう国家と付き合っているということを、この機会に改めて想起すべきである。
蛇足だが、中国国内から浮沈子の今日のこのブログを検索して閲覧することは出来ないに違いない。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。