ポルシェの走り ― 2013年11月13日 19:58
ポルシェの走り
別に、ポルシェに限った話ではない。
どちらかというと、スポーツバイクの喩えの方が分かりやすい。
人間は、乗り物を操縦する時に、一種の快感を覚える。
もっといえば、身体を動かして移動すること、それも、速く移動することに快感を覚える。
浮沈子は、五体満足に産んでもらって、大きな怪我や病気もなく歳を重ねているが、足が不自由だったり、目が見えなかったりして、走ったりすることが出来なければ、大いに困るだろうことは想像できる。
もっとも、最近は、自分の足で走るという行為をしていないので、何ともいえないが(労作性狭心症で、医者から、「横断歩道で信号が赤になっても、走って渡ってはいけない」という、分かりやすい指導を受けている)。
動力付きの移動手段は、このような状態の人でも、身体の危険なく、高速で移動する手段を提供してくれる。
自転車(いわゆるママチャリ)も、電動アシスト付きで、近所に多い坂道も快適であるな。
盗まれてしまってからは乗っていないが、スクーターも快適だ。
遠出も苦にならない。
しかし、このあたりの話ではない。
もっと、運動性が高く、脳内麻薬を溢れさせ、飛翔感さえ与える動的な快感は、スポーツバイクやスポーツカーといった、概ね、走ること以外に何の能もない、ヘンタイな移動手段によって与えられる。
乗り心地とか、便利さ、有用性といった項目は影を潜め、あるいは無視され、走って楽しく、曲がって嬉しく、止まって感動することだけが求められる。
バイクはともかく、クルマの場合は、ある程度の大きさがあるので、余ったスペースに少しばかりの荷物を積むことが出来る程度だ。
ボクスターの積載能力を、メーカーは宣伝しているが、考えてみれば、フロントトランクは、フェンダーとフェンダーの間の余った空間を利用しているだけだし(エンジン、後ろなので)、リアのトランクも、トランスミッションの上部の隙間を使っているに過ぎない。
そんなことより、そういったスポーツ性の高い乗り物が、なぜ、人間の運動(移動)欲を刺激し、快感を与えるのだろうか。
人間の移動に対する本能的な欲求の話は、今日はしない。
たぶん、そういうことに快を感じない個体は、進化の中で、食糧を十分に調達できなかったり、子孫を残せなかったりして、淘汰されてきたのだろう。
野生の法則(何それ?)が、働いたわけだな。
まあ、今日はそういうことにしておこう。
で、その動き回りたくてウズウズしている野生の人間が、乗り物に乗って走るわけだ。
昔なら、馬とか、ラクダ(アラビアのロレンス!)とかで走るし、概ね馬(犬や、トナカイもある)に引かせた橇(ソリ)や馬車で走るわけだ。
その時、乗り物と乗っている者との意志の疎通があって、信頼と性能と操縦性が高ければ高いほど、脳内麻薬がドバドバ出てくる。
映画「アバター」で、6本足の馬に嫌われたジェイク(主人公)が、翼竜には、めっぽう強く、いきなり相方とヘンタイ飛行(もとい、編隊飛行)してしまうというのも、髪の毛の先で交信し合う意志の疎通がうまくいくかどうかである。
こう動いて欲しい時に、乗り手の意志通りに、必要なら先読みして動いてくれたら、こんなに素敵なことはない。
浮沈子は、乗馬を1回だけ体験したことがあるが、あれは、完全自動運転だったな(少なくとも、前車追従運転は完璧にしていた)。
しかも、あろうことか、乗り手の意志を無視して、柵の傍の草を、ムシャムシャと食べ始めた!。
自動で、給油までしてくれる自動車に乗っているようなもんだ。
まあいい。
完全自動運転の自動車は、2020年に日産が出すというので、期待しよう。
話を戻す。
高い意思疎通というのは、相手が機械であっても同じだ。
ただし、交信は、髪の毛の先の神経ではなく(髪の毛、ないし・・・)、手や足や腰(=尻:バイクでは大事なコントロール手段である)まで使って、もの分りの悪い相手に意志を伝えなければならない。
また、正しく意志が伝わったのか、そうでないのかは、明快な反応を返してきて、初めて確認できる。
それは、瞬時瞬時の反応だけではなく、例えば、このコーナーをこのくらいのスピードで曲がったら、この位ロールするとか、リアがスライドするとか、アンダーが出るなどといった、経験値であったりもする。
もっとも、足回りや車体の性能は、変化(劣化)していくので、ある程度の幅は考慮しなければならない。
ハンドルを切り足さなければならないのか、ブレーキをもう少し踏み続けなければならないのか、ここからアクセルを蹴飛ばして床を踏みぬいていいのか(踏み抜いてはいけません!)は、その確かな反応と経験値を総合して、乗り手が判断する必要がある。
最近のクルマは、その辺りに介入して、ヤバクなる前に出力を絞ったり、ブレーキをかけたりして、体裁を整えようとするのだが、余計なお世話だ。
刺さるのが恐くて、ライダーやってられっかよ!(安全運転を心がけましょう!)。
やれやれ、この手の話を書いているだけで、アドレナリンが出てくる。
そんな、極限の話でなくても、法定速度域であったとしても、コントロールに係わる、乗り物とのコミュニケーションは重要である。
よく、ハンドルやサスペンションからの情報が豊かであるなどの表現を目にする。
逆に、それに乏しい乗り物は、乗せられているとか、船のようだとかいう。
速度域や路面の状況、走行路の曲率にもよるだろうが、乗り心地良く、操作感が良く、応答も適切で、素直な特性なのがよろしい。
いつでも目くじら立てて、突っ込んで走るわけではないのだから。
時に応じて、最適の反応を返してくれる操作性が、最も好ましいのだ。
地上の乗り物に限らないのかもしれない。
浮沈子は、船(ボート)や水上スクーターしか経験がないが、試乗したり、所有していた十数艇の船は、一艇として同じではなかった。
航空機も同じであろうし、鉄道だって、山手線の加速と、京浜東北線の加速は異なる(ローカルな話題で、どうも・・・)。
まあ、どうでもいいんですが。
要するに、ちゃんと、こっちが思ったとおり動いて、その感触をきちんと正確に伝えてくれる乗り物が、動かしていて楽しいのだ。
自分の手足のように動く、自分の運動能力の自在な拡張としての動き、感覚、裏切らない信頼・・・。
この位曲がりたいと思えば、きちんと曲がり、今、こんだけ曲がっていると、きちんと伝えてきて、その性能が高く、いつも同じで裏切りがない、そういう乗り物に乗りたい。
NBのロードスター(1.6リッター)は、面白かったな。
限界低く、回りすぎだが、素直でいい感じだった(エンジン、サイテー!)。
バイクは92年型のファイヤーブレード(CBR900RR)。
前輪の接地感がつかみ切れなかったのは、乗り手のせいなんだろうか?。
そして、今は、03ボクスターがいい。
意のままになる走りを、体験させてくれている。
83タルガも、あと半歩まで追い詰めている(まだまだだな)。
500Eは?。
このクルマの走りは、いわゆる一つの結論だな。
うん、全速度域で気持ちいい。
ボディや、サスペンションや、ステアリングの仕組みのことは、自分なりに調べてみたが、結局、頭で分かったつもりになっても、乗ってみて、走ってみなければわからない。
気持ちいいのか、悪いのか。
楽しいのか、そうでないのか。
このクルマに、いつまでも乗っていたいのか、早く乗り換えたいのか。
映画「アバター」の中で、ジェイク(主人公)が、初めてアバターの操縦をするシーンが感動的だ。
戦争での怪我で、足の自由を奪われた彼が、アバターの操縦の中では、自分(が操縦するアバター)の足で、息が切れるほど走ることができる。
ラボのスタッフの制止も聞かず、外へと飛び出してしまう。
ちょっと、うるうるするシーンである。
自動車が完全自動運転になって、移動体を人間が操縦する楽しみを奪われてしまうのなら、是非とも、アバターを作ってもらいたいものだ。
浮沈子のアバターの名前は、きっと、「ポルシェ」となるだろう・・・。
別に、ポルシェに限った話ではない。
どちらかというと、スポーツバイクの喩えの方が分かりやすい。
人間は、乗り物を操縦する時に、一種の快感を覚える。
もっといえば、身体を動かして移動すること、それも、速く移動することに快感を覚える。
浮沈子は、五体満足に産んでもらって、大きな怪我や病気もなく歳を重ねているが、足が不自由だったり、目が見えなかったりして、走ったりすることが出来なければ、大いに困るだろうことは想像できる。
もっとも、最近は、自分の足で走るという行為をしていないので、何ともいえないが(労作性狭心症で、医者から、「横断歩道で信号が赤になっても、走って渡ってはいけない」という、分かりやすい指導を受けている)。
動力付きの移動手段は、このような状態の人でも、身体の危険なく、高速で移動する手段を提供してくれる。
自転車(いわゆるママチャリ)も、電動アシスト付きで、近所に多い坂道も快適であるな。
盗まれてしまってからは乗っていないが、スクーターも快適だ。
遠出も苦にならない。
しかし、このあたりの話ではない。
もっと、運動性が高く、脳内麻薬を溢れさせ、飛翔感さえ与える動的な快感は、スポーツバイクやスポーツカーといった、概ね、走ること以外に何の能もない、ヘンタイな移動手段によって与えられる。
乗り心地とか、便利さ、有用性といった項目は影を潜め、あるいは無視され、走って楽しく、曲がって嬉しく、止まって感動することだけが求められる。
バイクはともかく、クルマの場合は、ある程度の大きさがあるので、余ったスペースに少しばかりの荷物を積むことが出来る程度だ。
ボクスターの積載能力を、メーカーは宣伝しているが、考えてみれば、フロントトランクは、フェンダーとフェンダーの間の余った空間を利用しているだけだし(エンジン、後ろなので)、リアのトランクも、トランスミッションの上部の隙間を使っているに過ぎない。
そんなことより、そういったスポーツ性の高い乗り物が、なぜ、人間の運動(移動)欲を刺激し、快感を与えるのだろうか。
人間の移動に対する本能的な欲求の話は、今日はしない。
たぶん、そういうことに快を感じない個体は、進化の中で、食糧を十分に調達できなかったり、子孫を残せなかったりして、淘汰されてきたのだろう。
野生の法則(何それ?)が、働いたわけだな。
まあ、今日はそういうことにしておこう。
で、その動き回りたくてウズウズしている野生の人間が、乗り物に乗って走るわけだ。
昔なら、馬とか、ラクダ(アラビアのロレンス!)とかで走るし、概ね馬(犬や、トナカイもある)に引かせた橇(ソリ)や馬車で走るわけだ。
その時、乗り物と乗っている者との意志の疎通があって、信頼と性能と操縦性が高ければ高いほど、脳内麻薬がドバドバ出てくる。
映画「アバター」で、6本足の馬に嫌われたジェイク(主人公)が、翼竜には、めっぽう強く、いきなり相方とヘンタイ飛行(もとい、編隊飛行)してしまうというのも、髪の毛の先で交信し合う意志の疎通がうまくいくかどうかである。
こう動いて欲しい時に、乗り手の意志通りに、必要なら先読みして動いてくれたら、こんなに素敵なことはない。
浮沈子は、乗馬を1回だけ体験したことがあるが、あれは、完全自動運転だったな(少なくとも、前車追従運転は完璧にしていた)。
しかも、あろうことか、乗り手の意志を無視して、柵の傍の草を、ムシャムシャと食べ始めた!。
自動で、給油までしてくれる自動車に乗っているようなもんだ。
まあいい。
完全自動運転の自動車は、2020年に日産が出すというので、期待しよう。
話を戻す。
高い意思疎通というのは、相手が機械であっても同じだ。
ただし、交信は、髪の毛の先の神経ではなく(髪の毛、ないし・・・)、手や足や腰(=尻:バイクでは大事なコントロール手段である)まで使って、もの分りの悪い相手に意志を伝えなければならない。
また、正しく意志が伝わったのか、そうでないのかは、明快な反応を返してきて、初めて確認できる。
それは、瞬時瞬時の反応だけではなく、例えば、このコーナーをこのくらいのスピードで曲がったら、この位ロールするとか、リアがスライドするとか、アンダーが出るなどといった、経験値であったりもする。
もっとも、足回りや車体の性能は、変化(劣化)していくので、ある程度の幅は考慮しなければならない。
ハンドルを切り足さなければならないのか、ブレーキをもう少し踏み続けなければならないのか、ここからアクセルを蹴飛ばして床を踏みぬいていいのか(踏み抜いてはいけません!)は、その確かな反応と経験値を総合して、乗り手が判断する必要がある。
最近のクルマは、その辺りに介入して、ヤバクなる前に出力を絞ったり、ブレーキをかけたりして、体裁を整えようとするのだが、余計なお世話だ。
刺さるのが恐くて、ライダーやってられっかよ!(安全運転を心がけましょう!)。
やれやれ、この手の話を書いているだけで、アドレナリンが出てくる。
そんな、極限の話でなくても、法定速度域であったとしても、コントロールに係わる、乗り物とのコミュニケーションは重要である。
よく、ハンドルやサスペンションからの情報が豊かであるなどの表現を目にする。
逆に、それに乏しい乗り物は、乗せられているとか、船のようだとかいう。
速度域や路面の状況、走行路の曲率にもよるだろうが、乗り心地良く、操作感が良く、応答も適切で、素直な特性なのがよろしい。
いつでも目くじら立てて、突っ込んで走るわけではないのだから。
時に応じて、最適の反応を返してくれる操作性が、最も好ましいのだ。
地上の乗り物に限らないのかもしれない。
浮沈子は、船(ボート)や水上スクーターしか経験がないが、試乗したり、所有していた十数艇の船は、一艇として同じではなかった。
航空機も同じであろうし、鉄道だって、山手線の加速と、京浜東北線の加速は異なる(ローカルな話題で、どうも・・・)。
まあ、どうでもいいんですが。
要するに、ちゃんと、こっちが思ったとおり動いて、その感触をきちんと正確に伝えてくれる乗り物が、動かしていて楽しいのだ。
自分の手足のように動く、自分の運動能力の自在な拡張としての動き、感覚、裏切らない信頼・・・。
この位曲がりたいと思えば、きちんと曲がり、今、こんだけ曲がっていると、きちんと伝えてきて、その性能が高く、いつも同じで裏切りがない、そういう乗り物に乗りたい。
NBのロードスター(1.6リッター)は、面白かったな。
限界低く、回りすぎだが、素直でいい感じだった(エンジン、サイテー!)。
バイクは92年型のファイヤーブレード(CBR900RR)。
前輪の接地感がつかみ切れなかったのは、乗り手のせいなんだろうか?。
そして、今は、03ボクスターがいい。
意のままになる走りを、体験させてくれている。
83タルガも、あと半歩まで追い詰めている(まだまだだな)。
500Eは?。
このクルマの走りは、いわゆる一つの結論だな。
うん、全速度域で気持ちいい。
ボディや、サスペンションや、ステアリングの仕組みのことは、自分なりに調べてみたが、結局、頭で分かったつもりになっても、乗ってみて、走ってみなければわからない。
気持ちいいのか、悪いのか。
楽しいのか、そうでないのか。
このクルマに、いつまでも乗っていたいのか、早く乗り換えたいのか。
映画「アバター」の中で、ジェイク(主人公)が、初めてアバターの操縦をするシーンが感動的だ。
戦争での怪我で、足の自由を奪われた彼が、アバターの操縦の中では、自分(が操縦するアバター)の足で、息が切れるほど走ることができる。
ラボのスタッフの制止も聞かず、外へと飛び出してしまう。
ちょっと、うるうるするシーンである。
自動車が完全自動運転になって、移動体を人間が操縦する楽しみを奪われてしまうのなら、是非とも、アバターを作ってもらいたいものだ。
浮沈子のアバターの名前は、きっと、「ポルシェ」となるだろう・・・。
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