見えないもの2012年09月29日 20:40

見えないもの
見えないもの


目に見えないものは、本当にないのだろうか。

見えないものを見るために、人類は大変な努力を積み重ねてきた。小さいもの、大きいもの、遠くにあるもの、希薄なもの、五感では捉えられないもの。

体の中や、地球の中も見えるようになってきた(腹の中が読めない人もいますが)。

大変なことである。人類の叡智と努力の賜物であるといってよい。

手で触れて、触ってみて、自分の足で歩いて、確かめる。それはそれで、素晴らしいことに違いないが、それ以外の世界を信じない生き方は、少し寂しい。

数十億年の彼方の銀河や、ブラックホール、地球の地殻の底で蠢く巨大なプルーム、原子核の中に閉じ込められた凄まじいエネルギー、綾なす生命の不思議を紡ぐDNA(横浜方面の野球チームじゃないんで)。コンピューターのメモリーの中にだけ存在する仮想の世界、各種のセンサーが捉える現実世界の形。

一すくいの水の中の無限の世界。

人間は、昔から直感的に不可視の世界の存在を感じ、詩歌に表現してきたのではないか。

「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる」

(藤原敏行)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%8F%E8%A1%8C

ちなみに、「さやか(清か)」とは、はっきりとしているさま、という意味である。定か(さだか)のような感じか。

「秋」なんてものは抽象的な概念で、様々な季節の移ろいの中に現れる事象の集合を、括っているに過ぎない言葉だ。擬人化して、季節の訪れを表現してみても、具体的には何を示せばいいのか。

肌で感じ、耳で聞き、やがて目に見えるようになってくるであろう変化の予兆。風もまた目には見えない。

こんなのもある。

(「炭取りの廻る話」の巻 三島由紀夫『遠野物語』を語る『小説とは何か』から)
http://home.cilas.net/yunami/monogatari/monogatarimisima.html

「あなやと思う間も無く、二人の女の座れる囲炉裏の脇を 通り行くとて、裾にて炭取(炭籠に同じ)にさわりしに、丸き炭取なればくるくると回りたり。」

背筋が寒くなり、鳥肌が立つような戦慄を覚えた。

幽霊を信じているわけでは、もちろん、ない。三島由紀夫の小説論はともかく、物語とはいえ、何か普段は意識していないものによってこの世界が動かされ、我々自身もその目に見えないものによって支配されているのではないか、と考えさせられてしまう。

科学者は、それを法則とか原理とか呼んでいるし、宗教家は、神や仏と呼んだりもする。

「思ふに遠野郷には比類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

すいません、平地人なもんで・・・。

例によって、前振りが長くなった。

画像は、極端に写りが悪い(だから、見えないもの、というわけではない)が、500Eに取り付けたカロッツェリアのDEH-970である。

(DEH-970)
http://pioneer.jp/carrozzeria/products/deh_970/

値段なりの音だが、メインコンテンツはNHK第一放送なので何の問題もない。ブルートゥースが使えるのが嬉しい。ⅰポッドタッチから飛ばして、それなりの音で聴ける。それにしても、ダウンロードしたニュースなどしか聞かないので、音質などはどうでもいいのだ。

ベッカーのヘッドセットは生きていたのだが、J-AUTOに引き取ってもらった。中古でもいいという純正派の人に喜んでもらった方が、粗大ゴミになるよりはエコでもある。

短時間の操作しか行っていないので、評価は暫定的なものだが、インターフェースは使いやすいとは言えない。慣れれば何だって使えるようになってしまうのだろうが、物理的な「ボタン」が恋しい!。メニューから選んで選択するというDOSシェルのような画面には、いささか閉口した。階層も4段くらいあって、結構深い。

これが現代のカーステってやつか・・・。

まあ、しょうがない。

残るは、焦眉の急であるドライバーズシートの交換である。

これは、大いに期待していいだろう。世界最高の(と信じて疑わない)300Eのファブリックに、再び座れるのだ。

来週取り付けの予定である。