洞窟潜水とパニック2019年01月09日 09:02

洞窟潜水とパニック


浮沈子は、パラオのシャンデリアケーブに初めて潜った時、パニックを起こした(つーか、その時1回しか潜ってないんだけど)。

今考えれば、パニックだと分かるんだが、パニックを起こしている時はパニックとは気づかない。

小型の水中ライトでは壁面に光が届かず、真っ暗な闇の中に取り残され、先導するダイバーの灯りだけを頼りに進まざるを得ない状況で、不安に駆られた。

帰りはうっすらと見えている入口の青い光に向かって、一目散に(まあ、ゆっくりとですが)泳いで脱出し、途中のサンプには浮上しなかった。

洞窟なんか、二度と潜るかと思った。

どころか、ダイビングを止めちまおうかとすら考えた。

それ程のストレスだったし、その時の不安な気持ちを忘れることはできない。

西伊豆の雲見や、今回の宮古島のカバーンダイビングは、まあ、真っ暗というわけではなく、薄明かりが差している程度の洞窟だが、それでもパニックになるのではないかと不安だった。

そのために、カバーン講習も受け、ブラインドでのトレーニングもしてもらって、ストレス耐性を上げた状態で臨んだ。

やや怪しげなオープンサーキットでの中性浮力や、膝落ち腑に落ちのフィンキックは、一朝一夕で直せるものではないが、宮古島では初日のチェックダイブの砂地(JDC)で、水底から10cmくらいを維持して止まったり、回ってみたりして、練習をさせていただいた。

何とかなりそうな気がして、少し不安が取れた状態で潜ったのが良かったのかもしれない。

特に不安になったり、パニックに陥るようなこともなかった。

3日目の魔王の宮殿では、ブリーフィングの時にガイドさんから洞窟の中ではライトを点けないように、と指示があったのでやや焦ったが、上から差し込む明かりをきれいに見せるためということで、渋々従った。

まあ、どうってことはなかったですけど。

ライトも、正副予備の3系統を持ち、器材も事前のチェックを怠らず、万全を期して臨んだのが良かった。

タンクもデカいの(12リッター)にしたしな(毎回、100以上残りましたが)。

過剰ともいえる準備やトレーニング、事前調査、保守的な現場の対応(エントリーは船尾から)。

タンク担いで立ち上がってバックロールとか、そういうことはしない。

それでなくても、耳抜きと船酔いのストレスを抱えているわけだから、その他は可能な限り排除する。

様々な配慮のおかげで、無事に12本のダイビングを終えられたことに感謝だな。

出来るだけのことはやったという自信が、不安を取り除く。

準備が不足していれば、それがストレスになって、閉鎖環境でのパニックに繋がる(たぶん)。

3日目の船酔いにはまいったが、ダイビングそのものに支障はなかった。

たぶん、酔い止めの薬を飲むタイミングが悪かったんだろう(朝食後)。

4日目は、朝起きたらすぐに飲んだ。

細かいことが、ストレスの増加につながる。

経験の有無も大きいな。

昨年、雲見に2回ほど行っていなければ、不安は、より大きかったに違いない。

何より、出口さえ見えていればなんとかなるという気の持ちようが大事だ。

カバーン講習でラインを引いて潜った時、このラインさえ辿れば戻れると思うと、安心感がグッと違ったことを思い出す。

逆に、ラインをロストした時はヤバいけどな。

まあいい。

出口へのルートがしっかり確保されているということは、実際の安全と共に、パニック防止にとっても重要だ。

いろいろ書いたが、浮沈子は、まだカバーン講習の途中だからな。

テキトーに書いている。

そんでもって、今回潜ってみてもなお、積極的に洞窟に潜る気はしない。

狭いところはやっぱり嫌いだし、暗いところは大嫌いだ。

浅く明るく暖かい海、南の島のゆる~い時間の流れにあこがれる。

もちろん、オープンウォーターだって、パニックの危険はある。

流れが強かったりして、無理に泳いだりすれば疲労するしガスも食う(場合によっては、水底を匍匐前進かな)。

過呼吸になるかも知れない。

ダウンストリームやアップストリームもあるし、水中危険生物とかもいる(概ね、前のダイバーのフィンがヤバいけどな:レギやマスク飛ばされたり・・・)。

現地の事情を良く知るガイドさんについていくのもいいが、はぐれちまった時のことも考えておかなければならない(コンパスは持ってるだけじゃ役には立たない:エントリー時に方位確認して、ベゼル設定忘れずに)。

まあ、他にも山ほどパニクる原因はある。

水中は人間が生きていけない世界だ。

ダイビングそのものに致死的リスクが伴う以上、パニックを完全に防ぐことは難しい。

自己の力量を的確に判断し、少なくともそれを逸脱するようなハイリスクなダイビングを行うべきではない。

また、力量に見合った範囲であったとしても、予期せぬトラブルへの備えを怠らず、保守的なダイビングに留まる態度も重要だ。

浮沈子が思うに、その態度こそ、もっとも重要な要素であるような気がする。

レジャーダイビングで、命を賭ける価値のあるものなどない。

命がけより心がけだな・・・。

宮古島2日目1本目なるほど☆ザ☆ケーブ2019年01月10日 01:17

宮古島2日目1本目なるほど☆ザ☆ケーブ
宮古島2日目1本目なるほど☆ザ☆ケーブ

背泳ぎ成り難し2019年01月10日 02:31

背泳ぎ成り難し


今年初めての水泳教室。

いつものおねーさんせんせではなく、代行のおにーさんせんせ。

野郎かぁ・・・。

まあいい。

昨年暮れに、中級クラスの体験をした際に担当だった方で、毎回テーマを決めて、集中してトレーニングするタイプの指導者だな。

教え方は優しいが、内容は高度だ。

今月は背泳ぎ。

浮沈子は、水泳教室以外では泳がない泳法だ。

苦手以前に、「泳がない」ということだな。

曲がるし・・・。

その背泳ぎで、片手だけで掻くという練習をする。

当然、曲がるでしょう?。

それを、曲がらずに掻くというわけだから、難しいのは当たり前だ。

まずは、掻かずに片手を上に上げた状態でバタ足する。

うーん、この時点ですでに曲がっていく・・・。

しかもだ、右と左で曲がるクセが異なる(ここ、要注意です)。

右手の時は右に曲がり、左の時も右に曲がる。

同じじゃん!?。

そうではない。

右手は開き気味になって右に曲がり、左手は中心線より内側に入って右に曲がりやすくなってしまう。

両方とも開き気味なら、上げた手の方向に曲がるんだが、そうではないということだな。

右傾化している(そういうことかあ?)。

まあ、どうでもいいんですが。

バタ足だけ(両手を上げた状態)の場合は、右足の筋力が強いにもかかわらずまっすぐ進むので、キックのせいではない。

自分の癖を自覚し、改善につなげていくという意識付けを目的として行う練習なんだが、1回の練習の中で改善されるくらいなら苦労はない。

ダイビングにおける浮沈子の癖である膝落ちと膝の開き、更には膝の曲がりなどは、10年掛かって付いた癖だからな。

直すのにも10年がかりで取り組んでいる(そんなあ!)。

まあ、背泳ぎの癖は、肩の可動域とかと関係するので、直るかどうかは分からない。

交通事故で痛めた右肩の可動域が少なく、左は問題ない。

ストレッチや筋トレで、よく解したりバランスをとるようにはしているんだが、なかなか改善されない。

そのアンバランスが、齢60にして、背泳ぎの練習で出てくる。

肝心なことは、そういう身体特性があって、無意識に動かしていればそうなるということを自覚するということにある。

改善は、改善すべき事柄が存在するということを知ることから始まる。

その自覚無くして、改善はあり得ない。

まあ、いつの間にか直ってしまうということもあるかも知れない。

欠点を直そうとするのではなく、長所を伸ばしていくうちに総体として問題が解消されるということもある。

インストラクションの方法論として、どちらのアプローチが効果的かという選択もある。

伸びしろが少ないジジババは、やはり癖を意識させて直すという直接的な方法がいいかも知れない。

若い方は、総体を伸ばす中で、吸収的に欠点を補うことが出来るからな。

しかし、ジジババは、何十年と蓄積した癖を改善するわけだから、苦手意識だけになっちまって、嫌気がさすということもある。

そこは、指導者の腕の見せ所だ。

浮沈子の場合だったら、可動域が狭い右肩に合わせて、左手を開き気味にするように指導した方がいいかも知れない。

練習における片手背泳ぎなら曲がってしまうが、ふつー背泳ぎでは両手で掻くからな。

ダメな方に合わせて、バランス重視で改善する。

どーせ、早く泳ぐことが目的ではなく、まっすぐ楽に泳げればいいのだ。

掻き始める際に、力を入れ始めるタイミングが早いという点も指摘された。

これは、本人が自覚して直していくしかない。

こういう細かい修正点を積み重ねて、正しい泳法を習得していくわけだ。

直すべき点は多々あり、それを纏めて直そうとしても難しい。

一つ一つ、順を追って直していくのがよろしい。

改善された効果を自覚できれば、なおいい。

次の改善に取り組む動機付けにもなるしな。

何より、水泳教室が楽しくなる。

それが、最大の目的だからな。

営業的にも大いに貢献する。

あまり早く上達して、水泳教室を卒業してしまわれたり、上達を自覚できずに諦めて止めてしまうようでは困るしな。

水泳教室が溢れてしまうくらいがちょうどいい。

なーに、心配はいらない。

ジジババは、黙っていてもテキトーに消えていく運命だからな(そうなのかあ?)。

今日は、帰ってきたら妙に疲れが出て、昼食後、夕方くらいから爆睡した。

途中、1回目が覚めたが、夜中過ぎまで寝てしまった。

疲れが溜まっていた感じで、起き抜けはすっきりした目覚めだ。

身体も心も休息を求めている。

新しいことに取り組む意欲は、十分な休息からだな。

って、いつになったら、新しいことに取り組み始めるんだろうな・・・。

レトロなテスト機2019年01月10日 03:54

レトロなテスト機
レトロなテスト機


子供の頃、画用紙にクレヨンで書いたロケットの絵は、先が尖った紡錘型で、後ろにエンジンノズルから噴出した炎と何枚かの羽が付いているというのが定番だった。

(「スターシップ」テスト機の完成予想図をマスク氏がツイート)
https://sorae.info/030201/2019_01_07_star.html

「宇宙船「スターシップ」のテスト機の完成予想図を披露」

ツイッターでは2枚の画像に分かれてたんだが、ソラエでは合体した画像が出ていた。

画像を見るとエンジンノズルが随分小さい印象があるが、実機(フルサイズ)ではこれが7機になるわけで、このくらいなのかもしれない。

素材としてはユニークなステンレススチールの表面はピカピカで、こんなレトロチックなロケットが、本当に飛ぶのかと思うような感じだ。

全体の造作としては、ずいぶんずんぐりとしていて、スマートさが感じられない。

もちろん、この下に巨大ブースターであるスーパーヘビーが付くわけで、全長118mの巨大ロケットが出現する。

(イーロン・マスク、巨大ロケットBFRを大幅改良か ── 名前は「Starship」と「Super Heavy」に変更)
https://www.businessinsider.jp/post-179961

「2018年9月には全長が再び387フィート(約118m)まで伸び、着陸装置を兼ねる翼も加わった。マスク氏が「最終案」と呼んだこのプランでは、180フィート(約55m)の宇宙船が219フィート(約67m)のロケットブースターの上に乗っている。」

スターシップは、単独で飛び立てる能力はあるが、いわば2段目の宇宙船だからな。

スーパーヘビーに打ち上げてもらってこそ、本来の能力を発揮できる。

テスト機は、全長もやや短く、翼の大きさが目立つが、実機ではもう少し全長が伸びてスマートな感じになるようだ。

いずれにしても、まさに絵に描いたようなロケットで、いささかリアリティに欠ける気がしないでもない。

繰り返して恐縮だが、ホントにこれが飛ぶのかあ?。

外板の素材の選定や、大気減速を制御するための翼など、最新の技術を反映したものなんだろうが、それが20世紀に子供が描いたロケットに近い姿となったとしたら、奇遇というかなんというか・・・。

これが飛んだら、さぞかし爽快だろう。

ファルコン9の開発機であったグラスホッパーに比べれば、確かに夢のあるカタチだ。

グラスホッパーは、脚が付いたただの円筒だったからな。

(グラスホッパー (ロケット))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC_(%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88)

「4本の脚を備え垂直離着陸が可能であった。」

記事を読むと、グラスホッパーと呼ばれていたのは試験機の1号機で、2号機は「Falcon 9 Reusable Development Vehicle:F9R-Dev」というらしい。

「F9R-Devは2機あり、1機はテキサス州のMcGregor試験場でF9R-Dev-1として使われ、もう1機はニューメキシコ州のスペースポート・アメリカで使われるF9R-Dev-2がある。」

爆発したのはF9R-Dev-1の方だ。

ややっこしいな。

英語版の記事を読むと、F9R-Dev-2による飛行試験は行われなかったようで、飛行打ち切りテストに使われたらしい。

まあ、どうでもいいんですが。

2015年12月21日、ファルコン9は、陸上への着陸に成功し、打ち上げロケットとして史上初めてのパワードランディングを成し遂げた。

地道な試験飛行と、ド派手な失敗の数々。

新しいロケットが、開発途中で再び数々のイベントを繰り広げてくれることを期待しよう。

イベントって、別に、爆発とかでなくってもいいんだけどな。

でも、やっぱ、ドカンといくのが一番刺激的ではあるけどな・・・。

生命とは何かという無意味な話2019年01月11日 09:23

生命とは何かという無意味な話


昨年3月、浮沈子は、細胞が生命ではないという話を聞いてショックを受けた。

(細胞と生命)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2018/03/01/8796229

「先日見つけたネット動画の中で、細胞は生命ではないというのがあって、ちょっとドキッとした。」

ちょっと再度引用しておこう。

(What Is Life? Is Death Real?:動画出ます)
https://www.youtube.com/watch?v=QOCaacO8wus

「1分7秒辺りで「しかし細胞は 生きているとは言えない」と出てくる(日本語字幕)。」

ウィキで「生命」を調べると、ヒーラ細胞の話が出てくる。

人間の細胞で最初に分離培養に成功したもので、現在も培養され続けている(他に似たようなのがあるかどうかは知りません)。

(生命:定義)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD#%E5%AE%9A%E7%BE%A9

「何が「生きているか」を考える難しさを示す実例にHeLa細胞が挙げられる事もある。これはヘンリエッタ・ラックスというアメリカ人女性の子宮がん細胞を元にしたヒト細胞であり、培養され世界中の研究所に分配され試験に用いられている。ヘンリエッタ個人は既に亡くなったが、彼女由来の細胞は現在でも生きている。」

代謝し、分裂し、遺伝子的に多様性を獲得したりする。

(HeLa細胞:染色体数)
https://ja.wikipedia.org/wiki/HeLa%E7%B4%B0%E8%83%9E#%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E6%95%B0

「2013年にHela細胞のゲノムが解読され、正常細胞と比較して著しいエラーが生じていることが報告された」

高密度培養やポリオウイルスの感染による細胞死があることからも、この細胞が生きていることは間違いない。

しかし、生化学的機序が解明された生命の部品、或いはその集合体である細胞が、化学的機械であり、生命とは呼べないとする考え方があるというのは、未だに浮沈子的にはショックだ。

ウイルスが生命でないとか、ウイロイド(植物に感染するRNAのみのウイルスみたいなもん:核酸のみなのでウイルスじゃないけど)が生命でないというのは、何となく分かる気がする。

(ウイルス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9

「タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。」

「生命の最小単位である細胞をもたないので、非生物とされることもある。」

(ウイロイド)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

「塩基数が200~400程度と短い環状の一本鎖RNAのみで構成され、維管束植物に対して感染性を持つもの。」

ただし、細胞核そのものや、細胞内のさまざまな働きをする部品の中には、ウイルス由来と思われるものもあり、また、ウイルスそのものも、元は代謝を行う機能を持っていて、それを捨て去ってウイルスになったのかもしれない。

代謝だって、無生物を取り込んで生物の恒常性維持に使っているわけだからな。

その取り込んでいる無生物だって、元を辿れば生物が作り出したものがほとんどだったりする。

ウイルスが、他の生物に寄生しなければ増殖できないといっても、人間を含めた従属栄養生物は全て他の生物に依存している。

動物なんて、全て植物(化学合成細菌もいますけど)の寄生虫といってもいい。

他の命を頂くことでしか生きられない、業の深い存在なわけだ。

そして、死んだ後は、自らがその他の生物の栄養となることによって、生命ではない、物質を介した命の連鎖を紡いでいくといえるかもしれない。

では、その循環の元となっている太陽エネルギーや地熱、化学物質の結合エネルギーは、生物の成り立ちとは無関係なんだろうか?。

そんなことはない。

それなくして、生命の存在が成り立たないのであれば、生物としての構造の外にあったとしても、生命の要素であるといっていいだろう。

つーか、おそらく、生命の外皮というのは、地球という惑星とか、太陽系までを包括している。

この岩石惑星と、それらを従えている太陽という恒星系全てがひとつながりのものとして個々の生命を支えている。

もう、細胞が生命でないとなどと言っている場合ではない(そうかあ?)。

しかし、その一方で、機械としての生物の理解は進んでいる。

NDAを弄繰り回して、人工生物を創り出す寸前のところまで来ている。

(「合成生物学の衝撃」読了)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2018/05/21/8856738

「今の私たちが、再び人工生命を生み出し、宇宙に進出しようとしていることを知ったら、何と思うだろうか。」

なんか、ちょっと引用を間違えたような気がするけど・・・。

まあいい。

遺伝子は、確かに生命の重要な要素を司っているが、それは紛れもなく物質だ。

その中に、生命の本質が埋め込まれているとしても、それを発現させる細胞がなければ、タダの化学物質に過ぎない。

生命ではない。

じゃあ、細胞はどうか。

代謝し、分裂し、恒常性を維持し、外界と内部を隔てる構造も持っている。

これもまた、生化学的に解明される時期が近付いている。

つまり、物質として理解されることになる。

そこにも、生命の本質的な何かはみつからないと思われる(たぶん)。

生命とは何か。

それは、ひょっとしたら、理系マターではなく、文系マターなのではないか。

つまり、人間が勝手に線引きしているだけの話で、白黒をはっきりさせることなんてできないんじゃないのか。

生態系の話を極限まで突き詰めれば、この宇宙(銀河系の外に広がる半径465億光年の時空の広がりと、その外側の観測不能な領域の全て)が、ひとつながりの世界だからな。

物質進化の流れから、宇宙の成り立ち、銀河の消長、太陽系の誕生からして、現在の我々の存在と切っても切れない深いつながりがある。

どこかで、何か一つが食い違っていれば、浮沈子がこの与太ブログを書くことはなかった。

その一方では、既に書いたように、生命の部品としての細胞の理解が進んでいる。

もう、細胞は分子的機械であって、生命の座ではないとさえ言われ始めているわけだ。

何が生命かは、人間が決める。

大方の見方が、細胞は生きていないというなら、そういうことになるんだろう。

人間が、人間の都合で生命の定義を書き換える。

やりかねないな・・・。

現代の生物学者は、生命という「モノ」が存在するなどという幻想は持っていない(未確認)。

ラッキョウの皮を剥くように、一つ一つの生命現象を解き明かしていけば、生物の持つ特性を説明できると考えている。

つまり、機械だ。

それが、長い進化の果てに獲得した精緻極まる仕掛けだとしても、有限の要素である限りは、解明可能と考えているに違いない。

その、解明された生物の持つ仕掛けを見て、或いは評価して、ここから先を生物としようとテキトーに決めればいいだけだ。

それは、今、我々が直感的に生物だと思っている連中のいくらかを排除してしまう方向に行くかもしれない。

そうではなくて、ありとあらゆるものを生命を持つものとして捉え、その中で段階的に序列化を行う方向に進むかもしれない。

そもそも、そういう区分自体に意味があるのかどうか。

浮沈子が敏感に反応する、地球外生命体の存在についても同じだな。

エネルギーを利用して、形態を維持しようとしたり、増殖したりする何物かであれば、鉱物のようなものであったとしても、それを生物ということにしてしまうかもしれないしな。

逆に、人間の食い物になるものは、生物と見做さなくなるかもしれないしな(そんなあ!)。

それも、国や文化によって異なってきたりしてな。

やっぱ、クジラは生き物じゃなくって、食い物だとかな。

まあ、どうでもいいんですが。

そこまで極端な話にはならないだろうが、細菌とかは際どいかもな。

遺伝子的な治療方法が開発されて、病原体としての脅威がなくなれば、怖いものはないからな。

真っ先につまはじきにされる可能性がある。

単細胞生物は、軒並み物質の範疇に放り込まれるかもしれない。

多細胞生物だって、安心はできない。

昆虫とかは、かなりヤバイ。

精密ロボットのようなもんだからな。

機械のように、プログラムされた通りに動くだけだ。

一方では、機械の方が進化して、そっちを生物の範疇に入れるような話になりかねない。

電子デバイスは、既に分子レベルの大きさになっちまってるしな。

集積回路は、数ナノメートルの製造プロセスで作られるんだそうだ。

(imecが明らかにした1.4nmプロセス実現に向けた研究計画)
https://news.mynavi.jp/article/imec14nm-1/

「今年(2017年)のITFの最大のハイライトは、imecの半導体技術およびシステム研究開発担当エグゼクティブ・バイスプレジデントであるAnn Steegen氏による1.4nm(14オングストローム)のプロセスを実現するに至る半導体デバイス・プロセス研究開発計画に関する詳細な発表だった」

ちなみにDNAの太さは20オングストロームだ。

(二重らせん:二重らせんの主要な特徴)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%93#%E4%BA%8C%E9%87%8D%E3%82%89%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%AE%E4%B8%BB%E8%A6%81%E3%81%AA%E7%89%B9%E5%BE%B4

「らせんの直径は20 Åである。」

べらぼうめ・・・。

そして、その電子回路の中では、膨大な情報が処理されて、ネットワークで外部とつながり、人間が及びもしない能力を発揮する。

人格だって持たされるに違いないしな。

それを、生物扱い(人間扱い?)するようになるのは、時間の問題だろう。

誰もが無生物と考えていたものが生物となり、生物に決まってんじゃんと思っていたものがそうでなくなる。

パラダイムの転換は、徐々にやってくるんだろう。

遺伝子操作されたピンク色のペットとかと共に。

空を飛ぶ犬や、水中で呼吸できる猫とか。

そういう、いわく言い難い存在が蔓延って、我々の周りはカオスになり、新しいパラダイムを受け入れざるを得なくなるのだ。

遺伝子操作された生物は、準生物(準惑星のようなもんか)になるとか・・・。

もちろん、正当な扱いを受ける権利はあるだろうが、ビミョーな差別が施されるようになるだろうな。

そして、精神と肉体との分離が行われるようになれば、意識を再構築して、肉体を乗り移るようになる。

いっそ、機械に移植してもよろしい。

下手な生身の身体よりも、持ちが良かったりするかもしれない。

身体能力は、当然上だろうしな。

ダイエットに悩むこともない・・・。

しかし、それって生物なんだろうか?。

人格とかは継続しているけれど、素材は金属と樹脂とガラスとゴムとで出来ているかもしれないしな。

エネルギーは消費しても、代謝は起こらず(部品交換はするけど)、もちろん、それだけでは増殖もしない。

ビミョーな存在になることだけは間違いないだろうな。

まあ、どうでもいいんですが。

科学技術の進歩に伴い、人類の認識が変わってくるというのは歴史の示すところだ。

系外惑星が山のように発見され、月の裏側に人工物が降り立つ時代だ。

そのうち、遺伝子合成で作られた人工生物がペットとして傍らに蔓延り、遺伝子よりも微細化された機械の中に人間の意識が移植される時代が来るかもしれない。

生物を無生物と区別するために考案された生命という怪しげな概念が雲散霧消し、その全プロセスが解明される時、人類は新たな領域に踏み込まざるを得なくなる。

既に、その兆候は現れている。

合成生物学の台頭や、細胞機械論(っていうのかあ?)は、その一つだ。

何が生命であるかを論じる意味は、既になくなりつつあるのかもしれない。

砂を噛むようなこの感じ。

無味乾燥な、ざらついた不快感を何とかして欲しいもんだな・・・。