言論の自由?2013年05月03日 09:33

言論の自由?


朝日新聞の記事がある。

(圧力でペンは曲げない(明日も喋ろう:7))
http://www.asahi.com/national/update/0502/OSK201305020067.html

企業弁護士からの電話を「圧力」と解釈するような、ズレタ感覚のジャーナリストの話が出てくる。

浮沈子に言わせれば、圧力ではない。

自分に都合が悪いから、記事を書かないで欲しいと依頼することのどこが圧力なのか。

しかも、名刺を渡して正面から依頼している。

また、記事の中で取り上げられた朝日新聞社への銃撃については、圧力とは異なる話だ。

まあ、特定の記事を書かせないためというのであれば、最も有効な手段の一つかもしれない。

こういうことが我が国でも起こりうると、ジャーナリストを名乗る輩に知らしめたことは、圧力ではない。

単なる事実である。

フィリピンでは、日本人の経営者が殺害されたという記事が報道されている。

存在を排除するには、シンプルで効果的な方法である。浮沈子は、人間の営みとして、殺人という行為はなくならないと考えている(もちろん、推奨しているわけではありません)。

逆に、言論の自由を貫く先に、殺人が起こるのではないか。

圧力に屈せずに記事を書くことによって、存在の排除としての殺人が起こる。

ジャーナリズムに対する圧力というのは、家族、友人、会社など、本人以外の周辺に対する様々な嫌がらせ、脅迫、実力行使が効果的である(もちろん、推奨しているわけではありません)。

書かないことだけではない。

自分に都合のよいことを書いてくれたら、いいことありますよ、というのも圧力である。

甘言に乗せられて、ありもしないこと(とは限りませんが)を書いてしまうというのも圧力に屈することである。

民主主義の国だからこそ、圧力によってジャーナリズムをコントロールして民意を誘導し、自分に都合のよい世論を形成し、政治や経済を意のままにしようとするのだ。

民主主義でなければ、そんなことをする必要はないし、そもそも、真っ当なジャーナリズムは存在しない。

圧力をかける側にとっても、ジャーナリストは必要な存在なのである。

圧力をかけても、意のままにならないジャーナリストを排除するには、物理的な排除を選択する。

それは、民主主義だからこそ有効な手段である。

批判するなら、民主主義にもとるということではなく、法治国家として許されない、という観点でなければおかしい。

言論の自由は、結果さえ考えなければ、どこにでもある。

結局は、自身も大企業であるマスメディアの「会社の方針」が、鍵を握ることになるのではないか。

ジャーナリストの犠牲者が少ない我が国では、①言論の自由が確保されているか、②ジャーナリストが自らの自由を放棄しているか、③そもそも民主主義でないか、のどれかだろう(③かな?)。

ありがたいことに、このブログで圧力を受けたことはない(提灯記事を書いてくれと言われれば、条件にもよっては、いくらでも書く気はあるんですが、そういう「圧力」も、残念ながらありません!)。

徒然なるままに駄文を綴る自由は、「言論の自由」という肩の凝る話とは違うが、楽しみとして確保しておきたい。

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