真夜中の食堂 ― 2016年10月04日 02:20
真夜中の食堂
夜、10時過ぎに食堂に降りてくる。
スタッフのドナは引き上げていて、誰もいない。
雨が降り出して、気温が下がっている。
といっても、半そで短パンで、サンダル履き。
前の記事をアップして、さて寝ようかと思ったが、ちょっと寝付けそうにないので、何か書くことにする。
雨音が強くなって、食堂のトタン屋根を叩く。
今日、イントラと話したCCRの将来の話が思い出される。
テクニカルダイビングはともかく、レクリエーショナルでの普及はないだろうという、ちょっと悲観的な話だった。
PADIの方でも、テックレックでさえ、腰が引けている。
ビジネスとしての旨味はないということだ。
ましてや、数に限りがあるCCRの世界が、ビジネスとして成り立つかどうかというのは疑問なんだそうだ。
サイドマウントですら、将来はないという見方もある。
しかし、先のことは分からない。
あくまでも、現在のダイビングの姿をベースに考えればという大前提があるのだ。
シングルタンクでぞろぞろとビーチエントリーして、40分から60分潜って、エキジットしてからログ付して解散、または打ち上げ・・・。
まあ、海外だと、浮沈子が知る限り、殆どがボートダイビングで、乗り合いのデカいダイビングボートに乗って、ポイントに着くとガイドさんが飛び込んで、後に続いてゲストがエントリー。
ガイドにもよるが、西洋人は、ガンガン泳ぐ。
付いていくだけでも、精一杯だ。
そして、同じくらいの時間潜って、エキジットする。
2本から3本、クルーズでは、ナイト含めて5本潜ることもあるという。
浮沈子は、4本が最高だけどな。
疲れる・・・。
そういうんじゃなくって、朝、ゆっくりと起きだして、朝食を取った後、おもむろにCCRの用意して、10時頃にエントリーして、3時間連続で潜って、その日のダイビングはおしまい。
遅い昼食を食べ、ぐっすりと昼寝を楽しむ。
そういう、ゆとりのあるダイビングは、想定の範囲外だろう。
現在のダイビングのスタイルは、概ね器材の制約から来ている。
ダイビングの需要に合わせて器材が出来たわけではなく、器材の制約に合わせて、ダイビングスタイルが確立されただけだ。
しかも、激しい競争の中で、最も効率のいい運用、つまり、コストを掛けずに多くの人数を回すやり方になった。
ダイバーの快適さを最優先にするのではなく、サービスを提供する側の都合で作られたスタイルだ。
浮沈子は、器材は全て水中のステージで装着し、重さを感じないでエントリーできるのが当たり前ではないかと感じている。
CCR、重いしな。
また、ダイビングが水中世界に遊ぶという体験型のレクリエーションである以上、器材を所有するのではなく、そのサイトで、整備された最新の器材を貸し出すのが基本だと思っている。
CCRだって、そのうちスタンダードが出来るに違いないし、そうなればレンタル器材が当たり前になるんだろう。
そういう、新しいダイビングのスタイルを確立することなく、現在の器材の制約に縛られ、提供側のコスト最低、収益最大を基準に作られた枠組みの中だけで考えれば、確かにCCRの未来は暗い。
発想の転換が必要だな。
新しいダイビングスタイルを提案することなく、新しい器材を普及させることは出来ないだろう。
デイドリームが、サイドマウントとレックダイビングを融合させようとしているのは、その一つの試みなのかもしれない。
元々、狭いところを通り抜けるための器材として開発されたサイドマウントと、狭いとこならしこたまある缶詰め(沈船)とは、相性がいいのだ。
さらに、ナイトロックスやテクニカルダイビングの需要の掘り起こしにもつながる。
デイドリームでは、ナイトロックス吸い放題だからな。
ヘリウムこそないが、純酸素もたくさんあるので、CCRや加速減圧程度の需要には、十分応えられる。
現実的に、新しいダイビングのスタイルを提案してきている。
えーと、浮沈子の指向しているのとは、ちっと異なるけどな。
砂浜少ないし、ヤシの木生えた無人島に、ウクレレ引いてくれるねーちゃんいないしな(そうなのかあ?)。
まあ、どうでもいいんですが。
そういう、浅く、明るく、暖かい海での、リラックスしたダイビングがいい。
轟音まき散らし、水中生物を蹴散らしたり、追いかけたりするダイビングではなく、水中世界に溶け込むCCRで静かに潜る。
ああ、もちろん、中性浮力とトリムくらいは取れないとカッコ悪いけどな。
沈船の中に入るのではなく、甲板の上で浮かんでいるだけでもいい。
スクリュー見たり、舳先を見たり、操舵室を外から眺めるだけでもいい。
棲みついている生物や、そこにやってくる生物を、ぼんやり眺めているだけでいいのだ。
時折、ダイバーという生物もやってくる。
泡吹いて、狭いところに入りたがる、へんてこな生物だがな。
そうして、3時間も潜っていれば、入れ代わり立ち代わり、ダイバーがやってきては帰っていくのを眺めることが出来るだろう。
CCRでのダイビングは、従来のダイビングを根底から揺るがす潜在的な力を持っている。
そりゃあ、オープンサーキットだって、タンクをしこたま持ち込めば、同じようなことは出来るかもしれないし、既にテクニカルダイビングの世界では、そういうことが普通に行われている。
もしも、レクリエーショナルダイビングで同じようなことが出来るなら、その世界を彼らテクニカルダイバーだけのものにしておくのは、勿体ないのではないか。
無減圧、40m以内、閉鎖空間でないことを守れば、長時間の連続ダイビングを、静寂のなかで堪能できる。
その代償は安くはないが、オープンサーキットでは決して得られない経験が出来ることは確かだ。
目の前を魚が通り過ぎたり、トルネードに巻かれたり、身体の日陰にチョウチョウウオがいつまでもまとわりつくという経験は、CCRならではのものだ。
水中世界に溶け込む。
そして、その真の姿を垣間見る。
液晶の画面を通してではなく、今、そこにある水中世界を、ありのままに体験するのだ。
水族館というのがある。
アクリルの透明な板を隔てて、水中世界が目の前に展開する。
ついこの間、大洗の水族館に行ってきた。
大きな水槽の中を、魚たちが泳ぎ回り、その姿を陸上で呼吸する我々が眺めるという趣向だ。
アクリルの板に近づき、目を押し付け、耳を押し付けて、手を伸ばしてみる。
すると、あーら不思議、陸上と同じく息をしながら、水中の世界に入ってしまった(んなわけは、ないですが)。
CCRのイメージは、そんな感じだ。
もちろんそこには、環境圧潜水という絶対的な違いがある。
酸素の毒性、不活性ガスの蓄積など、身体によくない話は山ほどある。
水族館で、アクリル越しに眺めているのがよろしい。
CCRで潜ったって、水中眼鏡(業界用語では、マスクという)越しの世界だ。
水中では、体温も奪われるしな。
何より濡れる。
しかし、それが水中世界だ。
彼らは、そこで生きている。
水中で呼吸するために、高い圧力のガスを吸っていることを除けば、CCRは陸上での呼吸と同じだ。
肺は、体内とガス交換を行い、二酸化炭素を排出し、酸素を吸収する。
だから、陸棲動物である人間も、息が出来る。
その仕組みを、水中に持ち込んで呼吸しているだけなのだ。
地球大気では、吐き出した二酸化炭素は植物に吸収されるが、CCRでは水酸化カルシウムが化学反応を起こして、水と炭酸カルシウムを生成する。
ああ、熱も出るけどな。
使った酸素は、補充してやらなければならない。
どんだけ薄まったかを、ガルバニ電池である酸素センサーが発電して、微小電流を発生させ、コンピューターが良きに計らって、ソレノイドバルブを動かすと、オリフィスを音速で通過した圧縮酸素が呼吸回路内に足される。
圧力差を埋めるために、薄めガスであるディリュエントを足す仕組みを突っ込めば、CCRの完成だ。
循環させるためのループを構成し、カウンターラングを咬ませ、ガスの流れを一方通行にする逆止弁を備えればいい。
大気では、これらの仕組みは必要ない。
不活性ガスの、あまり有難くない作用については、割愛する。
CCRは、地球大気の縮小版なのだ。
いや、どこかの惑星、酸素濃度が地球の何倍も濃い惑星の大気を作り出す。
その装置を担いで潜る。
浮沈子が言いたいのは、水中に、地球大気を持ち込んでいるということだ。
シンプルには、タンクに大気をそのまま高圧で押し込んで持って行ってもいい。
そして、吐いた空気は、水中にぶちまける。
轟音と共に。
圧力を高くすれば、長時間潜っていることもできる。
700気圧の水素タンクが実用化されているので、将来は、そのくらいのダイビング用タンクが出来るかもしれない。
深度にもよるが、現在、200気圧で1時間くらいのダイビングが可能だから、3倍以上の潜水時間が可能になる(不活性ガスの蓄積があるので、単純にそういうことにはなりませんが)。
業界は、そういう状況にも対応していかなければならないわけで、CCRが普及するとしないとにかかわらず、いつまでも現在のダイビングスタイルを維持できるわけではないのだ。
未来のダイビングは、オープンサーキットは全て減圧ダイビングになり、CCRだけが無減圧で長時間潜れるという話になる可能性だってある。
技術の進歩が、器材を変え、それがダイビングスタイルを決定してきた。
ダイビングは、21世紀初頭に、大きな転機を迎えようとしているのかもしれない。
しかし、先のことは分からない。
ダイビングを規制しようという動きもある。
指導団体による自主規制ではなく、国家が介入しようという動きだ。
所詮は、遊びに過ぎないレジャーダイビングだから、別に世の中にとって必要不可欠な行為ではない。
ハイリスクな潜水器であるCCRなんて、真っ先に狙われそうだな。
CCR禁止とか。
エリアによっては、そういう話もあると聞く。
CCRでの事故が多発すれば、そういう方向で普及が閉ざされていくかもしれない。
世の中の大多数の人は、ダイバーではないのだ。
そんな危ない行為は、禁止してしまえ。
なかでも、怪しからんのはCCRとかいう器材だ。
ダイバーの中でも、足の引っ張り合いがあるかもしれない。
うちのエリアで、危険な潜水器を使って、事故でも起こされたらかなわない、そんな器材は、締め出してしまえ。
実際に、CCRでの死亡事故をきっかけに、持ち込み禁止になったエリアもあると聞く。
お先真っ暗だなあ。
CCRなんて、簡単に使えて、楽しいですよというつもりは、全くない。
このブログを読めば、如何に浮沈子が苦労しているかが分かって頂けると信じている。
使い方をマスターする過程そのものを楽しめなければ、辛いだけだ。
どんな道具も、正しく使わなければ危険なものになる。
正しく使えば、人類の福祉と幸福に資することが出来る。
人間は、そうやって文明を築いてきた。
CCRも、そういった道具の一つに過ぎない。
きっと、将来の人類は、CCRを正しく使って、幸せなダイビングを行っていくに違いないと信じたい。
しかしなあ、もう、何十年も前から潜水具として使われているのになあ。
現時点での結論としては、ダイビングのスタイルを変えない限り、CCRの普及は困難だということ。
どちらかといえば、ネガティブな状況が展開しているということ。
我が国では、少なくとも当分の間、普及は難しいだろうということ。
しかし、海外では、潜るところは皆無ではないということくらいかな。
グアムでも、フィリピンでも、CCRで潜るところはあるし、国内でもいくつかのエリアでは潜ることが出来る。
浮沈子は、石垣と獅子浜でしか潜ったことはないけどな。
何度も書くが、先のことは分からないのだ。
CCRの将来も分からないし、浮沈子のトレーニングの結末も分からない。
できることをしっかりやって、未来を信じるしかないだろう。
夜、10時過ぎに食堂に降りてくる。
スタッフのドナは引き上げていて、誰もいない。
雨が降り出して、気温が下がっている。
といっても、半そで短パンで、サンダル履き。
前の記事をアップして、さて寝ようかと思ったが、ちょっと寝付けそうにないので、何か書くことにする。
雨音が強くなって、食堂のトタン屋根を叩く。
今日、イントラと話したCCRの将来の話が思い出される。
テクニカルダイビングはともかく、レクリエーショナルでの普及はないだろうという、ちょっと悲観的な話だった。
PADIの方でも、テックレックでさえ、腰が引けている。
ビジネスとしての旨味はないということだ。
ましてや、数に限りがあるCCRの世界が、ビジネスとして成り立つかどうかというのは疑問なんだそうだ。
サイドマウントですら、将来はないという見方もある。
しかし、先のことは分からない。
あくまでも、現在のダイビングの姿をベースに考えればという大前提があるのだ。
シングルタンクでぞろぞろとビーチエントリーして、40分から60分潜って、エキジットしてからログ付して解散、または打ち上げ・・・。
まあ、海外だと、浮沈子が知る限り、殆どがボートダイビングで、乗り合いのデカいダイビングボートに乗って、ポイントに着くとガイドさんが飛び込んで、後に続いてゲストがエントリー。
ガイドにもよるが、西洋人は、ガンガン泳ぐ。
付いていくだけでも、精一杯だ。
そして、同じくらいの時間潜って、エキジットする。
2本から3本、クルーズでは、ナイト含めて5本潜ることもあるという。
浮沈子は、4本が最高だけどな。
疲れる・・・。
そういうんじゃなくって、朝、ゆっくりと起きだして、朝食を取った後、おもむろにCCRの用意して、10時頃にエントリーして、3時間連続で潜って、その日のダイビングはおしまい。
遅い昼食を食べ、ぐっすりと昼寝を楽しむ。
そういう、ゆとりのあるダイビングは、想定の範囲外だろう。
現在のダイビングのスタイルは、概ね器材の制約から来ている。
ダイビングの需要に合わせて器材が出来たわけではなく、器材の制約に合わせて、ダイビングスタイルが確立されただけだ。
しかも、激しい競争の中で、最も効率のいい運用、つまり、コストを掛けずに多くの人数を回すやり方になった。
ダイバーの快適さを最優先にするのではなく、サービスを提供する側の都合で作られたスタイルだ。
浮沈子は、器材は全て水中のステージで装着し、重さを感じないでエントリーできるのが当たり前ではないかと感じている。
CCR、重いしな。
また、ダイビングが水中世界に遊ぶという体験型のレクリエーションである以上、器材を所有するのではなく、そのサイトで、整備された最新の器材を貸し出すのが基本だと思っている。
CCRだって、そのうちスタンダードが出来るに違いないし、そうなればレンタル器材が当たり前になるんだろう。
そういう、新しいダイビングのスタイルを確立することなく、現在の器材の制約に縛られ、提供側のコスト最低、収益最大を基準に作られた枠組みの中だけで考えれば、確かにCCRの未来は暗い。
発想の転換が必要だな。
新しいダイビングスタイルを提案することなく、新しい器材を普及させることは出来ないだろう。
デイドリームが、サイドマウントとレックダイビングを融合させようとしているのは、その一つの試みなのかもしれない。
元々、狭いところを通り抜けるための器材として開発されたサイドマウントと、狭いとこならしこたまある缶詰め(沈船)とは、相性がいいのだ。
さらに、ナイトロックスやテクニカルダイビングの需要の掘り起こしにもつながる。
デイドリームでは、ナイトロックス吸い放題だからな。
ヘリウムこそないが、純酸素もたくさんあるので、CCRや加速減圧程度の需要には、十分応えられる。
現実的に、新しいダイビングのスタイルを提案してきている。
えーと、浮沈子の指向しているのとは、ちっと異なるけどな。
砂浜少ないし、ヤシの木生えた無人島に、ウクレレ引いてくれるねーちゃんいないしな(そうなのかあ?)。
まあ、どうでもいいんですが。
そういう、浅く、明るく、暖かい海での、リラックスしたダイビングがいい。
轟音まき散らし、水中生物を蹴散らしたり、追いかけたりするダイビングではなく、水中世界に溶け込むCCRで静かに潜る。
ああ、もちろん、中性浮力とトリムくらいは取れないとカッコ悪いけどな。
沈船の中に入るのではなく、甲板の上で浮かんでいるだけでもいい。
スクリュー見たり、舳先を見たり、操舵室を外から眺めるだけでもいい。
棲みついている生物や、そこにやってくる生物を、ぼんやり眺めているだけでいいのだ。
時折、ダイバーという生物もやってくる。
泡吹いて、狭いところに入りたがる、へんてこな生物だがな。
そうして、3時間も潜っていれば、入れ代わり立ち代わり、ダイバーがやってきては帰っていくのを眺めることが出来るだろう。
CCRでのダイビングは、従来のダイビングを根底から揺るがす潜在的な力を持っている。
そりゃあ、オープンサーキットだって、タンクをしこたま持ち込めば、同じようなことは出来るかもしれないし、既にテクニカルダイビングの世界では、そういうことが普通に行われている。
もしも、レクリエーショナルダイビングで同じようなことが出来るなら、その世界を彼らテクニカルダイバーだけのものにしておくのは、勿体ないのではないか。
無減圧、40m以内、閉鎖空間でないことを守れば、長時間の連続ダイビングを、静寂のなかで堪能できる。
その代償は安くはないが、オープンサーキットでは決して得られない経験が出来ることは確かだ。
目の前を魚が通り過ぎたり、トルネードに巻かれたり、身体の日陰にチョウチョウウオがいつまでもまとわりつくという経験は、CCRならではのものだ。
水中世界に溶け込む。
そして、その真の姿を垣間見る。
液晶の画面を通してではなく、今、そこにある水中世界を、ありのままに体験するのだ。
水族館というのがある。
アクリルの透明な板を隔てて、水中世界が目の前に展開する。
ついこの間、大洗の水族館に行ってきた。
大きな水槽の中を、魚たちが泳ぎ回り、その姿を陸上で呼吸する我々が眺めるという趣向だ。
アクリルの板に近づき、目を押し付け、耳を押し付けて、手を伸ばしてみる。
すると、あーら不思議、陸上と同じく息をしながら、水中の世界に入ってしまった(んなわけは、ないですが)。
CCRのイメージは、そんな感じだ。
もちろんそこには、環境圧潜水という絶対的な違いがある。
酸素の毒性、不活性ガスの蓄積など、身体によくない話は山ほどある。
水族館で、アクリル越しに眺めているのがよろしい。
CCRで潜ったって、水中眼鏡(業界用語では、マスクという)越しの世界だ。
水中では、体温も奪われるしな。
何より濡れる。
しかし、それが水中世界だ。
彼らは、そこで生きている。
水中で呼吸するために、高い圧力のガスを吸っていることを除けば、CCRは陸上での呼吸と同じだ。
肺は、体内とガス交換を行い、二酸化炭素を排出し、酸素を吸収する。
だから、陸棲動物である人間も、息が出来る。
その仕組みを、水中に持ち込んで呼吸しているだけなのだ。
地球大気では、吐き出した二酸化炭素は植物に吸収されるが、CCRでは水酸化カルシウムが化学反応を起こして、水と炭酸カルシウムを生成する。
ああ、熱も出るけどな。
使った酸素は、補充してやらなければならない。
どんだけ薄まったかを、ガルバニ電池である酸素センサーが発電して、微小電流を発生させ、コンピューターが良きに計らって、ソレノイドバルブを動かすと、オリフィスを音速で通過した圧縮酸素が呼吸回路内に足される。
圧力差を埋めるために、薄めガスであるディリュエントを足す仕組みを突っ込めば、CCRの完成だ。
循環させるためのループを構成し、カウンターラングを咬ませ、ガスの流れを一方通行にする逆止弁を備えればいい。
大気では、これらの仕組みは必要ない。
不活性ガスの、あまり有難くない作用については、割愛する。
CCRは、地球大気の縮小版なのだ。
いや、どこかの惑星、酸素濃度が地球の何倍も濃い惑星の大気を作り出す。
その装置を担いで潜る。
浮沈子が言いたいのは、水中に、地球大気を持ち込んでいるということだ。
シンプルには、タンクに大気をそのまま高圧で押し込んで持って行ってもいい。
そして、吐いた空気は、水中にぶちまける。
轟音と共に。
圧力を高くすれば、長時間潜っていることもできる。
700気圧の水素タンクが実用化されているので、将来は、そのくらいのダイビング用タンクが出来るかもしれない。
深度にもよるが、現在、200気圧で1時間くらいのダイビングが可能だから、3倍以上の潜水時間が可能になる(不活性ガスの蓄積があるので、単純にそういうことにはなりませんが)。
業界は、そういう状況にも対応していかなければならないわけで、CCRが普及するとしないとにかかわらず、いつまでも現在のダイビングスタイルを維持できるわけではないのだ。
未来のダイビングは、オープンサーキットは全て減圧ダイビングになり、CCRだけが無減圧で長時間潜れるという話になる可能性だってある。
技術の進歩が、器材を変え、それがダイビングスタイルを決定してきた。
ダイビングは、21世紀初頭に、大きな転機を迎えようとしているのかもしれない。
しかし、先のことは分からない。
ダイビングを規制しようという動きもある。
指導団体による自主規制ではなく、国家が介入しようという動きだ。
所詮は、遊びに過ぎないレジャーダイビングだから、別に世の中にとって必要不可欠な行為ではない。
ハイリスクな潜水器であるCCRなんて、真っ先に狙われそうだな。
CCR禁止とか。
エリアによっては、そういう話もあると聞く。
CCRでの事故が多発すれば、そういう方向で普及が閉ざされていくかもしれない。
世の中の大多数の人は、ダイバーではないのだ。
そんな危ない行為は、禁止してしまえ。
なかでも、怪しからんのはCCRとかいう器材だ。
ダイバーの中でも、足の引っ張り合いがあるかもしれない。
うちのエリアで、危険な潜水器を使って、事故でも起こされたらかなわない、そんな器材は、締め出してしまえ。
実際に、CCRでの死亡事故をきっかけに、持ち込み禁止になったエリアもあると聞く。
お先真っ暗だなあ。
CCRなんて、簡単に使えて、楽しいですよというつもりは、全くない。
このブログを読めば、如何に浮沈子が苦労しているかが分かって頂けると信じている。
使い方をマスターする過程そのものを楽しめなければ、辛いだけだ。
どんな道具も、正しく使わなければ危険なものになる。
正しく使えば、人類の福祉と幸福に資することが出来る。
人間は、そうやって文明を築いてきた。
CCRも、そういった道具の一つに過ぎない。
きっと、将来の人類は、CCRを正しく使って、幸せなダイビングを行っていくに違いないと信じたい。
しかしなあ、もう、何十年も前から潜水具として使われているのになあ。
現時点での結論としては、ダイビングのスタイルを変えない限り、CCRの普及は困難だということ。
どちらかといえば、ネガティブな状況が展開しているということ。
我が国では、少なくとも当分の間、普及は難しいだろうということ。
しかし、海外では、潜るところは皆無ではないということくらいかな。
グアムでも、フィリピンでも、CCRで潜るところはあるし、国内でもいくつかのエリアでは潜ることが出来る。
浮沈子は、石垣と獅子浜でしか潜ったことはないけどな。
何度も書くが、先のことは分からないのだ。
CCRの将来も分からないし、浮沈子のトレーニングの結末も分からない。
できることをしっかりやって、未来を信じるしかないだろう。
眠れない夜 ― 2016年10月04日 07:20
眠れない夜
うつらうつらとしただけで、殆ど眠れない夜が明けた。
昨夜から、妙に目が冴えてしまって寝付けない。
あの、コーブの苦いだけのエスプレッソのせいなんだろうか?。
夜中に降っていた雨は上がり、朝焼けの空が広がる。
食事の時の話で、沈船の魅力をどう伝えるかというのがあった(えーと、そうだったっけ?)。
戦争で沈められた船だから(パラオは、そういう船が多い)、楽しいとか、面白いとか、そういう言葉使いは良くないという話が出た。
確かに、そういわれてみればそうだ。
言ってみれば、墓標のようなもんだからな。
しかも、それらの船は、そこで沈められたくて沈んだわけではなく、命を落とされた方の遺骨も回収されていない船もあるという。
その戦跡に潜るというのは、いわば、禁じられた遊びなのだ。
しかし、まあ、そうはいっても、70年以上も昔の話だし、沈船自体は鉄の塊に過ぎない。
浮沈子の基本的な考えは、沈船は見たままの沈船であって、それ以上でもそれ以下でもない。
沈んだ船の背景が特異なものであるほど萌えるという方もいるが、浮沈子はそうではない。
また、船は萌えるけど、飛行機には萌えないという方もいる。
大きさとか、中に入れるとか、そういう沈船ならではの楽しみがあるからだという。
一方で、飛行機の方がいいという方もいるようだ。
工業製品として作られているので、ほとんど一品物の船よりも、分類とかでハッキリわかるんだそうだ。
はあ。
浮沈子には、ちょっと理解し難い。
しかし、いったいこれは何だろうという興味から、深く深く入っていくというのもある。
嵌ってしまったお客さんの一人は、ガイドよりも詳しくなってしまったという。
ガイドよ、がんばれ!。
まあ、どうでもいいんですが。
陸上の墓標と異なり、沈船は、概ね水中に沈んでいて見えない。
中には、一部を水面に出しているのもあるのかもしれない。
テニアンでは、そういう沈船もあった(ダイビングポイントではありませんが)。
座礁船というやつだな。
そういうのは例外として、概ね沈んでいて、水面からは見えない。
浅いところの沈船は、航路の邪魔になるので撤去されてしまう。
いきおい、ある程度、15mより深いところに沈んでいるものが多い。
停泊地の場合、それ程水深がないことが多く、パラオでも20mから40mの間で、多くの船が見つかっている。
中には、もっと深いところにある船もあるんだろうが、浮沈子は知らない。
夜はすっかり明けて、明るくなった。
暑くなりそうな予感がする。
予定ではあまり潜っていない沈船にいくという。
浮沈子は、何でもいいのだ。
そこに沈船があるから潜る。
区別するために、浮かんでいた当時の名前で呼ばれているが、沈船になった以上、沈船は沈船でいいのではないか。
その背景から解放されて、長い余生をおくっているのだから、あるがままを見ればいい。
その巨体は、確かに人の手が作り出したものだが、その鉄の由来は海である。
海からできた鉄鉱石が陸に上がり、それを人間が精錬し、加工して作った。
それが、人の手を離れ、海に還っていく。
そこに至ってなお、浮かんでいた時の短い時間の名前で呼ばれる。
それは、人間の驕りではないのか。
戦争という人間の行為で沈んだ沈船は、身をもってその行為を糾弾しているのかもしれない。
その記憶を、歴史に刻んで偲ぶといういうのも、沈船への接し方の一つであろうが、そうでない接し方もあっていい。
事実を事実として伝える。
解釈はしない。
お店のスタンスは明快だ。
その事実を、どう受け止め、どう接するかは、ゲストの問題である。
様々な接し方を許容し、広く沈船を知ってもらい、たくさんのゲストに来てもらいたわけだからな。
どんなものにも魂が宿るという考え方がある。
船ならば、命名されて進水式を行えば、そういうことになるんだろう。
神ならぬ人の作りしものに、もとより魂など宿るはずもないが、そこは人間の知恵というものだ。
大切に扱われ、しっかり役目を果たしてもらうためには、何らかの人格化が求められるんだろう。
沈船の扱いは、浮沈子にはその延長にあるようにも思える。
沈んだ船を名前で呼び、その背景を大切にしてダイバーの楽しみを豊かなものにする。
事実を伝え、様々な解釈を許容する。
それでいいのではないかとも思う。
が、浮沈子にとっては、沈船は沈船で、それ以上のものではない。
我々は、星屑から生まれた。
そして、やがては星屑へと還っていく。
沈船の魅力の一つは、そんな宇宙とのつながり、存在の共通性を感じさせてくれることにあるのかもしれない。
沈船は、黙して語らず。
その内なる声を聞くには、まずは、潜るしかない。
その上で、何を感じるかは、ダイバー一人一人の問題である・・・。
うつらうつらとしただけで、殆ど眠れない夜が明けた。
昨夜から、妙に目が冴えてしまって寝付けない。
あの、コーブの苦いだけのエスプレッソのせいなんだろうか?。
夜中に降っていた雨は上がり、朝焼けの空が広がる。
食事の時の話で、沈船の魅力をどう伝えるかというのがあった(えーと、そうだったっけ?)。
戦争で沈められた船だから(パラオは、そういう船が多い)、楽しいとか、面白いとか、そういう言葉使いは良くないという話が出た。
確かに、そういわれてみればそうだ。
言ってみれば、墓標のようなもんだからな。
しかも、それらの船は、そこで沈められたくて沈んだわけではなく、命を落とされた方の遺骨も回収されていない船もあるという。
その戦跡に潜るというのは、いわば、禁じられた遊びなのだ。
しかし、まあ、そうはいっても、70年以上も昔の話だし、沈船自体は鉄の塊に過ぎない。
浮沈子の基本的な考えは、沈船は見たままの沈船であって、それ以上でもそれ以下でもない。
沈んだ船の背景が特異なものであるほど萌えるという方もいるが、浮沈子はそうではない。
また、船は萌えるけど、飛行機には萌えないという方もいる。
大きさとか、中に入れるとか、そういう沈船ならではの楽しみがあるからだという。
一方で、飛行機の方がいいという方もいるようだ。
工業製品として作られているので、ほとんど一品物の船よりも、分類とかでハッキリわかるんだそうだ。
はあ。
浮沈子には、ちょっと理解し難い。
しかし、いったいこれは何だろうという興味から、深く深く入っていくというのもある。
嵌ってしまったお客さんの一人は、ガイドよりも詳しくなってしまったという。
ガイドよ、がんばれ!。
まあ、どうでもいいんですが。
陸上の墓標と異なり、沈船は、概ね水中に沈んでいて見えない。
中には、一部を水面に出しているのもあるのかもしれない。
テニアンでは、そういう沈船もあった(ダイビングポイントではありませんが)。
座礁船というやつだな。
そういうのは例外として、概ね沈んでいて、水面からは見えない。
浅いところの沈船は、航路の邪魔になるので撤去されてしまう。
いきおい、ある程度、15mより深いところに沈んでいるものが多い。
停泊地の場合、それ程水深がないことが多く、パラオでも20mから40mの間で、多くの船が見つかっている。
中には、もっと深いところにある船もあるんだろうが、浮沈子は知らない。
夜はすっかり明けて、明るくなった。
暑くなりそうな予感がする。
予定ではあまり潜っていない沈船にいくという。
浮沈子は、何でもいいのだ。
そこに沈船があるから潜る。
区別するために、浮かんでいた当時の名前で呼ばれているが、沈船になった以上、沈船は沈船でいいのではないか。
その背景から解放されて、長い余生をおくっているのだから、あるがままを見ればいい。
その巨体は、確かに人の手が作り出したものだが、その鉄の由来は海である。
海からできた鉄鉱石が陸に上がり、それを人間が精錬し、加工して作った。
それが、人の手を離れ、海に還っていく。
そこに至ってなお、浮かんでいた時の短い時間の名前で呼ばれる。
それは、人間の驕りではないのか。
戦争という人間の行為で沈んだ沈船は、身をもってその行為を糾弾しているのかもしれない。
その記憶を、歴史に刻んで偲ぶといういうのも、沈船への接し方の一つであろうが、そうでない接し方もあっていい。
事実を事実として伝える。
解釈はしない。
お店のスタンスは明快だ。
その事実を、どう受け止め、どう接するかは、ゲストの問題である。
様々な接し方を許容し、広く沈船を知ってもらい、たくさんのゲストに来てもらいたわけだからな。
どんなものにも魂が宿るという考え方がある。
船ならば、命名されて進水式を行えば、そういうことになるんだろう。
神ならぬ人の作りしものに、もとより魂など宿るはずもないが、そこは人間の知恵というものだ。
大切に扱われ、しっかり役目を果たしてもらうためには、何らかの人格化が求められるんだろう。
沈船の扱いは、浮沈子にはその延長にあるようにも思える。
沈んだ船を名前で呼び、その背景を大切にしてダイバーの楽しみを豊かなものにする。
事実を伝え、様々な解釈を許容する。
それでいいのではないかとも思う。
が、浮沈子にとっては、沈船は沈船で、それ以上のものではない。
我々は、星屑から生まれた。
そして、やがては星屑へと還っていく。
沈船の魅力の一つは、そんな宇宙とのつながり、存在の共通性を感じさせてくれることにあるのかもしれない。
沈船は、黙して語らず。
その内なる声を聞くには、まずは、潜るしかない。
その上で、何を感じるかは、ダイバー一人一人の問題である・・・。
CCR(9日目) ― 2016年10月04日 20:09
CCR(9日目)
3度目のカープレストラン。
定番のカツカレーを注文。
いつもの席だが、左ひざをテーブルの脚の補強部材にいやというほどぶつけてしまう。
痛ててっ。
厨房の正面の席は、要注意だな。
さて、運ばれてきた食器のかごには、スプーンとフォークと、箸が乗っている。
カツカレーだぜ?。
ナイフとかは、ないんだな。
もちろん、何度も食べている浮沈子は、どんなものか知っているので驚かない。
料理が出て来て完食する。
大皿に山盛りのごはん(3人前)と、それを覆い隠すカレールー。
その大海に沈んでいる沈船のようなカツ。
ちゃんと切ってあるので、スプーンだけで頂く。
ここのカレーは、正直美味いと思う。
味が複雑で、スパイシーで、汗が噴き出すけど、病みつきになる。
付け合わせの福神漬けは、小鉢に入っている。
辛くはないけど、量が多いな。
オマケのバナナは、小ぶりだがいつもの小人バナナではなく、標準サイズのバナナだ。
2本。
ちょっと臭みがあるが、甘くて美味しい。
2本とも完食。
店の中は8時だというのに閑散としていて、浮沈子ともう一組だけ。
あれ、もう一組いたな。
雨が降っていたので、折り畳み傘を持って出た。
静かな晩だ。
デイドリームの前から、岸壁側を通る迂回路で来たので、ケルベロスどもにも出会わなかった。
雨だしな。
お代わりしたアイスティと併せて、10ドル置いてくる。
コスパ、高っ!。
ダイビングの方は、ちゅうよう丸と第一輸送船(LST1)に潜った。
1本目は、オンボードのディリュエントからBCに取っていたが、あっという間に100バールも使ってしまったので、2本目からは、ズルしてベイルアウト用のタンクから取った。
それでも、40バール使った。
どう考えても使い過ぎだ。
せめて半分にしたい。
6mでの中性浮力は制したとかいって、全然ダメじゃん!?。
まあいい。
1本目より、2本目の方が、使用量は少なかったわけだしな。
もっとも、オンボードのディリュエントも使っているので、同じか・・・。
後は、練習あるのみである。
他のお客さんが帰って、店の中は浮沈子だけになる。
帰り際のローカルに、こんばんわと声を掛けられたが、誰か分からなかった。
記憶がなくなっているのか、単に、最後の客になった浮沈子に声を掛けただけなのか。
まあ、どうでもいいんですが。
明日は、ボートが出なくて、DD前での練習になる。
雨の後だぜ・・・。
絶好の濁り具合で、いい練習になるだろう。
店の片付けが出来ないといけないので、そろそろ引き上げることにしようかな。
3度目のカープレストラン。
定番のカツカレーを注文。
いつもの席だが、左ひざをテーブルの脚の補強部材にいやというほどぶつけてしまう。
痛ててっ。
厨房の正面の席は、要注意だな。
さて、運ばれてきた食器のかごには、スプーンとフォークと、箸が乗っている。
カツカレーだぜ?。
ナイフとかは、ないんだな。
もちろん、何度も食べている浮沈子は、どんなものか知っているので驚かない。
料理が出て来て完食する。
大皿に山盛りのごはん(3人前)と、それを覆い隠すカレールー。
その大海に沈んでいる沈船のようなカツ。
ちゃんと切ってあるので、スプーンだけで頂く。
ここのカレーは、正直美味いと思う。
味が複雑で、スパイシーで、汗が噴き出すけど、病みつきになる。
付け合わせの福神漬けは、小鉢に入っている。
辛くはないけど、量が多いな。
オマケのバナナは、小ぶりだがいつもの小人バナナではなく、標準サイズのバナナだ。
2本。
ちょっと臭みがあるが、甘くて美味しい。
2本とも完食。
店の中は8時だというのに閑散としていて、浮沈子ともう一組だけ。
あれ、もう一組いたな。
雨が降っていたので、折り畳み傘を持って出た。
静かな晩だ。
デイドリームの前から、岸壁側を通る迂回路で来たので、ケルベロスどもにも出会わなかった。
雨だしな。
お代わりしたアイスティと併せて、10ドル置いてくる。
コスパ、高っ!。
ダイビングの方は、ちゅうよう丸と第一輸送船(LST1)に潜った。
1本目は、オンボードのディリュエントからBCに取っていたが、あっという間に100バールも使ってしまったので、2本目からは、ズルしてベイルアウト用のタンクから取った。
それでも、40バール使った。
どう考えても使い過ぎだ。
せめて半分にしたい。
6mでの中性浮力は制したとかいって、全然ダメじゃん!?。
まあいい。
1本目より、2本目の方が、使用量は少なかったわけだしな。
もっとも、オンボードのディリュエントも使っているので、同じか・・・。
後は、練習あるのみである。
他のお客さんが帰って、店の中は浮沈子だけになる。
帰り際のローカルに、こんばんわと声を掛けられたが、誰か分からなかった。
記憶がなくなっているのか、単に、最後の客になった浮沈子に声を掛けただけなのか。
まあ、どうでもいいんですが。
明日は、ボートが出なくて、DD前での練習になる。
雨の後だぜ・・・。
絶好の濁り具合で、いい練習になるだろう。
店の片付けが出来ないといけないので、そろそろ引き上げることにしようかな。
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