モノと機能 ― 2015年03月29日 11:05
モノと機能
自動車の電脳化については、先日読んだ午前零時の自動車評論8の中にも記されていて、このブログでも取り上げた。
(久々の休日)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2015/03/24/7596665
長いが、引用する。
「夕べは、午前零時の自動車評論8巻目を、午前零時ごろまで読んだ。
「21世紀の電脳構図」という最終章を読んだが、文系の著者にしては丁寧に解説していて、門外漢である浮沈子が読んでも抵抗なく読み切れた。
逆に、ちょっと食い足りない感じもする。
エンジンに送り込む燃料の制御を、排ガス規制をクリアするためにコンピューターで制御しなければならなくなったのが、クルマの電子化の本格的な始まりなんだそうだ。
これからは、制御系の自動化、情報系の充実が進み、ますます電脳化が華やかになるだろう。
エンジンに造詣が深い著者としては、そういった電子化の方向について、正面から取り上げた記事で、苦労のあとが偲ばれる・・・。
それでも、自動車評論の中で、電子デバイスの実態を丁寧に解説しようと試みる姿勢には、頭が下がる。
最近の自動車は、完全にブラックボックスになっていて、ソケットにアナライザー繋いでナンボの世界だ。
機械的な所も、アッセンブリー化されて、ごっそり取り替えることになる。
修理中の500Eは、電子回路をテスターで調べて、不良なコンデンサーとかを取り替える作業をしてくれるらしいが(もちろん、メーカー修理ではない)、そんなのは例外中の例外だ。
正規の修理では、パネルごと交換になる。
1992年製でもこの情況なので、今のクルマなんて、下手したら丸ごと買い換えた方が安いかもしれない(それ程でも・・・)。 」
人間と道具の関わりは、木切れとか、石とか、自然にあるがままのものを、そのまま使うところから始まったのだろう。
それを、折って長さを整えたり、割って大きさや鋭利な縁を作ったりする加工をするようになった。
さらには、その加工するための道具、つまり道具を作るための道具を使用するようになって、ヒトは人間になった。
そして、その流れが高じて、宇宙船を作ったり、コンピューターを作ったりするというのは、2001年宇宙の旅で描かれた世界だ。
最近流行のIoT(物のインターネット化)というのも、考えてみれば道具を加工する技術の延長線上にある。
自動車の電脳化といっても、自動車という道具を便利に使えるようにするための、加工の一種だ。
素材や構造を極めても、掛けたコスト分の商品性が高くなるわけではない。
じゃあ、違う所で金掛けて儲けた方がいいと考えるのは、健全な発想だ。
それをもって、自動車会社が堕落したとか、この世の闇とかいうのは、工業製品としての自動車に対して、誤った見方をしていると浮沈子は思うな。
まあ、ちっとはそう思わないではないけど。
超高張力鋼板を使ったり、応力解析にコンピューターを使って設計した重量性能比に優れたボディだって、電子制御された足回りだって、似たようなもんだろう。
それが、最終的な製品となって、価格に見合った機能を発揮すればいいだけだ。
加工というプロセスで、付加価値を高める作業としては、料理と似ているな。
自然の恵み(まあ、最近は養殖だったりするけど)を受けたそのままの素材では、やっぱ食えない。
手間隙掛けて料理してこそ、より美味しくいただけるというものだ。
炭火で焼いたり、時間掛けてコトコト煮込むのもいいが、電子レンジでチンするだけでもいい。
機械的にリンクされていない電気駆動の操舵装置の味付け(おお、料理用語だ!)を、あれこれいうのと同じだな。
これを書いていて、浮沈子は、もう一つの「加工」に思い当たる。
生物の進化そのものが、物としての機能を高める「加工」なのではないか。
いや、逆だな。
進化のプロセスを拡張して、ヒトは物の機能を高めてきたのかもしれない。
生命は、環境に適応するために、脳の高次機能を発達させてきた。
ハードウェアとしての肉体の形態や、免疫や代謝などの化学的な進化だけではなく、行動を高度化して、生存性を高める戦略に出たのだ。
脳は、行動の様式を司る器官である。
その揚句、外部化された身体構造としての道具の加工、つまり機能の高度化は、生物の進化の延長上にあるともいえるのではないか。
で、生命の進化が、体当たりして敵に負けないように身体をでかくするとか、いろいろなことを同時に出来るように、手を千本にするとかではなく、脳の機能を発達させて、自動車やコンピューターを生み出したわけだ。
特に、コンピューターについては、脳が脳の機能を拡張する道具を生み出したことになり、特筆に価するかもしれない。
そういう視点で見れば、遺伝子工学の行き着く先は、やっぱ、フランケンシュタインだろうな。
進化を加速させ、行動や外部化された道具に頼らずに生存性を高める「加工」を施せるようになるかもしれない。
そういったスーパー生物から見れば、遅れた人間が作り出した道具と行動の様式である「文明」というのは、遺伝子に組み込まれた本能の一部に見えるだろう。
当然、破壊の対象となって、B級怪獣映画が出来上がるわけだな。
まあ、どうでもいいんですが。
今朝は、あまり妄想が逞しくないなあ・・・。
道具というのは、それを使う使用者がいて成り立つ存在だ。
路傍の石も、掴んで投げれば武器となる。
道具ー使用者系という、システムで成り立つ。
道具単体では語れないのだ。
弘法は筆を選ばず、鍋の蓋だって、使い手によっては刀を受けることも出来る。
(塚原卜伝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8D%9C%E4%BC%9D
「若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は史実ではない。」
まあいい。
ルフトハンザの子会社ジャーマンウイングスの副操縦士が、失意の中で149人を道連れにした事故だって、空気より重いくせに大勢の人間を乗せて空を飛ぶことが出来る旅客機という道具を、使い手であるパイロットが、別の用途に使ってしまったという話でもある。
(「自分の名前を誰もが知るだろう」“犯行”の副操縦士、現場に「思い入れ」か 「無傷の遺体はない」回収本格化)
http://www.sankei.com/world/news/150328/wor1503280047-n1.html
してみると、道具の機能と使い手の技量(意思も含めて)というのは、一体不可分であることが解る。
下手の鉄砲数打ちゃ当る、そんなら、機関銃にしようかとか・・・。
パソコンのドライブケームの優勝者が、実際のレースのドライバーに抜擢される世の中である。
ルマンだって、そのうち、ヘッドギアつけたゲームセンターのようなところで行われるようになるかもしれない。
もちろん、観戦だって、ヘッドギア付けて、ネット中継で、ドライバー目線になったりするわけだ。
世も末だな・・・。
浮沈子が就職したころは、職場にはソロバンが一人1台(?)配布されていた。
浮沈子は、ソロバンが出来なかったので、初めての給料で私費で電卓を買った。
遠い昔の話である。
そして、人間が乗り物の操縦をしている現在の情況だって、いずれは遠い昔の話になるに決まっている。
今回の旅客機事故の対策として、コックピットからパイロットが出るときは、誰かが代わりに入るということになったようだが、そのうち、パイロットの一人が離れるときは、もう一人もコックピットから出なければならなくなるかもしれない。
無人操縦の方が、一人にしておくよりも安全だから。
もちろん、機体のコントロールを完全に無人で行うのは、運用上無理だろうが、その間は遠隔操作で地上から制御するという方法もあるだろう。
(新交通システム)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
「路線の一般道などとの立体交差・自動運転・無人運転のシステムが多く、このうちAGTとモノレールが現在最も普及している。AGTは1981年、神戸のポートアイランドで初めて無人運転の営業路線として導入された(神戸新交通ポートアイランド線)。」
軌道交通システムでは、30年以上も前からある。
そうすると、ハッキングとか、ややっこしい話も出てくるわけだな。
どんなシステムにも完璧はない。
自動化するためのシステムを作り、運用するのもまた、人間だ。
人間が使おうが、機械任せにしようが、道具を使う上での問題がなくなることはない。
モノに機能を与えるのが、使い手であることに変わりはないのだ・・・。
自動車の電脳化については、先日読んだ午前零時の自動車評論8の中にも記されていて、このブログでも取り上げた。
(久々の休日)
http://kfujito2.asablo.jp/blog/2015/03/24/7596665
長いが、引用する。
「夕べは、午前零時の自動車評論8巻目を、午前零時ごろまで読んだ。
「21世紀の電脳構図」という最終章を読んだが、文系の著者にしては丁寧に解説していて、門外漢である浮沈子が読んでも抵抗なく読み切れた。
逆に、ちょっと食い足りない感じもする。
エンジンに送り込む燃料の制御を、排ガス規制をクリアするためにコンピューターで制御しなければならなくなったのが、クルマの電子化の本格的な始まりなんだそうだ。
これからは、制御系の自動化、情報系の充実が進み、ますます電脳化が華やかになるだろう。
エンジンに造詣が深い著者としては、そういった電子化の方向について、正面から取り上げた記事で、苦労のあとが偲ばれる・・・。
それでも、自動車評論の中で、電子デバイスの実態を丁寧に解説しようと試みる姿勢には、頭が下がる。
最近の自動車は、完全にブラックボックスになっていて、ソケットにアナライザー繋いでナンボの世界だ。
機械的な所も、アッセンブリー化されて、ごっそり取り替えることになる。
修理中の500Eは、電子回路をテスターで調べて、不良なコンデンサーとかを取り替える作業をしてくれるらしいが(もちろん、メーカー修理ではない)、そんなのは例外中の例外だ。
正規の修理では、パネルごと交換になる。
1992年製でもこの情況なので、今のクルマなんて、下手したら丸ごと買い換えた方が安いかもしれない(それ程でも・・・)。 」
人間と道具の関わりは、木切れとか、石とか、自然にあるがままのものを、そのまま使うところから始まったのだろう。
それを、折って長さを整えたり、割って大きさや鋭利な縁を作ったりする加工をするようになった。
さらには、その加工するための道具、つまり道具を作るための道具を使用するようになって、ヒトは人間になった。
そして、その流れが高じて、宇宙船を作ったり、コンピューターを作ったりするというのは、2001年宇宙の旅で描かれた世界だ。
最近流行のIoT(物のインターネット化)というのも、考えてみれば道具を加工する技術の延長線上にある。
自動車の電脳化といっても、自動車という道具を便利に使えるようにするための、加工の一種だ。
素材や構造を極めても、掛けたコスト分の商品性が高くなるわけではない。
じゃあ、違う所で金掛けて儲けた方がいいと考えるのは、健全な発想だ。
それをもって、自動車会社が堕落したとか、この世の闇とかいうのは、工業製品としての自動車に対して、誤った見方をしていると浮沈子は思うな。
まあ、ちっとはそう思わないではないけど。
超高張力鋼板を使ったり、応力解析にコンピューターを使って設計した重量性能比に優れたボディだって、電子制御された足回りだって、似たようなもんだろう。
それが、最終的な製品となって、価格に見合った機能を発揮すればいいだけだ。
加工というプロセスで、付加価値を高める作業としては、料理と似ているな。
自然の恵み(まあ、最近は養殖だったりするけど)を受けたそのままの素材では、やっぱ食えない。
手間隙掛けて料理してこそ、より美味しくいただけるというものだ。
炭火で焼いたり、時間掛けてコトコト煮込むのもいいが、電子レンジでチンするだけでもいい。
機械的にリンクされていない電気駆動の操舵装置の味付け(おお、料理用語だ!)を、あれこれいうのと同じだな。
これを書いていて、浮沈子は、もう一つの「加工」に思い当たる。
生物の進化そのものが、物としての機能を高める「加工」なのではないか。
いや、逆だな。
進化のプロセスを拡張して、ヒトは物の機能を高めてきたのかもしれない。
生命は、環境に適応するために、脳の高次機能を発達させてきた。
ハードウェアとしての肉体の形態や、免疫や代謝などの化学的な進化だけではなく、行動を高度化して、生存性を高める戦略に出たのだ。
脳は、行動の様式を司る器官である。
その揚句、外部化された身体構造としての道具の加工、つまり機能の高度化は、生物の進化の延長上にあるともいえるのではないか。
で、生命の進化が、体当たりして敵に負けないように身体をでかくするとか、いろいろなことを同時に出来るように、手を千本にするとかではなく、脳の機能を発達させて、自動車やコンピューターを生み出したわけだ。
特に、コンピューターについては、脳が脳の機能を拡張する道具を生み出したことになり、特筆に価するかもしれない。
そういう視点で見れば、遺伝子工学の行き着く先は、やっぱ、フランケンシュタインだろうな。
進化を加速させ、行動や外部化された道具に頼らずに生存性を高める「加工」を施せるようになるかもしれない。
そういったスーパー生物から見れば、遅れた人間が作り出した道具と行動の様式である「文明」というのは、遺伝子に組み込まれた本能の一部に見えるだろう。
当然、破壊の対象となって、B級怪獣映画が出来上がるわけだな。
まあ、どうでもいいんですが。
今朝は、あまり妄想が逞しくないなあ・・・。
道具というのは、それを使う使用者がいて成り立つ存在だ。
路傍の石も、掴んで投げれば武器となる。
道具ー使用者系という、システムで成り立つ。
道具単体では語れないのだ。
弘法は筆を選ばず、鍋の蓋だって、使い手によっては刀を受けることも出来る。
(塚原卜伝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8D%9C%E4%BC%9D
「若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、彼はとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は史実ではない。」
まあいい。
ルフトハンザの子会社ジャーマンウイングスの副操縦士が、失意の中で149人を道連れにした事故だって、空気より重いくせに大勢の人間を乗せて空を飛ぶことが出来る旅客機という道具を、使い手であるパイロットが、別の用途に使ってしまったという話でもある。
(「自分の名前を誰もが知るだろう」“犯行”の副操縦士、現場に「思い入れ」か 「無傷の遺体はない」回収本格化)
http://www.sankei.com/world/news/150328/wor1503280047-n1.html
してみると、道具の機能と使い手の技量(意思も含めて)というのは、一体不可分であることが解る。
下手の鉄砲数打ちゃ当る、そんなら、機関銃にしようかとか・・・。
パソコンのドライブケームの優勝者が、実際のレースのドライバーに抜擢される世の中である。
ルマンだって、そのうち、ヘッドギアつけたゲームセンターのようなところで行われるようになるかもしれない。
もちろん、観戦だって、ヘッドギア付けて、ネット中継で、ドライバー目線になったりするわけだ。
世も末だな・・・。
浮沈子が就職したころは、職場にはソロバンが一人1台(?)配布されていた。
浮沈子は、ソロバンが出来なかったので、初めての給料で私費で電卓を買った。
遠い昔の話である。
そして、人間が乗り物の操縦をしている現在の情況だって、いずれは遠い昔の話になるに決まっている。
今回の旅客機事故の対策として、コックピットからパイロットが出るときは、誰かが代わりに入るということになったようだが、そのうち、パイロットの一人が離れるときは、もう一人もコックピットから出なければならなくなるかもしれない。
無人操縦の方が、一人にしておくよりも安全だから。
もちろん、機体のコントロールを完全に無人で行うのは、運用上無理だろうが、その間は遠隔操作で地上から制御するという方法もあるだろう。
(新交通システム)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0
「路線の一般道などとの立体交差・自動運転・無人運転のシステムが多く、このうちAGTとモノレールが現在最も普及している。AGTは1981年、神戸のポートアイランドで初めて無人運転の営業路線として導入された(神戸新交通ポートアイランド線)。」
軌道交通システムでは、30年以上も前からある。
そうすると、ハッキングとか、ややっこしい話も出てくるわけだな。
どんなシステムにも完璧はない。
自動化するためのシステムを作り、運用するのもまた、人間だ。
人間が使おうが、機械任せにしようが、道具を使う上での問題がなくなることはない。
モノに機能を与えるのが、使い手であることに変わりはないのだ・・・。
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