粒餡か漉し餡か2018年09月20日 04:39

粒餡か漉し餡か
粒餡か漉し餡か


彼岸の頃となれば、和菓子屋の店頭にはあんころ餅(正確には牡丹餅?)が並ぶ。

浮沈子は、子供のころから漉し餡が贔屓だったが、先日、神田方面に手土産で持って行ったところ、粒餡(正確にはつぶし餡?)の方が好みというメンバーが多勢(といっても、二人ですが)を占めた。

まあ、どっちでもいいんですが。

小豆の皮が口の中に残るというのが、浮沈子が嫌いな理由なんだが、食感としては粒餡も悪くない。

味的には、同じはずなんだがな。

まあいい。

道端に目をやれば、真っ赤な彼岸花が咲いていたりする季節となった。

浮沈子が棲息する東京都大田区方面では、ここ数日、夕立というか、ゲリラ豪雨が続いていて、迂闊に外出しようものなら、傘を差そうが何しようがずぶ濡れになる。

半端な降り方ではない。

今日も午後からは雨模様の予報が出ている。

やれやれ・・・。

N-VANの手続きや浮世の雑事に振り回されている今日この頃だが、気が付けば気温は下がり、秋の気配が濃厚になってきている。

秋分の日を控え、今日は彼岸の入りだ。

(彼岸)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%B2%B8

「春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。」

「春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。」

「現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。」

「彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはない」

あんころ餅についても触れられている。

「供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもの」

「これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われる。」

彼岸は、春と秋にあり、春分・秋分を挟んだ一週間の時期を指すわけだな。

同じあんころ餅でも、春食えば牡丹餅であり、秋に食えばおはぎとなる。

先祖供養の習慣と、西方浄土の仏教思想が結びついた、わが国独自の文化・風習ということになる。

「彼岸の期間は善行・悪行共に過大な果報を生ずる特別な期間であるから、悪事を止め、善事に精進するよう勧めている。」

日頃、悪行の限りを尽くしている浮沈子などは、この時期に精進しておく必要があるかもな(果報は、寝て待つとしよう・・・)。

俳句の季語としては、ただ彼岸と言えば春の季語になるそうだ。

秋は、秋彼岸・秋の彼岸と言わなければならないらしい。

暑さ寒さも彼岸までといわれる。

今年は、まさにそんな感じだ。

彼岸花についても、リンクを張っておこう。

(ヒガンバナ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%8A

「道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつける」

「開花終了の後、晩秋に長さ30 - 50cmの線形の細い葉をロゼット状に出す。葉は深緑でつやがある。葉は冬中は姿が見られるが、翌春になると枯れてしまい、秋が近づくまで地表には何も生えてこない。」

秋から冬の植物ということになる。

「全草有毒な多年生の球根性植物」

「経口摂取すると吐き気や下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある。」

こちらは、食えない話のようだな。

「墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため」

お墓の周りで見かけることが多いのは、そういうわけだったのか。

曼殊沙華(まんじゅしゃげ)と呼ばれることもあるようだが、本来の意味の花とは無縁のようだ。

「仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである」

まあ、どうでもいいんですが。

夏が終わり、秋から冬にかけてのこの時期は、浮沈子的には体調管理に苦労する。

風邪ひいたりしやすいからな。

今日は、まるまる1か月休んだ後の、しばらくぶりの水泳教室だった。

休んでいたのは、もちろんダイビングが水曜日に重なった日が続いていたから。

水曜午前中の初心者コースは大人気で、定員いっぱいの10人のババ達(ジジは浮沈子だけ)とおねーさんせんせのハードなトレーニングが続く。

他の初心者コースに比べて、よく泳ぐ教室らしい。

今日は、平泳ぎで、一掻き一蹴りを入れて、25m完泳する。

後半は、あまり距離を泳がなかったので、少し物足りない感じだ。

そのくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

欲をかいて、年寄りの冷や水とか言われないようにしないとな。

浮世の雑事で、千葉方面に電車で出かけて、夕方帰ってきて早寝したら、夜中に目が覚めたのでこの記事を書きだした。

今日は、フィットネスの定休日でもある。

久しぶりにのんびりして、英気を養う(食っちゃ寝でデブになる?)ことにしよう・・・。

レベル22018年09月20日 12:42

レベル2


このブログでは、自動運転に関する記事を時々掲載する。

浮沈子自身が関心を寄せていることもあるけど、自動車という危険極まりない機械を制御する上で、避けて通れない技術だからな。

そもそも、クルマの運転というのは、法律で禁じられている。

ああ、だから免許証というのを取りに行くわけだ。

例外的に、運転しても良いということになる。

猫も杓子も運転免許証を持っていた時代は終わり、今では免許を取らない人も多いと聞く。

その代わり、みんなスマホを持ってるからな。

まあ、どうでもいいんですが。

完全自動運転になれば、免許証なんていらなくなり、クルマの中でも、ずーーーっと、スマホを弄っていられるようになるわけだからな。

幸せな時代がやってくるというわけだ(クソくらえ!)。

自動運転について、簡単に復習しておこう。

(自動運転の定義って?レベル0~5まで分かりやすく解説!)
https://matome.response.jp/articles/1294

「自動運転のレベル0〜5までの概要と特徴:

・レベル0 ドライバーがすべてを操作
・レベル1 【運転支援】システムがステアリング操作、加減速のどちらかをサポート
・レベル2 【運転支援】システムがステアリング操作、加減速のどちらもサポート
・レベル3 【自動運転】特定の場所でシステムが全てを操作、緊急時はドライバーが操作
・レベル4 【自動運転】特定の場所でシステムが全てを操作
・レベル5 【完全自動運転】場所の限定なくシステムが全てを操作」

記事を読むと、レベル2でも自動運転と称することがあるらしいが、まあ、いささか正確性を欠くと言えよう。

あくまでも、運転支援に留まる。

テスラでさえ、このレベルになるわけで、自動運転と称することは、消費者を欺く詐欺行為に等しい(そうなのかあ?)。

まあ、時間の問題で、レベル3とか4とかには、いずれなるだろうことは確かだし、実験的ではあるけど、レベル4の運用も始まろうとしている(バスとか)。

(自動運転レベル4のバス、産業技術総合研究所が日立市で実証実験 LiDARなど先端8技術・センサー搭載)
https://jidounten-lab.com/w_5477

「実証実験で使用する小型バスは、自動運転レベル4(高度運転自動化)相当の技術を搭載する。」

今朝のニュースを眺めていたら、こんな記事が上がっていた。

(ダイムラー、自動運転トラックを世界初の量産化、電動化でも攻勢 (1/2))
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1809/20/news066.html

「トラック販売で世界首位の独ダイムラーは19日、量産トラックとしては世界初となる自動運転機能搭載の大型トラックの販売を欧州向けに始めた。」

世界初とか言ってるけど、ホンダN-VANは、既に発売されているからな(軽バンですが)。

前車追従クルーズコントロールは付いてるし、車線をはみ出さないようにハンドルを補助する機能も付いている。

(ACC〈アダプティブ・クルーズ・コントロール〉)
https://www.honda.co.jp/hondasensing/feature/acc/

「予め設定した車速内でクルマが自動的に加減速。前走車との適切な車間距離を維持しながら追従走行し、ドライバーの運転負荷を軽減します。」

(LKAS〈車線維持支援システム〉)
https://www.honda.co.jp/hondasensing/feature/lkas/

「高速道路を走行する際、車線の中央付近を維持するようにステアリング操作を支援し、ドライバーの運転負荷を軽減します。」

まあいい。

ふそうのトラックも、ダイムラーと提携しているからな(共同開発のようです)。

同じ機能で、同じくらいの時期に投入されてくるだろう。

しかし、もちろん、N-VANも、ダイムラーのトラックも、ふそうのトラックも、既に見たように、正確には自動運転ではない。

運転支援に留まる。

ITメディアだからな。

その辺りは、下駄を履かせた報道になってるんだろう。

「米運輸省などの分類で「レベル2(部分的な自動運転)」の機能を搭載した新型大型トラック「アクトロス」を報道陣に公開した。」

「レベル2はブレーキとハンドル、アクセルを自動制御し、運転を支援する水準。アクトロスは、搭載したレーダーとカメラが前を走る車両や障害物を高精度に検知して常に一定の車間距離を維持できるほか、車線をはみ出さないようにし、運転手の負担軽減や安全性向上を図りたい運送事業者のニーズに応える。」

記事の内容的には正確だな。

ドライブを楽しむのではなく、お仕事として、必要悪(?)として運転しているわけだからな。

楽ちんなのにこしたことはない。

そもそも、重量物を積載している貨物車だからな。

事故を起こせば、悲惨なことになる。

(過積載で勤務先など家宅捜索 トレーラー横転3人死亡事故 千葉県警)
https://www.sankei.com/affairs/news/180913/afr1809130015-n1.html

「鉄筋を積んだ大型トレーラーが横転し、下敷きになった軽乗用車に乗っていた男女3人が死亡した」

まあ、これは過積載が原因だろうと思うが、軽自動車みたいなぺなぺなのボディに、しこたま鉄筋積んだトレーラー食らったらひとたまりもない・・・。

路上の正義を守ってくれるはずの警察は、何やってたんだろうと思うけどな。

自動運転になっても、こういうのは無くならないんだろうな。

自動車側にセンサー付けて、過積載では走らないようにすることなんて、簡単にできると思うんだがな。

そういうクルマは、きっと売れないんだろうな・・・。

「さらば現実」にはならない?2018年09月20日 15:13

「さらば現実」にはならない?


いつものレストランで、お気に入りのランチを食って、今日も幸せな気分。

このツケが内臓脂肪とかになって、毎月のフィットネスでの計量の際に回ってくることは、とりあえず考えないでおこう・・・。

そのフィットネスの月に2回の定休日だからな。

のんびりと過ごす。

暇に飽かせて、普段はあまり見ないマイクロソフトのニュースアプリを眺めていたら、少し前に公開されていた記事(書評?)が目に留まった。

(VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学)
http://honz.jp/articles/-/44897

「著者、スタンフォード大学心理学教授のジェレミー・ベイレンソンによると、VR経験は『メディア経験』ではなく『経験』そのもの」である。」

「驚くべきことに、あくまで仮想空間での体験であっても、VRでの体験はあまりに強烈なために、脳も体も本物の体験だと認識してしまう。」

先日、VRによる経験を、リアルな経験として我々の脳が受け入れることは難しいのではないかということを書いたばかりだからな。

(さらばVR?)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2018/09/05/8956566

「どれ程精度が上がり、リアリティが増しても、脳はそれを現実とは受け入れず、仮想世界として捉えようとするだろう。」

何の根拠もない、浮沈子のただの直感だが、そうあっさりとVRなんかに騙されてたまるかという気もする。

しかし、この本に述べられていることは、それとは真逆の話だ。

鏡を使って思い込ませたりするなどの迂遠な方法で、想像力を働かせて疑似体験するより、VRでもって疑似体験させた方が効果があるらしい。

その効果があまりに高いことから、悪用に対する懸念まで飛び出している。

まさに、胡蝶の夢の話だ。

(胡蝶の夢)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E3%81%AE%E5%A4%A2

「荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。」

しかし、この後に続く一節こそが、この話の神髄だと浮沈子は思うんだがな。

「荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。」

脳は、認識し制御する中枢として、生存可能性を最大化するように発達してきたはずだからな。

そう簡単にVRごときに舐められてはたまらない。

VRによる経験と、リアルな経験を塩梅し、その中で最適解を得ていく時代になるんだろう。

本の紹介の中では、PTSDやファントムペイン、慢性疼痛の治療、教育や身体移転による共感の向上など、驚くべき効果が紹介されている。

それらが、従来の単なる映像や音声によるものなどと、どれ程の違いがあるかについては、今後、定量的にも検証されていかなければならない。

しかし、確かに質的な差を感じる。

VRは、人間の想像力(脳の優れた機能でもある)を補い、代替し、だまくらかす。

どこかで、これは夢に違いないと思いながら見ている夢があるが、その程度のリアリティはあるに違いない。

これを読んで、テクニカルダイビングのトレーニングツールとして活用すれば、実際のリスクを冒すことなく、パニックに陥りそうな状況を演出することが出来るに違いないと思った。

それで全てが解決できるわけではないだろうが、トレーニング効果を期待できる用途は数限りなくあるだろう。

浮沈子の足癖の悪さも、改善できるかもしれないしな。

まあ、どうでもいいんですが。

それでも、意識を完全に置き変えることは出来ないだろうという気は変わらない。

もし、完全にあっちの世界に行きっぱなしになって、二度と戻ってこられなくなれば、それはもう、別の話になる。

精神病とかの世界かも。

現実とのつながりがある以上、どこかで現実と仮想との折り合いを付けて行かざるを得ない。

問題は、何が現実かというところになるだろうな。

乗り物に乗って、高速で移動しているというのは、ある意味では現実離れしている。

しかし、自分の足ではとても経験できない速度の移動だって、我々の脳は、それを現実として受け入れている。

インターネットが繋ぐ仮想空間だって、飛び交う情報の量と質は、生身の人間が自力でかき集める限度を超えているが、日常の中では、それを当たり前のこととして受け入れ、スマホのアプリからネットの向こう側にあるサーバーをグリグリさせている。

べらぼうめ・・・。

そのうち、VRを使いこなし、仮想世界と現実世界の間を行き来して、それを日常のこととして暮らす時代になるに決まっている。

しかし、そんな生活を実現させているのも、生身の肉体に依存する生身の脳ということになる。

意識が、その脳を離れて存在できるものかどうかは分からない。

そこには、人間の存在を賭けた壁が立ちはだかっている気がする。

目の前のシンクパッド10くらいのデバイスの中に、浮沈子の意識が丸ごと入って、対面カメラ越しにこっちを見ていることを想像すると、かなりグロテスクな気分だな。

思わず、電源切っちまいたくなる。

そんなことさえ想像させる、VR絡みの書評だった。

さてと、これで電源切ったら、逆にリアルな世界が消滅しちまうことになってたら、どーしよーか・・・。