空席2016年01月15日 15:46

空席


(一般教書演説)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%95%99%E6%9B%B8%E6%BC%94%E8%AA%AC

「アメリカ合衆国において、大統領が連邦議会両院の議員を対象に行う演説」

まあ、施政方針演説のようなもんだな。

議院内閣制を採らない米国では、憲法上は大統領は議会に足を踏み入れることはない。

この時は、特別の場合ということになる。

傍聴席には、その時の演説の内容に関係する国民が、20名程度招待されるようだ。

(オバマ大統領 任期最後の一般教書演説へ)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160113/k10010369331000.html

記事は、演説開始前のものだが、こんなことが書かれている。

「ホワイトハウスによりますと、ことしは、銃撃事件で命を奪われた犠牲者のための席としてゲストが座る席の1つをあえて空席にするということで、銃規制強化の必要性をアピールするねらいです。
アメリカメディアによりますと、2003年のブッシュ前大統領の一般教書演説でも、同時多発テロ事件の犠牲者を追悼して空席が設けられたということです。」

鈍い浮沈子は、最初、何のことかピンと来なかった。

(オバマ夫人の隣に「特別席」 銃犠牲者へ思い込め用意)
http://www.asahi.com/articles/ASJ1F5K7GJ1FUHBI024.html?ref=msn

記事の添付画像を見ると、確かにミシェル夫人の右隣の席が空いている。

我が国ならば、遺影とかが置かれるところだろう・・・。

そして、浮沈子は、はっと気付いた。

ここは、空席などではないのだと。

NHKの記事では、銃乱射事件の遺族代表は別途招待されているとある。

この席は、亡くなった犠牲者自身のために用意されているのだ。

宗教を持たない浮沈子には、死後の世界とか死者の魂などというのはSF(?)のようなもので、物理的な消滅とともに、生き残った人々の記憶の中だけに残るものだと信じている(まあ、それも宗教のようなもんかあ?)。

死んじまった者は、この世のことに関わることはできない。

生き残った者が、その気持ちを汲んで、ひたすら努力するしかないのだ。

いずれにしても、この空席に招待されているのは、毎年数万人に及ぶ銃の犠牲者である。

(アメリカ合衆国の銃規制)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%8A%83%E8%A6%8F%E5%88%B6

「現在、個人所有の銃が約2億7000万丁(世界最多)。銃が原因の死亡者数は毎年3万1000人前後(ここ数年)となっている」

3万人の姿なき招待者が、この席に座っている。

空席どころではなく、ギュウギュウ詰めだ。

そうして、大統領の演説に耳を傾けたわけだな。

そのことに思い至った時、浮沈子の涙腺バルブは、例によって壊れた・・・。

だめだ・・・。

止まらない・・・。

このブログを書きながらも、どうしようもなくて、困っている。

米国人は、銃が大好きだ。

そういう文化があり、狩猟とか護身とかいう実用的な用途(犯罪もかあ?)は別にして、大勢の国民が銃を所持している。

そして、10年間で30万人、100年経てば300万人がこの空席に座る。

そのことの是非には、今日は触れない。

我が国が銃の一般的な所持を規制していて、犠牲者が限られていることを感謝するに留める。

国の外では戦争に明け暮れ、国の中では銃をぶっ放す。

野蛮な国だ。

正義の名のもとに、殺戮を繰り返す国。

その一方で、大統領の演説に、特別席を設ける。

声なき声を聴き、姿なき聴衆に語り掛けようとする。

まあ、どーせ、政治的な配慮ってやつで、有権者の姿がチラついているに決まってるがな。

民主主義ってのは、ある意味で残酷な制度だ。

ところで、感涙に咽びながら、浮沈子はあることに気付いて首を傾げる。

一般教書演説の空席には前例があり、2003年の時に、同時多発テロの犠牲者に対して設けられたようだ。

9.11は、2001年のことである。

まあ、2002年の正月では、ちょっと生々し過ぎたということもあるが、時期的には1年以上開いている。

独立以来、外国の勢力から、大規模な直接攻撃を受けたことがない米国において、初の大量の犠牲者ということになる。

この時の犠牲者の規模は死者3000人余り、負傷者6000人余りである。

(アメリカ同時多発テロ事件)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2003年3月にイラク戦争が始まったことを考えると、2003年の年頭にテロの犠牲者を追悼するとして設けられた空席というのは、ちと勘繰りたくなる要素があるな。

ちなみに、イラクはこのテロには関与していなかったということは、明らかになっていた(後に米国政府も公式に認めている)。

まあいい。

イラク戦争の山車に使われた空席は、本当の空席だったのかもしれない。

今回、銃の犠牲者のために設けられた空席には、亡くなった方々の魂が座っていたに違いない。

現大統領の演説が、その魂の期待に応えられたかどうかは、また別の話だ。

カリフォルニア州での乱射事件の後、銃の所持は、むしろ増えたという。

(銃の携帯許可申請、米で急増―加州の銃撃事件後)
http://jp.wsj.com/articles/SB12554609945154534602604581414562526144884

「一部の郡では保安官が銃器の携帯を積極的に呼びかけている。ニューヨーク州アルスター郡のポール・バン・ブラーカム保安官は3日、同郡保安官事務所のフェイスブックのページで、銃携帯の許可を持つ市民に対して、ぜひ携帯してほしいと呼びかけた。」

うーん、平和にドブ漬けの浮沈子には、理解できない対応だ。

空席の招待者は、一体どんな思いでこの状況を見ているんだろうか?

(“日本とは違う、現実的になれ” 2億7000万丁の銃を抱え揺れるアメリカ:追加)
http://newsphere.jp/world-report/20151007-3/

「自動車事故や産業事故による死、プールでの溺死が避けられないと受け入れているように、アメリカ人はある程度の銃による暴力は避けられないと受け入れたというのが真実であると述べ、規制を強化すれば、銃による大量殺人は食い止められるというふりをするのはやめるべきだとしている。」

「米メディアの報道を見る限り、すでに引き返すことができないほど、銃所持が広がっているアメリカ。」

これが米国の現実であり、彼らはそういう社会に住んでいる。

空席は、やはり空席のままなのかもしれない。

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