ハイブリッドポルシェ ― 2016年03月27日 04:37
ハイブリッドポルシェ
(ついにポルシェもハイブリッドに本格移行か、「911」を含む全ラインアップに投入すると明言)
http://japanese.engadget.com/2016/03/25/911/
「最終的には全モデルにハイブリッド仕様が用意されるというので、クロスオーバーの「マカン」や、ボクスターとケイマンも、ポルシェの象徴といえる911の後をすぐに追うことになるだろう。」
911が、ハイブリッドモデルを投入しそうだという話については、既にこのブログでも取り上げた。
(PHV考)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2016/03/14/8048494
「浮沈子には、どうも中途半端なクルマにしか見えないPHVだが、エンジンなんて、今の自動車には単なる部品なので、何でもいいんだろう。」
「罪滅ぼしをしたいカレラオーナーが、買い替えによって、Sほどではないが、パフォーマンスをアップできるという、商売上手なやり口だ。」
「金持ちのファミリークーペとしても使える911だから、おとーさんの選択としては、Sはいらないけど、ちっと贅沢したい、差別化したいというくすぐりもあるんだろう。」
言いたい放題だな。
「今後登場するハイブリッド・モデルに対して感じるのは不安か、それとも歓迎か。あなたの意見をぜひコメント欄にお寄せいただきたい。」
もちろん、不安でも歓迎でもない。
不満と絶望だけだ・・・。
ポルシェは、たぶん、エンジンについてもテクノロジーの進歩に従って改良していくのは当然と考えている(ポルシェだけじゃないですが)。
環境性能を求めることに厳しくなり、スポーツカーという分野においてさえ、追及され始めた昨今、世界で売りまくるクルマのエンジンに、エコを入れるのは当然だ。
これが、ホントのエコ贔屓・・・。
まあいい。
初出の記事にもあるが、ポルシェのエンジンは、代々改良を重ねてきた。
空冷の時代でも、排気量を拡大したり、スリーブをなくしたり、ターボ付けたりしてきた。
20世紀の終わりに、ようやく水冷化して、電子制御てんこ盛りのエンジンを作り出し、この前ダウンサイジングターボを導入して、いよいよ本命のプラグインハイブリッドが展開する。
この間乗ったパナメーラのハイブリッドは、スーパーチャージャーが付いていた。
さて、ポルシェの次期ハイブリッドシリーズが、どういう形で出てくるか、楽しみだな。
ハッキリ言って、パナメーラハイブリッドはヲタクのクルマだ。
ポルシェのことだから、看板車種の911を、あんな仕上がりで出してくるようなことはしないだろう。
ボクスター/ケイマンなら、何でもいい。
マカンもいい。
しかし、911はヤバイな。
でも、意外と平気でドラビリを下げてくるかもしれない。
もう、そういう乗り手は相手にしないわけだ。
GT3乗ってくれ、と。
ハイブリッド化は、ダウンサイジングターボと合わせて、パワーソースの幅を広げる。
それは、単にバリエーションということではなく、今後のパワーアップ、エコ対策、騒音対策に有利だという点だ。
ナチュラルアスピレーションでは出来ない、今風のエンジンが、簡単に作れる。
そうして、ゆくゆくはモーターになる。
ウイイイイイィィィィーーーー・・・ン。
プラグインハイブリッドは、そういう世界への扉。
ないねん機関なんて、関係ないねん!?。
まあ、どうでもいいんですが。
6気筒だろうが、4気筒だろうが、ターボが付こうが、コンプレッサーが付こうが、エンジン乗っけてるだけで有り難いと思わなくっちゃ・・・。
燃料電池はやるんだろうか?。
基本的には電気自動車なので、まずは、バッテリータイプだろうな。
プラグインハイブリッドは、電気自動車への誘いだ。
逆に、ただのハイブリッド車は出さなくなるだろうな。
あれは、燃費がいいガソリン車に過ぎないから。
顧客が、充電に慣れてくれれば、電気自動車への買い替えはスムーズだ。
電池の性能が上がれば、エンジンの位置づけを、徐々に下げるという移行措置も取りやすいしな。
普及の状況を見ながらのバランス調整もできる。
メーカーとしては、市場を見ながら投入できるわけだ。
もちろん、失敗に終わるリスクは常にある。
ハイブリッドにも、電気自動車にも移行してくれずに、ガソリン車も先行きがたたなくなって、911、ひいてはポルシェ全体が行き詰まることだってある。
しかし、何もしなければ、それは確実に訪れることになる。
ポルシェも、ある意味では必死なのだ。
スポーツカーとしてのドライバビリティ、過剰なパワーと、それをコントロールするボディやハンドリングの妙、ブレーキの快感(ここ、特に重要ですな)、エトセエトセ・・・。
ポルシェの記号というのは、リアエンジンとか、水平対向6気筒とか、そういう目に見えるものに宿っているのではなくて、乗って、運転して、初めて分かる「あの感じ」なのだ。
意のままに、クルマを操れるという喜び。
アドレナリンに飢えている獰猛な獣を手懐けて、獲物に突進させたくなる「あの感じ」・・・。
ウイイイイイィィィィーーーー・・・ン。
なんか、違うような気もするんだがな。
電気でも、なんかこう、キャパシタかなんか付けて、ここぞという時にギュインと加速する仕掛けがあればいいのかもしれない。
10秒間だけ効くヤツとか。
しょっちゅう使ってると、あっという間に電欠になるようなヤツ・・・。
そういう、目に見えない乗り味があって、足回りもそれなりに出来てて、ブレーキやハンドルの快感もちゃんと残ってるなら、エンジンなんてなくたっていいかもしれない。
ハイブリッドポルシェが、どのくらいの期間ラインアップに残っているかは微妙だ。
10年か、20年か。
100年か。
そして、もっと微妙なのは、そのラインアップが消える時に、その他のモデルがどうなっているかだな。
全部、電気自動車になっているのか、それとも・・・。
ポルシェ自体が、消滅する時になるのかもしれない。
なーに、心配することはない。
アウディが、そっくり同じモデルを作っているに決まってるさ!。
(ついにポルシェもハイブリッドに本格移行か、「911」を含む全ラインアップに投入すると明言)
http://japanese.engadget.com/2016/03/25/911/
「最終的には全モデルにハイブリッド仕様が用意されるというので、クロスオーバーの「マカン」や、ボクスターとケイマンも、ポルシェの象徴といえる911の後をすぐに追うことになるだろう。」
911が、ハイブリッドモデルを投入しそうだという話については、既にこのブログでも取り上げた。
(PHV考)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2016/03/14/8048494
「浮沈子には、どうも中途半端なクルマにしか見えないPHVだが、エンジンなんて、今の自動車には単なる部品なので、何でもいいんだろう。」
「罪滅ぼしをしたいカレラオーナーが、買い替えによって、Sほどではないが、パフォーマンスをアップできるという、商売上手なやり口だ。」
「金持ちのファミリークーペとしても使える911だから、おとーさんの選択としては、Sはいらないけど、ちっと贅沢したい、差別化したいというくすぐりもあるんだろう。」
言いたい放題だな。
「今後登場するハイブリッド・モデルに対して感じるのは不安か、それとも歓迎か。あなたの意見をぜひコメント欄にお寄せいただきたい。」
もちろん、不安でも歓迎でもない。
不満と絶望だけだ・・・。
ポルシェは、たぶん、エンジンについてもテクノロジーの進歩に従って改良していくのは当然と考えている(ポルシェだけじゃないですが)。
環境性能を求めることに厳しくなり、スポーツカーという分野においてさえ、追及され始めた昨今、世界で売りまくるクルマのエンジンに、エコを入れるのは当然だ。
これが、ホントのエコ贔屓・・・。
まあいい。
初出の記事にもあるが、ポルシェのエンジンは、代々改良を重ねてきた。
空冷の時代でも、排気量を拡大したり、スリーブをなくしたり、ターボ付けたりしてきた。
20世紀の終わりに、ようやく水冷化して、電子制御てんこ盛りのエンジンを作り出し、この前ダウンサイジングターボを導入して、いよいよ本命のプラグインハイブリッドが展開する。
この間乗ったパナメーラのハイブリッドは、スーパーチャージャーが付いていた。
さて、ポルシェの次期ハイブリッドシリーズが、どういう形で出てくるか、楽しみだな。
ハッキリ言って、パナメーラハイブリッドはヲタクのクルマだ。
ポルシェのことだから、看板車種の911を、あんな仕上がりで出してくるようなことはしないだろう。
ボクスター/ケイマンなら、何でもいい。
マカンもいい。
しかし、911はヤバイな。
でも、意外と平気でドラビリを下げてくるかもしれない。
もう、そういう乗り手は相手にしないわけだ。
GT3乗ってくれ、と。
ハイブリッド化は、ダウンサイジングターボと合わせて、パワーソースの幅を広げる。
それは、単にバリエーションということではなく、今後のパワーアップ、エコ対策、騒音対策に有利だという点だ。
ナチュラルアスピレーションでは出来ない、今風のエンジンが、簡単に作れる。
そうして、ゆくゆくはモーターになる。
ウイイイイイィィィィーーーー・・・ン。
プラグインハイブリッドは、そういう世界への扉。
ないねん機関なんて、関係ないねん!?。
まあ、どうでもいいんですが。
6気筒だろうが、4気筒だろうが、ターボが付こうが、コンプレッサーが付こうが、エンジン乗っけてるだけで有り難いと思わなくっちゃ・・・。
燃料電池はやるんだろうか?。
基本的には電気自動車なので、まずは、バッテリータイプだろうな。
プラグインハイブリッドは、電気自動車への誘いだ。
逆に、ただのハイブリッド車は出さなくなるだろうな。
あれは、燃費がいいガソリン車に過ぎないから。
顧客が、充電に慣れてくれれば、電気自動車への買い替えはスムーズだ。
電池の性能が上がれば、エンジンの位置づけを、徐々に下げるという移行措置も取りやすいしな。
普及の状況を見ながらのバランス調整もできる。
メーカーとしては、市場を見ながら投入できるわけだ。
もちろん、失敗に終わるリスクは常にある。
ハイブリッドにも、電気自動車にも移行してくれずに、ガソリン車も先行きがたたなくなって、911、ひいてはポルシェ全体が行き詰まることだってある。
しかし、何もしなければ、それは確実に訪れることになる。
ポルシェも、ある意味では必死なのだ。
スポーツカーとしてのドライバビリティ、過剰なパワーと、それをコントロールするボディやハンドリングの妙、ブレーキの快感(ここ、特に重要ですな)、エトセエトセ・・・。
ポルシェの記号というのは、リアエンジンとか、水平対向6気筒とか、そういう目に見えるものに宿っているのではなくて、乗って、運転して、初めて分かる「あの感じ」なのだ。
意のままに、クルマを操れるという喜び。
アドレナリンに飢えている獰猛な獣を手懐けて、獲物に突進させたくなる「あの感じ」・・・。
ウイイイイイィィィィーーーー・・・ン。
なんか、違うような気もするんだがな。
電気でも、なんかこう、キャパシタかなんか付けて、ここぞという時にギュインと加速する仕掛けがあればいいのかもしれない。
10秒間だけ効くヤツとか。
しょっちゅう使ってると、あっという間に電欠になるようなヤツ・・・。
そういう、目に見えない乗り味があって、足回りもそれなりに出来てて、ブレーキやハンドルの快感もちゃんと残ってるなら、エンジンなんてなくたっていいかもしれない。
ハイブリッドポルシェが、どのくらいの期間ラインアップに残っているかは微妙だ。
10年か、20年か。
100年か。
そして、もっと微妙なのは、そのラインアップが消える時に、その他のモデルがどうなっているかだな。
全部、電気自動車になっているのか、それとも・・・。
ポルシェ自体が、消滅する時になるのかもしれない。
なーに、心配することはない。
アウディが、そっくり同じモデルを作っているに決まってるさ!。
弥生も末の七日 ― 2016年03月27日 19:57
弥生も末の七日
今日がイースターであることは、昨日書いた。
(イースター)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2016/03/26/8057454
「十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭」
考えてみれば、今日は、松尾芭蕉が奥の細道の冒頭で、東北に向けて旅立った日でもある(実際は旧暦なのだが、まあ、そこは深く追求しない・・・)。
(【奥の細道】より 弥生も末の七日とは、何月何)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1464502844
「弥生も末の七日とは、何月何日のことか、旧暦で答えなさい。」
「つまり3月27日ということになります。」
(旅立ちの春~「弥生も末…」に込められた芭蕉さんの旅と春に思いをはせて)
http://www.tenki.jp/suppl/saijiki_shuuka/2016/03/23/10431.html
「ところで、「弥生も末の七日(三月二十七日)…」というと、新暦でいうといつになるのでしょうか?」
「旧暦の三月二十七日は、新暦の五月中頃にあたります。」
なんだ、全然先じゃん!?。
今日は、いい知らせがあった。
お世話になっている、スキューバプロショップからIEを受験した方が、2人とも一発合格した!(スゲー!!)。
練習とかで、少しだけお手伝いしたこともあって、気になって電話した(ホントは、富戸に泊まってサポートするつもりだったんだが、体調崩して行けなくなってしまった)。
良かった!。
おめでとう!。
サクラ、咲いたね!。
浮沈子が、行かなかったから、逆にプレッシャー無くて良かったのかもしれない(居るだけで、ストレッサーな浮沈子・・・)。
まあ、結果オーライ!。
一人は、就職が掛かってたので、本当に良かった(就職も、おめでとう!)。
春は、旅立ちの時。
若駒達が、希望を胸に、新天地に旅立つ(まあ、概ね5月頃には落ち込むことになるんだがな)。
3日、3か月、3年と言われたものだが、最近はそんなに持たない。
奥の細道は、西行の500回忌を期に行われた旅とある。
(松尾芭蕉:おくのほそ道)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89#.E6.AD.BB.E5.8E.BB
「この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。」
なんだ、営業活動か・・・。
「歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした」
研修旅行ともいう?。
「芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。」
現在でいえば、10月頃か。
江戸に戻ったわけではない。
(おくのほそ道:出版経緯)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BB%E3%81%9D%E9%81%93#.E5.87.BA.E7.89.88.E7.B5.8C.E7.B7.AF
芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。
奥の細道の旅で死んじまったんだとばかり思っていた。
(中学3年の教科書で松尾芭蕉の旅立ちというのが)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048716150
「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。」
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。」
「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」
もう、後ろ髪引かれっぱなし・・・。
「行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」
浮沈子は、足の裏のウオノメが痛くて、涙が止まらなかったと現代語訳を付けて、中学の国語の時間に顰蹙を買った(というのは、真っ赤な嘘ですが)。
(Q11ウオノメと思って皮膚科を受診したら、イボと言われました。ウオノメとイボはどう違うのですか?また、ウオノメはどうしてできるのですか?)
https://www.dermatol.or.jp/qa/qa23/q11.html
「ウオノメは、通常大人の足の裏や趾(ゆび)などにできる、直径5~7mm程の硬い皮膚病変で、歩行や圧迫により激しい痛みを伴うのが特徴です。中心に魚の眼のような芯が見えるので俗にウオノメと呼ばれますが、面白いことに専門用語では“鶏眼(けいがん)”と言います」
へえ、知らなかったな。
まあ、どうでもいいんですが。
もちろん、帰ってくるつもりではあったのだろうが、ひょっとしたらという覚悟はあったのかもしれない。
命がけの旅、命がけの俳句、命がけのウオノメ・・・。
東北の旅のきっかけとなった西行には、こんな歌がある。
(西行:晩年の歌)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C#.E6.99.A9.E5.B9.B4.E3.81.AE.E6.AD.8C
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」
お釈迦様の入滅に憧れたんだろう。
(願わくば花のしたにて春死なむ―さまざまな死生観)
http://www.uejp.jp/pdf/journal_04/h03.pdf
「西行は自分の愛した桜の花の下で、釈尊と同じ日に死にたいと生前にこの辞世の歌を公表し、予告通りにその日に他界したので、当時の歌人たちは度肝を抜かれたと伝えられている(享年 73 才)。
「偶然だよ」とせせら笑う人もいる」
遠い昔、浮沈子が愛読していた庄司薫の作品の中に出ていたような記憶がある(未確認)。
庄司薫といえば、エンペドクレスのサンダルという話も出てくる(確認済み)。
(エンペドクレスのサンダル [et cetera])
http://chibipapa.blog.so-net.ne.jp/2005-12-30
「「ねえ、エンペドクレスのサンダルの話知ってる?」
「え? なんだって。」
「エンペドクレスって、世界で一番最初に、純粋に形而上学的な悩みから自殺したんですって。」
「へえ。」
「それでヴェスヴィオスの火口に身を投げたんだけど、あとにサンダルが残っていて、きちんとそろえてあったんですって。」
「へえ。」
「素敵ね、エンペドクレスって。」
「うん(?)」
「サンダルがきちんとそろえて脱いであったんですって。いいわあ。」
「ふーん。」
「ねえ、とってもすごい話じゃない?」
「うん。」」
感受性豊かなお年頃、誰もが観念的に「死」に近づく。
あまりにも怠惰な生に飽き飽きして、未知の世界に強く惹かれる(そんなに死に急がなくても、ダラダラと生きていれば、すぐ目の前にやってくるよ!)。
まあ、最近の若いもんは、イスラム国とかに惹かれるようだがな(困ったもんだ)。
春先というのは、どうも、こういう傾向があるようだ(人生の季節としての春も含めて)。
まあいい。
あちこちと、寄り道をしながらでも構わないから、大きく外すことなくこの時期を乗り切る必要がある(一年の季節としての春)。
今日も、完調とは言えず、遠出はしないで過ごした。
暖かな春の日を待ちながら、少しずつ遠出もしてみよう。
第三京浜の都筑まで、ショートコースを2回走った(500Eと83タルガ)。
順番、逆にすれば良かったかな。
ガソリンも満タンにして、遠出に備える。
気持ちだけでも、前向きになろうとする。
今日は、若い人たちのエネルギーを、少しだけ分けてもらった気になった。
おめでとう、そして、ありがとう!。
今日がイースターであることは、昨日書いた。
(イースター)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2016/03/26/8057454
「十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭」
考えてみれば、今日は、松尾芭蕉が奥の細道の冒頭で、東北に向けて旅立った日でもある(実際は旧暦なのだが、まあ、そこは深く追求しない・・・)。
(【奥の細道】より 弥生も末の七日とは、何月何)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1464502844
「弥生も末の七日とは、何月何日のことか、旧暦で答えなさい。」
「つまり3月27日ということになります。」
(旅立ちの春~「弥生も末…」に込められた芭蕉さんの旅と春に思いをはせて)
http://www.tenki.jp/suppl/saijiki_shuuka/2016/03/23/10431.html
「ところで、「弥生も末の七日(三月二十七日)…」というと、新暦でいうといつになるのでしょうか?」
「旧暦の三月二十七日は、新暦の五月中頃にあたります。」
なんだ、全然先じゃん!?。
今日は、いい知らせがあった。
お世話になっている、スキューバプロショップからIEを受験した方が、2人とも一発合格した!(スゲー!!)。
練習とかで、少しだけお手伝いしたこともあって、気になって電話した(ホントは、富戸に泊まってサポートするつもりだったんだが、体調崩して行けなくなってしまった)。
良かった!。
おめでとう!。
サクラ、咲いたね!。
浮沈子が、行かなかったから、逆にプレッシャー無くて良かったのかもしれない(居るだけで、ストレッサーな浮沈子・・・)。
まあ、結果オーライ!。
一人は、就職が掛かってたので、本当に良かった(就職も、おめでとう!)。
春は、旅立ちの時。
若駒達が、希望を胸に、新天地に旅立つ(まあ、概ね5月頃には落ち込むことになるんだがな)。
3日、3か月、3年と言われたものだが、最近はそんなに持たない。
奥の細道は、西行の500回忌を期に行われた旅とある。
(松尾芭蕉:おくのほそ道)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89#.E6.AD.BB.E5.8E.BB
「この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。」
なんだ、営業活動か・・・。
「歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした」
研修旅行ともいう?。
「芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。」
現在でいえば、10月頃か。
江戸に戻ったわけではない。
(おくのほそ道:出版経緯)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BB%E3%81%9D%E9%81%93#.E5.87.BA.E7.89.88.E7.B5.8C.E7.B7.AF
芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。
奥の細道の旅で死んじまったんだとばかり思っていた。
(中学3年の教科書で松尾芭蕉の旅立ちというのが)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048716150
「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。」
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。」
「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」
もう、後ろ髪引かれっぱなし・・・。
「行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。」
浮沈子は、足の裏のウオノメが痛くて、涙が止まらなかったと現代語訳を付けて、中学の国語の時間に顰蹙を買った(というのは、真っ赤な嘘ですが)。
(Q11ウオノメと思って皮膚科を受診したら、イボと言われました。ウオノメとイボはどう違うのですか?また、ウオノメはどうしてできるのですか?)
https://www.dermatol.or.jp/qa/qa23/q11.html
「ウオノメは、通常大人の足の裏や趾(ゆび)などにできる、直径5~7mm程の硬い皮膚病変で、歩行や圧迫により激しい痛みを伴うのが特徴です。中心に魚の眼のような芯が見えるので俗にウオノメと呼ばれますが、面白いことに専門用語では“鶏眼(けいがん)”と言います」
へえ、知らなかったな。
まあ、どうでもいいんですが。
もちろん、帰ってくるつもりではあったのだろうが、ひょっとしたらという覚悟はあったのかもしれない。
命がけの旅、命がけの俳句、命がけのウオノメ・・・。
東北の旅のきっかけとなった西行には、こんな歌がある。
(西行:晩年の歌)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C#.E6.99.A9.E5.B9.B4.E3.81.AE.E6.AD.8C
「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」
お釈迦様の入滅に憧れたんだろう。
(願わくば花のしたにて春死なむ―さまざまな死生観)
http://www.uejp.jp/pdf/journal_04/h03.pdf
「西行は自分の愛した桜の花の下で、釈尊と同じ日に死にたいと生前にこの辞世の歌を公表し、予告通りにその日に他界したので、当時の歌人たちは度肝を抜かれたと伝えられている(享年 73 才)。
「偶然だよ」とせせら笑う人もいる」
遠い昔、浮沈子が愛読していた庄司薫の作品の中に出ていたような記憶がある(未確認)。
庄司薫といえば、エンペドクレスのサンダルという話も出てくる(確認済み)。
(エンペドクレスのサンダル [et cetera])
http://chibipapa.blog.so-net.ne.jp/2005-12-30
「「ねえ、エンペドクレスのサンダルの話知ってる?」
「え? なんだって。」
「エンペドクレスって、世界で一番最初に、純粋に形而上学的な悩みから自殺したんですって。」
「へえ。」
「それでヴェスヴィオスの火口に身を投げたんだけど、あとにサンダルが残っていて、きちんとそろえてあったんですって。」
「へえ。」
「素敵ね、エンペドクレスって。」
「うん(?)」
「サンダルがきちんとそろえて脱いであったんですって。いいわあ。」
「ふーん。」
「ねえ、とってもすごい話じゃない?」
「うん。」」
感受性豊かなお年頃、誰もが観念的に「死」に近づく。
あまりにも怠惰な生に飽き飽きして、未知の世界に強く惹かれる(そんなに死に急がなくても、ダラダラと生きていれば、すぐ目の前にやってくるよ!)。
まあ、最近の若いもんは、イスラム国とかに惹かれるようだがな(困ったもんだ)。
春先というのは、どうも、こういう傾向があるようだ(人生の季節としての春も含めて)。
まあいい。
あちこちと、寄り道をしながらでも構わないから、大きく外すことなくこの時期を乗り切る必要がある(一年の季節としての春)。
今日も、完調とは言えず、遠出はしないで過ごした。
暖かな春の日を待ちながら、少しずつ遠出もしてみよう。
第三京浜の都筑まで、ショートコースを2回走った(500Eと83タルガ)。
順番、逆にすれば良かったかな。
ガソリンも満タンにして、遠出に備える。
気持ちだけでも、前向きになろうとする。
今日は、若い人たちのエネルギーを、少しだけ分けてもらった気になった。
おめでとう、そして、ありがとう!。
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