500Eドライブ2016年07月31日 02:55

500Eドライブ


日付が変わって、昨日になったが、500Eを運転した。

150kmくらい、所用で走る。

殆どが高速だが、下道も走った。

若干の渋滞と、気持ちのいいクルージング。

本領発揮というところだな。

この1週間、3台の所有車を乗り継いだ。

どれも個性的で、共通するのはリアアクスルを駆動することと、屋根が開くこと、ドイツ車なことくらいか。

エンジン配置は、フロント、ミッド、リアオーバーハングと、全て異なる。

定員は、2人乗り1台、あとの2台は4人乗り。

2003年型の2.7リッターのボクスターは、相変わらず優等生で、乗りやすく、日本の道では十分過ぎる動力性能を持ち、オートマ(ティプトロニックS)で、楽ちんだ。

ちなみに、この時期重要なエアコンは、一番良く効く。

83年型SCタルガの911は、エアコンなどは付いていない。

エンジンはカレラの3.2リッターに乗せ換えられていて、車検も通している。

パワーステアリングも付いていない、マニュアルトランスミッションのクルマだが、これが乗っていて一番面白い。

リアのエンジンフードを、ダックテイルに交換して、フロントをストラットタワーバーとアンダーバーで固めているが、高速域で前が浮くのが玉に瑕だな(玉かあ?)。

まあいい。

カナードを付けようと思っており、出来合いのものがないので、1品物を作ろうと思っている。

アルミ板を加工すれば、簡単に出来そうな気もするんだがな。

いろいろ試してみたくなるクルマだ。

それに比べて、500Eは、つまらないといえばつまらないクルマである。

A地点からB地点に移動するのに、最も楽ちんなクルマであって、面白いかどうかは別にして、ミドルサイズのセダンとして、十分な性能を持っている。

本来の速度域(200km以上)で運用できないのは辛いところだが、我が国では適わない話だ。

しかし、法定速度プラスアルファーの領域でも、十分その性能を発揮する。

渋滞に掴まってエアコンをガンガンに効かせた時の燃費は最悪だが、それでもリッター5kmを切ったことはない。

今日満タンにしたら、6.5km走っていた。

まあまあかな。

高速中心なら、8km位はいく。

プリウスとか、最近のコンパクトセダンは、リッター20km位は平気で走るらしいから、3分の1くらいだが、取り換える気にはなれない。

安定した走りと、ストレスのない乗り心地は、ちょっと他のクルマでは味わえない。

不思議なクルマなのだ。

330馬力は、今時のセダンとしては、標準のパワーだが、24年前のクルマであることを考えると、凄まじい限りだ。

今でも、ふつーに乗れる。

ガソリンは食うけど、それに見合った仕事はキッチリする。

いつもの秋葉原の立体駐車場に、ほぼギリギリで入るしな。

大きさ的には、日本の道に合っている。

ジャストサイズといっていい。

狭いところにも、FRの回頭性の良さを生かして、臆することなく入っていける。

たまに動かしてやらないと、リチウムイオンに交換したバッテリーが上がったり、デスビに結露したりして、ちょっとびっくりするけどな。

ガンガン使い倒す、実用車なのだ。

ガレージの中に飾っておくようなクルマではない。

が、用もないのに引っ張り出して乗りたくなるようなクルマでもない。

そういうのは、83タルガに任せてある。

その意味では、03ボクスターは少々出来が良過ぎる。

乗って走らせることに、何の抵抗もない。

ふつーに使える。

カッコは、フルオープンのミッドシップ2シーターで、一番派手なクセに、下手すると、一番乗り易かったりする。

長距離走ると、500Eの方が遥かに楽だが、100km程度では、どっちもどっちだな。

箱根に行くのに、500Eで行こうとは思わないが、03ボクスターはフルオープンで走れるなら、引っ張り出してもいい。

が、どーせ行くなら83タルガで行く。

乗っているだけで楽しい。

しっかり暖機したり、重いクラッチ踏んだり、デリケートな繋がりに気を付けたり、マニュアルシフトの癖を飲み込んで動かしたり、いろいろ忙しい。

でも、こいつを滑らかに走らせることに集中している時が、やっぱ、一番楽しいな。

踏めば、リアを沈めてしっかり加速するし、ブレーキを踏めば、RRの重量配分を生かした、気持ちのいい止まり方をする。

33年前のクルマだ。

それに比べれば、500Eはそっけない。

サンルーフ仕様だけど、他の2台に比べれば平凡なクルマで、移動のための道具以外の使い方には向かない。

二度と作られることのない類のクルマだが、日常的に感動して乗るということはない。

それが当たり前で、浮沈子のセダンの基準は、これになっている。

このクルマに乗り始めてから、他のクルマに対する興味が減ってしまった。

少なくとも、セダンを探すことはしなくなった。

クルマの雑誌も買わなくなったし、他のクルマに目が行くこともない。

スポーツカーとかは別だけど。

BMWにも、最近のベンツにも、アウディとか、国産の出来のいいセダンにも、興味はなくなった。

たまに試乗することがあるけど、それから乗り換えた時に、なんかホッとするのだ。

座り慣れた椅子、300Eの頃と同じメーター周り(最高速度くらいしか違わない・・・)。

ハンドルとかは小さくなったけどな。

全てが、あるべきところにあり、収まるべきところに収まっている。

足りないものがあるとすれば、グローブボックスと、ドリンクホルダー位のものだ。

クルマのことを考えなくていいクルマ。

それが500Eだろう。

加速したければ、ただ、アクセルを踏めばいい。

何のストレスもなく、5リッターV8エンジンが滑らかに回って、とんでもないスピードまで加速する。

そういう走りを楽しむクルマじゃないけど。

住宅街の裏道を、20km以下(メーターが20kmからなので、速度は不明)で、ゆっくりと流して走っていても、全くストレスはない。

そっとアクセルを踏んで、ゆっくりとした加速で運行する。

そう、昔のベンツだから、2速発進なわけだ。

今日は、郊外の道も走った。

夏本番の暑さの中、白い雲が浮かぶ青い空の下を、てろてろと60km位で走る。

そういう使い方でも、イラつくことはない。

重い車重(1.9トン)を、分厚いトルクで軽々と押し出す走りは、贅沢な乗り心地だ。

クルマは、重いのがいい。

軽いクルマは、振り回すのは楽しいけど、乗って寛ぐには向いていない。

しかも、500Eの美点は、ハンドルにしっかりと情報を伝えてくる点だ。

地面がどうなっていて、タイヤがどっち向いてどんな感じで接地しているかが、手に取るように分かる。

ポルシェのように・・・。

で、このクルマが、ポルシェの設計で、ポルシェの工場で作られたことを思い出す。

300Eとは、明らかに異なるハンドリング(少なくとも92年は)、サスペンションの動き、ボディの剛性感・・・。

そりゃあ、サスペンションのジオメトリーとかは、アウディにちっとは教わったかもしれないけど、ポルシェの設計には違いない。

仕上げのセッティングは、ベンツがしたらしいけどな。

そんなこんなで、一皮めくれば、鎧がギラギラしているクルマだ。

16インチホイールを履く、古臭いセダンだけど、200kmオーバーを、完全に日常的な速度域にしている高速セダンだ。

そのスピードで、何時間も走り続けることを前提に作られている(日本仕様は、冷却系、手抜きされてるみたいですが)。

90リッターのガソリンタンクは、そのためのものだ(単価が安い時に、まとめ買いするためではありません!)。

そのクルマの本来の使い方にハマった時、天使が舞い降りて、翼の先でそっと触れるんだろう。

ドライバーからは分からないが、金属と樹脂とガラスとゴムとで出来たただの機械が、文字通り輝き出す。

ガラスコーティングしてあるとか、そういう意味ではなく、機械が能力を最大限に発揮して、調和のとれた響きを奏で始める。

今日は、ちょっとだけ、それに近い速度域まで、一瞬引っ張ってみた。

ピカッ!。

おっと、気を付けよう。

ここは、アウトバーンじゃない。

それでも、その交響曲の片鱗を感じ取ることが出来る。

まあ、どうでもいいんですが。

輝きは、一瞬で消え、くすんだ様な、寝ぼけた走りに戻る。

きちんと整備された500Eを舐めてはいけない。

このクルマが棲息する本来の速度域で走らせたら、そのバランスの良さと、今では作ることが出来ない高剛性のボディが織りなす安定した走行性能は、現代の高速セダンに引けをとらない。

一瞬だけ出すのではなく、何時間も走り続けるというのが、高速セダンの本来の走り方だ。

ドライバーを疲れさせないのは、ただ安楽な乗り心地を提供するためではなく、そういうハードな走りに、安全に応えられるようにするための配慮なのだと納得する。

ああ、そういうことなんだ・・・。

ジジイになって、やっぱ、この手のクルマを乗り続けて良かったと思う。

若い時には分からなかった、本質的なことがいろいろ見えてくるのだ。

飾っておくためではない、一瞬の煌きだけではない、使い倒し、使いまくって見えてくる輝きがある・・・。

機械って、そういう存在なんだと、改めて、身に染みて感じる。

まあ、その意味では、83タルガなんて、アイドリングからして輝いてるかもしれないけどな・・・。

虚構2016年07月31日 10:47

虚構


投票に行ってきた。

都民としての義務を果たす。

このブログは、下ネタと政治の話は慎重に避けている。

個別の政策課題(国防や情報管理など)については、それなりに話題にすることもあるが、政党やその指向するイデオロギーに対する話題は、原則として取り上げない。

浮沈子は、非国民なので、国家に対する忠誠心とかに乏しい。

敗戦国に生まれ育ったわけだから、本当なら事実上の宗主国となった米国に一矢報いたいと臥薪嘗胆するのが筋なんだろうが、いかんせん、長男で初孫なので、そんな気概もない・・・。

まあ、どうでもいいんですが。

選挙は、若い頃、1回だけ行かなかったことがあるが、それ以外は全て投票した(期日前投票制度が充実する以前の話)。

地方自治体の選挙も、欠かさずに足を運ぶ。

浮沈子の周囲には、既成政治に抗議するとか言って、投票しないことを政治参加だとうそぶく輩もいたが、浮沈子はそうは思わない。

議会制民主主義で普通選挙で代表者を選んだり、首長を直接選んだりできるということは、素晴らしいことだと教えられてきた。

長じて、人生経験を積んだり、我が国以外の状況を見聞きするにつけ、それが間違ったことだと思ったことはない。

と同時に、そういう仕組みがあるにもかかわらず、人類の統治行為が多くの課題を解決できないでいることも事実だ。

そんな仕組みがない国も多い。

国情の違いで、制度的にもばらつきはある。

どんな統治がいいかは、その国の国民が決める。

気に入らないからといって、内戦に突入することもあるだろうが、それもまた、一つの解決方法かもしれない(決して、推奨されないとは思いますが)。

そうやって選択された国民国家が世界を形成し、国際間の問題を処理していく仕組みも作られている。

それが、上手くいっているなどとは到底言えないにしてもだ。

現代は、世界が高度に繋がっていて、身の回りを見ても、限られた地域のことだけで生活が成り立つことは殆どない。

電気にしても、ガソリンにしても、世界経済とのつながりを欠いては手に入らないし、身の回りは外国製品で溢れている(クルマはドイツ、リブリーザーは英国とスウェーデン、パソコンは中国などなど)。

都会に棲息する浮沈子は、人類の中でも最強の従属栄養生物の一人である。

自ら食料を生産することはないし、ひたすら食うだけの存在だ。

飢えて死ぬことはないだろうが、過食による疾病を誘発して、天寿を全うできない可能性は高い。

そんな飽食の時代を、大都会の片隅で送りながら、今朝は、自転車にも乗らずに、徒歩で投票所まで行く。

目の前を歩いている人たちは、きっと投票に行くんだろうと思いながら。

杖ついて歩いているジジババが多いな。

若い、着飾った人は、投票所方面に行かずに、駅の方に行ってしまう(期日前投票したんだろうか?)。

投票所になっている小学校の前の道は、自動車が何台も停まっている。

足の不自由な方なら仕方ないが、近所なんだから、歩いてくればいいのにとも思うが、お出かけ前に投票するのも殊勝なことなので、まあいいか。

入場すると、選挙公報が置いてあったので、都議会議員の補欠選挙(大田区は、それもありました)の広報を手に取って読む。

まあ、事前に決めてきてはいるが、一応、念のため。

都知事選挙については、決まっているので読まない。

このところ、都知事はスキャンダルで交代している。

情けない話だが、まあ、仕方ない。

米国の大統領選挙のように、2年も掛けて事前にたっぷりスキャンダルを出し切って出てくるわけではない。

今回選ばれる知事にしても、この先、何があるかは分からないのだ。

既に、そういうネガティブな話が出ている候補者もいる。

本人の歳を考えれば、それが都政に影響を与えるとは思えないけどな。

まあいい。

投票を終えて、清々しい気持ちで家路を歩む。

選挙は、虚構だ。

この政治過程で、何かが変わるわけではない。

自分たちの統治を委ねる正当性を担保する重大な行為に、そんな感慨を抱いてはいけないんだろうが、正直、虚構だと思う。

しかし、世界には、その虚構すら抱けない人々が、何十億といるのだ。

都知事選挙というのは、地方政府の首長選挙としては、世界最大の直接選挙だ(たぶん)。

そんな大それたイベント(!)に、せっかくタダで(まあ、税金は払いますが)参加できるのに、キャンセルするのももったいない。

浮沈子の1票は、虚構に消えるかもしれないが、参加しなければ、その虚構さえも消えてしまうかもしれない。

浮沈子が生まれた時から、選挙はあった。

それが当たり前で、投票するのが普通だと思ってきた。

最近は、落選しそうな候補者に投票しないで、政策的にはすり合わなくても、当選しそうな候補者に入れる(!)という選択をする方が多いとも聞く。

まあ、それだって、自分の意思なんだから、ダメだとは思わない(ダメだけどな)。

その結果は、回りまわって、自らに降りかかることになる(たぶん)。

投票しないと、そういう方も含めて、無条件で他人に生活を委ねることになる。

それで構わないという方は、投票しなくてもいいのかもしれない(そうじゃないけどな)。

選挙に裏打ちされた、民主主義という虚構を支えるためにも、投票には行くべきなんだろう。

それが気に入らないから、投票に行かないという考え方もある。

浮沈子だって、未来永劫、代表制民主主義や、首長公選制が続くとは思わない。

多くの人間が寄り合って生きていかざるを得ない状況下で発生する、現実の課題を如何に解決するかについて、現行制度が完璧だなどとは思わない。

テクノロジーが進歩しているのに、わざわざ入場券持って、小学校まで歩いて行くなんてのもダサいしな。

我が国は平和だ。

投票所が、武装集団に襲われたりすることはない(たぶん)。

静穏な雰囲気の中で、粛々と投票は行われる。

どんな結果が出ても、浮沈子の生活には直接の影響はないだろう。

しかし、確かなことが一つだけある。

自分たちの統治を、自分たちで行うという結構な制度が、また1回、維持されたということだ。

生きている間に、あと何回選挙があるかは分からない(衆議院なんて、任期満了したこと殆どないしな)。

(衆議院議員総選挙の一覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99#.E8.A1.86.E8.AD.B0.E9.99.A2.E8.AD.B0.E5.93.A1.E7.B7.8F.E9.81.B8.E6.8C.99.E3.81.AE.E4.B8.80.E8.A6.A7

都知事だって、任期満了せずに交代するかもしれないしな(オリンピック絡みで?)。

何より、浮沈子がいつまで投票に行けるかも分からない。

しかし、可能な限り、選挙には参加したいな。

政治向きの記事は、あまり書かないが、普段は関心がないからに他ならない。

そういうことは、やりたい人に任せて、浮沈子は自分の時間を生きていきたい。

だから、せめて、選挙には行く。

それが、たとえ虚構を維持するための、一見無駄な行為に思えたとしても、その虚構さえ消えてしまった世界に生きたいとは思わないから・・・。

ケイマンどうよ?2016年07月31日 13:00

ケイマンどうよ?


試乗でさえ、987モデルを1回だけ。

所有したことはないし、しようと思ったこともない(GT4は、正直迷ったけどな)。

718になって、価格的にはボクスターより安くなり、相対的には買いやすくなった。

旧来の顧客は、差額を返せと訴訟を起こしてもいいんじゃないのかあ?。

まあいい。

オープンボディのボクスターが先に開発された経緯もあり、クローズドボディのくせに、ボクスターよりも車重が重い。

情けない話だし、重心が高くなることを嫌う走り屋からは敬遠されることもある。

構成としては、量産車としてはポルシェ初のMR2座のクーペという、美味しいポジションなのに、いまいちシャキっとしない。

今回の価格改定で、そのポジションは、スポーツカーのエントリーモデルになってしまった。

それでなくても、4気筒ターボ化で、車格を落としている(そうなのかあ?)。

(ポルシェ 718 ケイマンを試乗──サーキットでも一般道でもゴキゲンそのもの!)
http://gqjapan.jp/car/review/20160729/porsche-718-cayman-kawamura

都内、某ポルシェセンターの営業さんは、お買い得のスポーツカーだと言い切っていたし、実際に乗れば、Sじゃなくても十分すぎるほど速いだろうことは想像できる。

「これまで常にボクスターシリーズを上回る最高出力値を誇ってきたケイマン用ユニットが、今回の718 ボクスターと718 ケイマンでは、その出力スペックが完全に同一になった。これを根拠として、これまではボクスターよりも高かったケイマンのプライスタグが、今度は「ボクスターよりも下」という位置づけに変更された点も、今回のニュースのひとつである。」

ボクスターを高く売りたいだけの話で合って、ケイマンを安くしたわけではない。

それでも、これでますます、ケイマンの売れ行きは鈍くなるだろうな。

ポルシェ買うのは、見栄張りたいからであって、お手頃なスポーツカーを乗り回したいからではないのだ(そうなのかあ?)。

それでも、きっといいクルマであることは変わらない。

操縦性が素直で、限界が高く、それを超えても穏やかな特性を維持する。

走りの性能が高いだけではなく、普段使いや、ちょっとした旅行の荷物も積めて、オシャレに使える。

アルファの4Cとは客層が違うだろうが、似たような車だ。

エンジンも、4気筒ターボで横並びになったしな。

雨漏りとかしないし、ストレスなく乗れるだけでも買いだろう(4Cの価値は、そんなところにはないしな)。

世界を見回してもMRクーペで手ごろなモデルは他にない(ああ、エキシージとかは、あるけどな:6気筒スーパーチャージャー:メーカーは、公道を走るレーシングカーといって売っている)。

狭い市場なのだ。

ポルシェは、ボクスターで、確固たる市場を築いた。

当分は盤石だろう。

ケイマンはビミョーだが、売り方を変えて、起死回生というところか。

売れるかな?。

浮沈子が心配することじゃあない。

ジャパンプレミアムでも、クルマの宣伝は殆どしなかったようだしな。

(ポルシェが『ケイマン718』の発表会で伝えたかったこと)
https://news.nifty.com/article/economy/economyall/dime-271160/

「詳しい説明は事前に配られた資料で済ませ、説明は行なわれなかった。」

格下げにされ、ダウンサイジングされ、ボクスターの後に公開されたモデルだ。

記事は、プレス資料で書いてくれということなんだろう。

あからさまだが、分からないでもない。

浮沈子は、試乗できるようになったら、是非とも乗ってみたいと思っている。

もう、モデル自体を廃止してしまってもいいような気がする。

まあ、そんなことはしないだろうけど。

利益率が高いボクスターを売るための当て馬、後付けの屋根付きモデル。

コストとか考えても、クーペ専用ボディを作ることはしないだろう。

あくまでも、ボクスターの派生モデルに留まる。

少なくとも、今のところは。

そして、当分の間・・・。

鳴かず飛ばずで構わないのだ。

そういう位置づけにされたケイマン。

復活の狼煙は、クーペ専用ボディを与えられ、ボクスターとは別のカテゴリーとして、V8ツインターボ積んで、フェラーリの対抗馬として出てくるときに上がるだろう(ホントかあ?)。

まあ、どうでもいいんですが。

ポルシェのことだ、3手先を読んでいるに違いない。

このまま、ミッドシップクーペという、美味しいカテゴリーを塩漬けにしておくとは思えない。

10年毎に限定生産されるスーパーカーが、その先の10年を占う。

カッコだけマネして、それで済まそうなんて、寂し過ぎる。

2座のリアミッドシップクーペは、永遠のアイコンだ(スイマセン、古い人間なんで)。

地に落ちた(?)威信を取り戻すのは、いつになるんだろうか・・・。

千里眼2016年07月31日 15:27

千里眼


(「カウチポテト」にノー 法王、シリア犠牲者に祈り:【クラクフ共同】)
http://www.sankei.com/photo/daily/news/160731/dly1607310008-n1.html

「「私たちの町は破壊された。毎朝出掛ける時には、帰宅したら家や家族を失っているのではないか、自分は今日殺されるのではないかという恐怖に襲われる」と日常的に死と隣り合わせで暮らす思いを打ち明けた。」

「ミトリさんの証言に耳を傾けた後、法王は「快適なソファでゲームやパソコンの画面に浸るのは、(世界の惨状に無関心な)まひ状態の最も有害な姿だ」と批判。「多くの人々が苦痛にさらされている現状を見過ごすことはできない」と語り、自分の殻に閉じこもらず政治や社会活動に関与するよう呼び掛けた。」

聖職者の目は鋭い。

(クラクフ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%95

「第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが創設された。オスカー・シンドラーが経営していた工場は、クラクフ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていた。」

「クラクフに縁のある著名人:
・ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920年 - 2005年、教皇就任まではクラクフの司教)
・ニコラウス・コペルニクス(1473 - 1543、天文学者、司祭)
・ジョゼフ・ローゼンストック(1895年 - 1985年、NHK交響楽団の「育ての親」)
・ロバート・クビサ(1984年 - 、レーサー)
・オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」で著名な実業家。アーモン・ゲートの収容所からユダヤ人を救出する)
・スタニスワフ・レム(1921年 - 2006年、SF作家。『惑星ソラリス』の原作者)
・アンジェイ・ワイダ(1926 - 、映画監督)」

浮沈子が、どっかで聞いたことがある名前が多いな。

遠く離れたそんな街から、鋭い目が世界のカウチ族を糾弾する。

安楽な部屋で、パソコンに向かっていて、何が悪い?。

「シリアなど世界各地で紛争や流血が続く現状に目を向けず、ソファで寝転んでいる「カウチポテトにならないように」」

(カウチポテト族)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%81%E3%83%9D%E3%83%86%E3%83%88%E6%97%8F

「ソファー(カウチ)に座り込んだ(寝そべった)まま動かず、主にテレビを見てだらだらと長時間を過ごす人を、「ソファーの上に転がっているジャガイモ」にたとえて揶揄または自嘲した、アメリカの俗語的表現である」

浮沈子は、ポテトチップ食ってるヤツだとばかり思ってたんだがな。

「怠惰で運動不足の上にジャンクフードばかりを食べ、肥満など不健康な生活状態にある、という含意を持つ事が多い」

「物質的に豊かではあるものの精神面で荒廃している状況や、現代における生活習慣病など不健康な状況を表す代表的・象徴的イメージであるとされる。現代文明の象徴であるテレビを、安価なジャンクフードを食べながら、贅沢の象徴であるソファーに寝転んで見るという、怠惰と贅沢の象徴が記号としてミックスされた造語である。」

浮沈子の日常を活写している。

まあ、テレビの代わりに、パソコンの画面に向かい合っているけどな。

無料で手に入る情報をせっせと仕入れては、ブログに垂れ流すしか能がないけどな。

昨夜は、しっかり、うな重特盛食べたしな。

フランシスコには、そんな浮沈子の怠惰な生活も見え見えなのかもしれない。

しかし、世界に平和が訪れ、争いが亡くなり、物質的に豊かになったら、みんながカウチ族になるんじゃないのかあ?。

21世紀だから、ポケモンGOしながら、歩き回るかも知れないけどな。

そんな平和で穏やかな世界になれば、聖職者は暇でしょうがなくなるのかもしれない。

が、それは、現実には遠い遠い未来の話、あるいは、単なる空想に過ぎない。

フランシスコについては、こんな記事もあった。

(フランシスコ法王、アウシュビッツ強制収容所を訪問 ポーランド)
http://www.afpbb.com/articles/-/3095719

「アウシュビッツ訪問前に法王は、この場所で行われた恐しい出来事に思いを巡らすために、礼拝では演説を行わず静かにたたずみ、涙が流れるのにまかせると述べていた。」

沈黙は金・・・。

計算されつくしたバチカンのパフォーマンスかも知れないけど、浮沈子はそうは思わない。

ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(本名)の、本音なんだろう。

浮沈子は、カトリック教徒ではないし、キリスト教徒でもない。

宗教は持たないし、神様を信じてもいない(パスカルの賭けはしてないわけだな)。

しかし、強大な権力中枢に収まったフランシスコには注目している。

そして、その言動には、いつも驚かされるのだ。

インターネットにより、世界は確かに繋がりを増して、物事は広く知れ渡るようになったが、同時に溢れる情報の中で、何が大切かが見失われている。

(ローマ教皇フランシスコの率直すぎる10の発言)
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/073100206/

「人は利益や消費の幻想の犠牲に、つまり『使い捨て文化』の犠牲になっています。コンピューターが壊れたら悲劇ですが、多くの人の貧困や欠乏や窮状は正常化するでしょう。」

ドキッ!。

まあ、世界にはコンピューターなど見たこともない人々は大勢いるに違いないしな。

(第4回 「説教よりも心に響く」教皇の姿勢)
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/16/040500005/042200004/

「イタリア南部のカラブリア州を車で移動していた時のことだ。教皇は、道路脇に掲げられたあるメッセージに目を留める。」

「“教皇様をお待ちしている天使に会ってやって下さい”」

「生まれた時から寝たきりで、補助器具なしには自力呼吸ができないという若い娘ロベルタの姿があった。ロベルタは、ベッドに寝かされたまま道端で教皇を待っていたのだ。」

「教皇はロベルタにキスをすると、彼女のために祈った。」

「説教よりもずっと心に響く、人としての姿勢がそこにあった」

どっかの国では、凄惨な事件が起こり、多くの障害者が命を失った。

(教皇、日本の殺傷事件で哀悼の意)
http://www.cathoshin.com/news/pope-tsukui-yamayurien/11132

事件を知ったベルゴリオが、どれ程の心の痛みを感じたかは、想像するに余りある。

まあ、どうでもいいんですが。

世界は、今も戦争状態にあり、多くの人々が苦しんでいる。

浮沈子は、パソコンの前で、安楽にカウチすることしかできない。

そして、同じ人間である一人の男が、自らを神の道具と信じて、徒手空拳で戦っているのを見つめている。

そして、そんな自分の姿が、千里眼のような彼の目に見破られているのを知って、おたおたしているのだ・・・。