パスカルの賭け ― 2016年07月29日 22:36
パスカルの賭け
(パスカルの賭け)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%B3%AD%E3%81%91
不確実性の中で、何かを信じて行うというのは、賭けである。
「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」
解説の終わりの方に、親鸞の歎異抄の話も出てくる。
(歎異抄)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84
「第二条:
自分の信心は法然上人の言葉を信じているだけで、果たして念仏が極楽往生できる因なのか、地獄に落ちる業なのかは知るところではない。」
「でも、たとえ法然上人にだまされていて地獄に落ちたとしても後悔はしない。」
「もし、私がそれまで行っていた修行をしていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もするだろうけれど、ろくな修行もできない私はどうせ地獄にしか行けなかったからである。」
「この上は念仏を信じるも捨てるも各々の自由である」
第三条は、有名な悪人正機説だが、ここでは触れない。
パンセの記述とは、いささか異なる気もするが、賭けて損しないのなら、賭けてみるという選択もある。
なんで、こんな話を始めたかといえば、こんな記事を読んだから。
(英BAEシステムズ社、反重力研究を開始:【2000年3月29日 BBC News (2000/3/27)】)
http://www.astroarts.co.jp/news/2000/03/29bae/index-j.shtml
BBCのリンクは生きていて、記事は今でも読むことが出来る(16年以上も前だけどな)。
日本語の記事は、ほぼ、忠実な訳になっている(たぶん)。
「You can invest a little money in far-out projects if they have some chance of success - it's called Pascal's Wager.」
「In this case, most scientists would say there is zero chance of success.」
「現実離れしたプロジェクトであっても、わずかでも成功の可能性があるなら、それに投資することはできるだろう。このことは『パスカルの賭け』と呼ばれる。」
「しかし、今回のケースでは、ほとんどの科学者は成功の可能性はゼロであると言うだろう。」
哲学的な思弁については、浮沈子の与り知らぬ世界だ。
反重力推進が、その後どうなったかについては知らない。
親鸞の言葉を読んでいて、ダイエットのことが頭をよぎる(現在、体調不良のため、休止中)。
「自分のダイエットは、カロリーの出入りをコントロールすれば成功すると信じているだけで、果たしてそれで本当にダイエットが出来るのか、結局リバウンドしてデブに戻るのかは知るところではない。」
「でも、たとえカロリーコントロール説にだまされていてデブに戻ったとしても後悔はしない。」
「もし、私がそれまで行っていた減量方法をしていたらスリムになれたのに、カロリーコントロールをしたおかげでデブに戻ったというのなら後悔もするだろうけれど、ろくな減量もできない私はどうせデブに戻るしかなかったからである。」
「この上はカロリーコントロールによるダイエットを信じるも捨てるも各々の自由である」
なんと、すっきりとハマることか・・・。
まあ、どうでもいいんですが。
元々の話は、恒星間航行が可能かどうかという話だ。
(恒星間航行は可能?)
http://www.astroarts.co.jp/news/2000/04/12spacetravel/index-j.shtml
「我々の太陽系から最も近い恒星までは、地球~冥王星間の10,000倍以上も遠いのだ。」(2006年までは、まだ惑星だったからな)
「では、恒星間航行は可能なのか? 現状では、そんなものはSF、想像の世界の話に過ぎないと言わざるを得ない。」
この後に、いろいろぐちゃぐちゃ書いてあるが、いずれにしても海のものとも山のものとも思えない、ワケワカの話だ。
「新たな知識がすぐそこにあって発見されるのを待っていることを、誰が知っているだろう? 私は進化――そう、一時はSFに過ぎなかったものを現実へと変えるような進化――がみつかる部屋があちこちにたくさんあるのだと個人的に信じている。我々が始めたことは単純で、正しい問いかけを持つことである。」
浮沈子には、パスカルの賭けのように感じる。
恒星間航行が可能だと信じたとしても、失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増すというものだ。
浮沈子は、信じていないけどな。
信じられるわけないだろう!?。
「我々の計画は3つの挑戦を含む。」
「第1に、我々は推進における推進剤の必要性を完全に無くすか、または大幅に減らすことを目指す。」
「第2に、我々は宇宙航行に必要な時間を大幅に短縮するため、究極的に可能な最大の速度を達成するための方法を見つけることを目指す。」
「第3に、我々は我々が目指す推進力を作り出すのに必要な根本的に新しい方法の発見を目指す。」
そんな都合のよい話があるなら、宇宙船なんかではなく、クルマとか飛行機に応用してもらいたいものだ。
「我々は今、月から持ちかえった石を地球上に持っている。だがたった40年前、これはSFでしかなかったのだ。」
浮沈子は懐疑的だな。
再び、新たな月の石を人類が手にすることはないかもしれない。
内向きになり、地球近傍に引き籠り、恒星間航行どころか、惑星間飛行も、月への再挑戦も行わないかもしれない。
現に、この50年近く、人類は地球低軌道をぐるぐる回っているだけで、その外には出ていないのだ。
火星に飛んで行きたいなどといっているのは、どっかのクルマ屋のあんちゃん(誰?)だけで、大方の人類はそれどころではない。
地上のことで手一杯で、せいぜい、役に立つ低軌道の観測衛星(スパイ衛星含む)か、金になる静止衛星にしか関心はない。
深宇宙への探査機は、政治的なパフォーマンスのために、たまに飛ばさなければならないとしても、人間が乗って飛んで行くなどという話は、荒唐無稽もいいところだ。
それは、恒星間航行の10万分の1程度しかない、太陽系の中のさらに地球近傍の話である。
この地球しか、人類が生存できる空間はない。
それだって、十分過ぎるくらい広いのに、恒星間を人乗せて飛ぶなんていうのは、パスカルの賭けにすらならないだろう。
浮沈子がダイエットに成功する方に賭けた方が、生きることの意味が増すというもんだな。
まあいい。
SFに過ぎなかった月への飛行には成功したし、火星に片道だけ行くくらいなら、ひょっとしたら出来るかもしれないが、たぶんそこまでだな。
火星に着いたら、大急ぎで穴掘って、洞窟生活を始めて、地球から次々に送られてくる補給物資に頼って生き続けなければならない。
往路の放射線障害で、血管や造血細胞はボロボロ、循環器系の疾患で死ぬか、事故で死ぬか。
癌で死ぬまで長生きできれば、幸運と思わなければならないだろう。
もちろん、地球には、二度と戻れない。
それでは、人類が恒星間航行をすることは有り得ないんだろうか?。
ただ一つ、可能性はある。
(他力本願)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
「「他力本願」のうち、「他力」とは他人の力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力を現す言葉であり、「本願」とは人間の欲望を満たすような願いのことではなくあらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである。」
「悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。」
「修行の実践により自らの力で悟りを開こうとする人(難行道・聖道門を選ぶ人、修行仏教)や、その教義を否定するものではない。しかし自らの力で悟りを開こうとすることは、不可能に近いくらい難しいと捉える。」
まあ、ありていに言えば、宇宙人が迎えに来てくれるのを待つということだな。
推進方法にしても、放射線の遮蔽にしても、遥かな恒星の彼方から地球にやってくるわけだから、なんか、上手い方法を考え付いているに違いない。
他力本願で、恒星間航行を可能にするのが「現実的」(?)というものだ・・・。
(パスカルの賭け)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%B3%AD%E3%81%91
不確実性の中で、何かを信じて行うというのは、賭けである。
「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」
解説の終わりの方に、親鸞の歎異抄の話も出てくる。
(歎異抄)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84
「第二条:
自分の信心は法然上人の言葉を信じているだけで、果たして念仏が極楽往生できる因なのか、地獄に落ちる業なのかは知るところではない。」
「でも、たとえ法然上人にだまされていて地獄に落ちたとしても後悔はしない。」
「もし、私がそれまで行っていた修行をしていたら仏になれたのに、念仏をしたおかげで地獄に落ちたというのなら後悔もするだろうけれど、ろくな修行もできない私はどうせ地獄にしか行けなかったからである。」
「この上は念仏を信じるも捨てるも各々の自由である」
第三条は、有名な悪人正機説だが、ここでは触れない。
パンセの記述とは、いささか異なる気もするが、賭けて損しないのなら、賭けてみるという選択もある。
なんで、こんな話を始めたかといえば、こんな記事を読んだから。
(英BAEシステムズ社、反重力研究を開始:【2000年3月29日 BBC News (2000/3/27)】)
http://www.astroarts.co.jp/news/2000/03/29bae/index-j.shtml
BBCのリンクは生きていて、記事は今でも読むことが出来る(16年以上も前だけどな)。
日本語の記事は、ほぼ、忠実な訳になっている(たぶん)。
「You can invest a little money in far-out projects if they have some chance of success - it's called Pascal's Wager.」
「In this case, most scientists would say there is zero chance of success.」
「現実離れしたプロジェクトであっても、わずかでも成功の可能性があるなら、それに投資することはできるだろう。このことは『パスカルの賭け』と呼ばれる。」
「しかし、今回のケースでは、ほとんどの科学者は成功の可能性はゼロであると言うだろう。」
哲学的な思弁については、浮沈子の与り知らぬ世界だ。
反重力推進が、その後どうなったかについては知らない。
親鸞の言葉を読んでいて、ダイエットのことが頭をよぎる(現在、体調不良のため、休止中)。
「自分のダイエットは、カロリーの出入りをコントロールすれば成功すると信じているだけで、果たしてそれで本当にダイエットが出来るのか、結局リバウンドしてデブに戻るのかは知るところではない。」
「でも、たとえカロリーコントロール説にだまされていてデブに戻ったとしても後悔はしない。」
「もし、私がそれまで行っていた減量方法をしていたらスリムになれたのに、カロリーコントロールをしたおかげでデブに戻ったというのなら後悔もするだろうけれど、ろくな減量もできない私はどうせデブに戻るしかなかったからである。」
「この上はカロリーコントロールによるダイエットを信じるも捨てるも各々の自由である」
なんと、すっきりとハマることか・・・。
まあ、どうでもいいんですが。
元々の話は、恒星間航行が可能かどうかという話だ。
(恒星間航行は可能?)
http://www.astroarts.co.jp/news/2000/04/12spacetravel/index-j.shtml
「我々の太陽系から最も近い恒星までは、地球~冥王星間の10,000倍以上も遠いのだ。」(2006年までは、まだ惑星だったからな)
「では、恒星間航行は可能なのか? 現状では、そんなものはSF、想像の世界の話に過ぎないと言わざるを得ない。」
この後に、いろいろぐちゃぐちゃ書いてあるが、いずれにしても海のものとも山のものとも思えない、ワケワカの話だ。
「新たな知識がすぐそこにあって発見されるのを待っていることを、誰が知っているだろう? 私は進化――そう、一時はSFに過ぎなかったものを現実へと変えるような進化――がみつかる部屋があちこちにたくさんあるのだと個人的に信じている。我々が始めたことは単純で、正しい問いかけを持つことである。」
浮沈子には、パスカルの賭けのように感じる。
恒星間航行が可能だと信じたとしても、失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増すというものだ。
浮沈子は、信じていないけどな。
信じられるわけないだろう!?。
「我々の計画は3つの挑戦を含む。」
「第1に、我々は推進における推進剤の必要性を完全に無くすか、または大幅に減らすことを目指す。」
「第2に、我々は宇宙航行に必要な時間を大幅に短縮するため、究極的に可能な最大の速度を達成するための方法を見つけることを目指す。」
「第3に、我々は我々が目指す推進力を作り出すのに必要な根本的に新しい方法の発見を目指す。」
そんな都合のよい話があるなら、宇宙船なんかではなく、クルマとか飛行機に応用してもらいたいものだ。
「我々は今、月から持ちかえった石を地球上に持っている。だがたった40年前、これはSFでしかなかったのだ。」
浮沈子は懐疑的だな。
再び、新たな月の石を人類が手にすることはないかもしれない。
内向きになり、地球近傍に引き籠り、恒星間航行どころか、惑星間飛行も、月への再挑戦も行わないかもしれない。
現に、この50年近く、人類は地球低軌道をぐるぐる回っているだけで、その外には出ていないのだ。
火星に飛んで行きたいなどといっているのは、どっかのクルマ屋のあんちゃん(誰?)だけで、大方の人類はそれどころではない。
地上のことで手一杯で、せいぜい、役に立つ低軌道の観測衛星(スパイ衛星含む)か、金になる静止衛星にしか関心はない。
深宇宙への探査機は、政治的なパフォーマンスのために、たまに飛ばさなければならないとしても、人間が乗って飛んで行くなどという話は、荒唐無稽もいいところだ。
それは、恒星間航行の10万分の1程度しかない、太陽系の中のさらに地球近傍の話である。
この地球しか、人類が生存できる空間はない。
それだって、十分過ぎるくらい広いのに、恒星間を人乗せて飛ぶなんていうのは、パスカルの賭けにすらならないだろう。
浮沈子がダイエットに成功する方に賭けた方が、生きることの意味が増すというもんだな。
まあいい。
SFに過ぎなかった月への飛行には成功したし、火星に片道だけ行くくらいなら、ひょっとしたら出来るかもしれないが、たぶんそこまでだな。
火星に着いたら、大急ぎで穴掘って、洞窟生活を始めて、地球から次々に送られてくる補給物資に頼って生き続けなければならない。
往路の放射線障害で、血管や造血細胞はボロボロ、循環器系の疾患で死ぬか、事故で死ぬか。
癌で死ぬまで長生きできれば、幸運と思わなければならないだろう。
もちろん、地球には、二度と戻れない。
それでは、人類が恒星間航行をすることは有り得ないんだろうか?。
ただ一つ、可能性はある。
(他力本願)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
「「他力本願」のうち、「他力」とは他人の力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力を現す言葉であり、「本願」とは人間の欲望を満たすような願いのことではなくあらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである。」
「悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。」
「修行の実践により自らの力で悟りを開こうとする人(難行道・聖道門を選ぶ人、修行仏教)や、その教義を否定するものではない。しかし自らの力で悟りを開こうとすることは、不可能に近いくらい難しいと捉える。」
まあ、ありていに言えば、宇宙人が迎えに来てくれるのを待つということだな。
推進方法にしても、放射線の遮蔽にしても、遥かな恒星の彼方から地球にやってくるわけだから、なんか、上手い方法を考え付いているに違いない。
他力本願で、恒星間航行を可能にするのが「現実的」(?)というものだ・・・。
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